第6話 偽善者の集まり

 ちょうど、この頃、第二の人生ということで、時々参加していたセミナーだったが、一軍に昇格し、あれよあれよという間に、レギュラーを掴み、スター選手の階段をのぼりつつあったのだが、だからと言って、その時のセミナーをおろそかにすることはなかった。

 逆に、

「あのセミナーに参加できたから、俺はレギュラーになれたんだ。まるで福の神だ」

 ということで、そのセミナーをずっと続けてきたのだ。

 セミナーの参加者は、当然のことながら、サラリーマンが多く、中には自営業もいたが、スポーツ選手はさすがにいなかった。

「宗教団体とかであれば、いたのだろうが、そうではないからな」

 ということで、彼からすれば、

「怪しい集団」

 というわけでもないので、別にその団体から離れる必要もなかった。

 ただ、それだけに、

「福の神」

 という意識が強く、

「その団体のためなら、何か恩返しができればいい」

 と思っていた。

 おかげで、活躍できるようになったことで、給料の僅かを、団体に寄付していた。

 その団体は、元々は、職業訓練のようなものと、その上には、独立したいと思っている人に対する、精神的なセミナーとの二種類があったのだ。

 精神的な方は、昭和の根性論のようなものもあり、プロ野球に似ているところがあったので、有名選手になってからは、そちらの方に活動の中心を持っていったのだった。

 もちろん、球団に迷惑を掛けないようにしていた。

 当然のことながら、この活動は球団には内緒だった。

 そんなに悪いことではないのだが、彼の

「自分流」

 というイメージをそのままにしておいた方が、今後のことを考えればいいことだと思い、団体の存在を知られない方が、得策だと思うのだった。

 球団に黙っての活動だったので、本当は引退すれば、

「野球の道がなくなったとすれば、こっちの方に進めばいい」

 とさえ思っていた。

 それがヘッドコーチの誘いがあったものだから、再度、団体では、リセットしていたというだけだ。

 団体から、

「現役を引退すれば、こちらの活動に力を入れませんか?」

 とも言われていた。

 本人は、

「それもいいか?」

 と簡単に思っていたのだが、まさかの、

「ヘッドコーチ就任への打診」

 だったのだ。

 しかも、前任監督からのたっての願い。そう簡単に断るわけにもいかない。団体に話すと、

「いいですよ。ヘッドコーチよかったじゃないですか? こちらは、できる時でかまいませんからね」

 という優しい言葉を掛けられたのだった。

 実際に、ヘッドコーチをやりながらの活動は難しかった。しかし、

「少なくとも、この団体があったおかげで、自分はヘッドコーチとしての職につくことができたんだ」

 と思うようにしようと考えたのだ。

「上ばかりを見ていては、足元をすくわれる」

 と考え、とにかく、欲張ってはいけないと考えた。

「今は足元の、ヘッドコーチの仕事に根を張る必要がある」

 その考えは、選手の時からそうだった。

 あまり、いろいろ考えすぎると、器用貧乏になってしまい、結局、何も大成することはないのだった。

 ホームランもヒットも、打点もすべてを狙おうなどとすると、それこそ、

「ホームランの打ちそこないが、ヒットになった」

 というような選手でもなければ、三冠王を狙うなどできない。

 特に打率を競うヒットの場合は、ホームランと打点とは全く違う。

 なぜかというと、ホームランや打点は、本数が多ければいい。だから、相手には数で追いつかれるかどうかを気にしていればいいのだが、打率の場合は、ヒットの数ではなく、ヒットの数から、打数を割ったものになる。そこが難しい。

「ある程度まで打率を稼いでおけば、それでいい」

 というわけではない。

 打数には、

「規定打席」

 というものがあり、それを超えないと、いくら、10割打っていても、選考されることはないのだ。

 そして、ヒットが打てないと、打席に入る以上、フォアボールでない限り、確実に打数は増えてしまう。そのため、ヒットを打ち続けなければいけないのだ。

 これが、ヒット数であれば、また違ってくるが、これも、打順によって変わってくる。

「一番打者であれば、最多安打は望めるかも知れないが、打率となると、打数が多いだけに、さらにヒットを重ねなければいけない」

 そういう意味で、一番打者が首位打者に輝くというのは、結構大変なことではないだろうか?

