第一章 青水無月
「そういえばさ、帆波のクラスに転校生来るらしいよ~」
水泳部の更衣室で着替えていると、
「高二で転校することとかあるんだ。珍し」
「んねー。いいなぁ転校生。ここ田舎だしクラス二個しかないし、正直マンネリなんだよね~。一組羨ましすぎ! あーあ、東京のイケメン来ないかな~」
「東京のイケメンはこんな辺鄙なとこに来ないって」
羽奈は東京に対して謎の幻想を抱いているようだった。
東京、か。
ふっと、黒髪の少女と、強烈な夏の風景が頭をよぎる。
……転校生、渚沙だったらいいのに。
こっそり苦笑する。私も羽奈と同じだ。
真夏の太陽のような親友とは、きっともう会えない。
わかってる。
――だけど、私はずっと、渚沙に会いたくて会いたくてたまらないんだ。
だから、このまま渚沙のことを忘れられずに、ずっと囚われたまま……私は生きていくしかない。
「今日は皆さんに転校生を紹介します」
噂は本当だったようで、とたんに教室がざわめきだした。
東京から来たんだって。昔ここらへんに住んでたとか。めちゃくちゃかわいいらしいよ。おいほんとかー? いやいやマジだって! 俺さっき見たけど美少女だった!
東京から来た美少女、か。
まったく、できすぎた話だ。
……でも。
現実味のない淡い期待を覆い隠すように、私は窓の外をじっと見ていた。嫌になるくらい、青い空が広がっていた。
扉が開く音がする。答え合わせが怖くて、前を向けなかった。
「はじめまして!」
風鈴の音色みたいに、凛とした涼やかな声。
その声からは、楽しくて仕方がないという感情が溢れ出していた。
「
――――。
……なぎ、さ。
ゆっくりと視線を正面に戻した。
ずっと聞きたかった名前。
昔と変わらない長い黒髪。
白く透き通った肌。
吸い込まれそうな大きな瞳。
大輪の向日葵のような微笑み。
「父の仕事の都合で、東京から引っ越して来ました。小学四年生の夏までこのあたりに住んでいたので、また戻ってこられて嬉しいです! 出身小学校は……」
知っている。どれも知っている。
心臓がどくどくと脈を打つ。
早く、早く私に気づいて。
……それとも、見ただけじゃ気づかないかな。
「不慣れなことも多いと思うので、色々なことを教えてもらえたら、うれし……」
目が合った。
一瞬驚いて、嬉しそうに笑った。
そんな気がした。
「……渚沙!」
ホームルームが終わってすぐ、渚沙を取り囲むクラスメイトたちをかき分けて声をかけた。
「……帆波! 帆波、だよね……?」
「うん! ……久しぶり」
「~~っ!」
渚沙は声にならない声をあげて、いきなりがばっと抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと渚沙……!」
細く柔らかい髪の毛が首にあたって、少しくすぐったい。
「帆波……ずっと、会いたかった」
ぽつりと、小さく呟いた。
その言葉は、ただの社交辞令には聞こえなかった。
――渚沙も、私たちと同じだったんだ。
忘れてなかったんだ。
「……私もだよ」
本当にまた会えるなんて思ってなくて。信じられなくて。浮足立っていて。
できすぎた話も、本当にあるんだなって思って、ずっと会いたかったって言ってくれたことが、とっても嬉しくて。
もしかしたら、もう一度――。
二度と戻らないあの夏を、やり直せるのかもしれない。
「転校生、帆波の知り合いなんだ? えっと、碧さん、だっけ。東京から来た美少女の!」
羽奈はさっそく、目を輝かせて聞いてきた。さすが情報が早い。
「……うん。小学校の頃の、一番大切な、親友」
親友というやわらかな響きに、口元が自然とほころぶのを感じる。
「……へえ」
羽奈は少しびっくりしたような顔をした。
「なに?」
「いや……帆波って、そういう風に笑えたんだなーって思って」
