第3話 禁じられた遊び
「じゃあね。いってらっしゃい」
宇津木が助手席から下りて、運転席側の窓から颯に口づける。
「今晩は、トンカツだからね!」
にこやかに窓を閉めて、車が走り去った。毎朝、U.B.セキュリティ・サーヴィス本社まで宇津木を送ってくれるのだ。かいがいしい主夫ぶりに、我が配偶者ながら宇津木は感心してしまう。情報解析班のオフィスがあるのは15階。運動がてら、階段を上り始める。先を昇る奴がいるな、と見上げると、森井の後ろ姿。(3名しかいない)第3情報解析班の最若手だ。
「よっ、森井!おはようさん」
駆け上がって、ぽんと肩を叩くと、森井がビクリと、持っていたスマホをポケットに入れて振り返った。
「お、何だ、何だ。カノジョとチャットでもしてたかぁ?」
「…宇津木さん、それセクハラっすよ…」
森井が暑苦しげに溜息をついた。
「お?カレシだったか?」
「もう、いっす…」
宇津木が、そのままズズイと森井の隣に並んで昇り始める。
「意外だなぁ~、森井が階段使うなんて」
「そっすか」
「おう、1日中パソコンの前に座って運動とかしないタイプかと思ってたよ」
「あー…運動っつか。やっぱ電気とか無駄に使うの、良くないんで」
「へぇ…環境問題、意識したりするんだなぁ」
それにしたって15階分昇ろうなんて、普通はなかなか出来ないもんだがな、と思った。宇津木は、通常より鍛えているし動くのも好きだ。自分の感覚が並みだとは思わない。
「…常識っすよ」
15階にたどり着くと、森井はオフィスに入らず、ふいと廊下を曲がった。まぁ、トイレかなんかだろう。
「おはようさん!」
情報部門のオフィスに宇津木の陽気な声が響いた。
「――ああ、いえ、弊社としても警備計画を立てる際に押さえられる情報は押さえておきたいということで。お話を伺えれば。――ええ、ありがとうございます。――…」
黒島が受話器を置いて顔を上げる。
「宇津木、警察の“ジ・ワン”監視担当者とアポが取れた。午後1時に話聞きに行くぞ」
パソコンで社のデータベースとにらめっこしていた宇津木が、ぐーっと伸びをした。
「おう、助かるわ」
午後は、データベースの読み込みから解放されそうだ。
宇津木が早めに昼食を取った後、警視庁へ向かう。黒島は相変わらず食べないようだ。ナッツを掌に出して、コーヒーとポリポリやっていたが、寺岡がいなければそれで十分と言う。
受付で案内された部屋は、地下の、窓もない一室だった。
「…どうも。担当者の丸尾です」
のそりと机から立ち上がって名刺を差し出したのは、まるで昔のアメリカ映画に出てくる、ドーナツを食い過ぎた警官のような男だった。
「お電話差し上げた、U.B.セキュリティ・サーヴィス社情報部門の黒島です」
「同じく、宇津木です」
丸尾は名刺を受け取ると、机の端に無造作に置いた。二人が椅子に座ると同時に、フーッと溜息をつく。
「担当といっても、私はただの問い合わせ窓口みたいな者で。実際の監視は、公安がやっとります。公安が問題ないといえば、私もそうお答えすることしか出来ないんですがね」
どこか投げやりな調子で、丸尾はどさりと椅子に腰を下ろした。
「ええ、警察の最終的な判断については、“倉田化学”の担当者から伺いました。こちらでは、どのような対象をどのように監視なさっているのか、判断に到るまでの過程を伺いたいと思いまして」
黒島が、慇懃な態度で応じる。腹の中では、やかましい、聞かれたことに吐ける分は全て答えろ、お前の組織内での立場など知ったことではないと一喝したいかもしれないが。
「はぁ、そうですか。まず、監視対象は、10年前の事件で起訴された25名のうち、主導的な役割を果たした12名です。それから、インターネット上に“ジ・ワン”関連のサイトやトピックが現れていないか自動検索。まぁ、たいていは10年前の事件に関する報道や、個人の思い出話とかジョークなんですがね。キーワードとの関連度が高くて疑いの濃厚なものは監視員が見て確認します。“倉田化学”さんにもお話ししたんですがね、監視対象の12名におかしな動きは見られません。大人しく暮らしていますよ。ネット上でも動きは見られません」