 ただ、一番打者というのは、フォアボールで出塁するのも役目だから、そういう意味では、打席数は多くても打数が少なければ、ヒット数が普通でも、そんなに変わりはないだろう。

 そういう意味で、彼はホームランバッターで、打率はそんなに期待されていなかった。

「打率が2割5分でも、ホームランを30本以上打ってくれて、打点が、100に近ければ、十分な働きである」

 ということであった。

 打順は、大体5番を打っていた。

 四番打者は、歴代の外人選手が打ってきたという伝統があるので、このチームのホームランバッターは、5番を打つのが基本になっていた。

 その分、3番打者には、ヒットが要求され、ホームランとまではいかないが、二塁打などを量産してほしいと首脳陣は考えていた。

 彼の現役時代は、5番が適任で、大器晩成だっただけに、それほど通算記録はたいしたことはなかったが、本塁打王1回、打点王2回は、十分にチームの勝利に貢献してきたといっていいだろう。

 さらに、彼がホームランバッターだったという記録上の証拠として、

「フォアボールが多かった」

 といえるだろう。

 ただし、それは選球眼がよかったわけではなく、三振も多かったので、その分、相手が勝負してくれないほど、恐れていたということであろう。

 当然、6番バッターと比較すれば、

「歩かせても大丈夫だ」

 と相手に思わせるくらいなのだから、それこそ、

「強打者の証」

 といっていいだろう。

 それだけ、8年くらい、チームのホームランバッターとして、君臨したのだった。

 他のチームにもホームランバッターは結構いて、いつも、いいところで行くのだが、5本差くらいで、負けていた。

 相手が40本打てば、自分は35本。相手が、45本打てば、自分が40本と、

「もし、別の年だったら、ホームラン王になれたものを」

 とよく言われたものだった。

 ただ、どうしても超えられないものがあるのだろう。そして、その年のピッチャーが全体的に良かったりすれば、おのずと、本数は全体的に下がるというものだ。

 実際に投高打低と言われ、全然ピッチャーを打てず、防御率1点台の投手が3人も4人もいたりした時がああった。

 防御率は、1点台ともなると、リーグに一人いるかいないかというくらいが普通で、

「3点台の前半くらいまではなら、先発ピッチャーは合格点」

 と言われたものだ。

 昔から、

「3点までは、先発ピッチャーの責任ではない」

 と言われたものだ。

 特に、昔は、

「ピッチャーは先発完投が当たり前」

 と言われた時代である。

 ただ、イニングは短くても、ホームランで点を取られると、あっという間に点数が入る。ソロホームランならまだしも、3ランホームランだったら、一瞬にして、3点が入ることになるではないか。

 だから、

「クリーンアップの前にランナーを貯めない」

 というのが、ピッチャーの鉄則である。

 ランナーが出れば、気にしなければいけないし、バッターに対して注意がおろそかになると、あっという間にホームランを献上することになる。

 毎年、エースと言われて、15勝近くしている投手の中にも、

「一発病」

 と呼ばれる人もいる。

 特に、スピードボールで勝負する投手は、ホームランバッターにはおあつらえ向きなのだ。

「相手は直球に的を絞って待っているところに、力まかせに直球を投げると、餌食になるのは無理もないこと」

 と言われている。

 しかし、それも、出会いがしらということもあれば、

「勝負球ではない、カウントを取りに行った球を狙われてしまった」

 ということもある。

 この場合は、相手の作戦勝ちなのだろうが、ピッチャーとしては、悔やまれる。

 特に直球が武器のピッチャーは、

「カーブや変化球を投げてヒットを打たれるよりも、勝負した直球で、ホームランを打たれた方が、サッパリする」

 というようなことをいう。

 確かに、バッターとの勝負だけであればそれでいいのだろうが、チーム戦ということもあり、しかも、打たれたのが、スリーランホームランなどであれば、守っている選手が見れば、

