第31話:そして僕たちはその言葉を口にする
此花さんがいつも使っている駅は、僕が今まで下りたことのない駅だった。
北口側にはマンションやアパートが建ち並んでいて、南口側には商店街……というか飲み屋街? いくつもの焼き鳥屋とか立ち飲み屋が軒を連ねては、真昼間だというのにどこもお客さんで溢れかえっている。
その中を僕たちは懸命に走った。
飲み屋街と言ってもいわゆるのんべぇ横丁的な狭苦しさはなく、道はむしろ僕の街にある商店街よりも広々としている。
なんでもここを抜けた先に別の路線の駅があるらしく、その乗り換えで朝と夕方は結構な人通りになるからこんなに広いんだという。
もっともそれは後で聞いた話で、今はとにかく此花さんの家に急ぐことしか考えていなかった。
此花さんの家はそんな飲み屋街を抜けて、さらに五分ばかり走ったところにあった。
ここまでくると駅前の騒々しさはなりを潜め、お屋敷然とした昔ながらの平屋建ての家や、最近建てたと思われるモダンな佇まいの家屋が混在する、日本のあちこちで見られそうなよくある住宅街が静かに広がっていた。
「お母さんっ!」
その中のひとつ、庭の芝が綺麗に手入れされている家へ、此花さんは呼び鈴も押さず、財布から鍵を取り出して開錠すると靴を玄関たたきへ放り出すようにして飛び込んで行く。
僕も同じようにとはさすがに出来なかったので、靴を丁寧に脱いでから小さく「お邪魔します」と言ってから後に続いた。
ふと玄関横にあった大きな姿見に目が行く。
僕がはぁはぁと激しく息を切らしていることに、その時になって初めて気が付いた。
「どうしよう、高尾君っ! お母さん、寝室にいないよっ!!」
二階を確認し終えた此花さんがドタバタと騒がしい音を立てて降りてきた。
その足取りが妙に危うい。此花さん自身は気が付いていないみたいだけど、足がぷるぷると震えている。
「此花さん、足元気を付けて!」
「どうしよう、お母さんどこに行って――あっ!?」
言っているうちから残りあと一段というところで、此花さんが足を踏み外した。
上半身がぐらりと後ろに傾き、懸命にバランスを取ろうと腕を回すも一度崩れた態勢を整えられそうにない。
ならばと僕は手を懸命に彼女へと伸ばした。
「……あ」
次の瞬間、此花さんの声が僕の胸元から聞こえてきた。
間一髪で指が彼女の腕を掴み、力の限り引っ張った結果だ。
「大丈夫? 怪我はない?」
「あ、はい……大丈夫です。……ありがとうございます」
「無我夢中だったから気が付かなかったけど、僕たち結構体力ギリギリ――あ」
不意に足の踏ん張りが効かなくなって、ガクンと膝が折れた。
どうやらギリギリだった体力が此花さんを引っ張り込んだところで0になったらしい。
「うわぁぁぁ!!」
「あわわわわっっ!?」
情けなくも今度は僕の身体が後ろに傾く番となった。
此花さんに支えてもらえたら良かったんだけど、勿論期待できるはずもない。それどころか彼女はまだ僕の胸の中だ。
こうなったら此花さんが怪我をしないよう僕が全身全霊を持って受け止め、お尻を床に強打する覚悟を決めた――のだけど。
「あんたたち、何してんの?」
突然誰かに僕の背中を支えられて事なきを得た。
地獄に仏とはまさにこのこと。
「それにしても最近の子は凄いわねぇ。親が家の中にいるってのにそんなことしちゃうんだ?」
いや、違う。一難去ってまた一難だ、これ!