「ネットを介さず活動している可能性は?」
「それなら、リアルのリーダーが動くでしょう。監視対象は誰も動いていないんですよ」
宇津木の問いに、丸尾が面倒そうに応じた。
「当時リーダーじゃなかった者が音頭を取っているとは?」
「それなら新たなテログループと見た方がいいでしょうな。“ジ・ワン”は秘密主義で、下のモンには事件の情報を渡していませんでした。下のモンは、ただ部分的に命じられた作業を行うだけ。起訴までされた連中でも、リーダーじゃないモンは、後で報道で事件の全体像を知ってひっくり返るぐらいでね。自分がしたことがどんな結果をもたらしたのかさえ初めて知ったという調子で」
「詳しいですね」
黒島が相づちを打つ。丸尾は、決まり悪そうに、一旦、口を閉じた。
「――それで、新しいグループとして見た場合、今回の脅迫は稚拙すぎます。仮に何か実行しようとしたところで、レセプション会場の警備員で十分対応できるレベルでしょう。警察内でそういう判断になりましてね、“倉田化学”さんに、悪戯レベルですよとお伝えしたわけです」
だいたい、聞けるのはこんなところか。
「貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。また何かありましたら、連絡差し上げます。――帰る前にお手洗いをお借りしても?」
黒島が有無を言わさず、次の情報提供の布石を打つ。トイレの場所を教えてもらい、黒島が部屋を後にすると、丸尾が宇津木に声を掛けてきた。
「民間の警備会社じゃ、情報部門でもそんな大怪我を?」
宇津木の左手は欠損しているし、左目の傷跡もよく目立つ。聞いてみたくて堪らなかったのかもしれない。
「ああ、いや、俺は元戦闘部門で。1年前の作戦でしくじって、情報部門に異動です。…生きて給料もらえてるだけでも有り難いってもんですがね」
丸尾の死んだ魚のような目が、少し親しみを表すような光を宿した。
「私も、元は刑事でね。“ジ・ワン”の事件を担当していたんですが…。10年前のアジト突入の際に自爆に巻き込まれて片脚を失いました。以来、義足を履きながら不向きな事務部門を渡り歩いて、3年前からは、この通り組織犯罪情報の倉庫番ですよ」
だから、「ジ・ワン」の下っ端の驚きなんぞという細かい情報や、接した感触を生々しく憶えていたわけだ。
「はは…、まぁ、お互い勝手の違う仕事で苦労しますねぇ」
適当な相づちを打ったところで、黒島が戻ってきたので、警視庁を後にした。
「さてと、集まったデータをまとめてみようか」
午後3時。第3情報解析班会議が始まった。
「じゃぁ、俺から通信データの解析状況を。黒島さんの言った通りキーワードも増やして、関連度も広く取って解析してみましたが、特に怪しいやり取りは見つかっていません」
森井から報告が始まった。
「なら、本当に、対面でやりとり出来る程度のグループ規模ってことか」
宇津木が、ほっと息を吐く。事件の規模は小さければ小さいほどいい。
「少人数、または一人でできること…となると、大量に殺るなら爆弾、あとは、大型車両を盗んで突っ込む自爆攻撃、ピンポイントで要人を狙う暗殺、といったところかね」
黒島がくるりとペンを回す。筋張った指は妙に器用なのだ。
「路上じゃねぇからな。レセプション会場を狙うなら、車両で突っ込むのはないはずだ」
「航空機でも乗っ取れば建物内でも突っ込めるだろう。が、それにはそれなりの規模の協力が要るな」
年長二人が、おおまかな犯人像を彫りだしていく。
「“ジ・ワン”との関わりはどうなんすか」
森井がじれったそうに尋ねた。
「警察の見解では、かつてのリーダーが動いていないから、新しいグループと見た方がいいということだった。まぁ、組織や設備を再興させた痕跡もないとなれば、“ジ・ワン”所縁の者かただの騙りか…どちらにしても、素人が出来る範囲の攻撃になるだろうな」
黒島の答えを聞いて、森井は、ふぅんと呟きながらメモを取った。かつての「ジ・ワン」の攻撃は、蚊を人工的にマラリア原虫で汚染させておく必要があった。それなりの設備と技術がなければ出来ないことだ。
