第4話 愛の讃歌

 「作戦終了、18:26!撤収します!」


 春陽の掛け声で、隊員達が、がやがやと撤収準備についた。装備をパッキングし、支社からの引き取り担当に任せる。確認作業が済んだら、いったんホテルへ。明朝早くに帰国の便に乗るのだ。


 「コマンダー、被害状況ですが。第3分隊の大道と第2分隊のガーフィールドの2名が軽傷。以上です」


 副官の折口が報告してきた。


 「そう。ありがとう。…2人とも、具合はどう?すぐに病院に行かなくていいかしら」


 「いや…捻挫なんで。応急手当で十分です」


 春陽に問われて、大道が気恥ずかしそうにぽりぽりと顔を掻く。戦傷というよりも、自分で足を踏み外して捻ったのだ。


 「私も、小さい火傷なので…」


 ガーフィールドがそっと患部のガーゼを押さえた。


 「軽傷ですんで良かったわ。お大事にね」


 春陽の花のような笑顔に、2人は、ほぅと見惚れる。これだけで幾分か傷が治りそうだ。

 

 「大道ィ、メシ行くぞ!」


 「エレナ、早く着替えてショッピングいこ!」


 それぞれの友人に呼ばれて、2人の負傷兵が会釈とともに去っていった。その姿を見送って春陽もホテルに向かう。明日には、芭蕉さんに会える。思わず笑顔がこぼれるのを抑えられなかった。


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 「宇津木、ブリーフィング用の資料作成を頼む。ピックアップしたリストはこれだ。この他、お前が必要だと思うものを付け加えていい」


 お昼休みの5分前。宇津木のデスクに、ぽんとクリアファイルに入った紙が置かれた。紙一枚もきっちりクリアファイルに挟むのが、黒島である。


 「おう。そんでダイジェスト版も作るんだよな」


 目を上げると、黒島はもうトートバッグを肩にかけていた。


 「ん?昼飯、どっか出るのか?」

 

 珍しいこともあるもんだと、宇津木がからかうような声を掛ける。


 「いや、午後から年休を取った。寺岡を空港に迎えに行く」


 ああダメだ、こりゃ。もうどうにも止まらない。宇津木にまで艶やかな微笑みを投げて結婚指輪に口づける黒島を見て、宇津木は午後の相談は諦めた。ブリーフィング前に、今回の作戦でちょっと引っかかるところを話し合ってみようと思っていたのだが、まぁ、明日でもいいだろう。

 12時になった瞬間にオフィスを出て行く黒島を見送ると、森井がキャスター付きの椅子を滑らせて宇津木の横に来た。


 「黒島さん、要するにド助平なんすよね」


 「あ~、うん、知ってる…」


 第3情報解析班班長の妻大好き癖は、情報部門内では共通認識のようだった。




 黒島は、春陽お気に入りのマンダリン・ラウンジのチョコアソートボックスを買うと、そのまま空港へ向かった。本当は一旦家に寄って冷蔵庫に置きたかったのだが、飛び込み事故で電車が遅れて、家に寄る暇はなくなってしまった。


 空港の到着口から、T部隊の連中がぞろぞろと出てくる。


 「コマンダー、お先、失礼します!」


 「ええ、お家まで気をつけてね」


 陽に透けて明るく揺れるポニーテール。華やかな色合いにエレガントなボディラインを映し出すワンピース。春陽は、大勢の旅客が溢れる中でも一目でわかるほどの輝きを放っていた。


 「春陽、荷物をこちらへ」


 「芭蕉さんっ!!」


 到着客を待つ人々の群れから一歩進み出した黒島に、春陽が抱きつく。


 「無事に還ってきてくれて嬉しいよ。…ほら、がんばったご褒美だ」


 黒島の筋張った指が、マンダリン・ラウンジの細長いチョコレートを1つ剥いて、春陽の花びらのような唇に挿し入れた。それを素直に口に含んだ春陽が、引き抜かれる指まで名残惜しそうにねぶる。


