牛丼

煙 亜月

牛丼

 愚かだった。

 何も知らないということは何も持たないということだ。攻撃も防禦もできない。逃げも隠れもできない。


 食べきれる量じゃないくせに大盛を頼み、嫌いな生卵と嫌いな大葉、嫌いな紅ショウガと嫌いな七味唐辛子を載せた牛丼を、逆手に持った割り箸でぐるぐるとかき混ぜてゆく。

 大盛だ。怨嗟の大盛だ。メガネのレンズに涙がぽとりと落ちる。メガネを外し、重い丼をどうにか片手で支えて一気にかきこむ。

「男なんて嫌い。もう嫌い。ぜんぶ、もうぜんぶ、ぜんぶ!」

 自傷行為のようにがつがつと牛丼を胃袋に押し込む。


「プリ、カ――ですか?」

「そう。うちのバイトの子にはね、入ってもらったお祝い金、三万円をプリペイドカードでお渡ししてるんです。かんたんですよ。クレジットカードと違って使いすぎや盗難被害とか、紛失でもそれほど痛くないし。まあ、なんにせよ、学生のうちに作っといた方があとあと有利だから。カードっていってもこういうの(プラスチックのカードを机に置く)。ポイントカードみたいなもんだよ。これからは仕事上のパートナー、つまり対等な関係だから。よろしくね」


 援助交際なんて三〇年近く前に廃れた。少なくともわたしはそう認識している。昔の、テレビドラマで見るような悪い大人と悪い女子高生がふたり仲良く破滅に向かったり、あるいは純愛を誓ったりと、そんなフィクションは今時だれも求めていない。飽き飽きしている。だからわたしが健全な街コンや、同じく健全なマッチングアプリに表向きふつうの会社員なり公務員なりの姿で「サクラ」を演じるのも、それほどの有害性や背徳感は持たなかったのだ。


 仲のいい子だった。小中高とおなじ学校で、高校こそは一年で中退したが、今も折々に連絡を取り合ったり、また仲間同士でお腹いっぱい、門限ぎりぎりまで繁華街で遊んだりする子だ。

 今こうして泣きながら牛丼を食べているのも、その彼女からの紹介で始めたバイトのせいだ。いや、あの子に責任転嫁してはいけない。わたしがただ単に、馬鹿だったからなのだ。


『みっひー』

「おう?」

 このLINEから始まった。このLINEさえなければ、わたしは「ふつうの子」のままだっただろう。彼女には申し訳ないが、やはりこの時わたしでなく、別な子にLINEをしてくれればすべての苦痛からは逃れられたのだ。


『いやー、あんた今なんかバイトとかしてるー?』

「うんにゃ。国公立目指しとるからのー」

『ああ、特進やったか。ちょっとさ、ド短期でいいのがあるんだけど、話だけでもどうかなと思って』

「あー、まあ、話だけなら」


 つまり、お見合いパーティなりマッチングアプリでサクラを演じれば、一回につき一万円程度の実収入で、いつ始めてもいつ辞めてもいい、とのことだった。

 二、三回働いて辞めたら小遣い稼ぎとしてはいいかも、とその時は軽く見ていた。この世の中にそんな甘い話があれば、という仮定に基づいた話ではあるが。

 駅近、といっても駅裏のごみごみとした格安アパートや格安居酒屋の立ち並ぶ区画、雑居ビルの三階。

「――で、これが重要事項説明書。これが誓約書でこっちは契約書。じっくり読んでも、さっき口頭で説明した内容とおんなじだから、今サインしてもデメリットはないよ。もちろん、控えは両方が持つことになるから安心して」

 人当たりのよさそうなスーツ姿の男が業務内容を説明してくれた。年のころは三〇代前半、細いセルフレームのメガネが知性と柔和な印象を同時に感じさせる、有り体にいっていい男だった(それでもわたしの守備範囲からは大きく外れた年齢ではあったが)。


