オリの中

望月ひなた

第1話 4月2日

 本日の予想最高気温は十八度、昨日に引き続き、過ごしやすいお天気です。

 お天気キャスターの柔らかい声が、日の差し込むリビングに響き渡る。

 にんじんをフードプロセッサーで細かく砕いていると、子供たちが眠い目をこすりながら起きてきた。

「おはようお母さん」「おはよ~」

 あやめとさくら。毎日顔を合わせているが、それでも見飽きない子供たちだ。

「二人ともおはよう。ほら、お父さんにも挨拶は?」

 促すと、二人ははっとした表情で、ロウキャビネットの上に飾られた夫の写真に「おはよう、お父さん」と挨拶をした。

 それでいい。たとえ姿が見えなくても、挨拶は大事だ。

 今朝のメニューは、野菜を混ぜ込んだ米粉のパンケーキに、アレルギー対応のウィンナー、それにホットミルクだ。

子供たちが歯を磨いている間に、二つのマグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジに入れる。

 カップに描かれた鳥のイラストが、くるくると回る。

 長女のあやめはラベンダー色のピーちゃん、次女のさくらはピンク色のピーちゃん。

 二人とも、このカップからでないと牛乳を飲まない。

 お天気の後の占いコーナーがいつの間にか終わり、番組は八時のワイドショーになっていた。

 ニュースは、ここ最近ずっと、新型ウィルスのものばかりだ。

 流行が広がりつつある状況下でも外出を自粛しない若者たち、という話題が取り上げられた。

 何て非常識な。ちゃんとニュースを見ているのだろうか?