 「んっ…美味しいわ」


 「そうか…良かった」


 黒島が春陽の唇に口づけて、口中に舌を挿し込んだ。


 「…ミント味だったんだな」


 口移しに味見をする。甘いものがそれほど好きではない黒島には、これぐらいがちょうど良いのだ。とろりと夫に微笑む寺岡コマンダーに、副官の折口が声を掛ける。


 「コマンダー!…俺はこれで」


 コマンダー夫妻のラブラブっぷりは部門内でも知れ渡っているが、部下の前でこんなにだらしない女の顔を見せては、いくら何でもコマンダーとしての威厳に関わるのではないか。夫も、元戦闘部門スタッフなら指揮の都合に配慮があってもよさそうなものなのに、と折口は常々思っている。


 「ええ、気をつけてね」


 振り向いた寺岡コマンダーの笑顔は、匂い立つように上気してことのほか美しく、官能的でさえあった。元毒蛇が殺気ダダ漏れでジットリ睨み付けていなければ、理性崩壊、吸い寄せられるように口づけてしまいそうだ。極度の幸福感と恐怖感を同時に与えられて、自律神経が焼き切れそうな折口がフラフラと帰途につく。市街地ヘ向かうモノレールの改札前でもう一度振り返ると、コマンダー夫妻は長い長いキスを堪能中だった。




 カチャリと書斎のデスクにコーヒーカップが置かれた。それと、バスケットに盛られたチョコレートの山。


 「うふ!ありがとう!ちゃっちゃと片付けちゃうね!」


 春陽が、むん!と拳をつくってみせる。


 「ゆっくりでいいよ。夕飯の準備、これからだから」


 「じゃあ、早く片付けて手伝うわ!」


 はりきった様子の春陽の額に、そっとキスをして、黒島は書斎のドアを閉めた。正直、手伝いは、ちょっと勘弁してほしい。春陽がキッチンや洗濯機の前に立つとなぜか大惨事になるのだ。彼女が報告書を作成しているうちに夕飯を仕上げてしまった方がいいだろう。 

 朝から漬け込んでおいたチキンをオーブンに入れ、サラダの用意を始める。スープは保温鍋に仕込んでおいたから、残る作業は味付けだけだ。そこまで作れば、あとは常備菜を2品ほど並べるだけでいい。退役後、後方支援に回って手取りがガタッと減った分、不経済な外食を減らして、春陽の安らげる家庭を作ろうと決めて2年。一気に5人前は平らげる彼女の食事を用意するのにもだいぶ慣れた。ちょっとした定食屋なら開けるのではないか、と思う。芭蕉さんのご飯はやっぱり美味しいわね!と満面の笑みでローストチキンを頬張る春陽を眺めながら、黒島は満ち足りた気持ちで酒を啜った。


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 「それでは、とうとうやってきました!今月の地区売り上げナンバーワンは…!!」


 ステージでは、ちょっと知れたテレビ芸人が声を張り上げ、ドラムロールが鳴り響いている。そわそわと壇上でスポットライトを待つ男女が数人。それを憐れむような目で見やると、まだ頬にあどけなさの残る青年は、ホールから廊下に出た。「関係者専用」の札を押しやって、楽屋へ向かう。


