第4話 4月30日

 バスに乗り込むと、レンは一目散に最後尾の座席を目指す。

 体が重い上に、マスクをつけているので呼吸が苦しい。

 ジャージ姿の女子高生が、こちらを見てニヤニヤしているが、そのような視線にはもう慣れすぎて何も感じない。

 座席にどかっと腰を下ろしたところで、億劫そうにバスが発車した。

 毎年なら、ゴールデンウィークだ行楽だと、ニュースは大盛り上がりの時期だ。

 だが今年は新型ウィルスの台頭で、ステイホームだ。

 いつもより人のまばらな街を、レンは車窓から眺めていた。

 たかだか二十数年の人生で、これほど激動だった数日間はなかっただろう。

 今しがた、駅で見送ったばかりの、あやめとさくらを思い出す。

 電車で片道一時間ほどの、レンの実家に向かうためだ。

 レンは行かないと分かった二人は、祖母…レンの母親が宥めても、泣き止まなかった。

 だが、二人が好きなアニメのぬいぐるみを渡すと、一気に笑顔になってくれた。

 こんな事になろうかと、昨日ゲームセンターで数時間粘ってとった限定品だ。喜んでくれてほっとした。

 兄の血が流れる孫だ。両親も無下にはするまい。

 だが、もう半分は母親の…両親のいうところの「頭のイカレた女」の血が混じっているのだ。

 不安はぬぐえない。



 はじまりは、定期連絡のつもりでユリにかけた電話だった。

 あやめが出たのには面食らったが、子供は親の真似をする。電話の出方も、覚えていたのだろう。

 だが、「お母さんお風呂だよ」の一言には焦ってしまった。

 狙ってかけたのだと思われては大変だ。

 後でいいよ!と叫んだが、あやめには届かなかった。

 だが、聞こえてきた言葉は予想の斜め上をいっていた。

「おかあさんね、おふろはいったまま、ねちゃったのかなぁ。おふろのおみずつめたいし、おかあさん、だいじょうぶかな?」

 脳裏で、赤い光が灯った。

 まさか。そんなわけない。考えすぎだ。

 だがレンは、あやめに風呂の栓を抜くように伝えた。それでは通じなかったので、鎖で繋がってる黒いやつ、と説明をしたが、そんなものはないと言う。

 水栓のないタイプの浴槽がある事を、この時レンは知らなかった。

 そうこうしているうちに、あやめの「あっ!」という叫びとともに、ポチャンという音。

 鳥肌が立った瞬間、電話がぶつりと切れた。

 最悪の状況だ。

 レンはすぐさま、マンションの管理会社に電話をした。

 何もないと思ってはいたが、何かあった時のためにと、念のため番号を調べてあったのだ。

 かなり怪しまれた様子だったが、マンションの近くに住む大家に、鍵を持って向かってもらえる事になった。

 レンもすぐさま、タクシーで向かった。

 マンションにつくと、ちょうど大家らしき初老の男性と、なぜか警官が一人いた。

 通報されたのかと身構えたが、ユリの家の隣の住人から、「子供の泣き声がずっとしていて、尋常な様子じゃない」と、通報があったそうなのだ。

 嫌な予感を抑えきれず、三人でユリの家に向かう。

 ドアの前に立つと、中からあやめとさくらの泣き声が聞こえた。

 大家が震える手でカギを開け、踏み込んだ瞬間、あまり嗅いだことのない臭いが鼻をついた。

 大家の先導で、声のするバスルームに向かう。

 パジャマ姿のあやめとさくらが、大泣きしながら、浴槽の中でぐったりしているユリを支えていた。

 ぱっと見ただけではどちらか分からなかったが、片方がユリの腕を、もう片方が浴槽の中で、ユリの身体が沈まないように抱えていたのだ。

 大家と警官がユリを引き上げ、レンが二人をなだめる。

 ぐっしょり濡れた二人の身体は、すっかり冷たくなっていた。

 一糸まとわぬユリの肌も、不自然なほど青白く、目を覚ます気配がない。

 ほどなくしてやってきた救急車で、ユリは搬送された。

 低体温症と診断され、また、血中からかなり高いアルコールが検出された。

 酒を飲んで水風呂に?

