ひとり旅

九大文芸部OBOG会

犬吠                      

                             作者:時計うさぎ


 5年続けた仕事を辞めた。

 これといった理由はない。なんとなくだ。こんな日々をあと四十年(で済むのか?)も続けるのかと思ったらどうでも良くなった。いや、こう思ってしまったことが理由と言えるのかもしれない。

 同居人には言ってない。たぶん、言えば大げさに驚かれて理由を聞かれる。特にないといえば、そんな半端な気持ちでこれからどうするのと小言を言われる。それっぽい理由をでっち上げれば、あんたがそんなまじめぶるわけないと決めつけられる。繰り返すが同居人にはまだ言ってない。だが、きっとそうなる。

 考えてみれば、俺がなぜ相手の出方を伺わなければいけないのか。あいつも似たような立場だろう。むしろ、5年働いた俺のほうが偉いはずだ。だらだら間延びした学生生活というタイムリミットを、次のステップに進む前に使い果たし、そのまま時が止まったあの女よりは確実に。まあ、でも、口答えはしない。見込みがない勝負こそ時間の無駄だ。

 そんなわけで、俺は無職だ。平日の昼間に外に出る用事もない。だが同居人がいるので外に出るフリが必要だ。

 さて、今日をどうしようか。


 とりあえず最寄り駅に向かう。そうだな、いつも乗っていた電車の終点まで向かうというのはどうだろう。物語なんかでよく聞くが、実際に決行したことはない。どうせ時間はある。暇つぶしにはもってこいではないか。

 考えるほど名案に思えてきた。少しだけ、心を弾ませながら乗車する。いつもは苛立たしいだけの移動だったが、それ自体が目的になると俄然楽しいものに思えてくる。

 聞き慣れた発車メロディとともに扉が閉まる。肌が触れ合うような混雑。5年も経てば何も感じなくなると思ったが、案外いつまで経っても気に障る。

 パーソナルスペースなるものはやはり重要なのだろうか。縄張り。俺が安心できる場所はどこだろう。一人暮らしだったはずが、気付けば見知らぬ女が俺の家を占拠している。そうだよ、よく考えればなんで俺が外に出かけなきゃいけないんだ?家賃だって払ってるのに、大半はあいつが好き勝手に荒らしているだけだ。理不尽極まりない。

 ふつふつと腹を立てていたら、気付けば車内で立っているのは俺だけになっていた。窓の外には見慣れぬ景色。憎いほどに青い空。どこまでも遠く澄んだ頭上には、1つだけ小さな白い雲があった。

 彼女のようだ。

 取り残されたような焦燥感が、真っ先に同居人を連想させる。自分を差し置いてなんであいつを思い出すんだ。我ながら不思議で仕方がない。


 仕事のときは上りだったから、反対にでも行ってみようと下り電車で終点にたどり着く。それなりに大きな駅で、平日の通勤ラッシュ帯だったせいか、喧騒が耳障りだ。これでは仕事をしていたときと変わりない。

 聞き覚えのない終着駅が書かれた別の電車へと急いで駆け込んだ。銚子。なんと読むのだろう。スマホで「金」「兆」と打って調べる。チョウ?すき?なべ?さらに「子」を加えるとチョウシと出てきた。お調子者の一種かと思ったら別物らしい。

 こんなのも読めないの。いないはずの彼女の声が聞こえる。うるさいな、念のため調べただけさ。

 当駅始発の電車がゆっくりと動き出す。比較的都市部から出発したはずだが、意外にも数駅先からはどこまでも続く田園地帯になってしまった。

 そのまま小気味よく揺られ続けること約2時間。俺とあいつは誰もいない車の中で無言のまま進み続ける。助手席に座る相方は窓の外を眺めて動かない。沈黙。気まずさはとうの昔に失くした。最後に会話したのはいつだったろう。夕日が眩しくて少しだけ横に目をそらす。たそがれた物憂げな表情は綺麗だった。そんな、夢を見た。終点に着く直前だった。

 平日のわりにはそれなりに多い数の人々が一斉に降りていく。出口に向かうときに違和感を覚えた。

 謎の屋根がある。少数の人がそちらに進んでいく。いや、出口じゃない。乗り換え口だ。精算用の小型自動改札の先に別の車両がある。興味本位で向かうと、2両ほどの別の電車が止まっていた。駅員が忙しなく動き、周りの人に声をかけている。

 今さら引き返すのも恥ずかしく、そのまま車内に乗り込む。古い。なにがどうかは言葉にできないが、今まで乗っていた車両とは違う何かを感じた。

 この想いを捕らえようと躍起になっていたら駅員が順番に乗客へ声をかけ始めた。近づくに連れ、切符代を徴収していることに気付く。紙の切符!久しぶりに見た!いや待て。つまり、現金がないと乗れないということじゃないか?

