第三章 雨過天青
帆波
今日は羽奈と、近くのショッピングモールに行く約束をしていた。
渚沙や蒼真と一緒にいることも増えたけど、羽奈といると私も普通の高校生になれたのかなと、少しだけ思うことができる。
ありふれていて、かけがえのない、輝きに満ちた青春。
私と渚沙と蒼真は、それを失ってしまったから。
――二人といると、時折、息が詰まりそうになる。
「もうすぐ夏休みだよね~。まあどうせ、部活行って課題やってたら終わっちゃうんだろうけど。去年なんか部活以外で泳がなかったし……あ~! 一度きりの高校二年生の夏休みなのに! つまり彼氏ほしい!」
羽奈はよくこうやって嘆いている。たぶん半分は本気で、残りの半分は……正しい高校二年生を、無意識のうちに演じているのかもしれない。
白いシャツ。短くしたスカート。きれいに巻かれた髪の毛。一日中崩れない前髪。日焼け止めを塗った肌。制汗剤のにおい。弾けるような笑顔。
清涼飲料水のコマーシャルに出てきそうな、青春を体現した女子高生。
「羽奈なら、すぐ彼氏できそうじゃない?」
正直に思ったことを告げると羽奈は少しうろたえた。
「ま、またそういうこと言ってさ~! 帆波こそさ、なんか、そういうのないの?」
「そういうの、と言われても……なんもないよ」
本当に何もないから、どうしようもない。今までも、そういう話題にはさっぱりだった。
「ほんとに~? あの人……えーっと誰だっけ……蒼真、くん、とかと最近仲良いよね! ぶっちゃけどうなの?」
蒼真。……なるほど、周りから見るとそんな風に見えたりするのか。新鮮な驚きがあった。
「蒼真は幼なじみというか、友達だから……そういうのじゃない」
なんというか、にべもない感じになってしまった。ごめん蒼真。
厳密に言うと、友達、ともまた違うのかもしれない。
嫌いなわけじゃない。信頼していないわけじゃない。でもためらわずに好きって言えるかっていうと、そうじゃない。
そんな、複雑に混ざり合った、名前のつかない関係性だから。
「う~ん、そっか……帆波はさ、恋人がほしいとか、思ったりしない?」
「……いや、今はそういうのいいかなって感じ」
羽奈がいて、渚沙がいて、蒼真がいる、私はこの小さな世界で満足しているんだと思う。
「……そっか! それもそれでありだよね~」
羽奈はけっして私を否定したりはしない。その優しさに私は甘えている。……やっぱり、彼氏の一人や二人いてもおかしくないんじゃないかと思う。いや、それは違うか。言葉の綾だ。
とりとめのないことを考えていると、
「あっ、帆波~!」
渚沙が手を振りながら近づいてきた。
羽奈は「わお……肌白い、髪きれい……いつ見ても碧さんって、目が覚めるように美しいな……」とぼやいていた。
「帆波、このあと蒼真の家行かない? この前のゲームの続きとかやろうよ!」
ゲームと漫画がたくさん置いてあるのをいいことに、最近、私たちは蒼真の家に入り浸っていた。
「えっと……ごめん、今日は友達と遊びに行く予定だから」
「そうなんだ……じゃあしょうがないね! 蒼真と二人で遊ぶことにする! じゃ、また明日ね~」
「……え、あ、うん。じゃあね」
……蒼真と、二人で。
その言葉が頭に張り付いていた。
小学生のころ、私がスイミングスクールに行っているときなんかはよく二人で遊んでいた。そこに途中から合流することもあった。少し寂しく感じることもあったけど、それまでだった。
だけど今は事情が違う。私たちは高校生になって、みんな少しは変わって……。
――余計な心配だってわかってる。
わかってるんだけど。
心にもやがかかって、同じ場所をぐるぐると歩き回っているような錯覚に陥る。
「……帆波!」
羽奈が私を呼ぶ声にはっとした。
「ご、ごめん……ぼーっとしてて……」
「……よ」
羽奈が小さく何かを呟いた。
「いいよ、行ってきなよ! 一番大切な、親友なんでしょ!」
「でも」
「いいから!」
羽奈は今度こそ、はっきりと寂しげな、泣き笑いのような表情をしていた。
「……ごめん、ありがとう。行ってくる!」
私は駆けだした。
……私は結局、いつもこうだ。
渚沙が近くにいる限り、私はずっと、渚沙を一番にしてしまう。
最近、思うことがある。
私の、渚沙への感情は、いったい何なのかって。
友達? 幼なじみ? 親友?
