彼女の右腕と吐息
木口まこと
全1話
バスルームからシャワーの音が聞こえてくる。僕はホテルの窓から、下に広がる街のネオンサインを眺めていた。あと二日で満月を迎える月が南の空で輝いている。
シャワーの音が止まった。髪を乾かす音が聞こえ、少しするとバスルームのドアが開いてバスローブに身を包んだ彼女が上半身を覗かせた。「お先に」彼女が言った。
「じゃあ」と僕は彼女と入れ替わりにバスルームに入る。
大きめのバスタブに立ってシャワーカーテンを引き、つまみをひねるとシャワーから熱い湯が吹き出した。その勢いで昼間の汗を流してしまう。
それから、まっさらのバスタオルでからだを拭いて、バスローブをまとった。
バスルームを出ると、部屋の電灯は消され、月明かりに照らされた大きなベッドにはバスローブを脱ぎ捨てた彼女がうつ伏せにからだを投げ出していた。白いシーツの上に少しピンクがかった彼女のからだが浮かび上がる。うつ伏せの顔は髪に隠れて見えない。首筋から肩、少し反った背中、丸いお尻、長い腿、膝の裏、ふくらはぎ、まっすぐ伸ばした足の裏。そして爪先。
右腕の付け根から先は少し色が違うのがわかる。陽の光の下ならわからないだろうけど、薄暗い月明かりはかえっていろいろなものをはっきりと見せてくれる。彼女は両腕を少し広げて肘を上に曲げ、手のひらを顔から十五センチくらい離れたところに置いていた。完璧なポーズ。
僕はバスローブを脱いでチェアにほおった。静かにベッドに上がって、彼女の右隣に同じようにうつ伏せにからだを横たえる。それから、左を向いて髪のあいだから覗く彼女の顔を見た。彼女は目を閉じたまま、ちいさく「ん」と声を出した。
そのまま彼女に覆いかぶさって、シーツに置いた左手でからだを支えながら、彼女の左手に顔を寄せた。中指の第一関節に唇をつけ、舌の先を小さく出して、関節の筋に沿ってそっと舌を横に滑らせる。彼女は左手をかすかにぴくっと動かした。
彼女の指を舌先でゆっくり下へなぞっていく。指の付け根の皮膚を唇でつまむようにして軽く吸った。そのまま、骨に沿って手の甲を舐めていく。手首の窪みで止まって舌先を何度かわずかに上下させると、手首の暖かな感触が伝わってきて、彼女はちいさな声を上げた。
上下の唇と舌先で同時に皮膚に触れ、シャワーのあとに染み出した汗のかすかな塩味を舌で感じながら、肘に向かう。曲げられた肘の内側を舐めると、肘の腱に一瞬力が入るのがわかった。
再び唇と舌先を肌に軽く押しあてて、左肩へと動かしていく。鍛えられた筋肉のふくらみが感じられた。腕の付け根の丸みに沿って舌を滑らせ、肩の窪みを吸った。舌で鎖骨の硬さを感じながら顔を動かし、首の左側に舌を這わせる。耳の下の窪みで舌を動かすと、彼女がまたちいさな声を上げた。
右手で彼女の髪をかきあげて、耳の後ろに舌を滑らせる。彼女の肩がぴくっと動く。耳のいちばん上の端に軽く歯を立て、それから舌先をすぼめて耳の穴をくすぐる。彼女がわずかにからだをよじった。
髪をかきあげたまま、髪の付け根に唇を当てると、まだすこし湿っている髪の匂いが鼻をくすぐった。うなじに沿って下へ向かって舌でなぞっていく。硬い背骨の上端に触れたところで、顔を右に移動させて、今度は右手でからだを支えながら、彼女の右側の首筋を下から上に舐めていく。耳たぶに歯を立て、そのまま耳たぶを擦るように舌先で触れる。彼女はまたかすかにからだを動かした。
首筋に沿って舌を這わせ、鎖骨を乗り越えて右肩の窪みに達する。窪みを舌で探ると、彼女が何度かちいさく息を吸った。それから、ゆっくりと肩の付け根に顔を動かしていく。
継ぎ目は巧妙に隠されているけれども、肩の丸みに舌で触れると、これまでとは違う冷たさを感じた。強化樹脂の腕は体温よりもずっと温度が低い。さらに腕に舌を這わせていく。テクスチャーは皮膚に似せてあるとはいえ、皮膚の柔らかさとはまったく違う感触が伝わってきた。
