第四章 冬夏青青
帆波
九月一日。
非日常的な夏休みが終わり、だんだんと日常を思い出していく日。
名残惜しい気持ちを背負いながら、何事もなかったかのように、いつも通りを演じ始める。
髪型が変わった人。日に焼けた人。垢抜けた人。恋人ができた人。
出会いと別れ。変化と永遠。
何も変わってないと思っていても、どこか変わってしまったことに気づく。
そんな、まだ暑さの残る日のことだった。
「おはよ~!」
「おはよ」
日差しに顔をしかめながら歩いていると、後ろから渚沙と蒼真がやってきた。
「ああ……おはよう……」
「大丈夫か?」
「今日あっついもんね~」
三人で駅まで歩いた。こうやって通学するのも久しぶりだ。
暑いと嘆きつつ、ふと吹き抜ける風は少し涼しくていやでも秋の訪れを感じさせる。
唐突に、もう夏休みが終わってしまったことを実感した。
駅のベンチに座る。手に持った扇風機からは、生温い風しか漂ってこない。
「はぁ……」
少し吐き出した息は、憂鬱の色を帯びていた。
「どうしたの帆波?」
「いや。……夏休み、終わっちゃったなって」
一瞬しんとして、蝉の声が鮮明になった。
「……そうだな。ああ……どうしよう……」
蒼真が頭を抱えた。
「……もしかして蒼真、課題」
「やめてくれ何も言うな」
「ええっ、終わってないの? 嘘!」
蒼真は昔から宿題を溜め込むタイプだったなと懐かしく思った。まさか終わってないとは思わなかったけど。
「あ、電車くるよ」
もうこれに乗ってしまったら、日常に戻ってしまう。
勉強。部活。進路。目を背けたいものにも、向き合わなければならない。
不確定性の未来に、身をゆだねるしかない。
どれだけ自分たちを特別だと思っていても、そうやって生きていくしかないんだ。
私は意を決して立ち上がった。一瞬くらりとする。
蒼真も憂鬱そうに腰を上げた。
「――待って!」
渚沙が私たち二人の腕を掴んだ。
その手はしっとりと汗ばんでいた。
――時が、止まる。
がたん。
電車のドアが閉まった。
渚沙
終わってしまう。
そう直観して、二人を引き留めていた。
夏休みの終わり。
長く短い永遠の終わり。
――今度こそ、わたしたちを永遠にしたい。
だから、この手で――夏を終わらせる。
「――海に、行こう」
わたしは二人を引っ張って、逆方向の電車に乗った。
帆波
海は、学校とは逆向きに、三駅ほど離れた場所にある。
小学生のころ、私たちが最後に向かった場所。
学校をサボってしまった事実が、秘密を共有してるみたいで胸が高鳴った。
私たちの間にはなんとなく緊張した雰囲気が流れていた。
みんな、心のどこかでは気づいている。
こんなことをしても、何からも逃げられないのに。
――きっと、何かが変わってしまう予感がした。
青色。
永遠の輝き。
強い日差しが、海を万華鏡にしていた。
「海だーー!!!」
渚沙は大声で叫んで、全速力で波打ち際まで駆けて行った。
私と蒼真は苦笑する。
「あはは、めちゃくちゃはしゃいでる」
「渚沙らしいな」
二人で浜辺をゆっくり歩いていると、蒼真が急に立ち止まった。
「どうしたの?」
蒼真は、遠くを見つめて呟いた。
「――帆波に、言うことがある。渚沙にはもう、話したんだけど」
蒼真は、あの夏の真実を語った。
太陽と、入道雲と、海と、渚沙を眺めながら。
「そっか……」
やっと――。
「やっと、わかったよ。蒼真のこと」
それどころか、ずっと前からわかりあっていたような気がした。
私たちは、親友だったから。
「蒼真のこと、信じてた。いつかきっと、話してくれるって」
「……遅くなって、ごめんな」
「そんな。――ありがとう」
あの夏を終わらせてくれて、ありがとう。
蒼真の、渚沙と私への感情の答えは、「友情」だった。
――私は。
「私は、蒼真のことを大事な親友だって、思って、る……けど」
思ったより恥ずかしくなってしまった。
「え、なに。照れるなよ」
「……そうじゃなくて」
私もいま、ここで。
答えを見つける。
もう二度と、過去に囚われないために。
「蒼真は親友だけど、私――渚沙のことも、同じように親友だって思ってるかどうかは……ちょっと、わからなくて」
蒼真は、はあ? という顔をした。
「俺が親友なら、渚沙も親友だろ」
そうなんだけど。
「そうじゃなくて」
うつむいて呟くと、少し声が震えた。
これを言ってしまえば、もう、取り返しはつかない。
あの夏を繰り返してしまうかもしれない。
今度こそ、関係が壊れてしまうかもしれない。
――それでも!