「そうなると、かつての事件と似た攻撃方法を取るとは限らねぇが…。一応、社のデータベースに残ってた作戦記録を報告するぜ。作戦対象“ジ・ワン”。作戦日時は…10年前の8月25日0:00~2:46。0:00に作戦対象の集住地に侵入。抵抗する見張りや住人と交戦しながら、頭領の間山一正宅に突入、確保が1:58。その後、掃討に入って、全員抑えたのが2:46」
黒島が、おや、と片眉を上げた。
「掃討にずいぶん時間がかかったんだな」
「だいぶ抵抗したようだな。そのとき取り押さえられたメンバーは子どもも含めて162名、使われた武器は、爆発物と拳銃が数丁、あとは刀剣・ボーガン・アーチェリー、複数のトラップ」
「そんな装備の相手に3時間近く?」
ずいぶんとクラシックな戦闘だったようだ。
「おー、突入側の装備は、普通に手榴弾や自動小銃も持っていたようなんだがな」
「被害状況は?」
「…多いな。60人の小隊を投入して負傷者23人、死者が5人。トラップと接近戦でだいぶダメージを被ったらしい。あと、捕虜として保護した子どもが作戦終了後に自爆したのに巻き込まれて負傷したのもいる」
「子どもまで…か」
黒島が溜息をついた。接近戦での被害が大きいということは、個々のメンバーの肉体が強靱で格闘術やナイフ戦に優れていたということだ。つまり、鍛え上げた肉体が最大の武器だったということだろう。報告書によると、最初にトラップで弾を浪費させつつ人数を減らし、火力支援を充分にできないようにしてから接近戦に持ち込んでいた。掃討に時間がかかっているのは、無抵抗の投降者が少なかったためだ。女子どもを含めたメンバーほとんどが戦闘員だった。頭領を押さえられた後も戦闘を続けるほど、狂信的な信条で統制されていたと考えられる。
「メンバーのほとんどが狂信的な戦闘員だったとすると、元メンバーが、当時のリーダーが立たなくても雪辱戦をやってやろうとする可能性は大きいな」
宇津木がぺしぺしとペンでノートを叩いた。
「その上、肉体の鍛錬なら一人でも資金がなくても続けられる」
黒島のペンがさらさらとノート上を走る。
「まとめると、予想される攻撃は小規模、爆発物の使用か、個人による肉弾攻撃。汚染させた虫による攻撃の可能性は低い。だが、人工的に汚染させるのではなく、もともと毒性のある虫ならもう少し簡単に扱えるな」
「ああ…蜂」
「倉田化学」の社屋で蜂が目撃されたという証言。蜂も予告状代わりだったとしたら。
「情報部門としての提案は、通常のレセプション警備に加えて、屋外・もしくは窓を開けられる低層階での実施、といったところか。森井は何か意見はあるか」
黒島の問いに、森井が黙って首を振る。
「では、会議終了。明日までにブリーフィングに必要な資料をピックアップしておく」
宇津木がぐーっと伸びをする。やれやれ、今日も平和な午後だ。
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夏も盛り、きつい西日に照らされながら帰宅すれば汗だくだ。黒島は、帰宅と同時に一直線にリビングに向かう。リビングには常時エアコンが入っている。“愛犬”の暁が茹らないようにだ。
「暁…いい子にしてたか?」
銀白の相棒に手を差し出すと、暁は、心得たように口吻を差し出す。
指を伸ばし、顎の下を掻いてやる。かなりの大型犬である暁は気持ちよさそうに黒島の指に頭を預けた。その頭を撫でて、ちゅっとキスをする。犬の知能がどれほどのものなのかはわからないが、暁は話しかければ何かしら聞き入っている風だし、指示も聞く。黒島が苦しむときも悲しむときも、まるで察したかのように傍らに寄ってきて頬をぺろぺろと舐めるのだ。そのまま、首筋に抱き付こうとする暁を抑える。
「待て、シャワーを浴びてからだ」
暁がするりとソファの上に降りる。心なしか物寂しげな風情に見えて、ちょっと黒島の気が引けた。
「…一緒に浴びようか」
またシャツの袖にしがみつく暁の顔は、浮き立って見えた。