 それから、トイレットペーパーとマスクの品薄状態が、全国的に広がっているらしい。

 うちは幸い、外出はあまりしないので、マスクはさほど必要ないが、トイレットペーパーはないと困る。

 子供たちが戻ってくる気配がしたので、慌てて朝食をテーブルに並べていく。

 できるだけステイホームで、外出時はマスクをし、人とのソーシャルディスタンスを取ってください。

 まるで祈りの言葉だ。唱えている限りは、何かから守ってもらえる気がする。

「いただきまーす!」

 パンケーキが好きな二人は、豪快に焼きたてにかぶりつく。

 長女のあやめと次女のさくら。双子なので、ぱっと見たら同じ顔だが、あやめには左目に泣きほくろがあり、さくらにはない。割と区別しやすい方だろうと思う。

「美味しい?」

「うん!美味しい!」「おいしい~」

 二人の肩越しに見える夫の写真を眺めながら、私はコーヒーをすすった。

 夫は、件のウィルスに感染して、帰らぬ人となった。

 1か月前の出来事だ。

 風邪でも引いたかなと首を傾げて仕事から帰ってきたが、すぐに熱と咳が始まり、夜中には、喘鳴が混じったひどい咳と、四十度近い熱になっていた。

 もともと身体があまり丈夫ではなく、すぐに病院にかかろうとした。

 だが市内の病院はすでに、例のウィルスの対応に追われ、病床がいっぱいだった。

 次の日の夜に、ようやく隣町の病院のICUに入れたが、その時にはもう手遅れだった。

 お通夜、葬儀、初七日は、まるで映画でも見ているように感じられ、諸々の手続きを重ねるうちに、ようやく夫がもういないのだと実感が湧いてきた。

 それぐらい、あっけなく、夫はいなくなってしまった。

 夫の不在はは悲しい。だが、泣いてばかりもいられない。

 私が今やるべきなのは、この子たちを養い、将来を考えて行動する事だ。

 ウェブライターの仕事は、家でできるのが大きなメリットだが、収入は安定しているとは言い難い。

 夫の生命保険が下りるはずだし、貯えも多少あるが、この子たちの人生は続いていくのだ。


 ワイドショーが終わった後、あやめとさくらが、アニメの続きがが観たいと言い出したので、見終わった次のエピソードを再生する。

 大正時代と思しき時代設定で、少年少女が日本刀で鬼と戦う、といった内容のアニメだ。

 そこそこ長い物語だが、二人はもう3回ぐらい通しで見ていた。

 セリフも正確に覚えていたりするので、子供の記憶力には恐れ入る。

 最初に見ていたのは、アニメ好きだった夫だけで、そのうちあやめとさくらも加わった。

 亡くなる少し前に、電話で誰かに視聴を勧めていたのを思い出す。

 今度うちで鑑賞会でもやろうと、熱心に語っていた。

 私にはアニメのことはわからないが、血が噴き出したり、首が飛んだりする描写はどうなのだろう。

 だが、女の子が変身するような平和なアニメには、子供たちは興味を示さなかった。

 それに、子供たちがテレビに食いついている間は仕事に精が出せるので、仕方ない。

 パソコンに向かっていると、不意に電話が鳴った。

 ウェブライターの仕事仲間の、ナデシコさんだ。

「おはよ。元気?」

 ナデシコさんはいつも、鈴が転がるような声で話す。聞いていて、気持ちがいい声だ。

「うん。何とかね」

「お子さんたちは?」

「今日もアニメ。好きだよねぇ」

 キーボードを叩きながら、会話は続く。

「そうだ!ナデシコさんが教えてくれたエキナセア、すごく良かったよ!」

「ほんと?」

「うんうん。濃い目に煮出したハーブティー、水代わりにどんどん飲ませたら、割と早く熱下がったよ」

 先週、あやめとさくらが揃って発熱したのだが、ウィルスの巣窟である病院にかかるのも気がひける。

 ナデシコさんに相談したら、欧米では風邪の時に飲まれているという、エキナセアを教えてくれたのだ。

「そっかぁ。お役に立てたならよかった」

「ハーブってすごいんだねぇ。草だからってバカにできないね」

「あ、草といえば…」

 ナデシコさんの声に、少し意地悪そうな色が混じる。

「義理の弟さん、相変わらず連絡よこしてくるの?」

 脳裏に、あのぶよぶよとした指の感覚が蘇る。それを笑い飛ばしながら払った。

「そうなのよ。あやめとさくらは元気ですか?とか、子供たちにかこつけてるけど、私と話したいだけなのが見え見えなのよね」

 二十代半ばであろう義弟は、植物学者を目指しているとかで、大学院にまで進み、キノコやら野草やらの研究にいそしんでいる。

 スリムだった夫とは正反対の、でっぷりした体型で、清潔感とは真逆の存在だ。

 豊かな頬肉には無精ひげが生え、脂肪に隠れて小さく見える目は、おどおどしていた。

「そこにいるだけで、他人をイライラさせる人間って、いるものなんだねぇ」

 ナデシコさんは、何だか楽しそうだ。

「だいたい、研究で忙しいのか知らないけど、自己管理もできてないってどうなのかねぇ」

「きっと毎日、ジャンクフードばっかなのよ」

「あはは。違いないね。年齢イコール彼女いない歴、とか何とか言っちゃってさ」

「植物が恋人、ってやつ?」

「わーきっしょ!」

 ナデシコさんと話すのは楽しい。仕事が進むのも、早い気がする。

 たっぷり2時間ほど話して時計を見ると、そろそろお昼だ。



 今日は、ほうれん草たっぷりの蕎麦だ。

 ほうれん草は、〇〇県産の有機ほうれん草で、蕎麦は乾麺だが、もちろん十割だ。

 冷凍野菜は農薬まみれで恐ろしいし、小麦粉は体に毒だからだ。

 ステイホームの影響で、ホットケーキミックスやらパスタやら、小麦粉製品も品薄状態だとテレビで言っていたが、そもそも我が家で小麦製品はほとんど食べない。

 二人ともフォークを器用に使いながら、食べきった。

 最近野菜が多めなせいか、二人とも下痢気味だが、これがきっと「好転反応」なのだろう。

 体調がよくなる前には、溜まった毒素が排出される過程で、体調が一時的に悪くなる事があると、ナデシコさんが話していた。

 インターネットには嘘の情報も多いので、正しい知識を教えてもらえて、大助かりだ。

 ランチの後は、一時間は子供たちの勉強時間に充てる。

 ひらがなやカタカナ、身の回りのものの名前、簡単な計算や時計の見方などを教えている。

