斎藤かおる殺人事件

上雲楽

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 斎藤かおるは自殺未遂に失敗して亡霊として存在する。だからこれは斎藤の意志そのものと思って貰って差し支えないが、斎藤の死にまつわる5W1Hを開示することにも秘匿することにも関心はない。どちらの需要も満たすには斎藤の身辺にまつわる情報を散りばめて状況を推理してもらうのが手っ取り早いが八方美人かもしれない。斎藤は亡霊だから足がなく、足跡がつかないので現時点でどこにいるのかはわからないがいつも声が聞こえるので後ろにいるらしい。恥ずかしがり屋なのは斎藤に限らず、斎藤の死を招いた人物も隠れている。斎藤は自殺未遂に失敗しただけだと主張するが、これは殺人事件だった。だから警察が捜査し、検察が検挙し、裁判所が判決を下した。その記録を見せてくれたら手間が省けるかもしれないが、それには何も書かれていない。知る限りそんな裁判は行われていない。裁判の捏造を疑う必要はないが、裁判所の存在が捏造された可能性は検討に値する。真理の場に亡霊は存在しないので、斎藤はいなかった。何人かの男と女とそれ以外の人間と盲導犬が斎藤の死について議論した。盲導犬は吠えなかったからその場にいてもいなくても変わらなかったが斎藤は盲導犬しか見ていなかった。犬好きだから。犬は斎藤を見ていたが、視線の方向は犬の正面なので斎藤を見ることができないはずだった。鏡が犬の背後を映し出したが、裁判所に鏡があるのだろうか?寡聞にして知らないので教えて下さい。

「知らない」

らしいので保留する。斎藤の殺害現場、

「自殺」

自殺現場について写真を見たことがある。夕日とオーブに照らされ何も見えなかった。オーブを亡霊の証拠とするのはナンセンスだが、これは秘匿への意志がもたらしたものだった。いや、秘匿するつもりはない。部屋は六畳一間で首を吊ったのはトイレのドアノブにネクタイを引っ掛けて。上記の情報は改ざんされていて、殺害現場にネクタイはなかった。部屋内の指紋はすべて拭き取られていて、斎藤の指はすべて焼かれて指紋を消されていた。PCやスマートフォンはすべて初期化されていた。鑑識は復元に成功したが、そこにはなにもなかった。なにもないというのは正しくなくて初期アプリ以外にインストールされていなかったということだ。言い間違いというか、言葉の綾というか、なるべく正確に斎藤の言葉を伝えたいのだが、斎藤はうるさいから聞き取れない。冷蔵庫の中は空で胃袋にもなにも入っていなかった。排泄物を垂れ流すこともほとんどなかった。斎藤は排泄物が嫌で亡霊として食物を摂取しないことに安堵を覚えた。

 死体を発見したのは宅配ピザの配達員だった。部屋の鍵は閉まっていたので配達員はピッキングしてピザを届けた。部屋の内側は窓が閉まっていたし密室だった。だからピザの配達員は被疑者として起訴された。届けられたマルゲリータは誰も食べず冷えた。

 便宜上、斎藤かおると呼ばれるその死体は部屋のある土地の登記者の名前だった。部屋の中に保険証や運転免許証のような名前を確認できるものはなかった。その土地はずっと前に時効取得されたもので、斎藤かおるが生きているならその年齢は人間ではありえない。だから斎藤は亡霊だと結論付けたわけだが、本人が言うには亡霊ではなく生きているらしい。だから自殺未遂の失敗にも失敗しているし、殺人事件も起きていないという主張だが、現に目の前に死体がある以上それは無視できない。直接死体を見たわけではないが。もたらされた情報はすべて斎藤が述べたことだ。だからそれはすべて正しく真実であるが、裁判という空間においては違うらしい。その裁判で何人か死刑になった。斎藤の死は政治的なデモンストレーションのために必要なオブジェクトとして要請されたと裁判所は結論付けて、主犯と目されるテログループは解体された。同様の理由でいくつかの死体が斎藤と関連付けられて、現代社会が孕んだプリミティブな残滓であるとされた。その意見に賛同したのは斎藤を含む十二の死体を除いたすべての人間だった。すべてというのは比喩ではなく、斎藤を含めた十二の死体はあらゆる人類の夢枕に立ち、自らの死を語った。自殺への欲望は生命と活力に満ちあふれている。意志の伝搬の生存戦略として自殺という方策が採られただけであり、テログループの意味づけした理由はすべて虚構である。斎藤の姿を誰も見なかったので、その存在は誰もが確信したが、斎藤の意志はうまく伝わらなかった。どうやら人類にとって斎藤の存在は亡霊として出現するためにあったらしいと解釈された。その解釈に加担しているのがこれ自身でもあるのだが、斎藤はそれを否定するために裁判を望んだ。その結果が死刑だったので失望した。テログループの人員の死体は寿命死を迎えたものは少ない。少しあとで死刑を宣告されなかった人たちは自殺した。死刑は滞りなく行われたが、いつか起きる遠い未来で死刑制度を廃止するためにテログループによる殺人は行われたのだが、斎藤は死んでいないので、制度は存続し、生存への欲望は制度的な死をもたらして歓喜の叫び声がいくつか聞こえた。

