春分の月

木口まこと

全1話

 こうして地球は永遠にそこに留まることになった。こどもの頃にそう教わった。それは人類の大いなる決断だったのだと教科書に書いてあった。

 わたしは歩いて空までのぼりたかった。

「空まで届く階段があるのを知ってた?」その夜、ベッドの中でフランツに尋ねた。

「なんのこと?」と彼が言った。フランツは三七歳。わたしより三つ下だ。量子コンピューターで何かのデータ処理をやってるけど、仕事の詳しいことは話してくれない。恋人にも言えない「シュヒギム」ってやつだ。

「あのね」わたしはブランケットを胸の上までたくし上げて、ベッドに座った。

「高度八千メートルのところに階段があるんだって。ネットに出てた」

「空まで?」フランツも起き上がって、わたしの裸の肩を抱いた。

「そう、空まで。ひとつだけあるらしいよ」

「それはロマンチックだ」彼が顔を寄せて頬にキスをする。

「のぼってみたい」わたしが言うと、彼はちょっと驚いたような顔をした。

「何千メートルものぼるってこと?いくら階段があったって、足でのぼる人なんていないでしょ。空に行くだけなら、飛べばいいじゃない」

 彼はリアリストだ。目的地があるなら、最短の手段でそこを目指す。空へ行く人は多くはないけど、ひどく珍しいわけでもない。日本からのツアーだって、探せば見つかる。フランツならそれを選ぶだろう。

「何年か前にのぼった人がいるのよ。行ってみない?」同意されないだろうとは思ったが、誘ってみた。

「リツコは夢を見るのが好きだね」そう言って彼はブランケットをはねのけると、わたしに覆いかぶさってきた。わたしは彼の背中に手を回した。


「春分の日がいいよ」リンゴをかじりながら、フランツが唐突に言った。わたしはチーズを乗せたバゲットを口に運ぶ手を止めた。

「春分?」とわたし。

「空まで歩いて行きたいって、おととい言ったじゃない」彼が続ける。「春分の夜明けなら遷移が見られる。来年の春分に合わせてさ、今からトレーニングしよう」

 もしかするとわたしは少し間の抜けた顔をしたかもしれない。それから「ああ」と声を上げた。わたしの夢のような話を彼が本気で考えていてくれたのがうれしかった。

「のぼるのにどれくらいかかるの?」彼が訊いた。

「片道二週間くらいだと思う」わたしが答えた。「春分に合わせるのなら、その三週間ほど前に出ないと」

「トレーナーを頼んで、ぼちぼちと装備を揃えなきゃならないね。調べてみたけど、手続きがいるんだね」

「許可がないと階段をのぼらせてくれない。審査があるのよ」

「審査ならたぶんなんとかなるよ」と彼がこともなげに言った。

「あてがあるの?」

「シュヒギム」

 つまり、フランツにはあてがあるのだ。ただの憧れがにわかに現実に近づくのを感じた。トレーニングを始めなくては。やることはたくさんある。


「僕のひいひいおじいちゃんが火星から戻ってきたんだよ」出会ってしばらく経った頃にフランツがそう打ち明けてくれた。「現在に残るほうを選んだんだ。永遠の眠りの側」

「火星に残った人たちは、今はどうしてるのかな」とわたし。その日のわたしたちはちょっとほろ酔い気味だった。

「百年ちょっと未来で、たぶん恒星間飛行の宇宙船を開発してるんじゃないかな。永遠の眠りを避けて地球から移った人たちと合わせて五億人くらいいるはずだよ。みんな未来に行ったんだ」彼が言った。

 火星から戻った人たちも何千万人かいたと聞いている。どちらが正しかったわけでもないだろう。フランツの祖先が戻ってきたから、わたしたちは出会えたのだ。ひいひいおじいさんに感謝しなくちゃならない。