変わらないものを手に入れるためには、きっと、私が変わらなければいけないんだ。
「たぶん私は、渚沙のことが好きなんだと思う――その、恋愛的な意味で」
息を吞む気配がした。
蒼真の顔を見られなかった。
「だって、私はずっと、おかしかった。渚沙が告白されてるのを見て変な感情を抱いたり、他の友達よりも渚沙を優先したり……蒼真に嫉妬したり。高校生になってまで、小学生のころをずっと引きずってて。きっとこんなの、普通の友達に向ける感情じゃない、から……」
私は、私たちは、きっと最初から、普通じゃなかったけど。
「もう私も、子どもじゃないし、子どものままじゃいられないからっ……」
言葉に詰まる。不意に泣きそうになった。
大人になってしまうことが、大人になりきれないことが、怖かった。
「こんなに誰かを好きになったことなんて、なかったから……」
……どうすればいいのかも、わからない。
――きっとこれが、渚沙に囚われ続けた代償。
どうしようもなく苦しかった。
しばらく、波の音を聞いていた。
「帆波は、さ」
蒼真がおもむろに口を開いた。
「きっと――」
短く息を吸う音。
「――まだ、子どものままなんだよ」
ざざ、と大きな波の音がした。
「子どものまま、って――」
ゆっくりと、蒼真の方を見る。
「そのままの意味だよ。これからも一緒にいるためには、友達のままじゃいけないって、特別な関係にならなくちゃいけないって、そう思い込んでた――あの頃の俺と、同じだ」
蒼真は淡々と、ささやくように語った。
「俺たちはもともと、世間一般的な、普通の友達じゃなかった。お互いが大切で、大切すぎて、自分を見失って……だけどさ、そういう友情だって、あってもいいだろ」
きっと、誰かを好きになるのが普通。
みんなと一緒に仲良くするのが普通。
普通で、正しいこと。
「帆波は、渚沙と二人になりたい? ……たぶんそれは、違うんじゃないか」
――違う。そう、きっと、違うんだ。
渚沙と蒼真が二人で遊ぶと聞いてもやもやしたのは、寂しかったから……スイミングスクールから急いで帰っていた、小学生の頃の私と同じだ。
二人だけで遊ばないで。私も混ぜて。三人で遊びたい。
そう叫んでいた、あの頃の私と同じ……。
――そうか。
私はただ、三人で、ずっと一緒にいたいだけだったんだ。
渚沙は、蒼真は……一番大切な、親友だから。
湧き上がる感情に耐え切れず、頬をひとすじの涙がつたった。
「大人ぶらなくていい。恋愛なんてこじつけなくてもいい。いまの俺たちは、まだ子どものままでいられるから」
視界がにじむ。太陽と、海と、渚沙が、一つになって輝く。
世界があの頃のように、煌めいていた。
「好きなら、好きって言えよ。きっとそれだけでいいから!」
波の音がうるさい。蒼真の声が次第に大きくなる。
「俺たちの関係はもう、それだけで崩れたりしないと思うから!」
蒼真は突然、波打ち際に駆けて行った。
蒼真
「渚沙ーー!!!」
気づけば、俺は大きな声で叫びだしていた。
渚沙は、びっくりしたようにこちらを見る。
背後から、帆波が駆け寄る足音が聞こえた。
「俺、渚沙のことが、
ずっとずっと、大好きだーー!!!」
渚沙は目を丸くして、その瞳がきらりと輝く。
その「大好き」は、確かな重みを持って響いた。
――今度こそは、気持ちがまっすぐ伝わるって、信じてた。
忘れようとなんて、しなくてもいい。
きれいな思い出を抱いたままでも、たとえそれが忘れられなくても、俺は前を向ける。
