雨女
はるむら さき
雨女
「疲れちゃった。もう別れよう」
いつもの喫茶店。いつもの窓際の席で、彼と私が一人ずつ。
瞬きひとつ見えるほど、近い所で向かい合わせに座っているのに、彼と私は独りずつ。
珈琲の湯気を隔てて、まるでそれぞれ別の世界にいるみたい。
今、目の前のこの人が、放った言葉がどうにもこうにも、私の耳まで届かない。
外から窓を強く叩く雨の音。天気予報では、「一日中、晴れるでしょう」と言っていたのに、おかしいわ。
雨の音が彼の声を飲み込んでいるのね、きっと。彼の声がこんなに遠くから聞こえるはずないもの。
「え、なんて?」返した私の声だって、雨にすべて奪われた。
私はきっと笑っているわ。けれど、心の底から笑顔を造れているかどうかは分からない。
あら、おかしい。だって、この言葉をこの人から聞いたのは、もう三回目。
それに、いつも冗談だったもの。二人で笑いあって、冗談にしてきたんだもの。
最初にあなたが「別れよう」って言った時、あの日も雨が降っていた。
あなたの言葉に、とても悲しくて腹立たしくて、私、泣いてしまった。
突然のことで驚いたのね。私が感情的になったことなんて、それまで一度もなかったから。
そんな私を見て、あなたは慌てて抱きしめて、なんども「ごめん」と謝ってくれた。
「ほんとうに心から愛しているんだ」とたくさんたくさん言葉をくれた。
その後、なんだか可笑しくて。顔を見合せて笑ってしまった。
二人の喧嘩なんて最初から無かったみたいに、雨が上がって。
夢みたいに綺麗な虹が、空に架かって「魔法みたい」と、笑いあったことも、私、はっきり覚えているわ。
だから今日だけ、お別れの言葉が本当みたいに聞こえちゃうのは、きっとこの雨のせい。
そうでしょう。でも…。あなたがほんとうに疲れて見えるのも、きっとたぶん嘘じゃない。
じゃあね、と短く言い切って、彼はゆっくりと立ち上がる。テーブルに置かれたコーヒー代は、いつもと違ってきっちり半分。
チリリッと響くベルの音。
ドアの向こうの雨の中。そのまま一度も振り返らずに、彼の姿は遠くなる。
私は彼に、待ってと言おうとしたけれど、声はけっして届かない。出ないんだもの。当たり前ね。
だって、あなたの隣にいるために、そのヒレを足に鱗を肌に代えるため、魔女に声を売ったんだもの。
一度目よりも、二度目よりも。
三度目の別れを告げた彼の髪は白く、顔には幾重にも皺がよっていて、誰がみても老いていた。
対する彼女は、まだあどけなさが残るほどに若く。咲き始めた花のよう。
もちろん、彼女は人ではない。あなたが想像する通り。海に産まれた人魚姫。人と違う時を生きる者。
いつもの喫茶店。いつもの窓際の席に私がひとり。
窓を叩く雨の音。いつか彼が私と同じ歳の頃、二人、虹を見つめながら言っていた言葉を思い出す。
「君と別れようと思う時、なぜか雨が降るんだよ」
恋が壊れそうになると、雨が降るのは魔女が私を海へと連れて行こうとするからよ。
雨女 はるむら さき @haru61a39
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