 ユリが意識を取り戻した後で、事態は更に不可解さを増していった。

 医者が状況を尋ねたのだが、言っている事が支離滅裂で、子供たちの様子もおかしい。

 ヨレヨレの服に、薄汚れ、痩せた顔。

 虐待、ネグレクトという言葉がちらついているのだろうと、レンも察しがついた。

 医者が警察に通報したようで、義姉は病室で取り調べを受けた。

 ユリは、仕事もして家事もして、子供たちとちゃんとした生活をしている、という説明を必死な様子で重ねた。

 だが、警官も医者も、信じていない様子だった。

 苛立ちが募ってきたのか、ユリの声は段々と大きくなり、腕を振り回し、それでもなお説明を試みる。

「とりあえず、署までご同行願えますか?」

 警官のその一言で、ユリは完全に抑えが利かなくなってしまった。

レンや警官、医者の前で暴れ、叫んで、処置に当たった看護師をはずみで殴ってしまった。

 看護師が鎮静剤を注射をして、ようやくおとなしくなった。

 アニメや映画で見たことはあるが、現実で目にするとは思っていなかった。

 更に検査をした結果、義姉の身体はかなり弱っていた。低栄養状態で、まともな精神状態ではないと診断され、そのまま精神科に入院させられた。

 


 次の日には、レンの両親がやってきた。

 まずは二人への説明、それから、児童相談所のスタッフとの面談があった。

 何か説明を間違えたら、ユリ達母子の運命が変わってしまうかもしれない。

 レンは第一発見者として、義弟として、ユリが不利にならないよう、細心の注意を払った。

 別室では、あやめとさくらへの聞き取りも行われていた。

 後から二人に聞いたら、お母さんとどんな風に過ごしていたか、お母さんの様子はどうだったか、などを聞かれたらしい。

 研究室の同僚達に頼み込んで、数時間だけあやめとさくらを預かってもらい、レンと両親はユリのマンションへ向かった。

 最初に足を踏み入れた時から、部屋が大変だというのは予測していたが、想像以上の惨状だった。

 玄関、リビング、台所はゴミで溢れ、あちこちから異臭がしていた。

 シンクは汚れた食器が無造作に突っ込まれ、下にあるものは重みで割れてしまっている。

 フライパンの中では、いつ作ったのかも分からない料理が、カビを生やして腐っていた。

 有機やオーガニックと書かれた段ボールの中で、元々何だったのかも分からない物体が、黒い汁を出している。

 えごま油、亜麻仁油、有機丸大豆醤油、有機玄米味噌。

 何種類もの高価そうな調味料が、床に並べられていた。 

 本棚の中には、「低糖質」「体に優しいおやつ」というタイトルの本が、何冊もあった。

 大小さまざまな絵本の中で、何故か「幸福の王子」だけが、本棚の後ろに入れられ、ほこりをかぶっていた。

 仕事部屋のパソコン机には、大量の紙の山があり、どうやらチラシやダイレクトメールのようだ。

「マリーゴールドだけで作られた、安心の目のサプリ」

「世界初!ナデシコの種から抽出された有効成分!」

 などと、胡散臭い文字が躍っていた。

 昨日のユリの説明の中で「ナデシコさん」という単語が何度も出てきたのを思い出す。

 パソコンはスリープ状態だ。何気なく、エンターを押して画面を出してみる。

 ワープロソフトが立ち上がったままだ。


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 白い画面にびっしりと表示された文字列に、レン達は言葉を失った。