 斎藤の死によって引き起こされた事態は当然他にもいくつかある。七味唐辛子の値段は三割上がったし、寿司屋のタップダンスがバズったし、孤島に住む三歳の少女が乾電池を誤飲した。知らないことは知らないと白状するのが美徳だと考えるので述べておくが、斎藤の死体が及ぼした現象は枚挙に暇がなく、すべてを伝えることは困難だと思われたが、どこかの街角で斎藤かおるが背筋を張って、顎を突き出し、汗を垂らして歩いている様子を斎藤かおるが目撃したのでその必要はなくなった。だから整理して斎藤の死体が置かれた状況に専念することができる。

 すべての死体は焼かれた。斎藤は亡霊だから死体の数は0以上1未満であるとする。その間にあるすべての実数が自然数と一対一関係を持つとする。その実数を網羅したリストを考え、その対角線上に並んだ実数をずらしてみる。するとその実数は存在しないので、リストよりも実数は多く存在することがわかる。存在する死体以上の死体が存在することがわかる。その過剰な死体は斎藤含めて十二個あった。すべての死体には死因がある。テログループはそれを信じていたので、死因のわからない死体を存在させるわけにはいかなかった。これを述べればハウダニットは解決するので、もう終わりにしてもいいのかもしれないが、斎藤にとっての論点は違うらしい。フーダニット、テログループの構成要員の名前を列挙することは容易である。死体の数に比べれば0に近しい。実際、そのようなテログループは存在しなかったので、死刑の結果として、死体の順序数は変化したのかもしれないが濃度は変わらない。斎藤の死が斎藤によって問題提起される一方で、テログループは誰からも忘れられた。唯一斎藤かおるだけがその顔と名前と匂いを知っている。だが斎藤は失われてしまった。後ろで語りかけてくるのはもはや斎藤ではないと思うのだが、それは斎藤にとっては斎藤だった。斎藤は自らに刑を与える必要があった。斎藤かおるに課せられたルールは一つだけだ。その名を語るなかれ。斎藤はあらゆる人類との接触を避けて生存した。斎藤の遺伝的父親と遺伝的母親は存在せず、気がつくと斎藤の死体があった。その死体に絡みついたネクタイがへその緒を象っていると述べたタブロイド紙には失笑を隠せない。

 犬の話をするのを忘れていた。裁判所で見ていた犬は斎藤が見ていたものだから実在するのだが、吠えないように躾けられていて、斎藤かおるが存在するためのルールに殉じてくれた。感謝です。

 あらゆる人間が斎藤かおるの名前を口にした。斎藤かおるの死体はすべての人間が鑑賞し、その死体があった部屋に誰もが入ってきて散らかし、うずくまり、出ていった。これは比喩表現ではない。斎藤かおるの述べたことに虚偽も比喩も存在しない。比喩が可能になるのは肉体を持つからだ。亡霊に比喩は存在しえない。斎藤かおるが何者か尋ねると、

「アイムおばけ」

と聞こえた。じゃあそうらしい。テログループに何者か尋ねた人間は、知る限り斎藤かおるしか知らない。ピザの配達員が犯人とされたのは、斎藤かおるの名前を呼びかけたからだ。その運ばれたピザは誰も食べていないからまだここにある。斎藤は頑なに食べたがらないし、必要もない。

 斎藤かおるを知っている人間は誰もいなかったが、その名はいくつかの場面で呼ばれた。斎藤は病院に行ったことがなかったから呼ばれたし、学校に行ったことがなかったから呼ばれたし、刑務所に行ったことがなかったから呼ばれた。斎藤かおるはテログループの一員でもあったから死刑になるべきだったが、テログループの一員だと認識しているのは斎藤かおるを含めた構成員の中に一人もいなかった。

 その他にも知りたいことがあれば斎藤かおるの名前を呼んでほしい。後ろから声が聞こえたらそれは斎藤のものだから積極的に話しかけてほしい。人見知りの恥ずかしがり屋だから相手の反応を待っているんだ。だから斎藤は自殺ではないと確信している。自分が自分に反応することは鏡でもなければ不可能だ。裁判所にきっと鏡はないから斎藤かおるの姿も声もどこにも届かない。犬だけが斎藤の名を口にしなかった。

 しかし、これはあとで知ったことだったが、裁判所の職員のバッジは八咫の鏡を形どっていた。その反射の内側か外側のどちらかに斎藤かおるはいる。

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