第2話 記憶の底

 「蜂…ですか?」


 黒島が、担当者に確認する。依頼主「倉田化学」の応接室。灼熱の太陽が照りつける中、防止を依頼されたテロ予告についての聞き取りで会社まで赴いた宇津木と黒島には、涼しいエアコンがありがたかった。


 「はい、社屋内で蜂が目撃されたという話が出ていて…」


 一昨日、「倉田化学」に「新製品発表のレセプション・パーティーを潰す」というテロ予告が送りつけられてきた。差出人名はかつてテロ事件を起こしたグループ「ジ・ワン」。早速、警察に通報したものの取り合われなかったということで、黒島達の勤めるU.B.セキュリティ・サーヴィス社に依頼が来たのである。


 「警察の方では、“ジ・ワン”のメンバーの監視状況を確認して、問題なしとの判断でした。メンバーの動静に異状はない、“ジ・ワン”の名を騙ったイタズラだろうと」


 印刷物の文字の切り抜きを貼り付けて作成された、いかにも稚拙な予告状だった。社員の一人が昼食に出かけた先で、見知らぬ子どもから手渡しで受け取ったのだという。当初は、会社の上層部の方でもイタズラだと見ていたが、社屋内で蜂を見たという噂が出回り、社員の不安が高まっているので、U.B.セキュリティ・サーヴィス社に事件の防止を依頼したということだった。




 「蜂なぁ…。ま、わからんでもないが」


 聞き取りを終えて、いったん話を整理しようと寄ったカフェで、宇津木がゴキゴキと首を鳴らしながら、呟いた。エアコンのある室内席希望だったが、あいにく空きがなく、日よけの下のオープン席に通された。――まぁ、冷たい飲み物があるだけでも、ありがたい。


 「“ジ・ワン”の過去の事件を彷彿とさせると言えば、そう言えなくもないな」


 黒島がコーヒーを啜る。――かつて、「ジ・ワン」が起こしたテロは、実に奇妙な事件だった。あるコンピューターシステムの開発企業で、マラリアによる死者が続発したのである。汚染された蚊を媒介として感染する寄生虫症のマラリアは、日本ではすっかり制圧された「過去の伝染病」だったが、それがかえって仇となった。症状が出て運び込まれた病院でもマラリアを診た経験のある医師がおらず、診断がつかないまま治療が遅れたのだ。犠牲者達は、感染リスクのある地域に出かけたわけでもなく、全くいつも通りの生活を送っており、当初は感染ルートが掴めなかった。

 結局、事件が急展開したのは、別れた妻への嫌がらせで逮捕された「ジ・ワン」メンバーが取調中に口走った一言からだった。「ジ・ワン」は被害企業の、空調のために密閉された環境を逆手に取り、マラリアに汚染された蚊を人為的に放ったのだ。蚊は外に出て行くこともなく社屋内に留まり、被害が拡がった。後になって、被害企業が「天然の裁きが下る」という、予告状とも取れる文面を受け取っていたということが分かった。


 「天然の生物兵器によるテロだって、大騒ぎになったよなぁ」


 宇津木が記憶を掘り起こすように日よけに目をやる。

 人々に衝撃を与えたのは、清潔・安全に保たれているはずの高度な生活環境が原始的な攻撃に弱みを見せたことであった。


 「一時、“窓を開けましょう運動”が流行ったな。その点では、“ジ・ワン”のテロは社会を動かしたわけだ」


 黒島がメモを確かめながら、皮肉っぽく笑った。

 「ジ・ワン」の主張は極端な自然主義で、人工的な生活環境への嫌悪感を強く表していた。自然の摂理から外れた生活が人間を生物として弱くする、という主張のもと、山間で現代的なテクノロジーを排した共同生活を送っていたが、事件を機に大々的に捜査のメスが入り、解体された。