 コツコツとドアをノックすると、中では、きゃぁーっと歓声が上がった。頬を紅潮させた女が勢いよくドアを開く。


 「犬山さん、いる?」


 期待違いだったのだろう。青年の昏い瞳に射すくめられて、女は凍り付いたような喉から声を絞り出した。


 「あのっ…今、ホールのディレクターの方と打ち合わせって…」


 「場所は」


 「ぶ…舞台袖っ、か…な…」


 「君ら、かしましいのは役割だけどさ」


 青年は、ふーっとため息をついた。


 「本来、自分が何だったか忘れないでよね。――連絡は正確に。作戦の基本だ」


 ぴしゃりと告げて舞台袖へと向かった。敵の方針が見えてきたら、次は人材の調達だ。早い方がいいだろう。


=========================


 バスタブの湯がちゃぷりと割れ、春陽の白い膝が水面に現れた。それに、黒島の手が愛おしそうに湯をかける。バスタブで足を伸ばし、春陽がうっとりと黒島に身を預ける。


 「今回の作戦地はローマだったか。どこか観光はできたか?」


 黒島の手が春陽の太腿を撫で回す。


 「若いコは元気よ。撤収したらすぐホテルで着替えてショッピングに出てたけど…。私はシャワー浴びてホテルの部屋でぼんやりしてたわ」


 春陽がぺろりと舌を出した。今時、25歳でそれほどトシなんてこともないのだろうが、小隊の命を預かるコマンダーなんて仕事をしていれば内面が成熟するのは早くなるのかもしれない。


 「それでいい…。イタリア男の徘徊する中を、君一人では歩かせられない」


 春陽の豊満な肌を味わいながら、首筋にキスをする。確かに出会った20歳の頃に比べれば少女っぽさが抜け、ゴージャスなドレスのよく似合う成熟した体つきになってきた。恋に余念のないイタリア男が見れば、放っておかないだろう。


 「ふふっ!折口君も同じことを言ってね。“食事に出るのならご一緒します”って」


 「…は?」


 副官のあの男か。いつも何か言いたそうな目で見ている、いけ好かない奴だ。たかが副官の身で春陽のエスコートを申し出るとは身の程知らずな。


 「それで?」


 黒島の声が一段低くなる。


 「…あ…っ」


 春陽が期待に身体を捩らせる。しかし、いつもなら優しく口付けてくれるはずの唇は与えられなかった。


 「ふ…えぇ…?芭蕉さん…?」


 「行ったのか、食事に」


 僅かに苛立ちを秘めた声が背後から降り注ぐ。


 「…お食事は…しなきゃ…」


 「ルーム・サービスだってあるだろう」


 「んっ…ルーム・サービスは不味かった…って、折口君がァ…」


 若造め、完全にデートに誘い出しているじゃないか!春陽が食欲に弱いのを知ってのことか!?


 洋風料理の好きな春陽が、花びらの唇を開いて嬉しそうに肉を頬張る顔。うっとりと咀嚼し、飲み下して…。イタリア料理なら、唇についた濃厚なソースまで味わおうと可憐な舌がチロリと顔を出したに違いない。自分が見られなかった官能的な食事姿を折口は見ていたのだと思うと、黒島の中に昏い焔が燃え上がった。


 「…君は、いささか無防備すぎるな」


 抱え込んだ尻ごと、黒島はザブリと立ち上がった。バランスを崩した春陽が慌てて壁に手をつく。


 「あ…やぁっ、危なくないよォ!副官だもんっ!イタリア語もできるし…っ!!」


 財布をふんだくられるとかタクシーにふっかけられるとか、そういう話をしているのではない。激しく猛る感情を抑え込んだ低音が、春陽の耳に流し込まれる。


 「あの男は、今年度からだな…。前はどこの部隊だ」


 「…うちの…隊が初めてで…っ、いろいろ教えてあげないといけないからァ…っ」


 「いろいろ…ね」


 黒島自身も春陽に「いろいろ」教えてあげたことを思うと、とても穏やかではいられない。


 「なぜ嘘を吐くのかな。初めての配属で副官?」


 フッと春陽の耳に吐息が吹きかけられる。


 「ひ…あっ…」


 春陽の背筋がしなった。


 「あの…士官コースを出て…」


 そういえば、4年前から訓練校に士官コースが設けられたんだった、と黒島は思い出した。以前は、戦闘部門に配属されるスタッフは皆同一の訓練を受けて、一介の兵士として配属され叩き上げで昇任していったのだが、社の方針として専門分化をはかることにしたのらしい。一般の兵士と同じように2年間の課程で戦闘訓練を受けた後、海外支社の士官コースに交換留学生として派遣されて2年学ぶ。確かに、今年度が1期生の初配属だろう。