「ピッチャーが一人で野球をやっている」

 と思われても仕方がない。

 ホームランではなく、フォアボールを連発し、監督が動く前に、

「押し出し」

 を連発などすれば、溜まったものではない。

 まるで、

「豆腐の角で頭を打ち付け、大けがをしたかのようではないか」

 という、おかしなたとえになってしまうが、このたとえも実はまんざらでもなかったのである。

 監督が動く前に点が入るというのは、フォアボールにしても、一発にしても、本当は監督もたまったものではないが、その責任は、

「投げさせた監督にある」

 と言われても仕方がないだろう。

 野球というものがどういうものなのか、こういうところを見ていると、意外と分かるものなのかも知れない。

 とにかく監督というのは、優勝すれば、テレビなどから引っ張りだこで、英雄扱いされるが、逆にいえば、優勝しなければ、ほぼ評価はないといってもいい。

 よほど、万年最下位のチームを優勝争いに導くところまで行ったなどというと、

「マジック」

 などと言われて、注目されるだろうが、逆に、今まで優勝争いが常連だったにも関わらず、最下位争いに転じてしまうと、今度はファンが黙っていない。

 過激なファンなどは、試合中にタマゴをぶつけてくるなどというファンもいたりして、何をしてくるか分からないのがファンである。

 本当に過激なファンは、郵送でカミソリを送り付けるような、脅迫まがいのことをしてくるのもいるくらいであった。

 そんな過激なファンもいる中で、ストレスをためながらやらなければいけない監督、

「チームが勝てば、ヒーローは選手。負ければ、監督の采配が悪い」

 そんな理不尽な世界で、十年以上も監督として君臨してくるのもすごいものだ。

 だが、それも、ある時期を超えると、監督としてのイメージがまわりに焼き付き、そして、何よりも自分が、監督であることに自覚が持てるようになるだろう。

 チームがあまり強くない時期もあれば、監督が何もしなくても勝てる時がある。下手をすれば、動けば動くほど、泥沼にはまることがある。

 ヘッドコーチとなったこの男は、絶えず、監督の後姿を見てきた。

 前任監督は、最初からオーラがあり、選手時代も、結局、この監督にだけは、頭が上がらなかった。

 今度の監督は、本来なら、自分がなるはずの監督の座を奪ったともいえる、

「憎き相手」

 だと思っていたが、実際には、

「あまり強くないチームを引き受けさせられた、いわゆる貧乏くじを引かされたという意味で、気の毒だ」

 といえるのだが、表向きは、ついつい監督になれなかったことを恨んでいるかのように見せていた。

 ただ、それも、シーズンが始まると、そんなことも態度に出さなくなった。

 本当にそれだけ、戦力が致命的になかったのだ。

 確かに、シーズン前の評論家の戦力ランクも最低で、ほとんどの評論家が、最下位を予想していた。

 新人監督ということもあれば、前年のオフに、主砲とエースがそれぞれ、FA宣言をしてしまったので、チームを去ることになった。

 しかもmエースの方は同一リーグへの移籍になってしまったので、勝ち頭が、そのまま、今年も活躍されると、自分のチームの勝ちの分と、さらに、直接対決でどうしても、負けるイメージを持ってしまう。

「味方だったら、これほど頼もしい存在ではないのだろうが、敵に回すと、恐怖でしかない」

 ということになるのだ。

 そんなシーズンが始まると、やはり思っていた通り、スタートダッシュで、転んでしまった。

 開幕の2試合は、連勝し、

「このまま少しでも、連勝が続けば、波に乗れる」

 という時に、逆転負けを喫した。

 しかも、次の試合は、元エースとの白井であり、見事に相手に完封されてしまった。

 今までこのチームでは、選手の寿命を考えて、100球対策を厳守していたので、いくら0点に抑えていても、7回くらいで交代させるのが、当たり前だった。

 だから、勝ち星は重なったが、完投、完封などは、まったくの無縁だったのだ。

 だが、チームが移ると、まったく違った男を見ているようだ。

 まるで、

「水を得た魚」

 とでもいえばいいのか、見事に完封されてしまい、その躍動感が眩しいくらいだった。

 球数は、130球近かったが、疲れたようには見えない。

 ただ、こんなことをしていて、本当に寿命が短くなるかどうかは分からない。何しろ元々の寿命が分からないからだ。

 ヒーローインタビューを聴いていて、

「これが、僕の本当の姿です」

 といっていたのが、印象的だった。

 アナウンサーも、そこは深堀しなかったし、本人もそれ以上のことを口走ったりしなかった。

 しかし、聴いていると、

「俺は先発完投型なんだ」

 といっているのを同じで、いかにもこちらを見ながら、

「どうだ。これが俺の実力だ」

 といっているようにしか見えなかった。

 それを聞いていて、監督も、ヘッドコーチも、唇をかみしめていた。ハッキリとした屈辱感を味合わされたのだ。

「飼い犬に手を噛まれる」

 とはこういうことをいうのだろう?

 しかも、ヒーローインタビューの後は、今度は囲み取材で、敗者の弁を述べなければならないという、まるでさらし者のような、お仕置きが待っている。

「なんて答えればいいんだ?」

 ということで、自分でも、どうしていいのか分からない。

 監督も困っていることだろう。その横顔からは、屈辱感しか出てこない。少し怖い気がする。

 実際に囲み取材になると、記者は、チクチクとした内容の質問をぶつけてくる。

「こんなにひどい質問をしていたんだ」

 と、ヘッドコーチは、まるで自分が言われているかのように、我慢できない様子だった。

 確かに質問のひどさはすごいものだが、それを自分がされるよりも、監督が矢面に立たされているのを見ると、どこか、後ろめたさがある。

 それでも、監督は、

「そのすべての責任は自分にあります、選手もスタッフも一生懸命になってやってくれているのに、采配がうまくいかないのは、私の責任です」

 というのを聞いて、まるで自分が監督から責められているのを感じたのだ。

 そんなことを思っているうちに、今度は少し違った怒りのようなものが浮かんでくるのを感じた。

「何だろう? この思い」

 と、彼は思った。

 虚しさのようなものや、歯ぎしりをしたくなる屈辱感もあり、さらに、監督に対しての、苛立ちもあったりと、一度におかしな感情が浮かんでくるのだった。

 これをどう表現すればいいのか分からないが、

「何かで、縛られているかのようだ。そして、ムチでしばかれているかのように思う」

 と感じた。

 一番、歯ぎしりというのが、直接感じたことかも知れない。

 その歯ぎしりは、怒りを呼び、そこに屈辱感があることを感じさせられる。

「屈辱感など、選手の時代にも何度も味わってきたはずなのに、それとは違う屈辱感なんだ。そうだ、自分が直接の原因でもないのに、責められているというこの気持ち、これが苛立ちを呼ぶのだ」