「拇印でいいですよ。あと、十七歳以上だから保証人もなしでOK。それで――今日のうちに契約してくれたら祝い金として三万円が発生するんだけど、どうします?」


 県立高校の特進コースで勉強漬けだった。バイトの経験もなく、理系だからというわけでもないが、法律上の粗を探すだけの知識もなかった。三万円。三万あったらどうしよう。弟になにか買ってあげたいけど、バイトのことが親にばれたら怒られるだろうな。学校はアルバイト禁止ではないが、これはちょっとふつうじゃない仕事だ。

 手堅く貯金する順当な判断か。

「えっと、分かりました。じゃあ、今日からお世話になります」

「早いうちにビジネスパートナーが見つかってよかったよ。さてさて、三万円なんだけど、プリカって知ってるよね? そこに入金するのをおすすめしています。つまり、現金じゃなくてカードとして」


 事務所を辞し、わたしは少しだけ足取りも軽く家路へと着く。

「もし親御さんとか、ご理解を得られるか心配ならカードの受取をこの事務所で代行しますよ。書留なんでね、さすがに高校生がカード作ったら不安がるご家族もいると思います。ま、それでも海外では常識なんですけどねえ。日本はそこのところ遅れてて」

 契約したのが火曜日。金曜日の午前にはプリカが届いた旨、スマホの留守電に録音されていた。

 昼休み、外のベンチで留守電を開く。

 慇懃な女性の声だった。

『お忙しいところ失礼をいたします。KMコンサルティングの加賀と申します。こちら瀬戸みひろ様の携帯電話でお間違いないでしょうか。ご依頼の郵便物をお預かりしております。近くにお立ち寄りの折に弊社までお越し願えればとご連絡差し上げました。なお、保管期間は今日を入れて三日間とさせていただいておりますので、お早めのお受け取りをよろしくお願いいたします。加賀がご案内いたしました。失礼いたします』

 数字の七をタップし、録音を消去する。

 

 三万円、本当に三万円だ。わたしにとっては大金である。

 予備校へは体調不良で休むと連絡し、KMコンサルティングの入居するビルへと入る。

「――失礼します」

 ドアを開けるとすぐに受付があり、パーティションの向こうは応接スペースだ。応接スペースからさらにパーティションがあり、そこを越えるとようやく事務所のスペースで、よほどのことがない限り、事務所の中の様子をうかがい知ることはできない。

「あの、すみません、瀬戸みひろと申します。こちらでわたし宛ての書留を預かっていただいてると思うのですが」

「ああ、瀬戸さん瀬戸さん。待ってましたよ。これですね」

「あ、仲村さん、こんにちは。先日はどうも」

 奥から出てきた男に頭を下げる。

「いいのいいの、そういうの。堅苦しいの嫌いなんですよ、僕。スーツ着てネクタイ締めて定時に出社するだけでもうへとへと。で、これね。メンバーシップ締結、おめでとう」

 応接スペースに座り、仲村が封筒を渡す。中を検めるとプラスチック製のカードが厚紙に糊付けしてあった。「この中に、三万円」

「そう。じゃ、ビジネスパートナーとして歓迎するよ、瀬戸みひろさん」


 まずは何をどうすればいいかといった業務のあらましからのスタートだった。

「主に街コンとかマッチングアプリとかで、ちょっとばかしうまくいってるカップルを演じてくれればそれで業務は完了。二言三言、体験談程度は書いてもらうかも知れないけどね。もちろんSNSの広告とかで顔が出るわけでもないし、個人情報とかプライバシーは十分守ります。学校に知られるリスクもないし、一回につき最低一万円の報酬、これも確約します。それ以上のことをうちでは要求したりはしないから。その場その場で盛り上がってる雰囲気を醸しだしてくれればいいだけで、要するにほかの、一般参加者のテンション上げるのを手伝う以外のことはしなくていい。ここまではOK?」

「はい、ええと、わたし街コンとか行ったことないですけど——自分でもお酒が飲めるかどうかも知らないですし。わたしみたいなので務まるんでしょうか? その、高校生なのに」