 「芭蕉さん…、おねがいッ…」


 キスして、と懇願する春陽の舌足らずな声に、背後で満足げな笑みを浮かべた黒島は、口づけは与えず、声に冷気を纏わせて問う。


 「君がどんな目に遭うべきか、言ってごらん」


 冷たく差し込まれる声に、春陽の胎が、妖しくうねる。


 「…あッ…、…スキだらけのゆるゆる春陽ッ…芭蕉さんがフタしてくださいィ…」


 雌丸出しの淫猥な物言いに、ぞくぞくと黒島の背筋を興奮が駆け上る。


 ――嗚呼!誰にも等しく光を届けながら、誰の手も届かない、天上の太陽のような女が。地を這う俺の元へ降りてくる…。


 奔りそうな悦びをおくびにも出さず、黒島は、ふぅ…と気怠い溜息を妻の耳に吹き込んだ。


 「…育ちは良いはずなのに、どこでそんな品のない言い回しを覚えてくるのかね…君は」


 いつも甘く優しい夫が垣間見せる、ネチネチと絡みつくような意地悪に当てられて、春陽の肌がびくびくと痙攣した。


 ――ああ…好いわ…。ビッチとはよく名付けたものね…。


 温かい湯に蜜が蕩けてゆく。密やかな棘はかえって甘く深く、2人を繋いでいった。

=========================


 宇津木が出勤すると、黒島が朝から事務椅子にくったりともたれかかってコーヒーを啜っていた。揺り籠のようにゆらゆらと椅子を回転させている。


 「…よぅ、おはようさん」


 声を掛けると、とろりと2色の瞳が向けられる。


 ――こりゃ、昨晩は相当お楽しみだな。


 この顔で電車に乗ってきたとは思えない。春陽の車で送られて出勤したのだろう。まさか、「いってらっしゃい」のキス代わりに車で一発抜かれたとか、ないよな…。


 「ああ…もう始業時間か…」


 フッと強く一息吐いて、黒島が飛び起きるように背筋を伸ばした。双眸に光が入って、「はんちょー」の顔になる。


 「あー…っと、今、大丈夫か?」


 「ああ、昨日は何かあったか?」


 いつも通りの顔にほっとして、宇津木は、デスクに立てたファイルを取り出した。実質的に配属1ヶ月目では、ブリーフィングで代わって喋る自信はない。先輩にあたるはずの森井も、役割でしょ、とばかりにブリーフィングは班長お任せだ。顔も出さない。


 「昨日、戦術分析センターに、“生物攻撃”の確率出させたんだがな」


 黒島がぺらりとファイルをめくった。


 「30%だと。俺の感覚じゃ、もうちっと高いんだがな」


 「ああ…あちらは過去の作戦から機械的に数字を出しているだけだからな。俺も、もっと来そうな気がしている」


 その「30%」に、ぶち当たるか否か。情報を集めて回ってきた元戦闘部門の感触では、雲行きはかなり怪しい。


 「無視できない線だと思うんだが…」


 「まぁ、そんなに突拍子もない提案でもないだろう。通常のレセプション警備のマニュアルに少し手順を足すだけだ。何より、クライアントが気にしているしな」


 ジョンソン・コマンダーなら関係は良いし、退役前の黒島と宇津木が実力派の戦闘部門スタッフだったことはわかっている。その勘を重んじてくれるだろう。



 「できあがった資料を見せてくれ」


 見た目にそぐわず慎重な宇津木は、確認・修正の時間も見込んで、資料は昨日で仕上げてある。さしあたり、コトは順調に進むはずだった。




 「…以上の状況を踏まえ、通常のレセプション警備に加えて生物攻撃、特に毒蜂を用いた攻撃への対処が必要になると考えられます。具体的には、屋外か窓を開けられる低層階での実施を“倉田化学”に要請する他、搬入資材の爆発物確認の際に官能検査および赤外線による検査を導入することを提案いたします」


