第7話
昼休み、私は昼食を取る前に、彫刻科の棟に行こうと決めていました。画材の片付けを瞬きの速さで済ませ、毎日一緒に昼休みを過ごすくららに断りもなく、教室を飛び出しました。
彫刻科は日本画科のあるG棟よりも少し奥に位置するI棟にあります。奥と言うより、ほとんど学校の裏手と言ってもいいかもしれません。
小さな建物で、コンクリート打ちっぱなしの古いグレーの建物ですが、通り抜けてきた長い年月を感じさせつつも何処か洗練されて現代的な雰囲気があり、個人的には好感の持てる建物です。
外から眺めたことは何度もありますが、実際に足を踏み入れるのは初めてでした。おそらく他学科の学生のほとんどは訪れることのない場所でしょう。彫刻科は学生が数人しかおらず、友人を訪ねてやってくる学生も他の学科の棟に比べ極端に少ないはずですから。
建物の中は、木と何かの塗料の匂いが混ざったような独特な香りがしました。その嗅いだこともない香りがさらに私をそわそわさせます。一階はしんとしていて、学生も教授も見当たりませんでした。
賑やかな他の棟と比べてあまりに静かすぎるのでほんの少し躊躇しましたが、どうしても彼に会わなければいけないのだという確固たる目的を思い出して、階段を上がっていきました。二階に上がると、微かな物音が聞こえました。床を硬い箒で掃いているようなシュッ、シュッという音です。私は音のする方へゆっくりと近づきました。
そしてある教室に人影を見つけました。
時くん。
それは間違いなく駿河時くんでした。彼は小さな木の塊を右手で持ち、左手で一心にその塊の中にある何かを彫り出そうとしていました。細い腕以外体のどの部分も動かすことなく、ただ一心に木の塊とだけ対峙していました。少し癖のついた柔らかい髪が光を受けてきらきらしています。
「時くん」
呼びかける声は震えました。話しかけるべき状況ではないことはわかっていたからです。でもどうしても今彼と話をしなければなりませんでした。お取込み中だから、また来週にしようかな、というわけにはいかなかったのです。
「時くん」
少しだけ声を大きくして、私はもう一度呼びかけました。まず彼の腕の動きが止まり、続いて首がゆっくりと回されました。顔がこちらに向きましたが、逆光で表情はよく分かりません。
「あの……私、日本画科の春沢毬子って言います!」
緊張が昂りすぎたせいか今度は場違いに大きな声が出ました。すると時くんがそんな私を落ち着かせるように静かな声で
「知ってる」
と言いました。正直びっくりしました。私だけが一方的に知っているとばかり思っていたからです。すると彼はそんな私の心境を悟ったようにこう言いました。
「だってきみ、いつも僕のこと見てたでしょう。一体誰なのかなって流石に気になったから日本画科の後輩に聞いたんだ」
「あ……そうだったんですね、すみません、怪しかったですよね。でもその、どうしても気になることがあり……ございまして、どうしても確認したくてつい」
「何が気になるの? 僕が気になるなんて人、初めて見たよ」
「いやあの……」
私は言葉に詰まりながら、彼の手首にまるで締め付けるように巻きついた黒真珠のブレスレットを見ました。
「それ……ブレスレット……」
「ブレスレット?」
彼は初め、首を傾げました。そしてまるで自分の腕の異変を指摘されておかしいところを探すかのように手首を見ました。
「ああ、これのことか。これがどうかしたの?」
私は一瞬怯みました。その反応は、何か特殊な、人に知られたくない秘密を持ったものにいきなり言及された時の反応にはとても見えなかったからです。
「あの……それって……どんなものなのかなって! なんていうか、何か特別な力を持ってるのかなって思って! っていうのは、あの、そう、私の知ってるものと、よく似てるから!」
少しの間がありました。校舎の外で誰かが大声で笑うのが聞こえました。
「あるといえば、あるかな。外れないんだ。子供の頃からずっと。何かの呪いなのかな」
衝撃的な内容の割には随分と落ち着き払った穏やかな声でした。私は閉口して立ち尽くしました。
「物心ついた頃にはもう手首にあったのに、両親も何も言わないんだ。聞いても知らないと言われる。悩みの種だよ。子供の頃のままの大きさだからきつくてさ。これのせいで体もあんまり成長しなかったのかもしれない」
確かに彼は身長が低い方で、手足も細く小柄でした。
「ただ特殊能力とか、そういうものは何もないと思うよ。これを身につけていることで何か普通じゃないことができるとか、そういう愉快なオプションはないかな」
そう言って彼は少し、本当に微かに、微笑みました。少し乾燥気味な肌がくしゃりと歪んだ時、私は思わず口走りました。
「あの、私、たまにここに遊びにきてもいいですか?」
何を言っているんでしょうか。聞きたかったことをちゃんと教えてくれたのにお礼も言わず。でもなぜか、そう言わずにはいられませんでした。いつも俯いて校内を彷徨っている彼の笑顔を初めて見て、なぜか勝手にそんな言葉が出てきてしまったのです。
「え、まあ、いいんじゃないかな。きみもここの学生なんでしょう? 他学科の棟に比べたら面白いものは特にないと思うけど、それでもいいなら」
時くんは立ち上がって木の塊を机に置くと、私に近づいてきました。黒いエプロンのお腹の辺りは、木の粉をたっぷり浴びて真っ白になっていました。
「じゃあ僕、昼ごはん食べに行ってくるよ。またね。春沢さん」
ことん、と、私の心の奥で何かが倒れる音がしました。時くんが立ち去った後も、私はしばらくそこを動くことができませんでした。
紅水晶ものがたり 猫谷あず季 @azukichan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。紅水晶ものがたりの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます