煙草

藤野 悠人

煙草

 夕方から、雷を引き連れて激しい雨が降った。せかせかとした雨が通り過ぎて夜が来れば、あたりはしんとした静寂と、かすかな虫の声に包まれる。街の音は遠く、ここまでは響かない。


 私は部屋の外へ出ると、ポケットの中から煙草を取り出し、一本を口に咥えた。もう一方の手に納まったジッポライターが、アパートの他人行儀な照明に照らされて、ぼんやりと光を反射している。


 小気味よい音と共に、ライターに小さな火が灯る。それをそっと、口の少し先にある煙草の先端に導いてやると、煙草の巻紙は一瞬にして黒くなる。一息吸い込むと、この体にすっかり馴染んだ苦くも甘美な煙が広がり、渇いた喉に水が染みるように、じわ、と心身に染み渡っていく。それを感じると同時に、私が溜息のように息を吐き出してやると、私の息の形をまとった白い煙が、夜の闇を背景にぼんやり浮かび上がり、やがて溶けて消えていった。


 月のない夜だった。静かで、夜空さえも暗く、静粛であった。視界の先に、遠慮がちに輝く小さな星を眺めながら、私はもう一口、煙草を吸った。


 煙草というのは、本来はまずいものらしい。ふと、自分が初めて、煙草を吸った時はどうだっただろうと考えてみるが、一向に思い出せない。代わりに思い出すのは、自分に初めての一本を差し出してくれた、もう昔の職場の同僚の顔だけだった。私よりひとつ年上だった彼は、いまも元気にしているだろうか。


 煙草は少しずつ身を削り、その先端からはほんのりと色づいた紫煙しえんが、身をうねらせて空気の中へ躍り出て、そしていつの間にか消えていく。


 嫌煙主義が世間の大多数になってから、すでに久しい。私もそれは正常なことだと思う。煙は一瞬にして消えるくせに、煙草というやつは自分の置き土産を残したがる。ヤニの匂い、灰、自身や他者の肉体に残す種々の爪痕をかんがみれば、それも致し方のないことだろう。


 その流れに乗ってか、はたまたこれも世間の流行はやすたりの一種なのか、近頃は火を用いない煙草を愛用する者も多い。だが、私にはどうにも、この手の煙草は口に合わないらしい。何度か試してみたものの、まったくもって期待外れな結果しか寄越してくれなかった。


 周囲に言われて幾度か禁煙を試み、失敗し、また試み、失敗してからというもの、開き直ってこの奥深い煙草の世界を大いに探求してやろうという気になって、差し当たって手巻き煙草を始めてみた。添加物の混じっていない巻紙まきがみは、煙草にありがちな嫌なヤニの匂いを発せず、葉っぱが持つ本来の香り高さを遺憾なく私に伝えてくれる。私は、たちまちそれの虜となった。


 そんな私の思索などお構いなしに、煙草の煙は未だその身をうねらせ、しんとした闇の中へ消えていった。

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煙草 藤野 悠人 @sugar_san010

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