 要するに、虫の羽音や蛇の這いずる音などが聞こえないか耳を澄まし、妙な重みがないか持ってみて、資材をよく観察しましょうということだ。赤外線チェックも併せればより効率的にこなせるだろう。黒島が座り、スライドが消えると、ジョンソン・コマンダーが口を開いた。


 「デハ、質問やコメントなどあれば、手を挙げてくだサイ。…ハイ、天部クン」


 まだ、幼さが残る童顔の副官が手を挙げている。


 「“生物攻撃”への対処ですが、無駄な手順ではないでしょうか?戦術分析センターの出した確率では30%以下です。今回のレセプションは規模が大きく、通常の警備マニュアルをこなすだけでも隊員に負荷がかかります。無駄な手順を増やすことで警備の精度を下げてしまうのではありませんか」


 滔々と反論を述べると、天部は妙に挑戦的に目を光らせて口を閉じた。


 「その“30%”だって、対処しないまま当たれば作戦は失敗だ。過去の事例からの確率予想に加え、実際の状況を加味して俺達は提案している」


 もともと、戦術分析センターの出す数値は補助的な情報だ。情報解析班の仕事は、それも含めて総合的な分析を行うことである。


 「おたくらは通常のレセプション警備に加えて、と言うが、マニュアルを大きく逸脱させる提案だ。屋外や窓のある低層階での実施は、不審者の乱入や周囲の建物からの狙撃の可能性を高める。それらの可能性を潰して安全を確保する手間が増えるんだ。屋外なら、来客のチェックだって実質上、出入り口を絞れなくなる。提案するだけのおたくらには想像できないだろうが」


 ブリーフィングに関心があるのは結構なことだが、なんだか無駄に突っかかられている気がする。


 「屋外や低層階実施時の手順は通常のマニュアルに含まれているはずだ。クライアントが屋外・低層階で実施するといえば対応しているはずだがな」


 黒島が、ふーっと溜息をつきながら反論する。


 「クライアントのニーズなら致し方ないが、おたくらが言っているのは、こっちからわざわざ提案してリスクを増やすということだ。馬鹿馬鹿しい!」


 黒島の眼鏡越しの冷たい眼差しに煽られるように、天部は吐き捨てた。


 「ま、ま、二人トモ落ち着いて…。休憩、休憩しまショウ!」


 厳つい見た目によらず、温和な調整型のジョンソン・コマンダーが慌てて間に入る。喧嘩を収める基本は、まずひっぺがすことだ。殴り合いでも口喧嘩でもそれは変わらない。

 隊員が、ワイワイと会議室前のロビーに出る。トイレに行く者、飲み物を買いに行く者。通常のブリーフィングに比べて妙に生き生きとしている。「火事と喧嘩は江戸の華」といったところだろうか。


 「――おう、堤、久しぶり。今、大丈夫か?――ああ、J部隊に今年から配属されている天部って副官な…――あっそォ…ふーん…ありがとな。――なぁに、これから、ちっとやり合うんでな。――ハハ…ナイフ戦じゃねェよ。情報部門だぜ。――おぅ、毒蛇は今も元気に喧嘩上等だ。――赤ん坊、元気そうだな。がんばれよ、新米親父」