足元にまとわりつく暁をそのままにして、湯を浴びる。暁も、うねうねと少しずつ身体を動かし、満遍なく湯に当たっている。なんとも満足そうな表情を微笑ましく眺めながら、黒島も体を洗う。きめ細かく滑らかな肌は、湯を浴びて、ぬるりとした輝きを放っている。男には勿体ない肌だと睦言に囁かれたのはいつだったか。男に生まれたものは仕方なかろうと返したような気がする。それも今は、どうでもいい。春陽が、芭蕉さんの肌は気持ちいいわねと喜んでくれることの方が大事だ。春陽のもっちりと粘り着くような肌合いに比べれば官能性に劣る、と思うのだが、春陽はすべすべと滑らかな方が良いという。お互い、無い物ねだりだと笑ったものだ。
シャワーの湯を止めると、もう終わりだと察したかのように暁が黒島の脚に絡みついた。内腿を擦られて、一瞬ぴくりと黒島の眉が跳ねた。ガウン代わりの浴衣を羽織って、いい加減に前を縛る。春陽がいればもう少しきちんとはするが、一人ならこんなものだ。
冷蔵庫を覗くと、お気に入りの干物を切らしていた。代わりに春陽用のキューブチーズを取り出し、掌に乗る程度のナッツと皿に盛り合わせた。後で買い足しておけばいいだろう。焼酎なら、洋風のつまみも合う。リビングのカフェテーブルにどんと焼酎の瓶を置けば夕食の準備は完了だ。春陽お気に入りの可愛い徳利も今日はお休み。うわばみの黒島にとっては何度も差し直さねばならないのが面倒くさい。
黒島は、ソファに身を沈めると、オンザロックにした焼酎を舐めながら、己の肌に寄り添う暁を優しく撫でた。24階の窓から見晴るかす街は、7時を回ってネオンが輝き始めている。一方で空はまだ明るく、オレンジからピンク、パープル、ネイビーへと移ろっていくグラデーションが、蕩けるように甘い熱帯の夜を思わせた。
「夢みたいだな、暁」
そっと呟く。
「あの山荘から生き延びて、人並みの教育も受けて、仕事もあって、妻までいる」
犬がどのくらい生きるものなのか、暁とは15年以上の付き合いだ。暁が銀白の身を滑らせて、黒島の頬に頬ずりをした。
黒島が育ったのは、山間の古い山荘だった。30名余りの信者が共同生活を送る山荘に君臨する王は、「教祖様」。元はキリスト教系の一派だったのだろうが、教祖の神秘主義やら土俗の信仰やらが混じり合った教えは、奇怪に歪んでいた。そこでは、女の子は「神に娶られる巫女」候補として比較的まともに扱われていたが、男の子の扱いは酷かった。基本的には邪魔者で、朝から晩まで修行の名の下に働かされ、教祖様の機嫌次第で殴る蹴るの暴行に遭うのは日常茶飯事。15歳になれば山荘を追い出される。まともに教育を受けずに世の中に放り出された「お兄ちゃん達」がどうなったのか、幼い黒島の耳には入ってこなかった。
それでも、黒島の扱いはまだマシだった。双子の姉と並ぶと対の人形のようだと言われる程の端麗な顔立ち。小柄で華奢で、よく姉と共にドレスを着せられて教祖の晩酌に付き合わされていた。その時に教祖の気が向けば、食べ物ももらえた。黒島の普段の仕事も楽な方で、「神狼」のお世話係だった。銀白の毛並みに深いアイスブルーの瞳。黒島はこの美しい狼が大好きだったが、姉は嫌っていた。子供心に何かの予感があったのかもしれない。
「お説話では誰でも愛せよなんて言っているのに、おかしいわ」
聡い子どもで、食事もろくに摂れずに折檻される男の子達にこっそり持ち出した食べ物を渡したりなどしていた。理不尽ばかりの山荘で、教えに疑念を抱けばいかに特別扱いの美少女でも折檻は免れない。姉は、黒島にだけこっそりと疑問や不安をさらけ出した。「神様なんて、きらい」――黒島と姉の、二人だけの秘密の言葉だった。
この山荘では、女の子は初潮を迎えると巫女として「神に娶られる」掟があった。儀式は二日にわたって執り行われる。一日目は禊ぎをして身を清めた「花嫁」が一晩、神宿りの蛇と同衾する。二日目は、無事に神と結ばれたことを祝って、蛇に似せた化粧を施し、感謝の祈りを捧げた後、教祖と交わることで神意を通じる。教団の女は皆、教祖のものだった。