「残念ながら」と彼はちょっと声をひそめた。「火星人への差別や偏見はあったらしいんだけどね」

「同じ人間なのに?」とわたし。

「人類の連帯感みたいなのが生まれたのは、永遠の眠り計画が進んでからなんだよ」彼が言った。

 私は彼を見つめた。彼は身を乗り出してわたしに顔を寄せ、右の頬にキスをした。

 その日初めてフランツのフラットに泊まり、一か月後には自分のフラットを引き払って、彼と暮らし始めた。


 高山専門のトレーナーを探すのにちょっと苦労した。今どき高山にのぼる人は少ない。

 どの山を目指すのか聞かれ、階段だと答えたら、ちょっと驚いた顔をしたあと、「それはすばらしい」と笑った。それから真顔になって「私は経験がありませんが、とにかくどの山よりもはるかに上ですから、きついのは覚悟してくださいね」と警告してくれた。

 これから毎週末はフランツとトレーニングだ。


 地球が永遠にここに留まることを選択した時に月面都市は放棄された。月単独ではやっていけないからだ。火星は地球から独立したシステムを築いていたので、独自の道を歩むことになった。どのみち、地球と火星では公転周期が違う。その時に地球は宇宙開発を放棄したのだ。永遠の「引きこもり」と宇宙開発とは両立しない。

 火星は宇宙への道を選んだ。火星を選んだ人たちとはもう連絡を取る手段もない。彼らはいつか宇宙のどこかで別の生命に出会うかもしれない。それをうらやましく感じるときもある。

 地球がどうして宇宙への道ではなくこの道を選んだのか、ほんとうのところはわたしには分からない。それは既に歴史だ。


 トレーニングをはじめて三か月ほどはきつかった。普段からフィットネスはしてるはずだったのに、何時間ものぼりつづけるのはからだの使いかたが違うらしい。

 寒くて空気が薄いトレーニングルームで専用のスーツに身を包み、鼻と口を覆ったマスクから酸素を吸いながら、昇行トレッドミルをただひたすら歩き続ける。その様子を思うとちょっと笑えるけど、二時間のトレーニングのあとはへとへとになった。

 インドア派だとばかり思っていたフランツは意外にもトレーニングと相性がよかったようだ。メニューを軽々とこなして、夕食も旺盛に食べ、夜はわたしのからだを激しく求めた。わたしは彼に身を任せて揺れ続けたが、それも悪くはなかった。

「どうしてトレーニングのあともそんなに元気なの?」とバスタブの中で訊いたことがある。

「楽しいからかな、たぶん」分かったような分からないような答えが返ってきた。


 フランツは月に一度か二度出勤する。国連系のシンクタンクだ。彼の仕事ならそんなに行かなくたってよさそうなものなのに、「気分の問題」と言って律儀に仕事に行っている。「シュヒギム」と関係あるのかもしれない。どれほど暗号が堅くても通信回線に乗せるわけにいかない秘密はあるに違いない。

 わたしは週に一度出社する。実際にものを設計する仕事となると、現物に触れないわけにはいかない。それに、いくら毎日やりとりをしてるとは言っても、仲間たちと直接顔を合わせるのはまた別だ。

 同期のライハネとふたりきりになったときに、計画を打ち明けた。彼女とは十年前に恋人同士だったけど、一年弱でお互いに合意の上で関係を解消した。相性にもいろいろあって、彼女とは恋人より友人関係が向いていたのだ。

「階段があるのは知ってるよ」コーヒーを口に運びながら、彼女が言った。「なぜそんなものが作られたのかは知らない。足でのぼりたいなんて普通は思わないよ。リツコはやっぱり変わってる。ていうか、あなたは変わらないね」

「行くだけなら、フライヤーで行けるのは分かってる」とわたし。「でも、そんなものがあるなら、どうしても自分の足でのぼってみたい。なんか、そうしなきゃならない気がするの。理由は特にないんだ」

「リツコは古風なんだよ。昔はたくさんの人が自分の足で山にのぼった。山があるからのぼる。階段があるからのぼる」彼女が微笑んだ。「いいと思うよ。自分の足でのぼって、自分の目で見てくるといい。あなたは今も最高だよ」

