第3話 4月25日
宅配業者がエレベーターに消えた事を確認すると、まずは外側のドアノブの除菌から始めた。
続いて内側のドア、それから半歩だけ玄関に入られた時に足があった場所にも除菌スプレーを撒く。
「ほら、二人はここにいてね。玄関は、怖い菌がいっぱいいるのよ」
興味津々の二人をリビングに追いやり、スマホでアニメをかけてやる。
段ボールを台所の床に置くと、まず空気清浄機を目の前に移動して、吸い込む力を最大にする。
品物を一つずつ手に取り、除菌シートで拭いていく。
感染対策として、他人が触ったものをむやみに触らないのが有効とテレビで言っていたので、そのための措置だ。どうせそのうち開けるのだし、包装が破れても問題はない。
そこにくっついた菌が、夫の命を奪ったのだと思うと、憎たらしい。
一匹残らず、殺してやる。
国産有機丸大豆で作った醤油、海洋深層水の天然塩、米粉、野菜やさつまいものパウダー。
みんな、子供たちの身体を作り、強い免疫を作ってくれるだろう。
子供たちがスマホでアニメを見るようになったので、午前は家事、午後は仕事と、少しペースが変わったが、問題はない。
今日はなんだか気分がいい。
掃除機をかけながら、二人が見ているアニメの曲で踊りたくなる。
だがそんな気分も、洗濯機からヨレヨレの服が出てきた事でしぼんでしまった。
この服、こんなにヨレていたかな?
広げてみると、更に白く細かいものがびっしりついていて、がっかりしてしまう。
「ちょっとあやめ!洗濯機に入れる前に、ポケットのゴミは捨てなさいって言ってるでしょ!」
アニメを見てリラックスしていたあやめは、不意打ちを食らって一気に不機嫌な表情になった。
「あやめ、ちゃんとすててるよ!」
「だってこれあなたの服でしょ!嘘つくんじゃないの!」
「うそなんかついてないもん!」
「罰よ。アニメは今日はもうおしまい!お昼ご飯、さっさと食べなさいね」
私はスマホを奪い取った。あやめは不服そうに私をにらみつけると、さくらを引っ張ってテーブルについた。
今日も仕事を始めたのを見ていたかのように、ナデシコさんから着信が来た。
ナデシコさんのところも、確か幼稚園に落ちてしまったんだった。
あまりくよくよ考えないようにしているのだろう。ナデシコさんはいつも通りの明るい声だった。
「早く幼稚園が始まればいいのにね」
「ねぇ~。でも、外って菌だらけよねぇ」
ナデシコさんがため息交じりに言う。
「子供って、かじったり舐めたりするでしょ?その手でいろんなところを触るのよ?」
確かにそうだ。
不潔なおもちゃ、不潔な絵本。
ドアノブも、蛇口も、庭の遊具だって。
考えただけで、ゾッとする。
そういえば、東北の震災があった後、東京の下水道で、高濃度の放射能が検知されるホットスポットが増加していたと、前に聞いたことがある。
人間の排泄物は、菌の塊だ。
それが出されるトイレはつまり、菌の巣窟という事ではないか?
考え出したら、寒気がしてきた。
私は早々に電話を切り、除菌スプレーを持ってトイレに向かった。
細かい霧状になった水には、菌が付着している。
それが壁に、床に、天井に飛散しているのではないか。
トイレは毎日掃除しているが、集合住宅である以上、他の部屋から漏れた菌が、運ばれてきているかもしれないのだ。
もっとこまめに消毒しないと!
そうだ、次亜塩素酸がいいって、ナデシコさんから聞いたわ。
要は、塩素系の漂白剤よね。
マスクみたいに品薄になったら困るし、後でまとめ買いしなきゃ。
とりあえず、今ある漂白剤で消毒しなければ。
便器の中、床、壁は液体タイプで、天井はカビ取り洗剤でなんとかした。
トイレから出た時には、目がチクチクと痛み、ひどい頭痛がした。
空気清浄機から出てくる、きれいな空気を思いきり吸い込む。
気持ちが徐々に落ち着いてくる。
「お母さん、だいじょうぶ?」
「だいじょぶ?」
不安げなあやめとさくらを、思わずだきしめた。
「あやめ、さっきは怒ったりしてごめんね」
「ううん。あやめもごめんなさい」
綺麗で栄養たっぷりの食べ物で、もっとこの子たちの身体を丈夫にしてあげないと。
菌だろうがウィルスだろうが、これ以上家族は奪わせない。
今日は夜まで、三人でずっとアニメを見た。
お風呂の前に何か飲もう。
あぁ、ぶどうジュースがあったわ。
「お母さん、何飲んでるの?」
「ぶどうジュースよ。二人とも飲みなさい」
コップに入れてあげたが、二人とも一口飲んだら顔をしかめてコップを置いてしまった。
「これへんなあじがするよ!」「にがいよ~」
高価だったからもったいないので、仕方なく二人が残した分も飲み干して、三人でお風呂に入った。
お風呂を嫌がる子も多いらしいが、うちの子は昔から好きなほうだ。
シャワーをかけてあげると、キャッキャと嬉しそうに笑う。
身体と頭を洗い、最後は三人で湯船に入った。
「お母さん、シーシーいきたい」
「さくらもー」
「こら、ちゃんとおしっこって言いなさい。入る前におトイレ行きなさいって言ったでしょ」
「だって、トイレなんか臭いんだもん」
「ほら。もう上がって、行ってらっしゃい」
パジャマを着せてから、私は湯船に戻った。
静かだ。
一人でお風呂に浸かるのも、久しぶりな気がする。
「…言わないと分からないでしょ」
葵さんにもよく言われたな。
百合。黙っていられたら、これ以上何も言えない。
そう言われても、何も考えてなどいないのだから、何も言えないのだ。
ただ私が悪いから。言い訳する余地などないのだから。黙って耐えて、時間が経てば大丈夫。
いつもそうやって、やり過ごしてきた。
これからもずっと、そうすれば…。
あぁ。疲れたわ、何だか。
眠い…。
あやめ。
なぁに?さくら。
おかあさんのでんわなってる。
ほんとだ。どうしよう?
…きもおたでぶ?だれだろう…。
………あ!レンおにいちゃん!
おかあさん?おふろだよ?
えー、さくらもおはなししたいー。
ちょっとまっててね!
おかあさん、レンおにいちゃんからでんわだよ!
おかあさん?
…………。
あのね、おにいちゃん。
おかあさんね、おふろはいったまま、ねちゃったのかなぁ。
おふろのおみずつめたいし、おかあさん、だいじょうぶかな?
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