La Mer

藤野 悠人

La Mer

 二人暮らしのアパートで、僕はベッドに座って本を読んでいた。黙読ではなく、音読で。いや、より正確には、朗読に近いかも知れない。僕と斜向はすむかいになるように置かれた椅子には、恋人の渚紗なぎさが腰かけ、僕の声に耳を傾けていた。


 彼女は、僕が朗読するのを好んでいた。その要望に応えて、僕もしょっちゅうこうして朗読をしている。レッスンを受けたこともなく、公の場で活動したこともない、素人の本読みだけれど、彼女はいつも聴いてくれた。


 いま読んでいるのは、ヘミングウェイの『老人と海』。発行は新潮文庫。表紙には、海の上でボートに乗った老人と、夕焼けを反射して赤く染まった雲が、油彩画調のタッチで描かれている。ページ数はそれほど多くないけれど、黙読するのと、朗読をするのとでは、本を読む時間は随分と変わる。これは、彼女に聴かせるために朗読を始めてから気付いたことだった。


 喉が渇いてきた。僕は咳払いをひとつして、ベッド脇のテーブルに置いてある水のボトルに手を伸ばした。


 そのとき、渚紗が思いついたように口を開いた。


「ねぇ、悟志さとし。海に行ってみたくない?」


 僕は思わず顔をしかめてしまった。


「僕が海を嫌いなの知ってるよね?」


 僕は海が苦手だ。どこまでも広がる深い青を見ていると、どうしても不安な気持ちになる。それはきっと、十代半ばに経験した、あの大震災の影響もあると思う。


「うん。でも行ってみたい」


 渚紗は屈託なくそう言った。僕は思わず不機嫌な声を出してしまった。


「それなら、僕に同意を求めるような訊き方をするのはおかしいよね。渚紗が行きたい、と言うべきだよ」


 そう返すと、渚紗は不機嫌そうな表情を浮かべた。


「もう、ちょっと聞いてみただけじゃん。悟志って、変な所で細かいんだから」

「本当のことを言っただけだよ」


 まったく、女という生き物は、どうして言葉をいい加減に扱うのだろうか。そして、それを訂正しただけで、どうしてこうも不機嫌になるんだろうか。まったくもって理解不能だ。


「とにかく、私は海に行ってみたいの。できれば今週中に」

「そんなに急がなくてもいいじゃないか。それに、今週はまだ人が多いだろうし」


 僕は壁にかかったカレンダーに目をやった。


「もう8月も終わりだけど、たぶん最後の最後で海に来る人も大勢いると思うし」

「ううん、昼間じゃなくって、朝がいい。太陽が出てくる時間がいいの」


 渚紗のその言葉に、僕は思わず言葉に詰まった。渚紗の顔を、まじまじと見つめてしまう。


「……日の出の海がいいの?」

「うん。日曜日の朝とかなら、私も悟志も仕事は休みだし、行けるでしょ。だめ?」

「だめ、じゃないけど」


 僕は言葉が続かなかった。どう答えようか、としばらく悩んだ。けれど、こういう渚紗の突発的なワガママを聞いた時、だいたい答えは決まっている。


「……分かった。じゃあ、今週の日曜日、行こうか」

「えへへ、ありがとう」


 僕の返事を聞いて、渚紗は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑顔を浮かべた。


 僕たちの住んでいる地域から海まで、それなりに距離がある。地図アプリで調べると、所要時間は車で2時間。日曜日の日の出時刻は、5時16分。余裕を持って、夜の2時半に出れば間に合うだろう。僕が立てた予定を渚紗に伝えると、


「んー、頑張って早起きするね」


と言っていた。


 土曜日の夕方、僕たちは明け方に出発するために、かなり早めの寝支度をしていた。普段、夜更かし気味の渚紗は、少し不満そうだった。


「ぜんぜんまだ眠くないんだけどな」

「明日は2時半に出るんだから、寝た方がいいよ。もう7時だ」

「えっ、もうそんな時間?」


 渚紗は驚いて声を上げる。普段の彼女の時間の感覚に比べて、随分と早く感じるんだろう。


「うん。横になるだけでも、寝ないよりましだよ」

「分かった」


 そう言って僕たちはベッドに入り、電気を消した。


 渚紗は眠くないと言っていたけれど、10分も経つと静かな寝息が聴こえてきた。逆に僕はすぐには寝付けず、小さく寝返りばかりを打っている間に、気付けば意識がなくなっていた。


 普段と違う時間に寝たせいか、眠っている間も意識があるような、奇妙に間延びした闇が、僕の中で満ちている気がした。それを自覚した瞬間、けたたましいスマートフォンのアラームが鳴り響き、僕たちは叩き起こされた。


 一度目が覚めてしまえば、僕はすぐに動き回れる。しかし、寝起きが弱い渚紗は、ベッドの上で身を起こしたまま、まだうつらうつらと舟を漕いでいた。


「ほら渚紗、頑張って。車の中で寝てもいいから」


 渚紗は、うー、とか、むー、とか、言葉にならない声で返事をしながら、顔を洗い、着替えていた。


 予定通りに車に乗って、僕たちは出発した。この時間帯、道路はどこも空いていて、信号待ち以外ではスムーズに車は進んだ。いつもは車を通せんぼする真夜中の踏切も、今は両手を上げたまま静かに佇んでいた。