「おみやげはないよ。そのかわり、空から写真をメールするよ」わたしは彼女の空いてるほうの手を握った。

 それ以来、ライハネは会うたびに「準備はどう?」と訊いてくる。彼女なりに心配してくれているのだ。

「順調」とわたしは答える。「トレーニングにも慣れてきたし」


 太陽の寿命が尽きるまで数十億年は残されていると考えられていた。それが実は一億年もないと分かったのは前々世紀の終わりだ。太陽のエネルギーがどこか未知の空間に漏れ出していると学校で教わった。漏れ出す先がどこなのかは未だに解明されていない。

「僕たちの宇宙と量子的に絡み合った別の宇宙があるんだよ」それがフランツの持論だった。「太陽エネルギーはそれを通じて向こうに流れてる」

「そんなことがどうして分かるの?」ある時わたしはフランツに訊いた。

 彼は肩をすくめた。「量子コンピューターで仕事をしてると、そういうのもあり得るっていう気になってくるんだよ」そして、ちょっと真面目な顔になった。「いくつもある仮説のひとつだ。真剣に検討してる研究者もいる。少なくとも僕たちは未来のどこかから量子的にエネルギーをもらってきてるじゃない。だから、エネルギーが量子的に漏れててもおかしくないし、その先が別の宇宙だっていいんじゃない?」

 彼が言いたいことは分かる。量子的にエネルギーを受け渡せることは学校で習う。それは永遠の眠りの基盤でもあるからだ。でも、別の宇宙はあって構わないけど、エネルギーを吸い取られるほど強く絡み合っているというのは、わたしにはちょっと信じがたい。

「別の宇宙はどうかなあ」とわたしはいつものように懐疑的な声をあげる。

「別の宇宙にも僕とリツコがいてさ」フランツが言った。「やっぱりこうやって愛し合ってるんだよ。絶対にそうだよ」

 フランツは時々ロマンチストになる。彼にとってのロマンチックはとても量子論的だ。わたしは人差し指で彼の唇に触れた。


 往復一か月かけて空まで行って戻るとなると、装備もそこそこ大がかりになる。技術が進歩したからといって、生身の人間が強くなったわけではないから、寒さと低い気圧に耐えるためのスーツは必須だ。それから、酸素のコンデンサー。薄い空気の中から酸素を集めて呼吸できる圧力にする。食料は一か月くらいならタブレットと携行食でやっていけるだろう。おおものはテントだ。毎日組み立てと撤収を繰り返す。装備一式をふたりで分担して運ぶ。

 トイレはいささか問題だった。そんなことを書いた資料はなかなか見つからない。

「軽い樹脂で固めて地上に落とすんだよ」フランツが言った。「落ちるあいだに分解して、風で流される」

 たしかにそれしかなさそうだった。

 トレーニングと仕事の合間を縫って、少しずつ装備を揃えていった。ずっと先のことのように思っていたけど、時間は意外に早く過ぎていった。

 フランツとわたしは毎晩のようにセックスをした。「出発したら、一か月半くらいできないからね」わたしに腕まくらをしながら、彼が言った。「そうね」とわたしは笑った。


「時間転送」は驚くべき計画だった。そんなことがどうして実行できたのか、いまだに分からない。とにかく、紛争が絶えなかったはずの人類が団結したのだ。

 ひとつの理由は火星だった。時間転送による「引きこもり」をよしとしない人たちは火星への移住を選択できた。それまでに火星は充分に自立できる大きな社会を築きあげていた。