黒島の姉は泣いて嫌がった。敬虔な信者である母は、姉弟そっくりの美貌で、綺麗どころの揃った教団内でも優遇されていたが、その権力で娘を庇おうとはしなかった。むしろ、自らの美貌が衰える日を恐れていたのかもしれない。娘が巫女として優遇されれば、自分が年老いて教祖に相手にされなくなってもお相伴にあずかれる。娘を差し出すのは、教えを守るだけでなく、生き延びるための戦略でもあった。
「めでたくも誇らしいことなのよ」
黒島は、母に説き伏せられて身を清める姉の背中を流していた。
「芭蕉、私、嫌だわ…神狼様と寝るなんて」
ぽつりと、姉が呟いた。細い肩が震え、しゃくり上げる。
「…代わろうか」
黒島の言葉に、姉は、はっと振り向いた。まるで、大輪の花が咲いたようだと思った。まだあどけない頬を上気させ、瞳を輝かせる姉は、弟の目から見ても美しく、眩しいような、力が湧いてくるような、奇妙な感覚をくすぐられた。
「そう、そうね…!お前なら、私とそっくりだから…」
十二歳になっていたが、食の細い黒島はまだ華奢で、少女のようだった。服さえ取り替えれば、代われる。禊ぎから上がるときが入れ替わりのチャンスだ。二人は手早く相談を整えた。禊ぎの後は綿帽子を被るからそっくりの顔立ちの2人ならほとんどわからない。二日目の身支度は教団の女達が手伝うから、そこまでは誤魔化せないだろう。今晩は黒島が蛇様と同衾し、朝、部屋を出るときに姉と入れ替わる約束になった。たった一晩の自由でもいいの、と姉は黒島の手を握って喜んだ。
白装束と綿帽子に身を包み、黒島は一人、座敷に敷かれた布団の上に座っていた。目の前には、用意された御神酒と、神狼様。
「神狼様…」
黒島はそっと呼び掛けた。神狼様とは普段のお世話で仲良しだ。添い寝するくらい、嫌でもなんでもない。そういえば、床入りの前に御神酒を飲むようにと言いつけられていた。
「ちょっと待ってて。これ、飲むみたいだから」
杯に御神酒を注ぎ、口をつける。意外に量があるそれを飲み干すと、かっと身体が熱くなった。身体がむずかるような、内側から爆発しそうなはじめての感触。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅く、早くなる。今考えれば、ドラッグでも仕込まれていたのかもしれない。
「神狼様…助けて…」
神様は嫌いでも、縋る相手は神狼様しかいなかった。黒島の伸ばした手をじっと見ていた神狼様が、するりと腕を舐めてきた。お世話の途中にじゃれつくように舐めてくることは何度もあったが、そのくすぐったい感触とは全く違うものが黒島を貫いた。
「ひ…あっ…」
黒島の細い身体がしなった。
「あ、あ…神狼様」
華奢な指がシーツを掴む。側に寄り添い、優しく舐める感触が狂おしく黒島を攻め立て、何かがせり上がってくる。
「だめ…!」
男の徴なぞ吐き出してしまったら、ここで寝たのが姉ではないと知れてしまう。真っ先に、美しい姉の身の上を案じた。姉の花のような微笑みと、普段は従順な良い子の仮面を貼り付けた姉が黒島に吐き出す二人だけの秘密。何もかもが歪んだ山荘の中で唯一、守るに値するものに思えた。
「ふ…あ、あ…っ」
やめて、神狼様…。懇願も空しく、黒島は何度も吐き出した。窓から差し込む蒼い満月の光が、滑らかに照り返す象牙色の肌をくっきりと映し出していた。
明朝、黒島は誤魔化す方法も思いつかないまま、無力感の中で入れ替わりに来る姉を待った。しかし、空が白み始めても、日が昇りきって教団の女達が迎えに来る頃になっても、姉は戻ってこなかった。そればかりか、姉と共に、2つ年上の少年と教団の金庫の中身がごっそり消えていた。怒り狂った教祖は、男のくせに神の花嫁になりたいのならさせてやる、と儀式の続行を命じた。うねるような旋律の祈りが捧げられる中、祭壇に抑え込まれた黒島に施されたのは――化粧ではなかった。
無意識に頬の傷痕に指をやり、その感触にビクリと身体が跳ねた。
「…大丈夫だ、暁」
のぞき込む暁の蒼い瞳に気づき、黒島は、ふーっと息を吐きだして呼吸を整えた。