 ぷつりとスマホを切って、宇津木が振り返った。


 「奴さん、士官コースの出で、実戦配属は今年度からだそうだ。実質、新兵だな」


 「――情報源は、第2分隊だった堤か?」


 あのお喋り男、育児休暇中だと聞いたが、どこから社員情報が入ってくるのやら。事務部門に転属するより情報部門の諜報班に入った方がよっぽど能力を生かせるのではないか。


 何度となく噂話の餌食になった黒島が、顔を苦らせた。


 「おう、頼りになンだろ。…で、情報部門の女と別れたばかりだと」


 このテの情報は、堤の真骨頂だ。


 「知るか!そんなに腹の立つ女なら、頭からも叩き出しておけばいいだろう。士官コースじゃ呼吸法は課程から外されているのか!?」


 「いやぁ、一応習って、忘れてんだろ…。実戦配属になった後も呼吸法の訓練してたの、W部隊ぐらいだからな?」


 W部隊の強みは接近戦だったが、これは、和辻コマンダーの趣味でマメに呼吸法による自己コントロールの訓練を行っていたためだろう。銃撃などと違って、生々しい接近戦では誰もが闘争本能と逃走本能に引き裂かれ、冷静な判断が出来なくなる。そこで、呼吸を使って瞬時に頭の中を整え、最大限の力を作戦対象にぶつけるのだ。訓練校では、心理学の講義で教えているのだが、微妙な感覚を調整する手法のため、ぴんと来ない訓練生も多い。大抵の活用法としては、作戦前後の眠れない夜に試してみる程度だ。


 「まだ未練があって、忘れたくないのかもしれんしな」


 宇津木が、にやりと悪戯小僧のような笑みを浮かべる。


 「ふん…時間もないしな。つついてみるか」


 毒蛇なら、そう来るだろうと思った。5時も近い。ぶっちゃけ、宇津木もあんな利かん坊のために残業なんざお断りだ。狡い大人2人は軽く相談を整えて、会議室に戻った。


 「サァ、席について。二人トモ、頭冷えましたカ」


 ジョンソン・コマンダーが熱い緑茶を啜って、ほっこりとブリーフィングを再開した。気配りのヒトは、天部と黒島の席にもさりなげく緑茶をセッティングしてある。――凶器にならなければいいが。宇津木が小さく苦笑した。


 「デハ、生物攻撃への対応について。黒島サン、どうして重視していますカ」


 「まず、作戦対象が10年前の事件で話題になった“ジ・ワン”を名乗っていること。この事件の最大の特徴は、生物攻撃だった。警察の情報では、現在監視対象となっている元リーダーが動いていないことなどから、”ジ・ワン”の名を騙った悪戯だとしているが、我が社の作戦記録からは気性が激しく個々の信念が強い性質が読み取れる。当時のメンバーから新たなリーダーが立っても全くおかしくない。その場合、思い入れのある作戦をなぞろうとする傾向が強く出ると、分析した」


 「“ジ・ワン”の残党による脅迫であるパーセンテージはどのくらいだ!?ただの騙りかもしれないだろう!」


 天部が苛々と叫ぶ。


 「パーセンテージは知らん。実際に関係各所の話を聞き、作戦記録を見て、かなり疑いが濃厚だと判断した」


 黒島が、しらっとした顔で説明する。


 「――それなら、俺からも補足を1つ」


 宇津木が手を挙げる。


 「これが、当時の“ジ・ワン”と無関係な騙りだとしてもだ。よほどの思い入れがなければ、“ジ・ワン”なんて名乗らねぇよ。粋がりたい連中が名前だけ拝借するほどの伝説的テロじゃない。若けぇモンが表面だけ見て痺れるような派手さもない。それを敢えて名乗るからには、騙りだとしても“ジ・ワン”に強い思い入れがあるはずだ。そうであれば、“ジ・ワン”の象徴のような生物攻撃は必ず取り入れるだろう。…そう踏んでいる」


 双方向から詰められて、天部は一瞬ぐぅと黙り込んだが、また立て板に水のように。喋り出した。


 「しかし、戦術分析センターの数値は、過去の事例からの緻密な計算式によって導き出されるものだ!踏んだの、勘だの、個人の思い込みや偶発的な経験に左右されるようなものとは違う!」


 黒島が腕時計に目をやり、タイム・アップだなと呟いた。


 「…天部君。優秀な君の判断を曇らせているものは何だろうな?」


 声から冷ややかさと苛立ちを片付け、笑みさえ浮かべながら、黒島が問うた。


 「はっ?」


 唐突に豹変した黒島に、天部は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。


 「君も辛いだろうから、忘れたいことを忘れておく方法を教えてやろう。目標は息を吐いて吸って1秒以内。君は不慣れなようだから、最初は10秒かけて行う」


 兵士達が顔を見合わせた。誰もが訓練校で受けた心理学の講義だ。


 「さぁ…情報部門の女の顔が浮かんだら、ゆっくり吐いて――」


 プププと兵士達の間に笑いが広がる。誘導の文言だから当然なのだが、心理学の教官と一言一句同じだ。深く柔い声音は、春陽を愛撫するときに発されるものだが、まぁ、野郎相手に作って出せないこともない。


