第2話 4月13日
今朝はちょっとした事件から始まった。
「お母さん、さくらのピーちゃんは?」
「あやめのもピーちゃんじゃない」
「ごめんね。ピーちゃん達どっか行っちゃったのよ」
最近皿やコップがよく無くなるので、そのたびに百円ショップで買い足していた。
「やだ!ピーちゃんじゃないとやだ!」
嫌な予感がしたが、さくらが代わりのマグカップを掴む動作は、私より早かった。
プラスチックの乾いた音とともに、床に白い液体が広がっていく。
「何やってるの!ダメでしょ!」
「さくらのピーちゃん!さくらのピーちゃん!」
号泣するさくらをあやめが宥めるが、私の怒りは収まらない。
「もう!勝手にしなさい!」
まだパンケーキが残った二人の皿を強引に片づけると、あやめまで泣き出した。
仕方ないので、少し早いが仕事を始めた。
やがて泣き止んだあやめが、テレビリモコンを持ってやってきた。
アニメの続きが観たい、という事だろう。
怒鳴ってしまった自己嫌悪に気づかれないように、つんと澄ましてビデオの電源を入れてやった。
女性ボーカルが歌うオープニング曲が流れてきたところで、ナデシコさんからの着信が来た。
私は今しがたの出来事を、ナデシコさんに話していた。
「そんな気にしちゃダメだよ。ネットで同じもの買えないの?」
「それは買えるけど…なくなっても別のもの買えばいいやって、物を大切にしなくなったら困るわ」
「だって百円ショップで代わりを買ってたら、同じことじゃない」
まぁ、それもそうか。
それにしても、コップや皿はどこに行ってしまったのだろう。
「でもユリさんは凄いねぇ。仕事も家事もバリバリこなして、夜は絵本も読んであげてるんでしょ?」
「そんな事ないよ。絵本は、私も好きだから」
あれ、読み聞かせをしてるってナデシコさんに話したかしら?
「私なんか、ついスマホ渡して動画見せちゃうもん」
「そうなんだ。でも、昨日は失敗しちゃったんだ」
私は昨日の出来事を話した。
「そうねぇ。何を見せるかは選ばないとねぇ」
「だよねぇ。次からは、ちゃんと結末まで知ってるお話しにする」
「情操教育っていうけどさ」
一呼吸おいて、ナデシコさんは続ける。
「残酷だとか怖いだとか、子供のころから触れてたら良くないんじゃないのかな?ある程度年齢が上がって、善悪の判断がつくようになってからでも、遅くないと思うよ」
それでいくと、二人が好きなアニメもアウトという事か。
確かに、いくら好きでも、同じものばかり見せるのは良くないかもしれない。
昼ごはんの後、ひらがなの勉強をしようとしたが、珍しくあやめと口論になった。
勉強ではなく、午前中に見たアニメの続きを今見たいというのだ。
「つぎのお話し、すっごいかっこいいんだよ!」
と、いかに次の話が見どころなのかを説明されたのだが、私にはその魅力が分からない。
「あのねあやめ、お母さん前から思っていたんだけど…」
先ほどナデシコさんに言われた言葉がよみがえる。
「いくら面白くて好きなお話しなのかもしれないけど、怖くて痛いお話しは、もうちょっと大きくなってから見るものなの」
「あやめ、ぜんぜんこわくないよ!」「さくらも~」
しばらく押し問答を繰り返す。予想はしていたが、段々とイライラが募ってきた。
「とにかく!二人にはまだ早いの!」
私はビデオの電源を入れると、リモコンを操作し、「データ全消去」を選択した。
その表示に危険を察知したのか、あやめはリモコンを奪おうと飛び掛かってきた。
「お母さんやめて!」
だが、私の顔の高さにあるので届かない。
ロード画面のあと、「データを消去しました」の表示があっけなく消える。
「はい、これでナイナイ。怖いお話しは、もうちょっと大きくなってからにしましょうね」
テレビにすがりついていたあやめは、目に涙をため、明らかに怒りの表情だった。
「お母さんのバカ!」
「なっ…!どこでそんな言葉覚えたのよ!」
「お父さんだって好きだったのに、なんでけしちゃったの!?」
つられて泣き出したさくらを引っ張って、あやめは寝室に引っ込んでしまった。
自分は教育上正しい選択をしたのだ、という思いと、あやめの言葉から生まれた罪悪感で、眩暈がする。
遠くの救急車のサイレンが、それを助長する。
突っ立ってても仕方ないので、私はまたパソコンに向かった。
二人とも現れないので、今日はお昼寝もおやつもなしだ。
一心不乱にキーボードと向き合い、我に返るとちょうど5時を指したところだった。
そういえばあの子たちは?
慌てて寝室を覗くと、二人とも布団もかけずにベッドの上で眠りこけていた。
西日の差し込む部屋で眠る二人の、なんとあどけない事だろう。
喧嘩をして言い合いをしても、この顔には敵わない。
二人を起こし、夕食を食べ、お風呂に入った。
二人がテレビを見ている間に、通販サイトでピーちゃんのマグカップを再度購入し、今まで入会を渋っていた、動画配信サービスに加入した。
子供たちにそのことを説明すると、好きなアニメが見られると分かった二人は大喜びしていた。
寝る前にスマホを見せたくはなかったが、色々なアニメの予告編を流し、明日から見るものを二人に決めてもらった。
消してしまったアニメも当然見られたのだが、二人が選んだのは、女の子が魔法の力で変身する内容のものだった。
それも今放送されているアニメではなく、私が子供のころに見ていたタイトルだった。
新しいお話が見られる高揚感からか、スマホのブルーライトのせいか、二人はその夜はなかなか寝付いてくれなかった。
子ども達が眠った後、ユリは久しぶりにワインを飲みながら、内容を一応チェックしようと思い、何本か視聴した。
昔見たものだが、内容をすっかり忘れてしまっていたからだ。
物語は実に平和そのもので、明らかに子供向けだ。血も出ないし、首も飛ばない。
これなら安心だろう。
これ見ていた頃はまだ、お父さんもお母さんもいたよな。
陽気なオープニング曲を聴きながら、ユリは毎週テレビの前で踊っていた自分を思い出した。
ユリが幼稚園の最後の年に、両親は交通事故で他界した。
二人には身内がおらず、ユリは児童養護施設に入ることになった。
先生も、似たような境遇の周りの子供たちも優しくしてくれ、いじめられたり、不愉快な思いをしたことは、一度もなかった。
自分の意見や思いは置いておいて、周りが求める言動をしていれば、衝突することはない。
かなり早い段階でそれに気づいたユリは、施設でも学校でも、大きなトラブルに巻き込まれることはなかった。
高校卒業と同時に、地元の企業で働き始めた。
安月給なのは仕方なかったが、数年間だけは駅前の学習塾で、夜間のアルバイトをした。
夫の葵は、そこの講師だった。
はじめは仕事の話から。少しずつ互いの事を話すようになった。
ファミリーレストランから始まり、チェーンの居酒屋、バー、時にはホテルにも行った。
たくさんの雑談と、微笑みの果てに、二人は結婚した。
施設出身のユリは、葵の両親、特に義母によく思われていないのは、最初から分かっていた。
それでも、すぐにあやめとさくらが生まれ、義両親はとても喜んでくれた。
葵は、講師から本部付きの仕事に変わり、去年このマンションにやってきた。
この家族で、ようやく私は人並みになれる。
そう思っていたのに…。
アップテンポで陽気なオープニング曲が、空虚になった脳髄にこだましている。
ワインの瓶はいつの間にか空になっていた。
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