姉そっくりの美貌が、かえって教祖の癇に障ったのだろう。口を裂かれた後、黒島は納屋に放り込まれた。蒸し暑い納屋の中で、傷口も洗わぬまま蠅にたかられ、ウジが湧き出した。雑菌にも感染したのだろう。高熱に冒され、「幸いなことに」朦朧としていたおかげで、生きたまま虫に喰われる感触などは憶えていない。ただ、女達が「お部屋」のケージに戻したはずの神狼様が足繁く来て、丹念にウジを舐め取ってくれたことは憶えている。脱走名人の神狼様は、夜になるとやってきてウジを喰い、日が昇り始める頃に戻っていった。それが何日続いたのか――途切れる寸前の意識の中で、怒号と女達の悲鳴を聞いて、次に目を覚ましたのは真っ白な病室だった。
黒島が目を覚ますと、何時間もしないうちにベッド脇にソーシャルワーカーと名乗る大人がやってきた。彼は、教団の女達の親が、山荘に閉じこもった娘達を取り戻そうと動いていたこと、親たちの依頼を受けたU.B.セキュリティ・サーヴィス社の戦闘部隊が山荘に突入し、女達や黒島を含む子ども達を保護したことを告げた。次に、母が病室に入ってきた。納屋の中にいた黒島には、当初、突入部隊も気付かなかったのらしい。私があの子も助けてと頼んだのよ、と母は美しい笑顔で息子の両手を握った。数日の後、ソーシャルワーカーが一人でやってきて、退院後は誰と住みたいかと尋ねた。
「お母さんと一緒がいいかな?もう、怖い教祖はお巡りさんが連れて行ったからね」
子供じみた言いぶりに、くつくつと引き攣れるような笑いが浮かんできた。もう、沢山だ。ソーシャルワーカーには、女達の何も知らぬような笑顔が痛めつけられた可憐な花に見えるようだったが、黒島にとっては見慣れた虚ろな仮面だった。ここではっきりと言ってやらないと。金輪際、歪んだエデンの園になど帰りたくない。大きく広がった外界を目の前にして、清く優しいばかりだった少年に、とぐろを巻くような不思議な力が湧き起こってきた。――このチャンスに、喰らいつけ!
「“あの人”は、俺を育てるの、無理だと思います。…弱いんで」
最後の一言だけが息子からの情けだった。教祖に嫌がる娘を差し出そうとしたのも、山荘にいるときは見向きもしなかった息子にたった一言分の恩を売ろうとするのも、悪意はないのだろう。弱いだけ。
「やっとお母さんと一緒に寝られるのよ、絵本だってたくさん読んであげるわ!」
話を聞かされた母は、ずいぶんと動揺して黒島に取り縋った。そして、親子の仲を引き裂かないでくれとソーシャルワーカーに泣き叫んだ。黒島と姉が絵本をことのほか喜んだことをよく覚えていたな、とは思ったが、黒島の心は動かなかった。何の用があるのか知らないが、子が欲しいのなら無垢の「楽園」から飛び出した姉娘でも探せばいい。学生の時に結婚、出産し、幼い姉弟を連れて入信して以来、社会経験のない母には育児は手に余ると判断されたようで、黒島は養護施設に入ることになった。私物は持ち込み禁止だとずいぶん説得されたが、身を寄せ合う白狼は絶対に手放さなかった。結局、経緯を考慮して、精神安定のために特別に認められることになった晩。黒島の差し出したガッツポーズの拳にツンと鼻先を付けた神狼様に「暁」と名付けて、相棒になった。
子連れだと様々な補助が優先的に配されるらしい、と知ったのは、もう少し後、訓練校での教養科目で退屈な行政法を習ったときだった。
今でもたまに、入れ替わりを企てたときの姉の眩しい笑顔が脳裏をよぎる。消息など聞くことはなかったが、無知な子ども2人が手を取り合って逃げたところでどうなるものでもないだろう。手持ちの金が溶ける頃、狡い大人に引っかかって少女は売春宿へ、少年は弟分などという名の下に散々食い尽くされる。姉は美しかったから、多少はマシな店に売られただろうか。それでも生きる気力をすり減らして笑顔も作れなくなれば、ハッピーなお薬の登場だ。どこにでも転がっている、胸糞悪い話。
無神経な宇津木の奴が男の勲章だと陽気に笑う傷痕は――羊のように大人しかった少年が初めて立ち上がって抵抗した証ではあるが――守りたかった少女を救ったなどと言えるのだろうか?
どす黒く沸き上がる、やり場のない思い。誰に対する怒りとも憎悪とも自責ともつかないそれの手綱をとる方法は、訓練校の心理学の講義で習った。
まず深く吐いて。吸って、吐いて…繰り返すうち、呼吸の質が変わり始める。頭の中が静かになって、今進むべき一本の道が浮かび上がる。そこに意識を集中させて荒れ狂う力動を乗せて…そして、それを全て作戦対象にぶつけろと教え込まれた。
無意識に、ぎり…と食い絞めた頬を、しゅるりと暁が舐める。そのまま首筋を回り、襟の中に入って背筋を滑り降りて…
「はは…こら、暁!くすぐったい!」
堪らず、黒島は笑い出した。荒れる思いに囚われそうになると、まるで心を読んだように暁がくすぐってくるのだ。肌を巧みに舐め回す暁を捕まえようと身を捻り、ソファの上を転げ回った。最愛の妻にさえ、これほどふざけ、笑い転げる姿を見せたことはない。
「は…あっ…はは…だめだ、そんなところにもぐり込んでは。…こちらへおいで」
ひとしきり黒島を笑わせると、暁は差し出された腕に素直に頭を乗せた。ぽす、とソファの背もたれに身を預けて呼吸を整える。ふと、「ジ・ワン」についての報告を思い出した。昼の会議では、子どもにまで自爆させた集団の性質を狂信性とまとめたが。戦闘に組み込まれた子ども自身はどんな思いだったのだろう。殉教の高揚感か、外敵に対する憎悪か、あるいは複雑に絡まった恐怖か。
「小さな作戦のはずなのに――“一雨”来そうな気がするな、暁」
山育ちの肌感覚とでも言おうか。ざわりと微かに粟立つような感触は、戦闘部門に居た頃の作戦開始の瞬間を思わせた。
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「なぁ、颯…。“ジ・ワン”てグループのテロ事件、憶えてるか?」
髪を乾かしてベッド際に座った颯に、宇津木が話しかけた。取りかかっている作戦のことを他言するわけにはいかないが、世間話のように尋ねる分には構わないだろう。元戦闘部門所属の颯には感づかれるかもしれないが、同時に機密性も理解してくれるはずだ。
「んーと…俺が中学生ぐらいの時の事件だよね。あの、蚊?で病気ばらまいた…」
颯の大きな瞳が、記憶をたぐり寄せるようにくりっと動く。
「そう、それだ。周りの奴、“ジ・ワン”のこと、どんな風に言ってた?――例えば、“カッコイイ”とか?」
宇津木は当時すでにU.B.セキュリティ・サーヴィス社の訓練生だったから、テロの手法としてはどうだとか集団の性質がこうだとか、ニュースを見ては同期と興味津々で話し合っていたが、それはさすがに、一般的な若者の反応ではなかっただろう。
「…“カッコイイ”って言う奴もいたよ。なんか、“頭いい”とか」
「それ、多かったか?」
颯は軽く肩をすくめた。
「学年に2人。生物部の、ナード系の奴」
「影響力は?」
一瞬、宇津木の声から気楽な調子が抜け落ちる。ああ、これ続行中の作戦だな、と颯は直感した。もちろん、口には出さない。世間話の範囲で受け答えしていればいい。
「ないない。俺も同類で、いじめられっ子系だったから、班活動の時とかつるんでて話聞いただけだし」
「…だよな。意外性で話題になったっちゃあ、なったが…若けぇモンにウケる派手さはなかったな」
死者まで出した事件だったが、結局「虫をばらまいてはいけない」などという法律はないので、起訴された25名の罪状も、でかくて突入部隊員に対する未必の故意による傷害致死、グループ内での暴行、小さいものは検察が無理くり法律書の端っこから掘りだしてきたような地味なものばかり。実刑を喰らった奴も、しでかしたことの割りに大した年数ではなかった。ある種のコストパフォーマンスは良いのだろうが、それくらいなら、ありきたりな手法でもパーッと派手にやらかして刑場の露と消えるようなグループの方が、粋がりたい連中にはウケがいいのではないか。なぜ、10年も経った今になって「ジ・ワン」を名乗るのだろう…。
ふと気がつくと、颯が少し困ったように宇津木を眺めていた。颯も気の利かない方ではないが、気づきながら素知らぬふりで話すような腹芸は苦手である。――腹の中に二層も三層も暗闇が横たわっているような性格の悪いのは、身の回りに黒島一人で充分だ。宇津木が、がっと颯の首を抱え込んで明るい声を張り上げた。
「なんだ、お前、いじめられっ子系だったのか?こんな派手な金髪でよ」
颯がタンマ、タンマと笑いながら宇津木の腕を叩いた。
「だからだよ~。金髪のくせに度胸ないとかクールじゃないとか言ってさぁ。今時、地髪が金髪なんて、そこそこいるのに」
昔は閉鎖的だなんて言われていた日本も、ここ数十年でだいぶ移民が増えて、今では地髪が赤かったり金髪だったりも珍しくはない。
「お前のは、色が金でも髪質は東洋系だからな。これだけ真っ直ぐで、きらきらしてるのは、そうはいねえよ」
さらりと颯の髪に手を差し入れて、頭を抱き寄せる。ふわ、とシャンプーの香りがした。そのまま、果実のような唇に口づける。
「ん…っ」
颯が甘い声を漏らし始めた。左腕で抱え込んで、ベッドに押し倒す。落とした照明の中に浮かび上がるような、白いうなじに唇を這わせた。宇津木の趣味で、痕をつけるほど烈しくすることもあるが、触れるか触れないかのタッチの方が颯の反応は良かったりする。今夜は、困らせた詫びだ。自分の趣味は引っ込めて、柔らかく押し付けた唇をそっと浮かせてちろりと舌でくすぐった。
「ひゃっ!ああ!」
少々、色気のない声が上がる。予想通りの大きな反応に、宇津木は、にんまりと口角を上げて、颯の耳たぶを食んだ。
「あ…あっ…」
颯は、ふるふると身を震わせた。彼の耳は、一発で効くのだ。耳介を舐めあげながら、宇津木は横目で颯の表情を見遣った。瞳が潤み、早くも切なげな顔が緩み始めていた。白い肌は薄桃色に火照り、紅潮する唇からは、淫らな声音が漏れ続ける。
「最高だ…お前は…」
幾分、勝手に零れる口癖のようなところはあるが、心地よい低音で囁かれて、颯の身が、きゅぅ、と締まった。
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ふと、手元のタンブラーに焼酎をつぎ足そうとしていた黒島の手が止まった。大概にしておこう。本来、美味い酒は美味い相手と呑むものだ。
春陽の笑顔が思い浮かんだ。屈託のない、太陽のような華やかな笑顔。出会った当初は、温室ですくすくと育てられた女はこう微笑むのかと解釈していたが、付き合いが深まるにつれて、無知ゆえの一瞬の輝きではないことを知った。それこそ泥にまみれるようにして死線をくぐり抜け、生き残るたびに顔を見合わせて微笑んだ。春陽が新兵としての研修期間を終えて、別の部隊に配属された後は作戦を共にすることはなかったが、いつしか、ふわりと私服の裾を揺らして迎えてくれる春陽の笑顔は、黒島の生還する目標となった。
――予定通りなら、明日には春陽が帰還してくる。
ブリーフィング資料をピックアップしたら、打ち込みは宇津木に任せて半休を取ろう。春陽は、作戦後は帰宅して家で報告書をまとめるから、コーヒーを淹れて、チョコレートを添えて。それならば、帰宅途中に、春陽お気に入りのマンダリン・ラウンジに寄ってアソート・ボックスを買わねば。
浮き立つ気持ちで窓に寄り、ブラインドを下ろす。 ――ああ、今日は、満月か。
蒼い月の光が、幸福そうに微笑む男の頬を照らし出していた。
―つづくー
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