 顔が強張る。あてはないがとりあえずすべてのポケットをひっくり返した。すると、上着のポケットに奇跡的に札が入っていて、難を逃れた。行き先がわからないのでとりあえず1日乗車券を買った。隣の人がいてよかった。

 ところで、ポケットに入っていたのはなんの金だったんだ。駅員が次の客に声をかけ、その次の車両に向かう姿を見送ったあたりで思い出した。ああ、同居人がなにか買ってこいと朝に捻りこんだ金だ。物は忘れた。また怒られる。電話か何かで聞けばいい話だが、もう知るか、くそったれ。どうせお前も日中暇なんだから自分で行けばいいじゃないか。

 切符を配り歩く駅員は、次の車両に向かうかと思いきや、くるりと踵を返して運転席に駆け込み、大きな声を張り上げる。出発するらしい。

 ガタリと、電車が動き始める。まるで遊園地のアトラクションだ。速度もゆったりで、駅員が見える範囲で操作をしている。驚いたことに、動き始めたあとに切符の徴収を再開し始めた。これがワンマン電車というやつなのか?

 次の駅に着くと、地元の小学生が大量に乗り込んできた。一気に車内がにぎやかになる。子どもたちは駅員に忙しなく話しかけ、駅員も親しげに応えながら定期券の確認を行う。

 駅と駅の感覚は短い。気付くと次の駅に着く。停車するたびに小学生はランドセルを放り投げて小さな駅のホームに飛び出し、好き勝手に遊び始める。乗客の確認やら機器の点検やらで動き回る駅員は、合間に子どもたちに話しかけ、危ないことをしないように見守っていた。出発前に外に出ているやんちゃな少年たちを連れ戻し、再び車両は前に進み出す。小学生の集団は数駅先でぽつぽつと降りていった。

 子どもの騒ぎ声を聞いたのは何年ぶりか。遠い遠い昔、自分たちもああやって、働く大人に見守られて大きくなったんだろう。見知らぬ土地の、名も知らぬ人々の生活を思い、詰まるような思いが胸をさす。何かがあふれるような気持ちに浸っていたら、変な音が聞こえた。ぐぅ。これは腹の虫だ。満たすべきはまず食欲らしい。

 次の駅で降りた。幸い、売店がある駅だった(通り過ぎてきた駅は、こじんまりとして何もないように見えた)。有人の改札のようだが駅員が待機するだろう場所に人はいない。代わりにメダカがいた。これまた何年ぶりに見ただろう。今では数が減って絶滅の危機に瀕しているらしい。

 売店で鯛焼きを買って食べた。カスタード味だ。頭から食べた。世間では尻から食べるか頭から食べるかで議論が起きるらしい。同居人がそう言ってた。あいつがどっち派なのかなのかは知らない。そもそも餡が苦手らしい。カスタードなら食べれるのだろうか。

 降りた電車は、終点(次の駅だった)に付いたあとに折り返しで戻ってくるらしい。そう長くない時間、外のベンチに座ってぼんやりと景色を眺めた。

 とにかく天気の良い日だった。朝に見た小さな雲も、いつの間にか消えてしまった。今はどうしているのだろう。誰もいない部屋で、1日の大半を過ごす毎日はどんなものなのか。きっと退屈だろう。……あいつがいなければ、今俺もそうなっていたんだろう。

 高くに上った日は、少しずつだが傾き始めている。ずいぶん遠くまで来た。そろそろ帰ろう。不思議ともの寂しい。暗くなる前に、家に戻りたくなった。

 土産にコーラを買った。限定パッケージらしく、物珍しくて手に取った。

 帰りの電車で気付いたが、どうも俺が降りた駅の近くに有名な灯台があったらしい。ついでに、あの電車の終着点の駅には、古い車両が飾ってあったとか。彼女とまた来ようか。あいつ、俺にはよくわからない変なものが好きみたいだから、楽しんでくれるかもしれない。笑顔が浮かぶ。そして言い放つ。

 たまのお出かけと思ったけど、そのわりにセンスがない行き先ね。女の子の誘い方くらい勉強してきたら?

 憎たらしいことこの上ない。思わず言い返そうと思ったところで目が覚めた。また寝ていたようだ。それでも乗り過ごすことがないほどに長い時間、電車に揺られ続けた。外は真っ暗だ。変わり映えのない田園地帯も、見えないとなると寂しく感じてしまう。


 妙な疲れとともに、なんとか家にたどり着いた。彼女はテレビを見ていた。ちらと俺を見て、抱えた袋に目を移す。そのまま目の前に置いてやった。忘れてなかったんだ、と言いながら中身を見る。なにをだ?

 怪訝な顔をする俺。すぐに彼女もはぁ?と俺を睨みつける。なにこれ、こんなの頼んでない。どこに行ってきたの?

 ……やばい、墓穴を掘った。こいつは俺が仕事に行ってると思っているんだった。誤魔化さねば。どうしよう。

「仕事で千葉の方に行ったんだ」と、なんとかひねり出した。気持ちだけのつもりだったが声もなかなか素っ頓狂にひねり出してしまった。バレるんじゃないかと内心荒れ狂ったが、彼女は興味なさそうにその場を去った。

 ……わたし、炭酸嫌いなんだけど。買うものも好みもまともに覚えられないのね、と言い捨てて。

 やはりあいつに事実を伝えるべきではない。なにが楽しくてこんなのと俺は同居しているんだか。

 置き残された可哀想なコーラを1本手に取り、自分で飲んだ。いつもと味が違う気がする。変わっているのは見た目だけと聞いたのに。

 ……案外、人生もそんなもんかもしれない。感傷的な思いが炭酸の泡のように突然浮かんで弾けた。


 郷愁。あのときに思い出そうとした言葉だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひとり旅 九大文芸部OBOG会 @elderQULC

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