 「…主張自体は一理ありそうなとこが、曲者だよな」


 宇津木だって、日がな一日パソコンの前に座り込んでいると身体が鈍る気がして、妙に気持ち悪くなるクチである。森井みたいな奴には理解できないかもしれないが。


 「当時も、反対派と擁護派で議論になっていたな」


 黒島がメモを閉じた。「ジ・ワン」が解体されるほど危険視されたのは、事件そのものだけでなく、内部での虐待や戦闘準備が、捜査と共に明らかになったからでもあった。最終的には強行突入により、多くの逮捕者と死傷者が出た。その際に、警察と共同作戦を組んで突入を請け負ったのは、U.B.セキュリティ・サーヴィス社だった。


 「…会社に戻ろうか」


 黒島が立ち上がりかけると、バラバラと日よけを鳴らして雨が降り出した。あっという間に篠つくようなスコールになる。街は白くけぶり、道行く人々が、慌てて手近なひさしの下や物陰に飛び込む。


 「仕方ねぇな。もう一杯、何か頼んでくらぁ」


 宇津木が立ち上がる。こうなったらもう大自然に抵抗せず、素直に雨宿りするしかないのだ。


 「俺のも頼む。同じのでいい」


 一言言い置いて、黒島がスマホを取り出した。


 「…森井か。黒島だ。雨に降り籠められてな。少し遅くなる。解析のキーワードを増やせ…」


 ザブザブと路面に叩きつける雨音。電話を切り、黒島は、そっと目を閉じた。雨音は嫌いではない。路面に当たる音も、窓ガラスに当たって流れる音も、聞いていると心が鎮まり、洗われるような感じがする。雨のもたらす匂いも好きだ。誰だかに話したときは、カビの臭いだと一笑に付されたが。

 手帳を開き、思いつくままに言葉を書き出す。


 「ん、何やってんの?」


 宇津木がアイスコーヒーを二つ、トレイに載せて席に戻ってきた。


 「俳句の案出しだ。この前、ジョンソン・コマンダーとサークルを作ってな」


 最近は、マンガ・カルチャーからさらに日本文化への関心が広がったようだ。


 「数寄だねー、あの人も…」


 宇津木が呆れたように笑って、スマホを取り出した。颯にラブ・メッセージでも送ろう。人工的な都市にも山間にも。天は平等に陽を照らし、雨で洗う。そういう意味じゃ、自然と全く切り離された生活なんて無いんだよな、と宇津木は思う。こうやって唐突にもたらされる休息も悪くねぇな、なんて、柄にもないことを颯に書き送った。


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 スコールが上がるまで1時間ほどカフェで時間を潰し、会社に戻る。電話で遅くなると連絡したときに「じゃぁ、自分、5時になったら帰りますんで。見通しの報告は共有ファイルに上げときます」と宣言した森井はサクッと帰宅していた。まぁ、第3情報解析班は班長自身が「5時まで男」なので全く構わないのだが、いずれ他班に異動になったら一揉めするのではと、宇津木は余計な心配をしてしまう。

 いつもならトレーニング・ルームで一汗かいてから帰宅して颯と夕食を取るのだが、今日は、颯は用があって実家に帰っている。なら社員食堂で食べてからトレーニングして帰ろう、と宇津木は決めた。今日は外回りだったせいか、腹ぺこだ。


 トレーニング・ルームでは、ランニングマシンで軽く走って調子を上げてから、だいたい現役時代の半分くらいの筋トレをする、と決めている。ほぼ気晴らしのための運動なので、それほど強度を上げるわけではない。ふと見ると、黒島もトレーニング中だ。


 「よぅ!お前もデスクワークばっかだと気持ち悪くなるヒト?」


 「…座りっぱなしだと身体が冷えてな」


 結局、戦闘部門の癖は抜けないようだ。宇津木もトレーニングを開始し、なんとなく黒島を眺めていたのだが、ヘックスバー、Tストッププッシュアップ、レッグタック…おいおい何レップやるんだ?で、ランニングマシンで3kmダッシュ?――ほぼ現役並みのメニューだ。とても冷え性対策レベルじゃない。


