あなたと私を繋ぐ『君』
雪菜冷
あなたと私を繋ぐ『君』
包丁がまな板を叩き、フライパンで油が躍る。早朝のダイニングは生活音で賑わっていた。ただ一つ不思議なのは、人の声が聞こえないこと。
私は息子の『背中』を見ていた。欠伸をしながら階段を降り、黙々と食べて弁当を持っていく間、ずっと。
高校生となった彼は、ご飯を食べるより長く髪をいじってからやっと玄関に向かう。後を追う私はこっそり深呼吸。今日もこの時がやってきた。
「いってらっしゃい」
「ババア」
本日唯一の会話が終了。寒々しい音をたてて扉が閉まる。自ずと、深いため息が漏れた。鏡に映る自分の姿は随分やつれていた。
朝食後、私は押し入れからいくつかの段ボールを引っ張り出した。中にはベビー服や幼児向けの玩具が入っている。気分転換も兼ねて、今日という今日は片付けようと前々から意気込んでいたのだ。
時計の針が一周した。リビングには捨てるはずの物が散乱し、書斎にあったアルバムまで並んでいる。
おかしい。私は慌ててゴミ袋を広げてみるが、ロンパースを一枚手にしただけで作業は止まる。脳裏に蘇る懐かしい記憶。自然とアルバムに手が伸び、さらに長針が一周したところでようやく片付けを諦めた。
昼過ぎになり洗濯物を取り込んでいると、ふと息子のシャツの大きさが目についた。ベビー服とは比べ物にならない。
感慨深くはあるが、当時は想像もつかなかった。こんなにも口も態度も悪くなるなんて。思わず乱雑にシャツをハンガーから引き剥がす。
そこで初めて、ポケットが膨らんでいることに気付いた。中にはかわいい熊のぬいぐるみ。キーホルダーの金具部分が外れ、咄嗟にポケットに入れたようだ。
彼女か。いや、アルバムを見て思い出したが、息子はぬいぐるみが好きだった。私はあることを閃き、すぐさまスマホを操作した。
いつも通りの朝。おはようもいただきますもなく、何なら提出物を当日の朝に出してくる。それでも、今日の私は笑みを崩さない。息子は怪訝な顔をするも、突っ込むことすら面倒なのか背を向けた。
平穏の理由は、靴箱に置かれた可愛い熊のぬいぐるみにある。先日注文した物で、古い息子の服を使って作られたものだ。目にするだけで可愛かった当時の思い出に浸れる。変わり果てた息子の暴挙の一つや二つ、いくらでも躱せるというもの。
息子は熊の存在に気付き腕を伸ばしてきた。すっかり無骨になった手。何度も握りしめてきたその指先が、星柄の熊の手をとる。
柔らかな感触を確かめるように親指を僅かに滑らせたその瞬間、間欠泉が噴出するかのように頭の中に沢山の想い出が湧いた。新生児期から幼児期を経て、あっという間に現在の大きな背中に繋がっていく。
咄嗟に息を止めた。
息子は何も言わずに去っていく。いつもより小さな音を立てて閉まる扉。
呼吸と同時に涙が溢れた。採光用の窓から差し込む朝日が熊の顔を柔らかに染め上げる。
私はシミだらけとなった手で熊の手に触れ、そっと親指を滑らせた。
あなたと私を繋ぐ『君』 雪菜冷 @setuna_rei
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