 昔のスリラー映画のワンシーンを思い出し、肌が粟立つ。

 そして昨日の病室での出来事を思い出し、確信した。

 この一か月ユリは、家事も仕事もちゃんとして、子供たちときちんと生活している、という妄想の中で生きていたのだ、という事を。

 更に室内を見て回る。

 洗面所の洗濯機の横では、白いタグがついたままのあたらしい服が、可燃ごみの袋に突っ込まれていた。

 タオル類は、干す工程を経ずに畳まれたのか、生乾きのにおいが立ち込めていた。

 一番ひどかったのはトイレで、塩素系漂白剤がまき散らされた痕跡があった。

 まだらになってしまった床が、その量を物語っている。窒息事故が起きなかったのが、不幸中の幸いだろう。

「まともじゃないわよ!こんな部屋で生活していたなんて!」

 母親は喚きながら、ゴミを次々と片づけていった。

 父親は何も言わなかったが、母親と同じ考えを抱いている事は、空気で伝わった。

 レンは二人の呪詛を意識しないよう、掃除に集中した。



 翌日、ある程度片付いたリビングには、レンと両親、あやめとさくら、そして児童相談所のスタッフ二人が集まった。

 レンは自室から持ってきたパソコンで、インストールしておいたミーティングアプリを立ち上げる。

 入院しているユリと児童相談所のスタッフを、オンラインで面会させるためだ。

 新型ウィルスの影響で、病院には家族も入れないと言われてしまった。

 そこでレンが、オンラインでの面会ならどうかと提案した。大学ではオンライン授業が主流になっていたので思いついたのだ。

 児童相談所から病院に問い合わせてもらい、特別措置と念押しされた上で、この場が実現した。

 二日ぶりに母親と会えると聞いて、あやめとさくらはそわそわしていた。

 ネット環境に疎いレンの両親は、ただじっと見守っていた。

 そして面会ははじまった。

 最初は医者からの説明だった。

 はじめは抑うつ状態だったものが、今では統合失調症に近い状態に進行してしまったのだと思う、という、なんとも曖昧な説明だった。

「入院して数日なので断言はできませんが、目の前の事象を正しく認知できていな事は確かだと思います」

 当初は拘束具が必要なほどだったらしいが、安定剤の投与を続け、少しずつ落ち着いてきているとはいう。

「会話はできるんですか?」

 レンの父親が尋ねる。

「まだ少し難しいですね。お子さんを見て混乱しないよう、三十分前に安定剤を投与してあります」

 まるで猛獣でも扱っているような口調にいら立ったが、とにかくユリの様子を映してもらうように頼んだ。

 カメラが回転し、ベッドに座るユリが映し出される。

 兄の葬儀の時と、あまりに違うユリの姿に、レンは息を呑んだ。

 生気の失せた、うつろな顔。

 目はカメラを見てはいるが、眺めているといった方が近い。

 かすかに開いた口からは、言葉ではなく涎が垂れ、脇に控えた看護師が、慌ててそれを拭った。

 生きた死者。ゾンビの着想のもとになったという、ブードゥ教の秘術で、蘇生された死人。

 そんな形容詞が、ぴったりだった。

 スピーカーをオンにして、こちらの声と映像は届いているはずだ。

 児童相談所のスタッフが呼びかけるが、何の反応もない。

 誰の言葉にも、応えはない。

 あやめとさくらの声には、一瞬、何かを探すようにして顔を動かしたものの、それ以上の反応はなかった。

 これ以上は場がもたないと判断したのか、医者はまたカメラを反転させた。

 とにかく今は刺激を与えず、安静にさせて様子を見ますので、と矢継ぎ早に説明をされ、オンライン面会は終了となった。

 児童相談所のスタッフは、困った様子で顔を見合わせている。

 両親は、複雑そうな表情をしているだけだ。

「おにいちゃん、おかあさん、どうしちゃったの?」

「なんで何もいってくれないの?」

 涙を浮かべる子供たちに、本当の事など言えない。

 レンは必死に考えた。

 ふと棚に並んだ、二人が好きなアニメの主人公と、その妹のマスコット人形が目に入る。

「…お母さんはね」

 そうだ。こんな時にアニメの主人公ならどうする?

 泣きそうな子供たちに、何と言葉をかける?

「お父さんがいなくなったのが悲しくて、それでも、あやめとさくらのためにって頑張っていたんだけど…疲れちゃったんだ。あやめとさくらとお話しできないぐらい、疲れちゃったんだよ」