どれも違う。
きっと、もっと特別で、どろどろとした感情で……。
――私はまだ、その感情に、名前をつけるのが怖い。
私はもともと、一人でいるのが好きな子どもだった。
『ほなみちゃん、みんなとあっちで遊んできたら?』
心配そうに覗き込む、保育園の先生の困り顔。
『……いい。行かない』
私はいつもそう言って、図鑑を見たり、砂で城を作ったりしていた。
『……そう』
先生はきまって悲しげな目をして離れていく。
小学生になった私は、それが同情だと気づいた。
『ほなみちゃん、一緒に遊ばない?』
『……いや、私はいいよ』
どうせ、気を使われているだけ。
私が友達のいないかわいそうな子だから、話しかけてくれただけ。
いつしかそう思い込むようになった。
うっとうしい。そっとしておいてほしい。
私は一人でいたいだけなのに。
きっと、誰かを好きになるのが普通。
みんなと一緒に仲良くするのが普通。
普通で、正しいこと。
『――そんなことないよ』
お母さんは、いつも私の気持ちに寄り添ってくれた。
『お母さんも、一人でいるのが好き。それでいいの。ほなみがしたいようにすればいい』
……だけど、お母さんも、お父さんと一緒にいるときは幸せそうだった。
たった一人でもいい。
私にも、そんな大切な人がいたら。
『ほなみちゃん、よろしくね! わたしはあおいなぎさ! なぎさって呼んで!』
『……おれは、いずみそうま。よろしくな』
小学三年生のとき。
私は渚沙と蒼真と出会えた。
こんな私でも、二人と友達になれた。対等でいられた。
一緒に遊ぶことの楽しさを知った。
人を好きになる感情を知った。
だから二人は、私にとっての特別。
渚沙が転校してから、私は以前の自分に戻った。
楽しかったはずの一人の時間も色あせて感じた。
友達と一緒にいる時間を、知ってしまったから。
蒼真ともなんとなく話せなくて、他に友達を作ろうともしなかった。
他の子と仲良くするのが、渚沙に対する裏切りのような気がして。
あの夏を、ずっと抱えたまま生きていこうと思った。
忘れられない過去があったとき。
私は、忘れないことを選んだ。
渚沙
夏休み。
――夢を見ているようだった。
「あ~! 死んじゃった! 二人とも、あとはよろしく!」
「ちょっと蒼真そこ! ヘルプ!」
「無理無理! さすがにきついって!」
わたしたちは蒼真の家で、二世代くらい前の家庭用ゲーム機で遊んでいた。
まるで小学生みたいにはしゃいで。何も考えずに笑って。
――ああ、この時間が、永遠に続けばいいのに。
勉強も、宿題も、人間関係も、受験も、将来も。何もかもを忘れてしまいたい。
ずっと、二人のそばにいられたら。
――もう二度と、この居場所を壊したくない。
だから、過去を、あの夏を、終わらせなければならない。
海に行った日。
わたしは、転校することを二人に伝えるつもりだった。
……結局、タイミングが悪かったんだと思う。
いつもなら、「わたしも大好きだよ!」って笑顔で言って、それで終わりなはずだった。
蒼真のことが嫌いなはずなかったのに。
わたしは証明したかった。
陳腐な愛を必要としない関係も、この世には存在することを。
恋愛感情がなかったら、わたしたちは永遠でいられることを。
わたしが悪かったんだ。
わたしがこの手で、壊してしまったから。
転校先の学校でも、わたしは小学生時代と変わらない「碧渚沙」でい続けようとした。
髪の毛もあまり切らずに、心は幼い少女のままで。
もう一度二人に会ったとき、すぐに見つけてもらえるように。
あの頃感じていたときめきを、ずっと覚えていられるように。
忘れられない過去があったとき。
わたしは、そのままでいることを選んだ。
父親が転勤になり、また故郷に戻ってくることになった。
信じられないくらい、心臓がどくどくと騒ぎたてていたのを覚えている。
