第30話:自分の人生を
「私が小学1年生の夏休みのことです。お母さんが急に体調を崩しました」
急いで駅まで戻って、勢いよく飛び込んだ電車が駅を3つほど通過した頃。
ようやく落ち着いてきたのか、此花さんがスマホを大切そうに胸に抱きかかえながら小さな声で話し始めた。
まだ午後に足を踏み入れたばかりの時間帯だ。行きとは違って車内は空いている。これならもっと大きな声で話しても問題はないだろう。
それでも此花さんはその小さな身体を震わせながら、小さく、小さく、呟くような声で話し始めたのだった。
「最初はもうすぐ二歳になる弟の育児で疲れが出たんだろうってお母さん自身も笑ってたんです。でもなかなか熱が下がらなくて、そうこうしているうちにとても辛そうになって……」
病院にはタクシーで行った。
弟さんがバス以外の車に乗るのはそれが初めてで、とてもはしゃいでいたのをよく覚えているらしい。
「でも帰りは泣きじゃくって大変でした。だってお母さんが」
「入院、されたんだね?」
俯いたまま此花さんが力なく頷いた。
それから10年近く、此花さんのお母さんは長い入院と短い退院を何度も繰り返すことになる。
そう、身体が悪かったのは此花さんじゃなくてお母さんの方だった。
「それじゃあ中学生の頃の此花さんが休みがちだったり、放課後に病院に行っていたというのは」
「うん……お母さんの入退院のお手伝いや、お見舞い」
それは大変な日々だっただろう。
でも此花さんに言わせれば、中学時代はこれでもまだ楽だったと言う。
本当に大変だったのは小学生の頃だ。
まだ一年生なのに母親が入院し、しかも家には二歳の男の子。
当初こそは此花さんのお父さんのご両親が手伝いに来てくれていたらしいけれど、もともと此花さんのお母さんのことをよく思っておらず、ふたりの結婚にも反対していた彼らはあまり協力的とは言えなかった。
「たまたま夜中にトイレで目を覚ました時に聞いちゃったんです。お祖父ちゃんたちが、弟をお父さんに、私をお母さんに分けて離婚するようにってお父さんへ迫っているのを」
「それは辛かったね……」
「はい。でもお父さんは絶対そんなことはしないって突っぱねてくれて」
結果、今ではほとんど絶縁状態なのだそうだ。
「ちなみにお母さんのご両親は?」
「いません」
「そうなんだ」
「だからお祖父ちゃんたちが家に来なくなってから、昼間は託児所に弟を預けることになりました」
そして託児所に弟さんを迎えに行ったり、家事をしたりと此花さんの生活は大きく変わった。
「食事は宅配食サービスを頼んでいたから、チンするだけで楽でした。掃除や洗濯もお父さんが手伝ってくれたし、それほど大変じゃなかったです。でも」
「でも?」
「まだ小さい弟の世話が本当に大変でした」
甘えたい盛りの弟さんにとって、お母さんの不在は耐えられるものではなかった。
毎日のように「ママ! ママ!」と泣き叫び、此花さんの言うことなんてまるで聞いてくれない。ご飯は食べないし、目を離すとすぐお母さんを探しに外へ出ようとしてしまう。
お母さんが家にいなくなって泣きたいのは此花さんも一緒だというのに。
体育祭の時に感じていたけれど、此花さんはかなりのお母さんっ子だ。
子供の頃はずっとお母さんの傍から離れなかったらしい。
保育園や幼稚園で他の子どもと遊ぶより、お母さんと一緒にいる方がずっと楽しい子供だったそうだ。
だからある日、弟さんのわがままと自分の欲求に耐え切れなくなった此花さんは、ふたりだけでお母さんのいる病院へ行こうとした。
病院は数駅離れた所にあった。冷静に考えればお父さんの帰りを待つべきだっただろう。
でも、その時の此花さんはもうそれまでの生活で心に溜まったものがいっぱいになってしまい「おかあさんにあいにいきます」とメモだけ残して家を飛び出した。
タクシーどころか、電車賃すらも持ってない。
ただ、それまでのお見舞いの経験から最寄り駅に着けば病院までの道のりは分かっている。だから線路沿いの道を歩いていくことにした。
最初は良かった。
お母さんに会いに行こうと話したら弟さんも喜んでくれて、上機嫌で歩き出した。
でもすぐに疲れてしまって、先へ進むには此花さんがおんぶをせざるを得なくなった。
まだ小学一年生の此花さん、弟さんをおんぶしての道のりはどれだけキツかったことだろう。
少し歩いては休んで、また歩き出してはさっきよりも短い距離で限界が来て。
出かけに持ってきた水筒の水も、お母さんのお見舞いにと家から持ってきたお菓子も弟さんを宥める為に使ってしまって、さっきまでは鮮やかに空を紅色に染め上げていた太陽も彼方に沈んでいく。