「どうもどうも、咲良の母です」
此花さんちのリビングのソファは、僕の家のと違ってふっかふかだった。
それこそお尻が知らぬ間に埋めり込んでいて、立ち上がる時にはハマって抜けないんじゃないかと思わずそんな心配をしてしまう。
うん、率直に言って僕は混乱していた。
目の前でニヤニヤと意味ありげな表情で僕を見つめてくる此花さんのお母さん、その想像していたのとはまるで違う姿に。
僕はてっきり見るからに病弱で、おとなしそうな人だとばかり思っていた。
それがどうだろう、確かに身体は細くて華奢だけど病弱というよりかは引き締まっている印象で、顔色、髪の艶とも健康そのもの。
おまけにさっきの挨拶だって、右手を軽く頭上で振って気さくなものだった。
「おっす! オラ、咲良の母親! よろしくなっ!」って今にも言ってきそうなノリだ。
「で、君の名前は?」
「あ、すみません。高尾一真と言います。此花さんとは同じクラスです」
「一真君ね。へぇ、それでふたりはやっぱりそういう関係なの? オラ、ワクワクすっぞ!」
うわ、本当に言っちゃったよ、この人。ちょっと苦手かもしれない。
「ええっと、その此花さんとはその……」
「お母さんっ、それよりもどうして電話に出てくれなかったのっ!?」
どう返事したものかと窮していると、隣に座っていた此花さんが突然声を荒げて言った。
「電話? なんのこと?」
「私、何度もお母さんのスマホに電話したよっ! なのになんで出てくれなかったの?」
「あっれ、おっかしいなぁ。そんな何度も電話してくれたのなら気付きそうなものなのにーって、あれ、スマホどこにいったんだろ?」
此花さんのお母さんが服のポケットをまさぐり、立ち上がってあちこち見渡し、頬に人差し指を突き当てて「うーん」と考えだし、ついにはこっちにお尻を向けてソファの椅子と背もたれの部分をごそごそとまさぐり始める。
「ちょっとお母さん! 高尾君もいるのにみっともないよっ!」
「だって仕方ないでしょ。きっとここに……ほら、あった!」
こちらに向いてニカっと笑顔とスマホを見せてくる此花さんのお母さん。
「いやぁ、お昼ご飯を食べたら眠くなっちゃってさぁ。で、背もたれのてっぺんに頭を乗せてね、解剖されるカエルみたいな姿勢で眠ってたわけ。多分その時にお尻のぽっけからスマホが滑り落ちちゃったんだろうねぇ」
解剖されるカエルって……あっけらかんとしすぎじゃないだろうか。
でもちょっと慣れてきた。
「それで電話で何が訊きたかったの、咲良?」
「そ、そうだ! お母さん、なんでウソついたのっ! お母さんの病気、治ってないんじゃないっ!」
「……え?」
「だって高尾君が聞いたんだよ。お母さんの病気、夏までに手術しなきゃもう命がないって!」
「………………」
「なのになんで退院しちゃったのっ!? 今からでも遅くないから入院して手術を受けてよっ! 難しい手術なの? 痛いの? 失敗しちゃう可能性が高いの? でもこのままだったらやっぱり死んじゃうんでしょう? そんなの私ヤだよ。絶対に嫌だよっ! だから……お願いだからっ!」
「咲良、ちょっと落ち着きなさいって」
「落ち着いてなんかいられないよっ!」
「いーや、あんたはもっと落ち着くべき。体育祭の時だってあたしにいいところを見せようと張り切り過ぎて、結局競技の途中なのにガス欠起こしてパートナーの男の子に迷惑をかけたじゃないの。って、そう言えばあの時の男の子ってもしかして」
此花さんが真剣に説得しようとしているというのに、お母さんは僕をジロジロと見つめてきた。
まるでアリの巣に水を流し込む子供のような、激しい興味と嗜虐性を含んだ視線が痛い。
堪らず顔を背けると「ははぁん」なんて声を上げてきた。
「お母さんっ! 話をそらさないでよっ!」
しかもその行為は、ただでさえヒートアップしている此花さんを挑発する効果まであるのだから性質が悪い。
「えー? お母さん、咲良よりも一真君と話がしたいなぁ」
「何言ってんのっ!? お母さん、このままだと死んじゃうんだよっ?」
「私は死なないわ」
急にお母さんの声が
「だって今年の初めに手術を受けたもの」
綾波レイの物真似だった。
すぐに「なーんてね」とおちゃらけて、此花さんをからかう。
綾波レイと違って、此花さんを守るどころか憤死させるつもりのようだった。
……と言うか、ちょっと待って。
手術を受けた? 今年の初めに?