 宇津木が上がって、シャワールームで流していると、隣のブースに誰やら入ってきた。思わず、パーティション越しにちらりと確認すると、黒島。現役並みトレーニングをこなしているわりに、細身だ。もともとそんなに筋肉が大きく張り出す体質じゃない。小食で体脂肪率が低いのも小柄の理由だろう。しなやかな首筋から引き締まった僧帽筋が張り出している。くっきりとした背筋を流れ落ちたシャワーの湯が、キュッと小さな尻を包んで柔らかく濡らし…


 「…パーティションは天井まで伸ばさないと、意味をなさないようだな」


 はたと、目が合う。


 「へーへー、失礼しました」


 宇津木が、ペッと舌を出して、目線を正面のシャワーに戻した。


 「変な目で見たら〆る」


 「ぁあ!?ねェよ。配属後の7年で、お前がどんだけ怖え男かよく判ったからな。訓練生ン時のは気の迷いですー」


 相変わらず綺麗だから目が引き寄せられただけだ。


 「それは安心だな。俺も、今は男に用などない」


 「うるせぇ、ビッチ。鍛えてんなーって見てただけだよ。あのトレーニング量、現役並みじゃねぇの?」


 「いや、半分だ。寺岡がインターバルでこっちにいる間は、寺岡優先で自分のトレーニングはしないからな」


 きゅ、と黒島が湯を止めて、身体を洗い始める。なめらかな肌に手を滑らせ、ほ…と小さく息を吐いた。二色の瞳が柔らかく緩む。――チッ、目の毒だ。


 「なんで、そんなに鍛えてんの?情報部門の仕事って、やっぱ必死にメタボ対策しないとヤバいとか?」


 新しい職場の情報は早く仕入れておかないと。健康診断の数値で判ってからでは遅すぎる。


 「いや、メタボ対策ならここまでしなくてもいいと思うが。鍛えているのは、あくまで俺の個人的都合だ。…寺岡を満足させられるだけの体力を保とうと思ってな」


 「…え、何お前、寺岡女史の夜伽のためだけに、現役レベルに鍛えてんの!?」


 熱愛にも程があるだろう。


 「今日の疲れを癒やし、明日の活力を養うためには当然だ。彼女の安らげる家庭を作ると決めている」


 「あっそォ…がんばるねぇ…」


 宇津木が湯を止め、バサバサと身体を拭く。どうもゴチソウサマ、じゃあな、とシャワーブースを出ていった。


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 黒島と春陽が出会ったのは、桜舞う春。黒島の在籍していたW部隊に、新兵研修で春陽が配属されたのがきっかけだった。春陽は注目の新人だった。まず基礎体力が半端じゃない。腕力も脚力も、並みの男性兵士では敵わないほど優れている。射撃も上手く、ナイフ戦では柔軟な身体と剛腕を上手く組み合わせ、新兵の中でも飛び抜けた戦闘能力を示した。

 配属の発表を聞いたときには、同僚の兵士達は「どーせ、メスゴリラみたいのが来るんだろ」とせせら笑っていたが、顔合わせの朝礼の後は、そりゃもう大騒ぎになったものだ。華やかな美貌に、均整のとれた女性らしい体つき。礼儀正しく上品な物腰で、太陽のような笑顔を振りまく。経歴も、戦闘部門のスタッフとしては実に風変わりで、お嬢様校として名高い清蘭女学院高校卒。歴とした良家の娘だった。

 荒くれ者ばかりのW部隊に、初の女性兵士。どの分隊に預けたものか、和辻コマンダーも頭を抱えたのだろう。


 「と、いうわけで、寺岡春陽の教育係は黒島!コマンダーのご指名だ。頼んだぞ、ビッチ」


 田宮分隊長が、黒島の肩をぽんと叩く。


 「…俺は、男ですけどね」


 ビッチはただの渾名だ。しかも割と悪口寄りの。


 「女嫌いで、犯りそうもなくて、成績優秀。適任だろうが」


 どっと兵士達が笑う。別に人間として女が嫌いなわけではない。ただ、あまり愉しくもなかった子ども時代をいろいろ思い出しそうになるので、セックスの相手としては避けてきた。――まぁ、何にせよ業務命令だ。感じの良い娘だし、そう苛立つ仕事でもないだろう…。