 二人とも本来なら、今月から幼稚園なのだが、抽選に落ちてしまったため、待機児童というわけだ。

 入れないのは困るが、こうして自分で教えられるのは、子供たちとのコミュニケーションになるし、何より、子供たちの成長を見られるのはうれしい。

 できたら褒め、間違いは優しく指摘する。

 当たり前のはずだが、幼稚園や保育園では虐待が行われていて、たまにそれが内部告発で発覚したりする。

 全く、恐ろしい世の中だ。

 二人が昼寝をしている間に、おやつの野菜蒸しパンを作る。

 材料は米粉とオリーブオイル、それから黒糖だ。白砂糖よりミネラル分が多いので、少量でも十分美味しい。

 すると、またスマホに着信が入る。今日は電話が多いな。

 表示された名称に、「うえ」と思わず声が漏れる。

 さっき噂をしてしまったからだろか。

 連絡を何日も既読無視していたせいだろう。義両親に何か言われても面倒なので、仕方がないので出た。

「あ…ユリさん」

「お久しぶりね、レンさん」

 あのキモオタデブな外見で、名前は涼やかな響きの「レン」なのだから、ちぐはぐな感じがする。

「そ、そうですね。兄貴の葬儀の時以来ですね」

「その節はどうも。子供たちの相手をしてくれて、助かったわ」

 わざと間をもたせてゆっくりと話す。次に何を言おうか、考える時間を与えてあげないと、どもってしまい会話が続かないからだ。

「その…ユリさんは、大丈夫ですか?」

「何が?」

「その、体調…とか…」

 あぁ、気持ち悪い。

 このねっとりした声が鼓膜を震わせるたび、耳からキノコが生えてしまいそうだ。

「私は大丈夫よ。どうもありがとう」

 そのあとは適当に二言三言交わし、電話を切った。

 消毒用アルコールを含ませたティッシュで、耳の穴を念入りに拭いた。

 清涼感で、幾分か気分がましになる。

 一度だけ、夫があの義弟をこの家に呼んだことがあった。彼が成人した時だった。

 3人で飲んだが、義弟はビール1杯でぐでんぐでんになってしまい、会は早々にお開きとなった。

 夫がタクシーを呼んでいる間、私はテーブルで寝てしまった義弟を起こしていた。

 その時だった。

 ぼんやり私を見ていた義弟が、急に私の手を握ってきたのだ。

 分厚い手のひらはしっとり濡れていて、反射的に鳥肌が立つ。

 突然のことで固まっていると、あの小動物のような目をとろんとさせ、じっと私を見つめてくる。

 それは、異性を、異性として認識している目だ。直観的にそう感じた。

 戻ってきた夫は、それまで見たことのない剣幕で、義弟を怒鳴りつけた。

 我に返った義弟も、床に倒れそうな勢いで謝罪してきたので、私は殴りかかりそうな勢いの夫を、必死になだめた。

 それ以来、義弟とは会っていなかった。夫も会わせたくなかったのだろう。

 嫌な記憶だ。さっさと忘れよう。

 家事に没頭しているうちに、感覚が日常に戻っていく。

 夜は、二人の好きなオムライスにした。

 急に、あやめがスプーンを置いた。

「お母さん、このにんじん固いよ?」

「そう?」

「ブロッコリーも、がりがりする」

 二人が口をとがらせるので食べてみたが、別段異常はない。

「二人とももう赤ちゃんじゃないんだから。噛んで食べなさいね」

 高価なオーガニックのブロッコリーとにんじんなのだ。ちゃんと子供たちの身になってもらわないと困る。

 夕食後は子供たちとお風呂に入り、少しだけテレビを一緒に見た。

「さぁ、今日はどれにする?」

 寝る前は一番のお楽しみ。絵本の読み聞かせタイムだ。

 あやめは、昨日通販で届いたばかりの絵本を指さした。

「あたらしいやつがいい!」

「さくらも~」

「はいはい。『しあわせの王子』ね」

 タイトルは聞き覚えがあるが、どんな話だったかしら?

 ある街に建てられた、立派な王子の像。目にはサファイア、剣の柄にはルビーがはめられ、全身は金箔でおおわれていた。

 像に宿った王子の魂は、町の人々が生活に困窮している事を知り、胸を痛めた。

 そこで、友達になったつばめに頼み、自分の身体をパーツを少しずつ、貧しい人々に届けてもらった。

 やがて冬が訪れる。

 王子の像は、金箔がはがれてみすぼらしくなり、海を渡り損ねてしまったつばめは、最後の力を振り絞って王子の肩まで飛び、その頬にキスをした。

 つばめはそのまま凍死してしまう。

 その瞬間、王子の鉛の心臓は、真っ二つに割れてしまった。

 王子の像を見た町の人々は、こんなみすぼらしいものは町の景観を悪くすると言って、像を撤去してしまう。

 王子の像は、別の像を作る材料にされ、溶鉱炉に投げ込まれてしまった。

 見開きいっぱいに描かれた、赤い炎のイラストを見た瞬間、胃がギュッと締め上げられる感覚が襲った。

 背中に悪寒が広がる。

 今にも吐きそうだったが、あと2ページで終わるところだったので、どうにか我慢して読み上げた。

 少し難しかったのか、子供たちはすぐに寝付いてくれた。

 小走りにトイレにかけこむと、便器に溜まっている水のにおいを嗅いだだけで、胃の中身が逆流した。

 オーガニックブロッコリーとにんじんは、私の身体の材料になれず、胃液とともに流されてしまった。

 ごめんね。ちゃんと消化してあげられなくて。

 無性に涙が止まらなかった。

 私の脳裏に、あの日の光景が映し出される。

 夫の遺体は、葬儀屋ではなく、防護服にゴム手袋の搬出業者が、汚染物資でも扱うかのように、透明なビニール袋に包んでいった。

 悲しむ時間は与えません、と言わんばかりの手早さだった。

 棺には、空気が漏れないよう目張りがされているからと、火葬場での最後に顔を見る事もできなかった。

 分厚い炉の扉の向こうで、夫は骨と灰になった。ウィルスが浄化され、きれいになって旅立てたのだろう。

 見事な桜が咲いた火葬場の庭園を眺めながら、その様を想像した。

 あの炎の中で生きられるウィルスなどいないだろうに、骨壺もしっかりビニールで密閉されている。

 時間の感覚さえも希薄だったが、公園の桜も完全に散ってしまった頃に、ようやく私は泣くことができた。

 子供たちは、父親が死んだことをきちんと理解できているのだろうか。


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