第二章 白砂青松
帆波
「おじゃましまーす!」
「おじゃまします……」
七年ぶりにあがった蒼真の家。
「――っ」
田んぼと空き地に囲まれた家。がらがらと音を立てる引き戸。畳の匂い。風鈴。扇風機。縁側。
それらすべてがどうしようもなく美しくて、ノスタルジックに心の奥を打った。
――ここが、私たちの居場所だった。
「うわ~なつかし~……! あ、まだこの写真飾ってるんだ!」
渚沙が指さしたのは、私たち三人がすいかを食べている写真だった。
「ほんとだ……」
蒼真のお母さんが撮ってくれたもので、口の周りを真っ赤にして満面の笑みを浮かべる渚沙、カメラに全く気づかずにすいかを食べる蒼真、遠慮がちにピースをする私が写っている。
「ああ……まあな」
少し驚いた。
まさか蒼真も、これほどまでに過去に執着していたなんて。
……蒼真はもう、小学生の頃なんて忘れてしまったように……いや、忘れようとしてるみたいに見えたから。
渚沙は懐かしい型のゲーム機の電源を入れていた。最新の機種に比べると画質は悪く、動きもかくかくしているが、これが私たちの青春だった。
「うわなつかし……っていうか、最近またやってたんだけどね!」
「……俺も高校受験のときやってたわ」
「実は私も……」
渚沙は目を丸くした。
「……な〜んだ! みんなやってたんだね! よかったあ〜……」
大げさに胸をなでおろした。
「高校受験のときにやってたってのはなに? 現実逃避みたいな?」
「うーん、なんというか……」
蒼真は少し考えこむ素振りを見せた。
「あの頃に戻りたい、って思ってたのかもな」
りん、と風鈴の音がした。
それは、私たちの間柄では、冗談では済まされない言葉のようだった。
少なくとも私にとっては。
私も蒼真と同じだったから。
渚沙が転校してから、ずっと現実逃避をしているようなものだから。
ずっと、あの頃に戻りたいって、そう思って生き続けてきたから。
私たちは一足先に、夏に駆け込んだ。
ゲームで遊んだ。だいぶ上手くなっていた。
アイスを食べた。昔より甘ったるく感じた。
花火をした。少しだけ、遠慮がちに騒いだ。
本当に、あの頃に戻ったようだった。
それでも、私たちが七年の時を経て、否応なしに変わったことを突きつけられる。
――完全に昔と同じように、無邪気なままでいられない。
……渚沙は、あの、海に行った日のことを覚えていないのだろうか。
それとも、ただ気づかないふりをしているだけなのだろうか。
蒼真が渚沙に告白したとき。
私はただ呆気にとられていた。
ああ、そうか、当然そういうこともあるんだなって、変に納得した。
ぼんやりと、蒼真はすごいな、って感心したことも覚えている。
当時の私にとって愛だの恋だのは遠い存在で、まるでその意味や重要性を理解していなかった。
いや、たぶん今でもよくわからないままだ。
もし渚沙が蒼真の告白を受け入れて、二人が付き合っていたとしたら。
渚沙と蒼真は二人で過ごす時間が増えて、三人で遊ぶことは少なくなっていただろう。
当時の私は、そのことに全く気づいていなかった。きっと蒼真も同じ。私たちは子どもだったのだ。
だから別に蒼真を恨んだとか、嫌いになったとか、そういうわけじゃない。
ただ、蒼真のことがよくわからないだけ。
「――っ、おれ、碧さんのことが好きです! 付き合ってください!」
夕暮れ、真っ赤に染まった教室。
そう告げた彼の顔も、朱く染まっていた。
窓から吹き込んだ風が、向かい合う少女の長い髪と制服のスカートを揺らす。
――渚沙が、告白されていた。
忘れ物を取りに来た私は、教室の壁越しに二人の会話を聞いた。
ぼんやりと水が滴る水道を見ていた。雫が大きくなって、耐えきれなくなったかのようにぷつりと真下に落ちた。
名前を覚えていない同じクラスの男子は、震えた声で、渚沙を好きになった理由を必死に語っている。
きっと何かが変わってしまうのが、はっきりと結果が出てしまうのが怖いのだろう。でも胸が高鳴って、少しの期待もあって。このままじゃいられないから、懸命にもがいて、ありったけの勇気を振り絞って、行動に移して。
想像はできる。
理解はできる。
でも、わからない。
――なんで、友達のままじゃだめなんだろうか。