ただでさえ知らない道がどんどん暗くなっていく様子は、純粋に恐怖だった。
加えてあとどれだけ歩けばいいのかも、幼い此花さんには分からない。
家を出た時の元気はもうとっくになくて、足はくたくたで、背中で眠る弟さんはひたすら重くて、出来るものなら今にも泣きたくて仕方がなかった。
あともう少し、あともう少し。
自分にそう言い聞かせて歩く此花さんの目に見知った駅が見えてきた。
病院の最寄り駅だ。
やった、本当にあともう少しでお母さんに会える。
元気を取り戻した此花さんが背中に回した腕に力を入れたその時だった。
「咲良!」
突然自分の名前を呼んで、誰かが遠くからよたよたと走ってくる姿が見えた。
「お母さんっ!」
信じられなかった。
だけど入院服を着て、スリッパ履きで、今にも倒れそうな顔をして駆け寄ってくるのは間違いなく此花さんのお母さんだった。
「お母さんっ! お母さんっ!」
感極まって此花さんがお母さんと連呼して駆け出す。
抱きしめてほしかった。よくここまで弟をおんぶして来たねと褒めて欲しかった。
それだけでこれまでの苦労が全て報われると此花さんは身体中が喜びの声を上げているような気がした。
「……お母さん?」
でも、此花さんはお母さんに褒められるどころか、抱きしめられることもなかった。
「お母さんっっっ!」
此花さんを抱きしめる前に、お母さんは此花さんの目の前で倒れてしまったのだ。
「お父さんから私たちが病院に向かったらしいと連絡を受けたお母さんが、無理して病院を抜け出したんです。それで病気がさらに悪化しちゃって……」
「…………」
「そして帰りのタクシーの中、お父さんの胸の中で泣きじゃくりながら決意したんです。お母さんが戻るまで、私が弟のお母さんなんだ。だからもっとしっかりしなきゃダメなんだって」
それまでも大変だったけれど、ここからはもっと大変だったって記憶しか此花さんにはない。
弟さんのお母さんになるという決意はしたものの、それで弟さんが言うことを聞いてくれるはずもなく。とにかく弟の面倒をみることが自分に出来る唯一の『お母さんの病気を早く治す方法』なんだと信じて頑張った。
そしてその多忙な日々は突然終わることになる。
「弟が小学校に上がってすぐの頃です。一緒に家へ帰ろうとしたら弟が『おねえちゃん、ボールとグローブを買って』ってねだってきました。なんでって訊いたら『友達になりたい子がいるんだ! だからキャッチボールしたら友だちになれるから!』って」
それまで此花さんに手を引っ張られていた弟さんは、小さなゴムボールと子供用のグローブをふたつ持って彼女の手から離れて行った。
「弟に友だちが出来てからは随分と楽になりました。でもちょっぴり寂しかったかもしれません」
「どうして?」
「だって私には弟だけしかいなくて……友だち……いなかったから」
もともと顔見知りする性格に加えて、ずっと弟のことばかり考えていて自分のことは後回しになっていた。
さらには弟の世話でまともに宿題も出来ず、それを先生たちも家庭の事情を考慮して許していたのも此花さんの立場を悪くする。
入学したての頃は仲良くしてくれた子もいたけれど、この頃にはもう誰も此花さんに話しかけたり、友だちになってあげようって人はいなかった。
「それでも寂しいとか言ってる暇はありませんでした。お母さんはまだ全然治ってなくて、入院と退院を繰り返していて」
「……うん」
「だから私、お母さんに病気を治して欲しくてずっと頑張って」
「うん」
「そうしたら今年の春先に退院したお母さんが言ったんです。『もう大丈夫よ、病気は治ったわ。だから咲良もこれからは自分の人生を――友だちでも作って自分の人生を楽しみなさい』って」
「…………」
「それで私、友だちを作らなきゃって思ったのに……」
此花さんが依然として着信音の鳴らないスマホをぎゅっと胸に抱いて「なのにどうして」と呟く。
どうしてそんなウソを此花さんのお母さんはついたのだろう。
そして今、どうして此花さんのお母さんは、娘からの電話に出ないのだろう。
もしかして出れない状況にあるのだろうか……。
嫌な想像が次から次へと頭の中に浮かんできては、僕たちは必死にそれをかき消した。
人が乗っていない分だけ軽いんだからもっとスピードを上げてくれないかなと切に祈った。
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