 仲村は顎に手を宛て考える仕草をし、

「実は――相手の男性も十中八九、業者さんなんですよね。向こうもやり方を心得てるし、瀬戸さんはただ大人の女性を演じて、場がひらけたらはい解散、という流れがもうすでに出来上がってるんです。時たま、素人男性が混じっちゃうこともあるけど、それはこちらでくじの操作をするなり、瀬戸さんがパスするなりすれば問題なしだから」

 わたしは仲村のすすめたお茶に口をつける。さきほどより口の中がからからだ。

「で、直近では来週――あ、いや。ええと、今週のですね、日曜日、つまりあさってに案件があるんだけど、都合はつけられるよね?」

「あ、あさって、ですか。もう少し考えたほうがよさそうな気が――」

「ああ、そっかあ。でもどうしようかなあ。重要事項説明書は読んだよね? シフト、穴開けちゃうと違反金で三〇〇〇円の自己負担になるんだけど、忘れちゃった?」

 そんなの聞いていない。しかし、もしかすると仲村は違反金を一〇〇〇円にでも五〇〇〇円にでもできる立場にあるのかもしれない。肚を括るべきだろうか。

「あ、いえ——今週日曜ですね。わかりました。やってみます」

 その後、街コンの会場の場所や時間、実際の流れ、持ってゆくものなどを確認し、入場証を手渡されて家路についた。

「そうそう、メイクもしっかり目にしといてね。服装も一番、なんていうか、大人の女性みたいなもので。あとプリカもできるだけ温存しといてね。なにがあるかわからないから」


 仲村のいうとおりにし、日曜日の朝を迎えた。

「ホテルヴィクトリア――は、こっちか」

 一番ヒールが高く歩きにくいサンダルを履き、露出も多くひらひらとした布地がうっとうしいワンピースを着、過去最高にきついメイクを施し、ホテルヴィクトリアに着く。会場に着くころにはすでに靴擦れが痛んでいた。入り口で参加証を見せ、番号札を受け取る。案内通りに席に着く。設定ではわたしは大学院生で理系の女子、いわゆる『リケジョ』となっている。朝から晩まで研究室にこもる毎日で、しかし就職先は見つからず、一念発起して家庭に入る準備をする――というシナリオだ。これなら多少、うぶであってもおかしくない。大丈夫、やれる。

 三階の大会議室で香水や化粧のにおいをまき散らしながら、二クラス分——六〇名ほどの男女がお互いに品定めをしていた。男性たちが女性たちのずらりと座った長い机を順々にめぐる。中には高校生のわたしでさえ敬遠したくなるような男性もいたし、ちょっといいかも、と思えるような男性もいた。

「それでは、次の席へお進みください」

 司会進行のアナウンスでわたしの前にどんどん男性が現れては消えてゆく。

「こんにちは」

「こんにちは、向井といいます(男性は声をひそめる)。君、KMコンサルの人?」

 ――同業者か。わたしもトーンを落とした声で「はい、瀬戸と申します。え? ええ、本名です。じゃああなたが今日のお相手さんなんですね」と話す。

「そういうことになりますね。自分、三〇番ですのでマッチングの時にはよろしくお願いします」

「あ、了解です。わたしは二十二番です。思ったよりふつうの方なんですね」

「ふつう? はは、ふつうですか。それは、まあ確かにそうかもしれません。瀬戸さんを前にしたら誰だってふつうですよ」

 仕事中に口説いているのか? だとすればかなりの人物だな、とわたしは感心した。

 そのあとは当たりさわりのないことを話し、次の男性が回ってきても向井以上の特段の印象は抱けず、司会役の者がマッチング成立の者——カップルたちを発表してゆく。

「お次は——三〇番さんと二十二番さん!」参加者のなおざりな拍手で祝され、わたしは向井の姿を探す。いた。ジーンズにワイシャツを着、ジレを合わせただけの、ひとことでいうなら本気を感じられない服装。向こうもわたしに気づいたらしく、右手を挙げてみせる。