 もっとも、火星の存在だけで全てが説明できるとはわたしも考えていない。当時の人たちが何をどう考えたのか、記録映像を見てもほんとうのところは理解できない。

「集団ヒステリー」とライハネはあっさり言ってのけた。「あまりのことに、みんなおかしくなったんだよ」

「ライハネは時間転送が嫌なの?」わたしは尋ねた。

「わたしなら宇宙を目指す」彼女が答えた。「閉じ込められてるのは気にいらない。情報さえ外には出ていかないんだよ」

「この永遠の引きこもりを終わらせる時がくるかな」とわたし。

「くるよ」彼女が即答した。「人類が空を開け放って、宇宙に出ていく日はくる。太陽を捨てて火星のあとを追うんだ」

 ライハネの目は未来を見据えている。彼女の言葉をわたしはそれから幾度となく思い返した。


 職場には二か月休むと告げた。連絡アドレスはライハネにだけ教えた。

 呆れたことにフランツは仕事を持っていくのだと言う。「時々経過をチェックしないといけないんだよ」とフランツ。

「二か月も休めない仕事だなんて」わたしは文句を言った。

「シュヒギムだからさ」と彼は答えた。

 階段をのぼる申請は彼が出してくれて、よく分からないが、あっさりと許可がおりた。シュヒギムの威力に違いない。

 そうこうしているうちに、出発の日はきた。ふたりで暮らしたフラットとも一か月半ばかりのお別れだ。戻ってくる時にはだいぶ暖かくなっているだろう。


 カトマンズまでは空路を行った。そこの安いホテルにふた晩泊まり、ひと晩めは夜の街で飲んだ。これでしばしの飲みおさめだ。それからもちろん最後のセックスをした。

 翌日はホテルでのんびりとすごし、装備の最終点検をした。

 カトマンズについて三日目の朝、車がホテルまで迎えにきた。機場までは一時間強の道のりだった。

 フライヤーの会社にはあらかじめ目的を伝えてある。

「珍しいかたもいるものですね」飛行士はわたしたちを見るなりそう言った。フライヤーで客を空まで直接連れていくことはあっても、階段で降ろした経験はないという。

「古風なんですよ」ライハネの言葉を思い出して、わたしは答えた。

 フライヤーはわたしたちと装備を積んで、ふわりと離陸した。


 空の旅なら慣れている。地面が離れていくのはそれほど珍しい眺めではない。だからわたしはフライヤーの天井にしつらえられた窓から上空を見上げた。階段が見えないかと思ったのだ。

「まだ見えないよ」わたしの意図を察してフランツが言った。「階段なんて細いものだから」

 だから、わたしたちはとりとめのない話をした。フランツはずっとわたしの手を握っていてくれた。彼がわたしと夢を共有してくれてるのかは今も分からない。たぶん、彼はわたしがしたいことならなんでも一緒にやってくれるのだと思う。

「階段が見えますよ」一時間ほど飛んだ頃にインターコムから声がした。天井の窓から見上げると遠くに細い棒のようなものが下がっているのが目に入った。わたしたちはあれを目指すのだ。


 太陽の寿命が予想より短かったとはいっても、一億年近く残っているならできることはいくらでもあっただろう。その中で、永遠の眠りはもっとも荒唐無稽なアイデアだったはずだ。なにしろ実現するための技術基盤がどこにもなかったのだから、どう考えたってただの夢物語だ。

 理論的裏付けは思いもよらないところからやってきた。それは量子コンピューターの巻き戻し技術と呼ばれるものだった。

「量子計算は逆転可能なんだ」フランツが説明してくれたことがある。「2足す3は5だけど、5は2足す3とは限らないじゃない。1足す4かもしれない。これは計算の不可逆性なんだ。もとの数は分からない」

「可逆計算のことなら勉強したことがある」とわたし。「足し算のもとがなんの数だったかをたどれる。少なくとも原理的には」

「実際、量子コンピューターは逆計算できて、元の状態に戻せるんだ。条件は計算結果を観測しないこと。観測は不可逆過程だから」

「観測しなければ役に立たないじゃない」とわたしは指摘した。観測しない計算なんて、何もやってないのと同じだ。

「それが巻き戻し技術の面白いところでね」フランツは淡々と続けた。「計算結果は分からなくても、計算を進めてから戻したという事実は残るんだよ。それは何もしなかったのと同じではないんだ」

 その時わたしはなんだか煙にまかれた気分になったのを覚えている。


 フライヤーは階段の最下部にあるプラットフォームに着地した。わたしたちはそれぞれの装備一式を降ろし、忘れものをしていないか最後にもう一度キャビンを見回してから、プラットフォームに降り立った。

「お気をつけて」と飛行士が声をかけてきた。

「戻りは連絡します」わたしは答えた。

 飛行士が手を振って、フライヤーがプラットフォームを離れた。

「さて」とフランツが声をあげた。「ここからはふたりきりだ。無理せずに行こうか」

 間近に見る階段は圧倒的な大きさだった。カーボンナノチューブを束ねた繊維が直径何十メートルかの柱を作り、広い階段がそれに巻きついている。わたしたちは装備を背負って、目の前の階段に一歩を踏み出した。