彼女の右手は肩から先がすべて強化樹脂で作られている。僕はその冷たい腕に唇をつけて、舌を動かす。腕のこの部分には感覚神経が通っていないから、彼女は僕の唇が触れているのも舌が触れているのも感じとれない。それでも僕は儀式のように彼女の腕を愛して、唇で触れて、その強化樹脂の舌ざわりを確かめる。汗をかかないその腕に、それでも僕はかすかな塩の幻想を感じた。
曲げた肘の窪みに舌が達したとき、彼女の触覚のない肘は僕の愛撫をなにかしら超自然的な感覚で受け止めて、彼女は肩を細かく震わせながら何度かちいさな声を上げた。
肘から手首に向かって舌を動かし、手首の窪みに唇をつけて吸った。右手の甲、中指につながる骨に唇を沿わせていく。中指の付け根のふくらみから、第二関節へ、そして第一関節へ。
作られた爪の冷たい感触を舌先で味わってから、上唇で中指の先を持ち上げると、彼女は軽く指を反らせ、それからゆっくりと内側に手を回して手のひらを上に向けた。圧力を制御するポンプの微かな振動が伝わってきた。
中指を軽く口に含んで舌の先端で指の先に触れる。中指がかすかに動いた。彼女の右手の指先、第一関節から先の部分と手のひらには感覚神経が備わっている。彼女はその人工の神経で僕の舌を感じ、またちいさな声を出した。
指の腹をゆっくりと下りて、手のひらへ。顔をちいさく上下に動かして舌で手のひらを撫でると、彼女は指を少し閉じて五本の指の先端で僕の頬と鼻に触れた。僕が手のひらを舐めるあいだ、彼女はちいさな円を描くように五本の指を動かして、僕の顔の輪郭を確認し続ける。
人工の神経が彼女にどんな感覚を与えているのか、想像するのは難しい。物体に触れているのを感知する程度の機能しか持たないはずのその神経で、彼女は僕の愛撫を受け入れる。「あなたの舌はね」ある時彼女は言った。「気持ちいいの。そうとしか表現できないの。ほかに言葉はないの」
彼女は新しい感覚を手に入れた。それは精神の大きな変容だったはずだけど、残念ながら僕はそれを共有できない。その代わりに僕は彼女がその感覚を育てるのを手助けする。それは同時に僕の感覚にも変容をもたらして、僕は彼女の右手の冷たい舌ざわりをとりわけ愛おしく感じる。
もう一度首筋に戻り、背骨のいちばん上の高まりに唇をつけると、皮膚の温かい感触が戻ってきた。
こんどは背骨の右横に舌先を押しあてながら、背骨に沿ってゆっくりと顔を下に動かしていく。背骨の硬い突起と窪みを交互に感じる。彼女の背中にはかすかに汗がにじんでいる。舌が窪みに触れるたびに、彼女はかすかにみじろぎした。
右側の腰の柔らかなところに顔を埋めて唇を押しあて、舌先でゆっくりと舐めると、その動きに合わせるように彼女の呼吸があらくなった。
彼女のからだに体重を預けてふたたび首筋に唇を押しあて、そのまま両方の手のひらで彼女の両肩に触れる。そこから両方の腕に沿って手のひらで撫でていく。左腕の温かさと右腕の冷たさを同時に感じながら、腕から肘へ、そして肘から両方の手首へ。
彼女の十本の指と僕の十本の指が絡み合う。彼女の温かい指先と冷たい指先が僕の両手の甲をまさぐった。感覚が混じり合い、どちらの手が温かくどちらの手が冷たいのかの区別は溶けてしまって、ただ絡ませあった両手だけがそこにある。彼女の指と僕の指とは境い目をなくして、ただお互いを探り続ける。
彼女の右の耳に口を寄せて、「あいしてる」とささやいた。彼女が長い息を吐いた。
彼女の右腕と吐息 木口まこと @kikumaco
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