 もろもろの行事や今後のイベント予定など告げたのち、会場はお開きとなった。

「瀬戸さん」

「向井さん。今日はお疲れさまでした――あの、このあと何すればいいんでしたっけ」

 向井は古風な七三分けの頭をぽりぽりとかき、「ええと、もしかして、初?」と尋ねる。

「えっ、あ、はい」

「そっかあ――とりあえずはランチに誘うことになってるんだ。見栄えする料理の写真が必要でね。このあたりの店はだいたい把握してるけど、なにか食べたいもの、ある? 高いのでもいいよ」

「え、あ、そうですね――じゃあ、ステーキで」

 そういうと、向井は吹き出し大いに笑った。「な、何かまずいこといいました?」

「いやいや、めちゃくちゃ面白いね、瀬戸さん。うん、いいね。ステーキ行こう、ステーキ。どうせ経費だ、いい肉食っちゃおう」


「焼き加減はどのようになさいますか?」――ほんとうにステーキ屋さんだ。レアかな、でもミディアムレアくらいの方が恰好いいかな。

 わたしのステーキ人生が処女航海へ出るそのとき、「ふたりともお任せで」と向井はこともなげにいった。紙エプロンをしながら、「焼き加減、いわなくていいんですか?」と訊く。

「うん、その日その日によって肉質や天候、自分が何番目の客かで一番おいしい焼き加減が変わるからね。こういうのはプロに任せた方がベターなんだ」

 なるほどと思いつつカウンターの向こう、目の前で肉を焼かれてゆくさまをわたしはじっと見つめる。

 焼かれた肉をひと切れ、口に運ぶ。「あ――」これまで食べていた肉がいかに繊維質だったか、歯がいらないなどという低脳なコメントが嘘じゃないこととか、でもそんなこともふた口めには忘れ去り、ひたすら肉を食べた。

「ああ、食べた食べた。おいしかったなあ。食後のコーヒー、飲む?」わたしはこくりとうなずき、向井のアイスコーヒーとわたしのホットコーヒーが運ばれる。

「わたし、初仕事が向井さんでよかったって思ってます。こう、なんていうか、もっとやばいひとに当たるんじゃないかと心配してました」

「ははは、まあ、ズルをしてるのは事実だけど、おれらのような存在があって成り立つ商売もあるからね。それで助かってる人もいるんだよね」そういいながら向井は伝票を手に立ち、会計に進む。

「九五五〇円頂戴します」食べたばかりなのに胃のあたりがきゅっ、となる。一食で五〇〇〇円も食べたのか。これはこれでよろしくない――それどころか、やばいんじゃないのか。

「アメックスで」わたしの意に反し、向井は涼しい顔をして銀色のカードをリーダーに通す。

「む、向井さん」

「ん? なに?」

「そ、それもプリカですか」

「うーん、ちょっと違うかな。これはふつうのクレジットカード。KMでは経費をプリカで落とすんだっけ? うちはクレジット。これ。この法人カードから落とすんだ。まあ、あまり大きな違いはないよ」

 太陽が一番高くのぼる時間に日除けのない道路を歩く。ちょっとお腹が苦しいけど、大人の仲間入りをしたような気分はなかなかよいものであった。

「しかし、暑いな」

「まだ五月なのに、異常ですよね。わたしの子どもの頃はこんなんじゃなかったのに」

「ははっ、瀬戸さんが子どもの頃からおれは仕事してたよ」

「この仕事、ですか?」

「いや、ふつうのサラリーマン。営業とか企画とかの花形じゃなくて、総務だったな。そこそこの規模があったからお金には困ってなかったけど」

「え、じゃあなんでこの仕事に――」

「平たくいうと、婚活かな、自分のね。前の会社ではなかなか出会いがなくてね。親も歳を取ったし、おれだっていい歳だ。こういうの、公私混同とか職権乱用はよくないけど――ちょっと興味が湧いちゃってね。業者さんの女性だけじゃなく、ほかの一般女性ともお話ししたかったんだ。でもそろそろ引退かな、とは思ってる」