 ゆっくりと二時間弱のぼり続けて、休憩を取る。段に腰をおろして、装備からお茶のセットを取り出す。空気中の水分を集めてお茶を入れた。フランツは日本のお茶が好きだ。コーヒーよりも紅茶よりもいいのだと言う。

「マスクがちょっと邪魔だね」とフランツが笑った。

 手すりから身を乗り出して、下のほうを見てみた。のぼってきた階段は見えるが、その下は雲に霞んでいる。ここは雲よりも上なので日差しが強い。空は日差しを遮らず、殆どの波長の光を透過させる。見上げても空の格子は見えない。まだはるかかなたにあるのだ。

 三十分ほど休憩して、またのぼり始めた。二時間のぼって、三十分休む。一日に三回それを繰り返すというのが計画だったが、初日は二ラウンドめで夕刻になった。長い旅だから、無理はしない。

 階段のところどころに広いテラスが作られている。わたしたちはそこにテントを張った。はじめからここに何かを据えることを想定しているのだろう、土台にはいくつものフックが用意されていた。テントをフックに固定して、寝支度をする。加圧されたテントの中で初めてスーツを脱いで、楽になった。

 わたしたちは睡眠導入剤を飲むと、抱き合って泥のように眠った。

 翌日も同じ行程が続いた。二時間ほどのぼって三十分休む。

「思ったより楽しいな」フランツが言った。

「ひとりではとても無理よね」わたしが答えた。

 夕刻までに予定通り三ラウンドのぼった。

 

 特殊なエネルギー構造を持つ薄い結晶でつくられた空は対流圏の最上部で地球全体を覆っていて、それより少し上までの空間は時間の流れから守られている。こんな巨大なものが建造されたのは驚きだ。原材料は主に地下から掘り出されたが、一部は月から運ばれた。力学的な安定性はスラスターで保たれている。

 一年経つたびに、地球は一年過去に戻る。その時間遷移から人間を守るのが空の役目だ。

「時間遷移の概念はそんなに難しくないんだよ。量子コンピュータの巻き戻し技術を地球全体に応用してるんだ。一年前の地球との量子相関を使う」そうフランツは言うのだが、わたしは完全には理解していない。

 もちろん、時間遷移で何が起きるのかは学校で習う。毎年春分の日がくると、地球は一年だけ過去に戻される。でも、空に守られた地球の上ではなにごともなかったかのように時間が進み続ける。

 だから、地球から見た太陽は決して歳を取らない。太陽に限らず、宇宙のすべてはたった一年間のできごとを繰り返すだけだ。太陽の寿命が一億年もなかろうと、いや、それが仮に数百年しかないのだとしたって、地球に住んでいる限り、その日は決して訪れない。

 宇宙から見れば、ある日突然地球が消え失せたように映ったはずだ。地球は相変わらず一年周期で太陽を回っているけれども、ずっと同じ一年間に留まり続けている。永遠の眠りと名付けられた所以だ。

「ねえ」とフランツに小さく声をかけてみたけど、寝息が聞こえるばかりだ。わたしもいつか眠りに落ちていた。


 単調な行程が続いても、フランツとふたりなら退屈はしなかった。わたしたちは今まで話したことがなかったようないろいろな話をした。彼とはもう何年も一緒に暮らしてきたのに、知らなかったことはまだまだある。

「こういう極限状況でふたりっきりだとさ」ある時、フランツが言った。「険悪になっちゃうこともあるんだよね」

「わたしは楽しいな。あなたのことをいろいろ知れてよかった」わたしは答えた。

「楽しいよね。来てよかった」彼が言った。

 見上げると空の格子構造が見分けられるところまで来ていた。


 同じ一年を何度も繰り返しながら地球上では時間が普通に流れていくというのはパラドックス的だ。同じ太陽からのエネルギーを何度も使うのだとしたら、まるで永久機関だ。

 巻き戻しと並んで重要な技術が量子エネルギー・テレポーテーションだった。わたしたちは未来の宇宙のどこかからエネルギーを掠めとっている。永久機関ではないのだ。

「みんなエネルギーにばかり気を取られるけどさ」フランツが言ったことがある。「量子エネルギー・テレポーテーションと対になるのが量子エントロピー・テレポーテーションなんだよ。発生したエントロピーを未来の宇宙に捨てるんだ。意外に知られてないよね」