「…あやめが、わるい子だから?お母さんのいうこときかなかったから?」

「そうじゃない。むしろ、あやめとさくらが大好きだから、頑張りすぎちゃったんだ」

 大人も感動できるアニメを好きな二人だ。ちゃんと説明すれば、きっと伝わるはずだ。

「お母さんが元気になったら、また三人で暮らせるよ。だからそれまで、お母さんの事、待っててあげられる?」

 あやめが頷き、続いてさくらが頷く。こらえ切れなくなった二人は、とうとう泣き出してしまった。

 二人をなだめる両親の目にも、涙が浮かんでいた。

 傍から見たら、ユリの行為は虐待なのかもしれない。

 だが、二人のためにオーガニック野菜を取り寄せたり、お菓子を手作りしたり、絵本を読んだあげたりと、ユリは間違いなく、子供たちに愛情を注いでいた。

 それは、妄想なんかじゃない。

 たとえこの部屋が、ユリにとっての檻だったのだとしても。

 あやめもさくらも、大人になるにつれて、きっとわかってくれるだろう。

 レンは、そう信じたかった。



 子供たちは、当分レンの実家で預かることになった。

 今後どうなるのかは、当事者であるユリが回復しない事には、全く読めない。

 レンはひそかに児童相談所に連絡し、健康診断と称して、二人の裸の写真を撮ってもらっていた。

 子供を育てる能力があるのか疑わしい母親が、親権を主張できないようにするため、周りの親族が、虐待の痕跡を捏造する事もある、とインターネットで見つけたからだ。

 自分の両親に限って、かわいい孫を傷つけるような真似はしないだろうと思いたい。

 だが、親子の今後がかかっているのだ。大げさでも、慎重を期さなければ。

 子供たちからのヒアリングでは、三度の食事におやつ、読み書きなどの教育に、見たい時にアニメを見せてくれたり、夜は絵本の読み聞かせをしていた事が分かった。

 更にレンが、子供たちのために、健康に良い食材を取り寄せていた事も添えると、スタッフはますます混乱していた。

 確かに子供たちは少し瘦せていて、着ていた服も清潔とはいえなかった。

 そこだけ見ると虐待やネグレクトの疑いがあるのだが、子供たちの証言と、二人を取り巻く環境が、それを真っ向から否定している。

 話してみた手ごたえでは、児童相談所サイドは、ユリと子供たちが、一緒に暮らせるように動いてくれそうな雰囲気はあった。後々、味方になってくれるだろう。

 それだけは僥倖といえた。

 


 自室に着いた頃には、すっかり暗くなってしまっていた。

 殺風景なリビングは、停滞した空気のにおいがする。

 レンには、あと一つやることが残っていた。

 それは、ユリの家にあった、布団類をクリーニングに出す事だった。

 イカれた女のために、新しい寝具まで買う事などないとレンの母親が渋ったため、近くで生活しているレンが、それを引き受けることになった。

 最近の管理会社は、親族とはいえ不用意に鍵を貸してくれない。なので、管理会社立ち合いのもと、布団を戻す時だけ、レンが立ち入る事が許可されていた。

 その寝具は、大きなビニール袋にくるまれて、目の前にある。

 レンは、ユリのベッドにあった枕を袋から出して顔に当て、深呼吸した。

 シャンプーだろうか。花のような香りが、微かにする。

「あぁ…ユリさんのにおいだ」

 水風呂から引き揚げられたユリの、蝋人形のような肌の色。

 胸は少し垂れていたが、髪が張り付いた顔が、妙になまめかしく見えた。

 それまでアニメやゲームでしか感じた事のない欲望が、むくむくと膨れ上がるのを感じた。

 だが、兄嫁であるユリが好きだと、言えるはずはない。

 数年前は酒の力で思わずそれを漏らしそうになり、兄から接触を断たれてしまったが、アニメの鑑賞会に誘われたという事は、兄も態度をやわらげたかったのかもしれない。

 ユリに嫌われていることは分かっているし、自分があやめとさくらの父親になれるはずもない。

 今回の件で色々動いた事で、恩を売ろうとも思わない。

 それでも。

 兄が勧めてきたそのアニメに、最初は興味がなかったが、鑑賞会が開かれればユリに会えると思い、誘いに乗った。

 結局それは実現しなかったが、あやめとさくらも好きだと知ってからは、二人とアニメの話をするのを口実にして、ユリに電話をかけ続けた。

 そんな見え透いた行動に、きっとユリは気づいていただろう。

 だがそれでも。

 少しでも、触れていたかった。

 話していたかった。

 そして、こんな事をするのは、今夜一度きり。

 約束通り、寝具はすべてクリーニングに出す。

 だから、今だけは。

 数日頑張ったご褒美だと、許してほしい。

「…はぁ、ユリさん」

 孤独なつぶやきは、部屋に沈殿する、夜の澱に溶けていった。



                 了

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オリの中 望月ひなた @moonlight_walk

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