「またサラリーマンに戻るんです?」

「まあ、ね。でもそれ以上に、瀬戸さんと話してて、なんというか、もっと早く知り合っていればよかったかな、とか」

 向井の歯切れが悪くなる。喫茶店に入り、アイスティーとレモネードを注文する。

「もちろん瀬戸さんが未成年だとか、普段は学生さんしてるとか、事情は知ってる。でも――」

 向井はテーブルの上、わたしの左手を取る。

「もしかしたら瀬戸さんに謝らないといけないかもしれない。おれ、向井なんかじゃなくて藤沢修吾っていうんだけど――瀬戸さんに一目惚れした、みたいなんだ」

 店内のノイズが遠ざかって、ものすごく困ったような、しかし慎重に言葉を選びつつ話す向井――藤沢がわたしの目を見つめている。

「で、でも」

「そう。いま高校生で、受験もあって、キャンパスライフもあって、就職して、その先々で瀬戸さんには居場所も可能性も、いくらでもある。それこそ無限にね。でも、おれには転職や恋愛や、人生の選択肢、自由は限られる。その限られた自由の中で、絶対に逃しちゃだめだ、中学生みたいに全力で告白しないと、おれの生きてる意味なんて風に飛んでってしまう。格好悪いよな、三十路男が女子高生に好きで好きでたまらないって懇願するの。でももう瀬戸さんのことが、好きなんだ」

 言葉を継げないままわたしはうつむいて必死に考える。告白されたこともされたことも、一度としてなかった。十七年生きてきて、この――藤沢のような一生懸命なまなざしが自分へ向けられたことがなかったのだ。

「わたし――でも、嬉しいです。ただ、藤沢さんとは釣り合わないと思います。お金もないし、家事もできないし」

「そんなこと期待してるわけじゃない。あ、いや、その、おれは――瀬戸さんのことが知りたい。知ってどうするって話だけど、このまま業務が完了して、連絡も取れなくなって、そうなったらおれは死ぬほど後悔すると思う。もちろん、今きみを困らせているのも知っている。なにせ、こうやって告白してる当人ですら困ってるんだ。おれもこんなの初めてでさ。その、もし、瀬戸さんさえよければ――」


 ふたりきりになれる場所へ行きたい。


 ショックで茫洋とした思路のまま、真昼間のホテル街を歩く。右手は藤沢が握っている。乾いて、温かく、大きな手だ。異性と付き合ったこともなければホテルに泊まったこともない。秋に修学旅行が控えているのがせいぜいだ。

 藤沢はわたしをシティホテルではなくラブホテルへと連れて行った。

「緊張、してる?」藤沢がエレベーターの中で気遣う。

「ええ、まあ――かなり」

「実はおれも。でも、痛かったり気持ち悪くなったらすぐにやめるから。一応訊いとくけど、初めて、だよね」

 無言でうなずく。

 誰にも出くわさずにその部屋に着いた。広い部屋だった。何年も前に家族旅行で行った温泉宿とは趣はがらりと違う、まさにそのための部屋だ。「さすがに一緒にってわけにはいかないと思うから、先にシャワー、浴びてきて」

 藤沢のいう通りにする。浴室の中でワンピースを脱ぎ、シャワーを浴び、股間や腋の下を剃刀で剃り、入念に洗う。緊張で吐きそうだ。胸を見る。大きい方でも小さい方でもない。肉付きはやや細いといえるか。もっと豊満な方が男性には受けると聞く。自分の胸の鼓動が体表からも見える。白いバスローブをまとい、部屋に戻る。「じゃあ、ちょっと待っててね」と藤沢が入れ違いにシャワーへとゆく。男性だからか、藤沢は短時間で上がってきた。


「あ、あの、瀬戸さん。引くかもだけど——」といって、藤沢はカメラを持って困った顔をする。普通のカメラじゃない。ビデオカメラだ。「初めての宝物にしたいから、撮っても——よくないよね、やっぱり」

 できれば藤沢の望みはかなえてあげたいし、痛みや不快感を覚えたらすぐにやめるとの言葉も信じていた。少し、惹かれはじめていたのだ。クラスの馬鹿な男子連中とはまるきり違う藤沢の気づかいに心を許し始めていた。

「え、いや――大丈夫、です」

 藤沢は心底申し訳なさそうにしながら、それでも内心の嬉しさはあるのだろう、複雑な笑みを浮かべ、「ごめん、ありがとう」といい、カメラの電源を入れた。

 ベッドに上がり、藤沢は手を取って「リードするから、大丈夫」といいながらわたしのメガネを外す。藤沢の顔が近づく。舌を入れられるのではと怯えていたが、ただ唇と唇を軽く、触れる程度に重ねるだけのキス。そのキスを繰り返しながら藤沢はヘッドボードで照明を操作する。

「え、明るいの、恥ずかしい」

「ああ、大丈夫。みんな初めては恥ずかしいもんだよ」といいながら、わたしの身体をそっと抱き寄せる。喉元へキスをされ、わたしの身体はぴく、と反応する。気持ちよさと気持ち悪さが半々で同居している。

 藤沢はわたしのバスローブを脱がすと、「きれい――瀬戸さん、すごくきれいだよ」といい、脇腹から乳房にかけて触れるか触れないかのフェザータッチをしてくる。

「それ、あの、なんか」

 わたしはその愛撫に堪えられなくなり、藤沢のバスローブを脱がした。

 絶句。背中だけではない、胸や腕も、要するに長袖を着なければ隠れない範囲の登り龍の刺青。

「そ、それ——」

「う、うん、ごめん――そうなんだ。いや、もう完全に足を洗ったけどね。すごく後悔してる。瀬戸さんを怖がらせて、心底後悔してるよ。馬鹿だった。でも、今はただの婚活おじさん。瀬戸さんに夢中の、ね。それだけは、信じてほしい」

 足を洗ったのか。なら、やばい人種ではないのだろう。藤沢はじれったくなるような愛撫やキスで優しくしてくれているし、ほんとうはいいひとなのだろう。そう思った。

 ――ぴちゃ。

 音のないふたりの部屋にわたしの音が不自然なほど大きく響く。「やっ――」藤沢はまるで最初から知っているかのようにわたしの弱い部分をなぞってくる。

「そ、そんなに、お、音立てないで」

「そういわれても――ここ、こうなってるのに」

 キスをしつつ胸と股間を同時に責め立てられる。わたしは荒い息をつきながら、裸眼でぼんやりとしている藤沢のペニスへ手を伸ばす。

「えっ」

 男性器が、いや、でもこんなの、入る訳がない。

 急に藤沢が足の方へ移動したかと思うと、わたしの股間を舌で愛撫してきた。足の裏がちりちりするような、電流が流れるような感覚に思わず声が漏れる。口を手で覆い何とか声が出るのを抑えようとする。

「瀬戸さん、初めてなのに感じちゃって、なんていうか――変な感じって思ってる?」わたしは両手で口を覆いつつ、こくこくとうなずく。

「それは」藤沢はふたりを覆っていた夜具をはねのけ、わたしの裸体を見下ろす。「それは、一番のひとに、一番のことをしてるからだよ。ある程度は経験もあるけど、でも相手が瀬戸さんだからってのが一番大きいよ」

 そうか。それもそうだ。藤沢にも隠したい過去のひとつやふたつ、あるのだ。それらをもってしても、わたしへの好意は覆せなかったのだ。そう思うと藤沢が愛おしくなり、このまますべてを委ねてもいいのかもしれないと思った。ファーストキスをした。乳房を撫でられた。股間を手で、舌で愛撫された。腋の下を舐められた。耳孔に舌を挿れられた。勃起したペニスを触った。そして――。