 春陽は、実際の業務に入ってみても優秀だった。仕事の覚えは良いし、真面目に取り組む。顔合わせの日に確認した入隊動機が「自分より強くて素敵な王子様と結婚したいから♡」だったときには、一瞬くらりとするほど先行きを案じたが、日常業務の手順を一通り教えてしまえば、あとは楽なものだった。

 部隊内の歓迎会では、他の分隊の兵士達にも取り囲まれる人気ぶりだった。春陽に笑顔を向けられると、いつもは強面のくせに少年のように顔を赤らめて固まる奴もいれば、いつも寡黙なのに、デレデレと笑み崩れて喋りまくる奴もいる。


 ――とんだリトマス試験紙だな。


 端から見ていれば、あいつやこいつの本性はこうだったかと可笑しくて仕方がない。

 ふと春陽のいるテーブルを見遣った黒島の目に、兵士の一人がグラスに錠剤を落とす光景が飛び込んできた。誰のグラスか判らないが、公的な懇親会で変なドラッグなど使われては部隊の恥だ。注意しようと立ち上がったところで、春陽が席に戻ってきた。お手洗いに行っていたのだろうか。――その手が、錠剤入りのグラスを取り上げる。


 「寺岡ッ!」


 とっさの厳しい声に、ビクリと固まった春陽の手から、黒島が駆け寄ってグラスを取り上げた。そのまま、錠剤を落とした兵士の頭上に氷ごとぶちまける。


 「ああ!?何すんだ、黒島!!」


 兵士が椅子を蹴って立ち上がった。


 「グラスに何か仕込んでいたな。それが仲間に対してすることか?」


 「何だよ、てめぇには関係ねぇだろ!!」


 冷ややかな黒島の声に、激昂した兵士が殴りかかってきた。黒島が拳を掴んで受け止める。空いた方の手で、兵士の胸ポケットから錠剤のシートを取りだした。


 「GHB…。偶然手に入る代物ではないな。もしや普段からお馴染みの売人でもいるのか?」


 女の飲み物に仕込めば、意識を無くさせて、かつ皮膚感覚は鋭敏になる。デートレイプで使われるドラッグだ。


 「この…ッ、返せ!!」


 掴みかかってきたのをするりと避けて、脚をかける。兵士が派手に椅子を巻き込んで転倒した。


 「何をしている!!」


 分隊長達が飛んでくる。


 「…阿呆が、俺が預かっている新入りにクスリ盛ってました。証拠です」


 黒島は、分隊長にGHBのシートを渡すと、青ざめて固まったままの春陽に向き直った。


 「寺岡は、今日はもう帰れ。女子寮まで俺が送る」




 翌日、春陽を昼食に誘った。社員食堂の、観葉植物の陰であまり目立たない席を選んで座らせる。


 「もう、落ち着いたか?」


 「はい、あの、頭の混乱は落ち着きました」


 「そうか、食事を食べながらでいいから、昨日の件でちょっと話しておきたいことがある」


 春陽が不安げながら、神妙に頷いた。


 「…男ってのは馬鹿でね。可愛くてセクシーな女の子が大好きなくせに、その子が自分より優れているのが判ると、嫉妬に狂って攻撃に転じる輩が必ずいるんだ。悪口を言いふらしたり、掌を返したようにバッシングを始めて引きずり下ろそうとするのもいれば、昨晩のように騙して犯そうとするのまでいる」


 春陽が心なしか青ざめて、スプーンが止まってしまった。


 「君は、美しいし育ちも良いうえに成績優秀だ。周囲の嫉妬には、特に気をつけた方がいい。食べ物からは目を離さないこと。目を離してしまったら、もうその食べ物は捨てる。もらった飲み物には不用意に手をつけないこと」


 遊び慣れて気の強いビッチタイプの娘なら十代で学ぶことだが、温室で大切に育てられた花のような春陽には、初めて知ることばかりだった。醜い男の心理も、まるで戦場のように人を警戒し、駆け引きしなくてはならない女の日常も。