私には、彼はとても無謀な人間に思えた。
「……ごめんなさい」
渚沙は申し訳なさそうな声色で断った。
……当然だ。
反射的にそう思ってしまった。
積み重ねた時間の質も量も、特別な思い出も。
彼が、私と蒼真にかなうわけがない。
――渚沙が、彼を選ぶはずがない。
「そっ……か」
彼はわかりやすく落胆していた。
渚沙は慌てたように口を開く。
「でも、そうやって好きって言ってもらえて嬉しい! これからも友達でいようね! 約束だよ」
普通に考えたらわかる。今までどおり、何も変わらず友達として接せるわけがない。単なる社交辞令か、気まずさから逃げるような慰めのようにしか聞こえない。
でもそれはきっと、嘘偽りなく渚沙の本心なのだ。
私たちは、それを知っている。
私は、忘れ物を取るのはやめて、そのままそっと引き返した。
母親が不倫していることを知ったのは、小学四年生の夏休みだった。
子どもにもわかるように平易な言葉で説明を受けた。父親はわたしを必要以上に子ども扱いしたが、不倫の意味もちゃんと知っていたし、これからどうなるのかも予想はついた。
人の愛情なんて、所詮そんなものだって、わかってしまった。
きっと最初は愛し合っていたはずなのに。
わたしのことも愛してくれていたはずなのに。
結局そんなものかって思った。なんだか、同じ人間としてやるせなかった。
わたしと父親は故郷を出て、東京へ引っ越した。母親は不倫相手と結婚して町を出たらしいと、あとになって聞いた。
わたしより、お父さんより、その人が大事だったの?
恋愛って、何もかも捨ててしまえるくらい、大切なの?
――わたしはずっと、お母さんのことがわからない。
小学生のころもその後も、よく告白されていた。そう言うと聞こえが悪いかもしれないけど、未だにあの緊張した雰囲気には慣れることはないし、断るときも胸が張り裂けそうになる。決してその人の気持ちをぞんざいに扱っているわけではない。
わたしは、みんなと友達でいられれば、それでよかった。
一緒にいられれば、恋なんて、愛なんて、必要なかった。
でも、それだけじゃだめなこともあるらしい、と途中で気づいた。
――きっと、いつまでも子どものままではいられない。
そんな予感が不意に頭をかすめた。
中学二年生のとき、神田くんというクラスメイトと付き合った。
優しくて、面白くて、かっこよくて、一緒にいると楽しかった。これは恋なのかもしれない、わたしも大人になれたのかもしれないと胸が高鳴った。
結局それは錯覚だったみたいだけど。こんな焦燥感に駆られて無理やり付き合ったら上手くいくはずがない。そう思われても仕方ないだろう。
――それでも、その感情が恋じゃなくても、わたしは神田くんが好きだった。
好きだったのに。
『……もう、別れよう』
そう告げられたとき、頭が真っ白になった。
『……なん、で』
全く思い当たる節がなかった。昨日も楽しく話してたし、一緒に帰ったのに。
『……わたしのこと、嫌いになった?』
必死さのあまり、意地の悪い聞き方をしてしまった。
『そうじゃない。……おれが渚沙を嫌いになったんじゃなくて、渚沙がおれを好きじゃないんだろ』
そんなことない。
好きじゃない相手と付き合ったりしない。
『いや、違うか……なんていうか……』
神田くんは言葉を探しながらゆっくり話した。
『おれにとって渚沙は特別で、でも渚沙にとっておれは特別じゃない。それがずっと……辛かった』
特別。
……そんなの、わからないよ。
そのとき、わたしは……これは恋じゃないって、気づいてしまった。
『わかった。……ごめんね』
――大人になれなくて、ごめん。
きっと、わたしが子どもだから、神田くんを傷つけてしまったんだ。
『……でもさ、これからも友達として仲良くしようよ!』
そのときのわたしは不自然に声色が弾んでいたのかもしれない。
それがわたしの、本来の願いだったから。
友達としてなら、これからずっと仲良くできるような気がしたから。
『……そうだな』
次の日から、神田くんはわたしに話しかけなくなった。
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