 藤沢はヘッドボードの避妊具を取り、手品のように口と右手で開け、ペニスに着ける。「瀬戸さん――」

「――みひろ」

「え?」

「みひろ、って呼んで――ください。初めてなのに、苗字じゃ、いやです」

「わかった。みひろさん、じゃあ、ゆっくり入れるね」

 ――激痛だった。声が我慢できないほどの痛み。破瓜の痛みは個人差が大きいらしいが、でも、これはありえない。こらえてもこらえても涙が出てきた。

「あ、ご、ごめんね。馴染むまで絶対に動かないから――キスはしても、いい?」

 しかし、そこにあるだけでも痛い。キスのために藤沢が上体を屈ませると角度がつき、痛みはさらに強くなった。ほんとうに泣くかもしれないと思った。ここで藤沢はやめるだろうか。やめると思った。期待と推測がないまぜになった――祈り。

 でも、きょうのわたしは藤沢にしてもらったことばかりで、少しも彼の役に立っていない。それに、この痛みも一度は味わう通過儀礼なのだろう。

「ゆっくり――入れて」

「い、いいの? 今日が最後じゃないのに、大丈夫?」

「わたし、藤沢さんを気持ちよくしてあげたい。でも、その、馴染むまではゆっくり、入れて」


 その後、たくさんのローションで潤滑させて何とか入るだけは入った。中で動かすまでは時間がかかったが、少しだけ気持ちいいような気がした。わたしとて健全な若者だ。性欲くらいはある。だからってこんな大きなものを入れるような用意はしていない。

 ゆっくりと藤沢が動く。中の様子はよく分からない。ただただはち切れんばかりの異物感と痛み、それからわずかな快感があった。

「みひろ、痛くしてごめん、大丈夫? 痛みだけど、気持ちよさが上回るとあんまり感じなくなるんだ。だから――ちょっと試しで動かしてみるけど、いい?」そう藤沢はいうや否や、わたしの骨盤のあたりをつかみ、猛然と腰を振った。


「あ、ああああー! いや、いやあー! 痛い! 痛い! お願い、やめてえ! やめてえー! 痛い、許して——なんでもするから、なんでも、する――」


 地獄だ。もしくはその夢を見ているかだ。早く目覚めないと、そうでなければわたしは、


 死ぬ。


 叫びすぎてむせ込み、声は嗄れ、裏返ってもなおわたしは何回も何回も叫び、お金も全部あげるといい、許しを乞うても藤沢は動きを止めなかった。このままだと死んでしまう。空いた両手で藤沢の目を突こうとするが、反対に手首を掴まれ押さえ込まれる。藤沢はより激しく猛然と、わたしをクッションか何かのように扱った。急に藤沢は息をつき、ソファの方へと歩く。煙草に火をつけ、くわえ煙草のまま出入口の方へ向かう。

「ああ、なるほどな」

 怖い。怖い。怖い。切迫した生命の危険だ。ヤクザが、本物のヤクザ、ヤクザが素人の女の子を漁るのだ。口封じに何をされてもおかしくない。薬漬けにされたり、殺されたりするのかもしれない。自分は殺されるのだ。殺されるのだ。それも最大限の苦痛を伴って。口で大きく息をする。何度も何度も深呼吸するうちに、息は早く、浅くなる。

「――ひっ、ひっ、ひっ、ひっ」

 過呼吸だ。薄ぼんやりとした意識のなかでそう自覚する。

 体を血まみれのシーツで隠し、わたしは次第に意識が遠のくのを感じる。涙が止まらない。唾液も垂れているかもしれないが、よく分からない。もういい。死にそうだったけど、今はもういい。死んだ方がいい。

「おい、なに今になって喘いでんだよ」

 わたしは文字通り死力を尽くし、この悪魔に「――え?」と尋ねる。

「ラブホってのは部屋で清算しないと外に出られないんだけど、ここ、アメックス使えないっぽいんだわ。現金もほかのカードも今はないし――あ、そっか。ひろみ、お前のプリカ、出せよ」