 と感じた。

 しかも、監督は自分が悪いかのように謝罪している。見ている方はたまったものではない。何か、これこそ、

「偽善ではないか?」

 と感じさせるものがあるのだった。

 そもそも、

「偽善というのは、どういうことなのか?」

 というのも分かっているわけではない。

 監督だって、本当は違う気持ちなのかも知れない。

「俺の采配にお前たちがついてこれないからだ」

 と思っていることだろう。

 何と言っても、元々、スター選手で、チームの看板を背負ってきた人ではないか。

 チームが勝てば、いつも自分がお立ち台。それが当たり前のようになっていて、記者もそのつもりだった。

 チームが低迷した時は、彼がスランプだったり、したことが多かった。それを思えば、このチームは、いい意味でも悪い意味でも、

「彼のチームだった」

 といってもいいだろう。

 だから、最初は監督に就任した時は、こちらも歯ぎしりをするほど悔しかったのだが、次第に時間が経ってくると、今の偽善に見える態度が、最初から分かっていたようで、

「一歩間違えて、自分が監督になっていれば、あそこにいるのは、自分だったのだ」

 と感じた。

「じゃあ、あそこに自分がいれば、何と答えるだろう?」

 と思う。

 きっと監督と同じ思いで答えることができるだろうか?

 と思ったが、意外と平気ではないかと思えてきた。

 考えれば考えるほど、あの場にいれば、

「自分は、そこまでイライラしないのではないか?」

 と考えるのだが、それは、

「自分が最初から、偽善者だったからではないか?」

 と感じたからである。

「偽善者というのが、どういうものなのか?」

 ということを分かっているわけではない。

 ただ、偽善者がどういうものなのか、

「いや、偽善者になりたい」

 と感じるのが、どういう時なのか?

 ということを考えるようになったのであった。

 普通、偽善者というと、いい意味では感じない。

 正直彼も、

「偽善者など腹が立つだけだ」

 と思っていたが、逆にいえば、

「いなければいけない人」

 というイメージが頭の中にあるのだ。

 いわゆる、

「必要悪」

 とでもいえばいいのか、そんな存在を必要とする人がいるから、必要悪という免罪符を持って、存在することができるのではないだろうか?

 偽善者を必要悪だなどと思うなど、今までにはなかったことだ。

 ただ、偽善者は偽善者でなぜか集まってくるもののようで、偽善者同士が会話をしていると、まわりは耐えられるものではないと思っているだろうが、本人たちは意外と平気なのかも知れない。

 そんなことを考えていると、

「偽善者というものが、どうして人に目立たないようにして存在しているのか?」

 さらには、

「思ったよりもたくさんいるんだ」

 ということを思い知らされるのと、同じタイミングなんだ」

 ということを感じさせられるものだった。

「必要悪だ」

 と考えるのは、さらにステップが進んでからではないかと思うのは、それだけ自分が偽善者を意識し、

「ひょっとすると、自分も偽善者なのではないか?」

 と感じたからだ。

 確かに最近、監督を初めてして、まわりの皆が偽善に見えてきた。

 選手のヒーローインタビューを見ていても、

「チームの勝利のため」

 ということを、いつも言っている。

 そう言わないと、自分が悪者にでもなってしまうと思われるからではないだろうか?

 自分の時は、ヒーローインタビューの答え方のマニュアルのようなものがあったが、考えてみれば、そんなものがなくても、他の人のインタビューを見ていれば、分かるというものだ。

「皆、同じことしか言わないじゃないか? チームの勝利のためだったりである」

 しかし、マニュアルとしてあったのは、それだけで、細かいことはなかった。

「どんな球を打ったのか?」

 などということも、すべて正直には答えていない。

 下手をすれば、相手、あるいは、スコアラーなどから、

「あの選手は、この球が苦手なんだ」

 ということを、教えてしまいかねないからだ。

 それくらいのことは、選手が分かっていると、マニュアルを作った人は思ったのか、それとも、そこまでマニュアル化するのは、選手に失礼だという認識なのか、ヘッドコーチは考えるのだった。

 それはあくまでも、

「自分が、偽善者ではないのか?」

 という疑いの目で自分を見つめているからだった。

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