 「仲間を警戒しなくてはならないのは辛いことだし、そんな哀しい警戒が必要な連中は俺達男性兵士の恥でもある。ただ、こういった現状もあることを念頭に置いておいてくれ」


 春陽がこくりと小さく頷く。翡翠色の瞳に影が差し、きゅっと薔薇色の唇が引き結ばれた。初めて植え付けられる不信感を、必死に受け止めようとしている。


 ――ああ…こんな顔をさせたいんじゃないのに。君には、配属の日と変わらず、いつまでも太陽のように穢れなく笑っていてほしい。


 「何か…少しでも戸惑ったり、不安や辛いと思うことがあったら、我慢せず俺に話してくれ。全力で手助けするし、君より2年多く働いている分、アドバイスできることもある。それに…君の耳にもいずれ噂が入ると思うが、その」


 自分の「華やかな」男遍歴を吹聴したいと思ったことはないが、これまで特に隠そうという気持ちもなかった。しかし、それを春陽に知られることには自分でも驚くほど抵抗感があって、思わず口ごもる。


 「あー…俺の経験から、阿呆な男のあしらい方も教えてやれるから、何でも相談してほしい」


 春陽の瞳から曇りが晴れ、ぱっと明るく微笑んだ。


 「はい、わかりました!よろしくお願いします!」


 なんだか、妙にホッとして、こそばゆくて、知らず黒島も笑顔が零れ出た。


 ――綺麗…。こんなに、ふわりと微笑む男の人がいらっしゃるんだわ。白いお花が開くよう。


 とくん…と春陽の胸の奥が揺れた。



 春陽は、本当に細かな不安まで相談してくるようになった。やはり、部隊でたった一人の女性兵士、という立場は心細く、混乱させられることも多かったのだろう。黒島は、一つ一つ丁寧に聞いてやり、一緒に解決策を考えた。幼稚園から高校までエスカレーター式の女子校で守り育てられてきて、いささか男への免疫不足気味だった春陽に、ひな鳥に噛んで含めるようにして男の習性やあしらい方も教え込んだ。そのうち、たわいもない雑談も交わすようになり、ほぼ必ず、昼食を一緒に取るようになった。

 そんなある日、春陽が「相談がある」と思い詰めたような表情で、黒島を社外のバーに誘い出した。――社内ではできないほど酷い話なのだろうか。


「感じのいい店だな」


 カウンター席に落ち着き、黒島が店内を見回す。空間全体が大胆なアートのようでありながら品の良い、落ち着いたインテリア。店員の対応も万全かつ控えめで洗練されている。


 「ありがとうございます。あの、高校の時のお友達と同窓会して、その時に教えてもらって」


 なるほど。お嬢様系女子大生がちょっと背伸びするには、おあつらえ向きの店かもしれない。日本酒は一種類しかなく、あまり黒島好みの銘柄ではなかったので、店のおすすめというドライ・マティーニを頼んだ。何を頼んだらよいかわからないという春陽には、甘く可愛らしいシンガポール・スリングを選んでやる。出されたカクテルを舐めながら、ぽつぽつとたわいもない雑談を交わしていたが、春陽が意を決したようにグラスを置いた。


 「あのっ、黒島さん!いつもお世話になっております!」


 「え…?あ、はい…こちらこそ」


 なぜ、ここで他部署とのメールの1行目みたいなことを言われるのか。頭は悪くないはずだが、時折不思議なことを言い出すのだ、春陽は。


 「あの、いつも優しくて、お話も面白くて。私、ずっと黒島さんのお側にいたいなって…」


 春陽の頬が薔薇色に染まる。――困ったな、俺は…。


 「だから、あのっ。私の“お姉様”になってください!!」


 「ふぇあ!?」


 なんか変な声出た。


 「いや、あの。君もどっかで聞いてると思うけど…」


 「はい!黒島さん、男の人が好きだって聞きました!私も、ずっと女子校で、男の人って緊張しちゃって…。でも黒島さんは特別なんです。なんだか凄く落ち着いて、いくらでもお話ししたくって。それに…すっごく綺麗で、優しくて、びっくりするくらい強くて、頼もしくて…“お姉様”って感じかなって…」


 薔薇色に上気する唇。キラキラと潤んで輝く翡翠の瞳。純粋な心根が、たまらなく愛おしい。


 「…“お姉様”、男と付き合うかもしれないよ?」


 現に同時進行で3人ばかり付き合ってはいるが、まぁそこまで言わなくてもいいだろう。


 「はい!大好きな“お姉様”ですから、応援します!」


 「君とは結婚できないよ?」


 「はい!“お姉様”ですから!ずっとお側にいられれば、それでいいんです…」


 春陽が、可憐なペンダントを、すんなりとした指先でもじもじと弄ぶ。あまりに健気で、突き放すのは気が引けたし、強く飛べるようになるまで誰かが守ってやらなくてはならないと思った。


 「じゃあ、君に素敵な王子様が現れるまで、俺が君の“お姉様”になろう。それでいいね?」


 春陽の顔が輝いた。


 「はい!よろしくお願いします!」


 「…こちらこそ」


 チリン、とグラスをぶつけて乾杯した。




 「うおーー!宇津木、聞いてくれよう!」


 第2分隊のミーティングが終わった途端、同僚の竹下が倒れ込んできた。


 「ンだよ、きもち悪りぃな」


 その戦績とサッパリした性格で、宇津木はけっこうな人気者である。


 「第5分隊に配属された寺岡ちゃんに男ができたっていうんだよ!」


 竹下は、顔合わせの朝礼の日からずっと、春陽への想いを募らせてきた大ファンである。


 「そりゃー、あんだけ可愛くて良いコなら、すぐにできるだろ。男なんて」


 なんだかもう、まともに聞く気にもならない。


 「それがよぅ!相手、誰だと思う!?黒島だよ!?毒ヘビッチの黒島に持ってかれると思うかよ、普通!!」


 「誰が上手いこと言えっつったよ」


 ぎゃはは!と笑い上戸の堤が話に混じってきた。噂話が大好きで、「放送局」の異名を持つ男だ。


 「なーんか、寺岡ちゃん、黒島のこと“お姉様”って呼んでるらしいぜ」


 「ぶははははは!!寺岡ちゃん、ソッチかよ!?二人とも一周回ってノンケじゃねぇか!!」


 今度は宇津木が大笑いだ。


 「諦めろ、竹下。あんな美人で怖い毒蛇“お姉様”がお好みじゃぁ、お前なんか、マトモすぎて眼中に入らねぇよ」


 くつくつ笑いながら、宇津木が竹下の背をバシバシ叩く。


 「あああああ…俺の天使の寺岡ちゃんがぁぁぁ…」


 「泣くな、泣くな。こんどカノジョのツテで女紹介してやるって」


 堤も竹下の背をぽんぽん叩いた。第1分隊から第7分隊まで、すべての分隊で似たような悲鳴を上げた兵士は数知れず。しかも相手が「W部隊の毒蛇」黒島では、恐ろしくてやっかみようもない。本人達の想いをよそに、黒島と春陽は職場公認カップルになり、とりあえず、春陽へのセクハラはぴたりとやんだのであった。


==================


 「…ク~リスマス・イブに何してんだろなぁ、俺達…」


 第5分隊のアーネストがぼやく。ただ今、雪中訓練中である。本来はもう少し早く行われるはずだったのだが、こればっかりは山の天気のご機嫌次第だ。なんとか年末の仕事納めまでに、ということでようやく天候が整った12月24日に決行されているのである。クリスチャンのアーネストには年休を取ってでも家族の元に帰りたい特別な日だろうが、U.B.セキュリティ・サーヴィス社は日本の企業なので、こんな日に構わず、重要な訓練をぶち込んでくるのだ。


 「仕方ねえよ。コンビニの店員もレストランのコックも風俗のオネーチャンも医者も看護師も消防士も、今日も今日とて忙しく働いているわけよ。俺らも一緒にリア充の爆発でも祈ろうぜ」


 石田が、身も蓋もない言葉を返す。

 風が強くなってきたようだ。積もった粉雪が舞い上がる。雲も厚くなってきたような。



 「コマンダー、少し天気、崩れてきていませんかね」


 副隊長の川端が、和辻コマンダーに注意を促す。


 「そうだな…15分間、様子を見よう。ひどくなるようだったら、そこで引き返す」


 15分後、訓練中止の指示が出た。訓練と同じ要領で、来た道を下山する。風がますます強くなる。天候の悪化は和辻コマンダーの予想以上に速く、下山まで視界が保たれるか、微妙な状態となってきた。


 「きゃあッ」


 第5分隊の列の後尾にいた春陽が風に煽られて足を踏み外した。軽い粉雪は、身体を支えることなく一気に沈み込む。


 「寺岡!!」


 思わず黒島が手を伸ばす。自分の足下など確認する暇はなかった。一瞬のうちに地吹雪の中に巻き込まれるように二人は滑落していった。


 「田宮さんッ、黒島と寺岡が滑落しました!」


 前を歩いていたアーネストが気付いて、叫ぶ。先頭を歩いていた田宮分隊長が急ぎ戻ってきてのぞき込んだが、すでに舞い上がる雪で二人は見えなくなっていた。


 「…急いで下山して救助を呼ぼう。黒島も寺岡も優秀だ。滑落の衝撃で死にさえしなければ、生き延びて救助を待てるはずだ」


 闇雲に助けに行けば、二次被害が出る。田宮分隊長は踵を返し、和辻コマンダーへ報告しに行った。

 



 滑り落ちていた時間は、どのくらいだったのだろうか。おそらくはほんの数十秒だったのだろうが、やたらにいろいろなことを考えていた気もする。気付けば滑落は止まっていた。黒島が、沈み込む粉雪の中でなんとか体勢を整えて立ち上がる。奇跡的にも雪のクッションで大した怪我はしていないようだ。


 「寺岡!」


 辺りを見回すと、少し離れたところに桜色の髪が見えた。雪をかき分けるようにして、駆け寄る。


 「大丈夫か!?怪我は?」


 「あ…はい、大丈夫です。ちょっと起き上がりにくいだけ」


 春陽は、ふんっと体幹にバネを利かせて立ち上がった。黒島が落ちてきた元を見上げる。風は幾分か緩んだが、視界は一面銀世界で、もと歩いていた場所など見えなかった。


 「戻るのは無理だな。安全な場所に移動して、救助を待とう」


 がさがさと春陽が地図を開き、GPSで場所の確認を行った。


 「近くに避難小屋がありますね」


 


 幸い、避難小屋はそれほど離れておらず、無事にたどり着くことができた。ドアを閉めると風の音が一気に遠くなり、知らず、ほ…と息が漏れる。薪ストーブはあるが、周囲の木から薪を切り出すのはもう少し風が緩んでからの方が良いだろう。さしあたりは、毛布とシュラフにくるまり、寄り添って暖を取る。


 「お姉様…」


 春陽が不安げに声を掛けてくる。毛布を広げてやると、黒島の腕の中に収まった。そのまま抱きかかえると、ふわりと花のような匂いがした。


 「…温かいな、君は」


 教育係について半年以上。春陽の相談に乗り、雑談を交わしながら、黒島の方も春陽の純粋さや前向きさに救われていた。ロクでもないものばかり見てきた黒島の目には、春陽のものの見方はあまりに新鮮で、同じ世界がこれほど美しく見えているのかと驚くばかりだった。いつのまにか、その温かさが黒島にとっても、かけがえのないものになっていた。


 「へへ。体温高いんです。昔から」


 見つめ合い、そっと唇を重ねる。

 

 始まりは、春陽があまりに一日の別れを惜しんで辛そうだったので、春陽から借りた少女小説に出てきた「お姉様」の真似をして頬にキスしてからだった。「おやすみのキス」は次第に長く深くなり、春陽も愛らしい舌を絡めてくるようになった。


 お互いの唇を貪るようについばみ合う。黒島が春陽の舌を捕らえ、ねぶった。


 「は…ん、ん…っ…」


 ――ああ、お姉様のキス、大好き…。


 ちゅるりと黒島が春陽の舌を解放する。すでに翡翠の瞳は潤んで蕩け、薔薇色の唇がだらしなく緩んでいた。唾液が糸を引く。


 「舌をしまい忘れているよ」


 ちゅっと舌にキスをすると、ぴくんと春陽の身体が跳ねた。


 「お姉様…」


 もじもじと春陽が柔らかな乳房を押し付けてきた。春陽の熱っぽい瞳に、黒島の心がぐらりと揺れ動く。――いいのか?燦々と輝く清らかな春陽を、俺が…?


「寺岡…」


可愛いおねだりに応えて、黒島の手が重ね着した冬山装備の中に滑り込む。もう一度、抱きしめて、口づけた。


「…責任は、とるから…」


 冷たい風音に、2人はさらにしっかりと抱き合い、お互いの熱を求め合う。小屋の外では吹雪がまた強まったようだ。





「春陽、それじゃまた後で♡」


「はい♡芭蕉さん。今日も一緒に帰りましょうね♡」


 貴重なデートタイムの昼休みが終わり、社員食堂のテーブルでキスを交わす二人。


 黒島が二人分の食器を持って席を立った後、「第2分隊の放送局」堤が声を掛けてきた。


 「あれ~、寺岡ちゃん、“お姉様”って呼ぶのは、やめちゃったの?」


 「はいっ♡クリスマス・イブにサンタさんが魔法を解いて、“王子様”にしてくれました♡」


 「その日は雪中訓練で…?…て。あっ…。ぎゃはははははは!やっぱ、寺岡ちゃんサイコーだわ!!」


 …翌日には、「毒蛇のアホが、雪中訓練を滑落してまでサボって、避難小屋でいちゃいちゃパコっていたらしい」という噂が部隊中に広まり、しばらく黒島は、ビッチあらため「クソ王子」と呼ばれる羽目になったのであった。


=========================-


 ――春陽…。


 夕方のスーパーのレジ待ち中。春陽との馴れ初めを思い出しながら、黒島がちゅっと結婚指輪に口づけた。黒島が春陽の「お姉様」になった夏の日からちょうど1年後が二人の結婚記念日となった。また、その日が巡ってくる。黒島は退役したとはいえ、二人とも銃を担いで駆け回る商売で5回も一緒の夏が迎えられる。その僥倖を思えば、神様とやらに感謝してもいいかな、という気になるのだ。


「――神様なんか、嫌い」


 幼子の声が聞こえた気がして、ぎくりと振り返る。振り返った先には、黒島の脳裏に走ったような子どもの姿はなく、母親のスカートにまとわりついて甘える幼児がいるだけだった。母親は、ご近所の仲良しなのだろうか、列の後ろについた女とのお喋りに夢中だ。


 「――だからね、やっぱり小さい子のお肌を石油由来の石鹸で洗うなんて、怖いじゃない。私が“エシカル・リビング”の先輩から分けてもらっている石鹸はね、天然の植物油をじっくり鹸化して作られているの。化粧品メーカーの石鹸に負けないくらい、保湿成分も入っていて…」


 聞くともなく聞こえてきたお喋りの内容に、黒島は、例のマルチ商法か、と小さく溜息をついた。いつの時代も人を動かすのは「繋がり」だ。騙されるなんて馬鹿だ、と第三者はいう。考えれば、情報を集めればわかるではないかと。それでも、そこに「繋がり」があって居場所があるならば、人は引き寄せられる。合理性の出る幕ではない。今回、対策を担当している「ジ・ワン」も――?考えかけて、やめにした。明日、出勤してから考えよう。

 スーパーを出ると、外の熱気が押し寄せてくる。自宅に帰り着く頃にはまた汗だくだろう。熱気も湿気も夏らしくて結構。帰ったらまたシャワーを浴びて――エアコンをつけるんだよな、と苦笑しながら、黒島は街の雑踏に足を踏み入れた。




―つづく―

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