そう言って、少し寂しそうに微笑んだ。
私には、その真意がよくわからなかった。
「……どういうこと?」
「ううん、なんでもない!」
「お前、ほんっとに黒髪美少女好きだよな」
出し抜けに響いた宮口の言葉に、見ていたツイッターの画面から顔を上げた。
「え、すまん、なんだって?」
「蒼真が黒髪美少女を好きだという話……」
国本がラノベを読みながらぼそりと補足した。
「……別に、そこまでじゃないけど」
宮口はゲーム画面から目をそらさず器用に反論する。
「いやいやいや、お前の部屋、黒髪美少女のタペストリーとポスターとフィギュアであふれてるだろうが。思い返してみろよ~お前の嫁たちを」
「嫁って……」
……でも、たしかに否定はできなかった。
「怖いくらい黒髪美少女ばかり……特にストレートロングで、天真爛漫な性格の……」
「そうそう! さすが国本! ぶっちゃけさ、なんでそこまで好きなん?」
黒髪ストレートロングの、天真爛漫な美少女……。
「俺が思うに、最初に好きになったのがそういうタイプだったんじゃないのか~? 刷り込みみたいな感じでさ」
なるほど。たしかに、始めて見たアニメの影響は強いのかもしれない。
――もっと他に、理由があったような。
なんとなく腑に落ちない気分だったが、どうにか納得しようとした。
「……まあ、うん。そうなのかもな」
「おい! 二組の転校生、東京から来た超絶美少女なんだが!」
宮口は今日も騒がしかった。
「そんなうまい話は現実世界に存在しない……」
「そうだそうだ。そんなわけあるか」
国本と俺は取り合わなかった。
「本当なんだって! たしか名前もめちゃくちゃきれいで……あおい、なぎささんっていうらしい。名前まで美少女なんてすごいよなぁ~」
――――。
あおい、なぎさ。
東京から来た転校生。
「ヒロインにいそうな名前……」
「だろ~? 青色負けヒロインだな、間違いない」
なんで、なんでいまさら。
脳裏に蘇る、長い黒髪の後ろ姿。
「おい今、なんて言って……」
「んー? だから、あおい、なぎささん……って、もしかして知り合いか?」
「ああ、まあ……小学校が同じだった」
暑い夏の日。
かけがえのない思い出。
「あおい、なぎさ……どのような漢字を書くのかが気になる……」
「ちょっと待ってろ。今書く」
碧渚沙。
手近なルーズリーフに名前を書く。
無意識に文字をそっと撫でていた。
長らく聞いていなかった名前。
忘れようとしていた名前。
でも俺は、彼女の名前を、太陽のような笑顔を、あの夏の日々を、はっきりと覚えていた。
……ああ。
もう一生、会うことはないと思っていたのに。
このままずっと、思い出さないつもりだったのに。
「蒼真!」
その日の昼休み。
購買でパンでも買おうと思って教室から出ると、背後から呼び止められた。
「……渚沙」
「~~っ! 蒼真! 久しぶり!」
渚沙はあの頃のままのようで。
「あ、えっと……久しぶり」
いや、昔よりずっと美しくなっていて。
「……う~ん、もうちょっと驚くかと思ったのに! なんか残念!」
やっぱり、あんまり変わっていないかもしれなくて。
「いや、噂でなんとなく聞いてたから……」
身にまとうオーラに圧倒されて。
「なるほど! ……まあとにかく、これからよろしく~! あと……」
大輪の向日葵が花開くように笑っていて。
「……蒼真。また、あの頃みたいに。仲良くしてくれると嬉しい」
この世のすべてを惹きつけるようで、どこか儚いようで。
「……ああ」
俺は――。
「……蒼真、お前、碧さんとどういう関係だ」
宮口が地の果てから響くような声で問いかけてきた。まったくコミカルなやつだ。
「なんか……小さい頃の親友というか、幼なじみ、みたいな」
「なんと! ……美少女の幼なじみ、転校生、そして再会……うおおおお羨ましい!」