 わたしは聞いたことがあったけど、たしかにエネルギーに比べると注目してこなかったように思う。

「エントロピーを捨てなかったら、地球はゴミだらけになっちゃうよ」彼の言葉にわたしはうなづいた。


 無理をしないという方針がよかったのだろう、わたしたちは春分の日の前々日に、最後と思われるテラスに到着した。空の格子はもう手が届きそうなところにある。そこにテントを張った。

「UTCで春分の0時が遷移の時間だよ」フランツが言った。

「今日のうちに一度出てみたいな」とわたし。

「どうかなあ」と珍しく彼が躊躇した。「スーツを着ているとは言っても、外は放射線もあるし、長居しないほうがいいと思うんだ。四時間くらいに留めたい」

 だからわたしたちは遷移の二時間前に外に出ることに決めて、その午後はお茶を飲んだり、写真を撮ったりして過ごした。ふたりの写真をたくさん撮って、ライハネにメールで送った。「明日の晩、上に出ます」と書いた。

 夜、彼女から「幸運を」と書かれたメールが届いた。わたしたちはまた抱き合って眠った。


 翌日の昼はだいたいテントの中でゆっくり過ごした。フランツにいたっては午後じゅう昼寝をしていた。わたしはまたライハネにメールを書いて、フランツの寝顔を見ていた。

 真夜中一時。いよいよ活動開始だ。テントや装備一式はテラスに置いて、身軽な格好で最後のひとのぼりにかかった。

 一時間ほどで最上段に到着した。少し屈まないと頭が空に当たる。

 フランツが右手の手袋をはずして、手すりのセンサーに手のひらをかざした。ラッチが外れる音がしてから、モーター音とともに空に窓が開いた。そこから夜空が見えている。

 まずフランツが枠に手をかけて、空に上がった。それから、わたしを見下ろして「大丈夫だよ」と声をかけた。

 わたしも枠に手をかけ、からだを持ち上げた。途中からフランツが手を貸してくれて、空の上に出た。

 フランツが空に寝転がったので、わたしもその横に並んだ。

「ほら」と彼が上を指さす。満天の星だった。月が眩しく輝いている。「あと二時間」彼が言った。わたしは彼の手に自分の手を重ねた。


「ねえ」フランツに顔を向けて声をかけた。「どうして人間は宇宙をあきらめちゃったのかな」

 彼がこちらを見つめる。

「リツコに秘密を教えてあげるよ」彼が言った。「これはシュヒギムに関わるから、聞いたら忘れて」

「今だけの秘密ね」わたしは答えた。

「量子エントロピー・テレポーテーションには限界があるんだ。すべての余剰エントロピーを運び出すことはできない」

「どういうこと?」とわたし。

「つまりさ、永遠の眠りについている間も地球には余分のエントロピーが溜まり続ける。永遠の眠りは実は持続可能じゃないんだよ。僕たちのデータ解析で分かった」

「この状態を永遠には続けられないの?」

「そう、いつか破綻する。だからさ」フランツがわたしの手を握りしめた。「人類はいつか永遠の眠りから覚めて、宇宙を目指さなくちゃならなくなるんだよ」

 わたしは飛び起きた。「そうなんだ」と叫ぶ。

「もちろん、ずっと先のことだけどね」フランツが言った。「僕たちがいなくなって、さらにずっと先の話」

「でも、いつかは宇宙を目指さなくてはならないのね」

 ライハネは正しかったのだ。わたしは高揚する気持ちを抑えられなかった。


「そろそろだ。月を見て」フランツが言った。空は白んできてるけど、月は相変わらず眩しく輝いている。しばらく見ていると、それがふっと消えた。

「あっち」彼が反対側を指さした。月齢の違う月がそこにあった。

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春分の月 木口まこと @kikumaco

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