 違う名で呼ぶ、ホテル代を払わせる、処女をレイプし、その様子も録画する――このバイトは、いや、この世界はとても怖いところなんだ。狼の巣へ、わたしはなんの疑いも準備もなく放り込まれた。


 わたしは学校へ行かなくなった。休学か退学か、どちらでもいいが届を出す必要があるらしい。どうでもよかった。母の膝で泣き、父に泣かれた。弟とは口を利かなくなった。もういい。もう何でもいい。


「瀬戸みひろです。仲村さんとお話しできませんか」

 雑居ビルの三階、KMコンサルティングの受付に両親と一緒に立つ。応接スペースに通され、ややあって仲村が出てきた。「ああ、瀬戸さん。お久しぶり。初仕事お疲れさま。だいたいのことは聞いてるよ」

「わたしがレイプされたことも、ですか」

「えっ、レ――そんなことされたの? どこで?」わたしは向井という男とホテルの名前、その他を記憶の限り仔細に伝えた。忘れるはずがない。

「ああ、そうかあ。初めてだとそうなんですよね。でも合意の上でなんでしょ? 払いも瀬戸さん持ちだそうだし、ということは部屋から逃げるだけのお金があったんだし、そこまで条件がそろうと、法的には抵抗しづらいなあ」

 と、仲村は意にも介さず話した。

「じゃあ、向井――藤沢修吾って人は」

「ああ、あの人は会社が別だから、うちではどうとも。うちはあくまでも街コン終了まで。そのあとは君と藤沢さんの間で起こったプライベートなことだから、社が介入するのは難しいなあ」

「――ともかく、わたしはこの仕事、辞めます。違反金がいくら発生しようと、絶対に辞めます」


 深夜。高校を辞めた日だ。

「くそ、くそ、くそ!」

 近所にできた牛丼屋に行く。大盛を発券する。「ねえ! たまごと大葉!」わたしと同年代だろう、まだあどけない店員に向かって叫ぶ。「あ、はあい。食券を買ってやってくださあい」

 盛大に舌打ちし、券売機に行き、トッピングのボタンを何度も何度も強く押す。「はい、これ!」店員に渡す。


 なにがいけなかったのか。大人になった今も悔恨の念が渦巻く。自分なんかが行くべき世界ではなかったこと。自分があまりに無知だったこと。そのすべてが自分に落ち度があった。

 アメリカに設置されたサーバーからは録画の一部始終が修正もかけられず有料配信された。間もなく学校に露見し、学籍も何もかもが駄目になった。

 興信所によると、KMコンサルティングはアダルトビデオ制作会社として法人登記されており、暴力団との結びつきが非常に強く、わたしのような無知な十代が狙われやすい、ということが分かった。

 当然、弁護士も立てた。管轄裁判所がアメリカだったので、完全成功報酬制のその国際弁護士と契約した。ヒアリングが何年も続き、わたしは精神を蝕まれていった。精神科へ入退院を繰り返し、ヒアリング困難との原告理由で訴訟は取り下げられた。ただいたずらに弁護士費用がかさみ、その払いで父の早期退職金が吹き飛んでいった。


 結局、牛丼を完食してしまった。げふ、と大きなげっぷをする。「う、うう」

 この先の人生で、いいことも悪いこともあるだろう。「ううう、ああ、ああああ」

 そのどれにも堪えられる自信もないし、しかし、そのどれをも乗り越えてゆかなくてはならない。「うう、ああ、ああ――あああ」

 カウンターで泣き始めたわたしだが、しかし立ち上がって鞄を手に店を出る。雪に打たれながら「くそがあああああ!」と叫ぶ。


 でも、嫌いなトッピングばかりを載せた牛丼を食べて泣くのはやめにしよう。牛丼の誤った使い方だ。いまはお腹いっぱいどころか胸やけがしているけど、こんど来たらちゃんとネギ塩丼を食べよう。それが牛丼屋の正しい使い方だ。


 家に、帰ろう。


――了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

牛丼 煙 亜月 @reunionest

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