記憶の更新
懐かしい…
辿り着いたのは過去に先輩と来たあの高台。
支えを掴むように落下防止のフェンスにもたれかかった。
目の前には茜色に染まる街。あの時とはまた違う表情を見せてくれる。
でも、どんな表情もとても綺麗な事に変わりは無い。
心地よい春風と穏やかな空気が時間をゆっくりと流れさせる。
何も考えずに、ただその時間に身を寄せて、預けて、溺れた。
気付けば日は暮れて、顔を出したのはあの時と同じ夜の世界。
あぁ、ずっとこうしていたい。帰りたくない。
どれだけ居たって完全に傷を癒すには現実に向き合わなきゃならないのに、
頭の中は逃げて、逃げて、時間稼ぎばかり。
かと言っても、そんなに自分は強くないのも分かっているから、甘やかしてしまってどうにもできない。
夜風が寒くなってきても足が動こうとしなくて身を縮める。
突然、そっと頬に触れた暖かいもの。
心に寄り添ってくれるような、懐かしい温もり。
何かと振り返れば「よっ、久しぶり。」と、片方の口角だけをあげて笑う先輩がいた。
幻覚でも幽霊でもなく確かにそこにいた。
理解が追いつかず、開いた口が塞がらない私をお構い無しに「ほら」と差し出される。
「あ、ココア…」
「よく飲んでたから好きなのかなって思ってたんだけど、違った?」
先輩が持っていたのは紛れもなく私が毎回選ぶ缶のココアで、「合ってます、ありがとうございます。」と受け取れば「良かった。」と満足そうに言う。
なんとか現状に身を置けば、山ほどある疑問のうち一つを抜き出す。
「あの、なんでここに…?」
隣でもう一本のココアを飲んでいた先輩の顔が若干曇る。
少しの沈黙に、聞いちゃいけなかったかも知れないとやめようとすると、「俺、嫌な事があると毎回ここに来るんだよ。」と口にした。
「嫌な事…?」
「そう、嫌な事。それより、君の方こそなんでここに?」
あからさまな話の逸らし方に、それ以上は深追いするなと言われているような気がして、
すごく気になるが先輩の話に乗る。
「私も、嫌な事があって……」
言葉につまる。まだ脳が思い出したくないと駄々をこねるから、伝えなきゃと思っているのに口が開かない。
もしかしたら先輩も同じだったのだろうか。
私の様子に察して「そっか。」と先輩は話を閉じてくれる。
久々に先輩と会ったのに、聞きたいことは山ほどあるのに、
どれを話しても今はあの事を思い出してしまいそうでただ夜景を眺めることしか出来ない。
でも、それで充分すぎるくらい、過ぎる時間は心地いい。忙しなく動く街の光。満天の星々が夜空を照らす。
しばらくの沈黙の後、先輩は言葉を紡ぐ。
「月が綺麗ですね。」
先輩の視線は月から私に移るとふっと微笑んだ。
夜空にどんな星々よりも強く光を放つ月。確かに綺麗だ。
でも、それは
「先輩と一緒に見る月だから一層綺麗です。」
私一人じゃ足りないのだ。
先輩に微笑み返せば、満たされていく心。
先輩がくれたココアは暖かくて、甘ったるい味がした。
ココア Renon @renon_nemu
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