僕は笹本さんの言葉を頭の中で反芻する。
『此花の奴、今年の夏までに一か八かの大きな手術をしないともう身体が持たないって』
うん、そこは問題ない。
が、大切なのはその前。笹本さんは何て言ってたっけ?
思い出して僕が「あっ」と思ったのと、此花さんが「そんなの知ってるよっ!」と怒鳴ったのと、ニヤニヤした表情を浮かべる此花さんのお母さんが僕に視線で「しばらく黙ってなさいよ、面白いから」と合図してきたのはほとんど同じタイミングだった。
「そうじゃなくて今年の夏までに受けなきゃいけない手術の話をしてるんだよっ!」
「そんなのないもーん」
「ウソだよっ! だって高尾君が!」
「そう、一真君が言ったんだよね。てことは咲良は私よりも一真君の言うことを信じるんだ?」
「そうだよっ! だって高尾君はウソつかないもんっ!」
「ほー。そこまで彼のことを信じてるんだ?」
「当たり前だよ。だって高尾君は私の――」
「あ、あの、此花さん、ちょっといいかな?」
黙ってろと合図されたけれど、早々に限界が訪れた。
なんと言うか、この流れでそうなるのは嫌だったのだ。
此花さんのお母さんが「つまんなーい」って視線を送ってくるのも含めて。
「高尾君、高尾君もお母さんに言ってよ。手術を受けてくださいって!」
「あ、う、うん。その件だけどさ……ごめん、言い忘れてたことがあった」
「え、なに?」
「あのね、笹本さんのお母さんが次の夏までに手術を受けなきゃ命が危ないって話を聞いたのは、去年の秋のことなんだ」
きっちり一分、僕たちは無言で見つめ合った。
その間、此花さんのお母さんは僕たちをニヤニヤと眺めながら、いつの間に用意したのかお茶碗に山盛りに持った白米を食べ始めた。
この人、本当にこの前まで病人だったのかな?
「お母さんっ! だったらそうと早く言ってよっ!」
「言ったじゃない。ただ咲良が私よりも一真君を信じて聞く耳を持たないから」
「ううっ」
「それよりも母さん、さっきの話の続きが聞きたいなぁ」
「続きって?」
「咲良さっき言ったじゃない。私よりも一真君のことを信じるんだ? って訊いたら、だって高尾君は私のって」
「……あ」
「ねぇ、その続き、聞かせてほしいなぁ、お母さんは」
お母さんがビシっと箸の尖端を此花さんに向けた。
行儀が悪いよと此花さんが注意するも無視だ。
それどころか娘が口を割らないとみると、今度は僕に箸を向けてきた。
行儀悪いと思いますよと指摘してみたけれど、勿論の如く無視された。
「ごめんね、高尾君。うちのお母さん、こんな人で」
「いや、予想してたのとは違ったけれど、面白い人だと思うよ」
うちの母さんとは似ても似つかないけれど、なんとなく息が合いそうな気がする。
ふたりが邂逅する様子を頭の中に描いてみた。
最強タッグチームが結成されてしまった。
「あのさ、此花さん。僕がプラネタリウムを見た後に言ったこと、覚えてる?」
母さんたちのことを頭から追い出して、僕は此花さんに問いかける。
「
「
さすがはスゴカッタ語。意思疎通は完璧だ。
しかも此花さんのお母さんには全く意味が通じないのが素晴らしい。
変な目で見られているけど。
「
「
「
もういっそのこと此花さんのお母さんへの返事もスゴカッタ語にしてやろうかとおもったけれど、やめておいた。
スゴカッタ語は自分の意志を完璧に伝える素晴らしい言語だけど、日本語にだって日本人が長らく培ってきた美意識が詰まっている。
それがきっと今の僕たちには必要だった。
「お母さん、高尾君は私にとって」
「此花さんは僕にとって」
そして僕たちは一緒にその言葉を口にする。
いまだその意味をしっかり理解できたとは言えないその言葉を。
でも多分今の僕たちはそうなんだって確信できるその言葉を。
僕たちが知りたかった、その言葉を。
完
ご愛読ありがとうございました。
僕は此花さんと友だちになりたい タカテン @takaten
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