この夏の日は、きっと。
忘れようとしても、忘れられないから。
帆波
「……私もーー!!!」
私は涙を拭い、蒼真の斜め前まで走って行って、思いっきり叫んだ。
私と、渚沙と、蒼真が、三角形を形作る。
「私も、渚沙のことが、
ずっとずっとずっと、大好きーー!!!」
たったそれだけで、気持ちが全部、伝わった気がしていた。
渚沙は少しびっくりした顔をして、私と蒼真の方に向き直り、満面の笑みで叫び返した。
「――――!!!」
私たちの望んでいたハッピーエンドは。
こんな子どもじみたまっすぐな言葉で。
――また涙が出てきそうだった。
もっと早く、こうしていればよかった。
私たちは、きっとこれだけでよかったんだ。
渚沙
――びっくりした。
二人とも、こんな大きな声で、叫べたんだ。
あーあ……わたしが先に言おうと思ってたのに!
大丈夫。今のわたしは、ちゃんと二人に応えられる。
心から溢れ出す、満開の笑顔で叫び返した。
「――知ってるーー!!!」
もう、いまさらだよ。
そんなの、昔から知ってたのに。
「わたしも、二人のこと、
すっごく大好きだからーー!!!」
やっと言えた。ずっと言いたかった。
「きっと、わたしがいちばん、昔に戻りたいって、あの頃はよかったって、二人にもう一回会いたいって――ずっと、思ってたんだからねーー!!!」
この思いの強さだけは、二人には、絶対に負けない。
わたしはお母さんのことが、ちょっとわかった気がした。
大好きって、こんなに胸があったかくなって、絶対に手放したくなくて、必死になっちゃうことなんだね。
「わたしはずっと、子どものままでいたいって思ってた!」
大人になるのが怖くて怖くてたまらなかった。
大人になれない自分が大嫌いで大好きだった。
「入道雲みたいにでっかくなりたいって気持ちも、夕焼けを見ると込み上げてくる切なさも、毎日友達とはしゃいでるだけで幸せなことも、夏休みが終わってしまうことへの不安も、蝉の鳴き声も、すいかの赤色も、
わたしは、ぜんぶ覚えていたい!」
ぜんぶを忘れて、つまらない大人になんかなりたくない。
いつまでも小さな世界の輝きに、目を向けていたい。
子どもだけが感じられる輝きも、この世にはあると思うから。
「でも! わたしは、大人になることにしました!」
いつまでも子どもではいられない。
高くなった目線で、今よりも幸せな毎日を生きたい。
大人にしか感じられない煌めきも、きっとたくさんあるから。
「別に、わたしたちを、ずっと一番にしなくてもいい! きれいな思い出にしてもいい!」
現在を、過去を、思い出にすること。
相反する感情に、折り合いをつけること。
周りの人を信じて、少し力を抜いてみること。
大好きで大切な人たちの幸せを、心から願うこと。
それがわたしにとっての、「大人になる」ということ。
「だけど! 一年後も、二年後も、十年後も、百年後も! 三人でこうやって集まって! くだらない話をして!」
「また一緒に、海に行こうねーー!!!」
わたしが、帆波が、蒼真が、変わってしまっても。
きっと変わらないものだってどこかにある。
「だってわたしたち! 親友だからー!!」
親友だから。
大切だから。
大好きだから。
信じてるから。
――わたしたちは、永遠でいられる。
「約束だからねーー!!!」
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