テンションが上がっているのかヘッドロックをかましてきた。痛い。
「そんなできすぎた話が現実にあるとは驚き……」
国本、たぶん俺が一番そう思ってる。
――だけどそれは決して、言葉通りの美しい話ではない。
「でもやっとわかったよ。お前があんなに黒髪美少女を好きな理由が」
……ああ、そうか。
俺は、渚沙のことが、ずっと忘れられずにいたんだ。
渚沙のことが、好きだった。
今となっては、本当に恋愛感情を抱いていたのかも、友達として好きだったのかもわからないけれど。
小学生男子の、ふわっとした初恋なんてきっとそんなものだろう。
最初は単純に、容姿の美しさに惹かれて。
次に、あどけなくて明るい性格のとりこになって。
次第に全てが好きになってしまっていた。
当時、渚沙は何人かの男子たちから告白されていた。そのたびに渚沙は「わたしも大好きだよ!」と勘違いさせるような回答をしていたが、それは確かに、渚沙の本心だったのだ。
俺は同じクラスのやつらとは比にならないくらい、渚沙の近くにいた。だから優越感に近いものも抱いていたし、好きにならずにはいられなかった。もはや不可抗力みたいなものだろう。
そして、小学四年生の夏休み。
俺たちは三人で海に行った。
疲れ果てるまで泳いで、日焼けして真っ黒になって、波打ち際ではしゃいで、真っ赤な夕陽を見て、帰ろうとしていたとき。
『なぎさ……おれ、なぎさのことが好きなんだ』
――俺は渚沙に、告白した。
……冷静に考えてみれば、半ばその場の勢いだったと思う。
別に付き合いたいとか、どうしたいとかは考えていなかった。
俺は――文字通り渚沙が好きで、ただそれだけだったんだ。
本当に、それだけだったんだろうか。
……わからない。あの頃の俺のことは。
――でも、渚沙を傷つけてしまったことは事実だった。
『……え』
渚沙は、見たこともないような蒼白な表情をしていた。
『……そっ、か。そうまも、結局みんなと同じなんだね』
声が震えていて、寂しそうに無理な笑顔を浮かべていた。
そこでやっと、自分の犯した過ちに気づいた。
あの頃の俺は、どうしようもなく子どもだった。
帆波は横で立ち尽くしていた。
俺は、なにか帆波に言いたいことがあったはずだった。
何を言いたかったのか……それも、思い出せない。
本当に、過去の俺は身勝手なやつだった。
あとになって、渚沙の両親が離婚して、転校することになったと聞いた。
渚沙が転校する日まで、渚沙や帆波とはなんとなくぎくしゃくしたままだった。
いなくなってしまった渚沙と、自分がしたことへの後悔が、頭から離れなかった。
俺たちは、親友でいられなくなった。
忘れられない過去があったとき。
俺は忘れてしまおうとした。
小学六年生くらいのときに、俺はアニメやゲームにハマりだした。
好きという言葉をつぶやくたびに、日常に溶け込んでいって、陳腐になって、なんでもない言葉のようになっていくような気がしていた。
美しくて、無邪気で、明るく元気で、強く気高い――現実には到底いないような、理想的なキャラクターたちを愛した。
だけど渚沙の幻影は強まるばかりで。
好きになるのはきまって、渚沙に似た人物ばかりだった。
中学生のとき。
同じクラスの子を好きになった。
つややかな黒髪を、気づいたら目で追っていた。
一見物静かに見えるけど、時折すみれが花開いたように小さく笑う子。
特段仲良かったわけでもなく、告白しようともしなかったけど。
彼女の名前はなぎさという名前だった。
海辺の街に生まれた子どもには、よくある名前。
凪に砂と書いて、凪砂。
――自分でも嫌になる。
どう考えても、渚沙を忘れられていない証拠だった。
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