 おまけに、副官、妙にブリーフィングを長引かせると思ったら、女と喧嘩した八つ当たりなのかよ。そりゃ自己コントロールがなってねぇよな。

 隊員の目が冷ややかに変わり始めた。天部もそれに気付いたのだろう。このまま情報部門の提案を突っぱね続ければ、感情的な印象を与え、隊員に示しがつかなくなる。


 「プライベートの話まで持ち出して…卑劣な…っ」


 童顔を真っ赤にして涙ぐまんばかりに、天部は唸った。申し訳ないが、黒島も宇津木も、初対面の若造の捏ねる駄々に付き合うより、パートナーとの夕食時間の方が何倍も重要だ。さらに、兼業主夫の黒島にとっては、食料品・日用品の補充と夕飯の支度で5時以降の予定は分刻みである。


 「作戦遂行の観点からは説得できないようだったんでな。これに懲りたら、作戦に私情は挟まないことだ。最悪、命取りになる」


 黒島がシレッと説教までかます。


 「…わかった。生物攻撃への対応は受け容れよう。その代わり、貴様ら全員、会場に来いッ!!」


 叫んだ天部をぽかんと見つめる、黒島、宇津木、ジョンソン・コマンダー。


 「…情報部門は非戦闘員だ。足手まといを増やしてどうする」


 黒島が呆れかえったように口を開いた。


 「後方で口先だけよく回る貴様らの無駄な提案がどれほど現場を混乱させるか、責任を持って見届けていただこう!!」


 顔を真っ赤にして叫ぶ副官を見遣り、ジョンソン・コマンダーが、そっと黒島に耳打ちした。


 「第3情報解析班なら、黒島サンの1人や2人や3人、増えてもダイジョーブですね」


 ――俺が3人?嫌な世界線だ。こんな面倒くさいのは自分1人でいい。少なくとも春陽も3人いなければ収まらないだろう。――言いたいことはわかるから混ぜっ返しはしないが。


 「自分で守ってもらうのと、足りない分は私たちがお客さんと同じに守るヨ。この辺りで手打チ、どうですか」


 あと数分で5時だ。一番気がかりな提案は呑ませたから、そろそろ終わりにしたい。


 「――では、第3情報解析班立ち会いということで」


 どうにかこうにか、ブリーフィングは終了した。




 「はぁっ!?立ち会い!?」


 ブリーフィングから戻ってきた黒島から話を聞いて、今まさに帰らんとしていた森井は素っ頓狂な声を上げた。


 「俺ら、戦闘訓練も受けていないのに、ただの足手まといじゃないっすか。自分で無駄に作戦遂行の難易度上げてどうする気なんすか、そのヒト。頭悪いの?」


 「おつむの中身までは知らんが。俺と宇津木は、自分の身を守る程度の戦闘はできるが、君まで守る手間は省きたい。当日は適当に病休でも年休でも取ってくれ。3人のうち2人も立ち会えば充分だろう」


 ぽふ、と事務椅子にもたれてお疲れ顔の黒島が提案した。


 「あ、そーゆーことなら。全然OKっす。俺まで立ち会うのかと思った」


 自分に関するところだけ、さくっと理解した森井は、おつかれっしたー、とオフィスを出て行った。


=========================


 「情報解析班の方に、戦闘装備の貸し出しは致しておりません」


 J部隊の装備の手配と併せて、同行する自分達の分も借りだそうとした黒島に、装備管理担当の女は冷たく言い放った。


 「メアリー・アン?さっきも説明した通り、今回は特殊なケースだ。情報解析班だが前線に立つことになった。防弾・防刃チョッキや護身・連絡のための装備は、安全に任務を遂行するために必要だ。何も火力支援用のデカい銃や手榴弾を貸せと言っているんじゃない」