帆波や蒼真は、今ごろ、どうしているんだろう。
もう蒼真は、ゲームなんてやってないかな。帆波は水泳をやめてしまったかもしれない。すいかの味も、蝉の鳴き声も、入道雲も、もう思い出になっちゃったかも。
背が伸びたかもしれない。恋人ができたかもしれない。まぶしい高校生になってしまったかもしれない。
わたしのことなんか、もう忘れちゃったかもしれないね。
だけど、二人がまだ、あの夏を覚えていたら――。
蒼真
夏休み最終日。
どうしようもなく焦って、絶望して、時の流れを恨む、暑い夏の日。
終わらない課題にうなって、過去の自分を脳内で殴り飛ばしていると、突然家の呼び鈴が鳴った。
「ごめんね、急に来ちゃって。これ、漫画、返そうと思って」
紙袋を持った渚沙は、知らない中学校の体操服を着ていた。
「……ああ、ありがとう。別に、次に会ったときでよかったのに」
「いや、ちょっと……その、話があって」
渚沙はいつもと違って、どこか歯切れが悪かった。
息をすーっと吸って、意を決したように口を開く。
「あのときのこと、ちゃんと謝ろうと思って」
正面から目が合った。
視線に、射貫かれる。
「ずっと、謝りたかった。……ごめんね」
息が、止まった。
「蒼真もたぶん知ってると思うんだけど……あの頃、わたしの親が離婚することになって、ちょっと精神的に不安定になってたの。……わたしの都合で、蒼真を傷つけちゃったこと、ずっと後悔してた。本当に、ごめん」
そんな。
なんで、いまさら。
渚沙は悪くないのに。
悪いのは――。
「……違う。俺が、謝るべきだったんだ」
拳をぐっと握りこんだ。
こわばる体とは裏腹に、心の奥では少しほっとしていた。
――やっと、あの夏を終わらせられる。
「本当に、俺の軽率な行動のせいなんだ。ごめん。あのときの俺は、恋愛感情をよくわかってなくて。渚沙のことが好きで、ただ好きって言いたかっただけで」
七年越しに口から出た渚沙への好きは、どこか軽く響いた。
――これが、逃げ続けた代償なのか。
「付き合いたいとかは、別に、思ってなくて」
じゃあ、なんで。
「ただ文字通り好きだっただけで」
それだけじゃないだろう。
「俺は……っ」
無意識に、するりと言葉がこぼれ落ちた。
「渚沙と、それから帆波と――これからも一緒にいたかったんだ」
――ああ、そうか。
「高学年になって、男子と女子がだんだん遊びづらくなって……これからも、ずっと、仲良くしたかっただけで……。ただの友達じゃない、特別な関係にならなくちゃいけないって、思い込んでた」
――たった、それだけのことだったのか。
「……じゃあ、帆波のことは何も考えてなかったってことなの」
渚沙の声には少し険があった。
「……違う」
「じゃあ、どうして!」
俺があの日、帆波に言うつもりだったこと。
――やっと、思い出せた。
「俺は帆波にも、好きだって伝えるつもりだった」
傍から見たら、二人に告白した浮気男にしか見えなかっただろう。
でも俺たちは、きっと、
俺たちは、三人で、親友だったから。
「……そういう、ことか」
渚沙はぽつりとつぶやくと、くすくす笑い出した。
「なんか、馬鹿みたいだね」
「……本当に、そうだな」
こんなことで、俺たちはバラバラになって。七年間も思い出を引きずっていたんだ。
本当に――忘れてしまおうなんて、思うんじゃなかった。
「……ありがとう、蒼真!」
文脈が抜け落ちた唐突な言葉だったけど、なんとなくわかった気がした。
「明日。……帆波にもさ。今の話、してあげなよ」
俺は黙って頷いた。
帆波なら、きっと、わかってくれる。
「――わたしも明日、二人に言うことがあるから」
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