「悟志、音楽かけていい?」

「うん、いいよ」


 渚紗はポケットからスマートフォンを取り出すと、音声アシスタントアプリを起動した。まだ眠気があるのか、少し間延びした声だ。


「BUMP OF CHICKENを流して」


 彼女の要望に応えて、ワイヤレスで接続されたオーディオが音楽を流し始めた。


「うわ、すごい懐かしい曲になった」

「そうだね」


 渚紗の声に、僕も苦笑しつつ応えた。流れ始めたのは、彼らのメジャーデビュー最初のアルバム『jupiter』に収録されている『メロディーフラッグ』だった。


 BUMP OF CHICKENが歌い続ける車の中、渚紗がときどき歌詞を口ずさむ声以外、僕たちはずっと無言だった。ミックスに設定されているプレイリストは、発表時期も収録アルバムもバラバラな曲たちを歌い続けていた。


 二曲目は『ファイター』。その次は『アカシア』。『Flare』、『ロストマン』、『K』、『記念撮影』、『宇宙飛行士への手紙』、『pinkie』、『宝石になった日』……。


 空がだんだんと白み始めていた。真っ黒だった夜空は、徐々に青味を帯びてきて、遠くの雲もうっすらと色づいている。日の出まで30分ほど前に、僕たちは海に到着した。


 運転席から出る。晴れた空には、まだわずかに星が煌めいている。その真ん中で、月が静かに浮かんでいた。防波堤の向こう側から、波の音が聴こえてきた。


 僕は助手席の方に回って、降りてきた渚紗と手を繋いだ。


「砂でつまずくかもしれないから」

「もう、心配しすぎ」


 渚紗はからかうように笑ったけれど、掴んだ僕の手を離すことはしなかった。


「ここ、階段になってる。えーと……8段だね」


 渚紗と横に並んで、ゆっくりと階段を昇った。僕の左側で、はっきりとした渚紗の体温を感じた。昇り切ると、そこはもう砂浜だった。渚紗に声を掛けながら、僕たちはゆっくりと砂浜を歩いた。


「わぁ、砂の感触、久しぶり」


 渚紗はそう言って笑った。


 波の音が、僕たちを包んでいた。風はたまに吹くけれど、そんなに寒くもない。


「ねぇ、悟志、海はどんな感じ?」

「んー、まだ暗いよ」

「どんな暗さ?」


 僕は、夜明けが近付いて色を取り戻し始めた海を、注意深く観察した。


「真っ黒ってほどじゃないな……、でも、青色でもないし……、すごく深い藍色って感じかな。でも、まだまだ色が付く時間じゃないみたい」

「そっか、まだまだ暗いんだね」


 渚紗はそう言って、今度は顔を上へ向けた。


「空はどんな感じ?」


 僕は少しだけ胸が締め付けられた。渚紗と一緒に空を見た。


「空は、もうだいぶ明るいよ。太陽が出てきている方角は結構白い。いや、すっごく薄い青だ。太陽は金色。反対側もだいぶ明るくって、群青色だ。星は全然見えないけど、まだ月が出てる。空は継ぎ目がなくて、グラデーションになってる」


 僕は渚紗を太陽が出始めている方向へ向けてやった。いま、僕たちはふたりで、太陽が出てくる方を見ていた。


 渚紗は目が見えない。十代の頃に事故にあって、視力を失ってしまった。彼女は色を知っているけれど、もうその色を見ることができない。だから、僕はひとつひとつの景色を、その中の色を、彼女に伝えた。朗読も、本好きだった彼女のために始めたことだった。


 右手で僕の腕を掴み、反対側の左手に、いまも彼女は白い杖を持っている。


「おぉ、潮の匂いも久しぶり」


 渚紗は嬉しそうにそう言って、鼻をすんすんと動かした。


「でも、やっぱりちょっと生臭いや」


 渚紗が感じられる世界は、肌に触れるもの、匂い、音、そして味だけだ。彼女の瞳は、もうずっと前に色を忘れてしまった。


「あ、渚紗、日が昇ってきたよ」


 海から昇ってきた新鮮な太陽が、一気に世界を照らす。僕は思わず目を覆った。


「わぁ、あったかい」


 隣で、渚紗が嬉しそうにそう言った。そして、ぽつりと呟く。


「悟志、ありがとうね」

「え?」

「私が海に来たら、色とか景色とか見えなくて、やっぱり辛くなるかもって思って、返事するとき渋ったでしょ?」

「あー、バレてた?」

「バレるよ。悟志、分かりやすいもん」


 夜明けの海の中、金色の朝日に照らされた渚紗が、にっこりと笑った。


「でも、もう大丈夫。それに、私が見えなくたって、悟志が教えてくれるでしょ? いつも本を読んでくれるみたいに」

「……うん、もちろん」


 渚紗の肩を抱き寄せた。ぼんやりとした朝日の暖かさが、僕たちを包んでいた。


 鮮やかな青を帯びた空で、夜明けの月が、僕たちを静かに見つめていた。

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