 「防弾・防刃チョッキだけお貸ししています。護身用の武器は、お手持ちのものでお願いします」


 「…一般市民が、銃火器をお手持ちなわけがないだろう」


 電話の前で、うんざりと黒島が溜息をつく。設備管理部・装備管理課・装備管理担当の中橋・メアリー・アンは、どうにも話が通じにくい女なのだ。とにかくこだわりが強く、中橋さんでもメアリーでもアンでもダメで、「メアリー・アン」と呼ばなければ自身が呼ばれたとは見なさない。規則を柔軟に運用するのも苦手だ。ルールから外れてしまうと、どこからどこまでOKなのか、さっぱり判断できなくなって混乱するのらしい。


 「護身用具なら、スタンガンでも唐辛子スプレーでも市販品が手に入ります。ご心配なら、ご自身でお買い求めになって、お持ちください」


 メアリー・アンが、機械音声のように滑らかに案内する。性格も機械のように融通の利かない女だが、戦闘装備の倉庫番としてはそれくらいお堅い方がいいのかもしれない(他の部署ではとても使えないだろう)。


 黒島が、ぐったりと受話器を置いた。宇随に向かって、肩をすくめる。


 「情報解析班は防弾・防刃チョッキのみだ。あとは手持ちの武器を持て、と」




 「あれ、宇津木さん、刀の手入れ?」


 夕食後、宇津木は戦闘部門時代の愛刀を引っ張り出してきた。巨大な三日月型の刃。見事な青龍刀だ。かつては、これを2本、両手に持って戦っていたが、作戦当日はどちらか1本だけ持っていくことになる。利き手の右手が残っていることが幸いだ。


 「今、とっかかっている作戦で現場に出ることになってな」


 「え、情報部門なのに?」


 颯の顔が曇る。


 「チーム組んでる戦闘部隊の副官が癇癪起こしちまってよ」


 ふーっと溜息を吐く。いつも陽気な宇津木だが、溜息をつきたいときくらいあるのだ。


 「え、え、ワケわかんない。現場に非戦闘員連れていってどうするの?足手まといなだけじゃん」


 まして、宇津木は隻眼隻腕の傷痍兵だ。颯が眉をひそめる。


 「だから、癇癪なんだって。どうするつもりかは考えちゃいないだろ。自衛するしかねぇんだよ。情報部門の提案呑ませる交換条件だ」


 颯がソファに掛けた宇津木の側に腰を下ろし、きゅ…と寝間着代わりのTシャツの裾を引いた。


 「無理…しないで。何かあったら、すぐ逃げて。もう宇津木さんは情報部門なんだから…」


 宇津木が作戦で障害を負ったことは痛ましいし、残念だったが。そのおかげで後方支援に回ってから、颯は愛する男の命の心配をしなくてよい、平和な日々に感謝していたのだ。失ったものは大きいが、これで宇津木は命を長らえたと。

 宇津木は颯を抱き寄せ、泣き出しそうな頬にキスを一つ、落とした。


 「おう、ちゃっちゃか逃げるぜ。お前を泣かせたくないからな。…コイツはまぁ…御守りみたいなもんだ」


 透けるように白い肌、さらさらと揺れ落ちる金髪。こんな美人妻を残して死ねるもんか。宇津木が愛刀をそっとカフェテーブルの上に置き、颯を抱きしめてキスを繰り返す。


 ――…宇津木さん、これ、W部隊にいた頃の、作戦前日のキスの仕方だよ…。


 死地に赴くときの癖。そんなに危なそうな作戦なのだろうか…瞳を閉じた颯の睫毛が震えた。




 ――まさか、また相棒を背負う日が来るとはな。


 使わないで済めば、一番いい。しかし、今回の作戦は嫌な予感がして仕方がない。




―つづく―

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