我、赤ちゃんぞ

くにすらのに

第1話 赤ちゃんになるぞ

 夜の街は誘惑が多い。俺はその誘惑に何度も打ち勝ってきた。いや、勇気が出なかったんだ。興味はあるものの入店したら逃げ場はない。もしぼったくりだったら?

 お金が解決できるならまだいい。個人情報を握られて反社会的な活動を強いられてしまったら?

 そんな妄想がよぎって早足で駆け抜けてきた。


「今日こそは……行くぞ」


 一か月続いた残業生活は昨日で終わり、ようやく定時で帰ることができた。うっすらと明るい夕空が俺の背中を押してくれている。

 夜の店はイメージと違って意外と朝早くから営業している反面、0時にはもう店仕舞いしていた。

 終電を逃すくらい残業をして、その疲れを発散するという作戦は最初から失敗だった。


「いろんな意味で溜まってるんだ。遠慮なく出すぞ」


 事前に下調べをして評価の高い店に目星を付けてある。その裏には関わってはいけない組織が絡んでいるのはどの店も変わらない。だけど、客としてのマナーを守れば何も問題は起こらない。

 もし何人もの客が反社絡みの問題に巻き込まれていたらさすがに全部の店が潰れているはずだ。


「それに、失うものは何もない」


 最後に彼女がいたのは20代の頃。30を過ぎてからはめっきり女性との交流はない。同僚と仕事の話をすることはあってはプライベートはかつての友人とも疎遠になってしまった。


 仕事が友達であり家族。そんな人生だけど死ぬのは恐い。だからがむしゃらに働いて働いて、稼いだお金を自由に使うと決めた。

 老後の蓄えなんて知ったことか。こんな生活を続けていたら老後を迎えられるかもわからない。

 遺産を残す相手もいないんだから、税金として徴収されるくらいならパーッと使ってやる。


 そういう考えに至ってからは不思議と力が湧いてきた。帰りの電車でどんなジャンルの店に行こうか調べたり、クチコミを見てプレイの妄想を膨らませて、体験談や写メ日記なんかも読んで知識だけは万全の状態を整えた。


 空の闇がだんだんと濃くなっていく。それに合わせるようにネオンの光がいやらしさを増して歓楽街としての顔が濃くなる。

 お日様の下で見かける分には簡単にスルーできる客引きも、夜のバフがかかったように熱を帯びていてしつこい。


「おにいさん、おっぱいどう? 今の時間安いよ」


「…………」


「溜まってる顔してますよ。ね? おっぱい。いいおっぱいあるよ」


「すみません。もう店は決めているので」


 俺の覚悟は揺るがない。絶対にあの店に行くと決めている。それを自分の中で確固たるものにすべく客引きにこう言い放った。

 

「ちっ、先に言えよ」


 さっきまでの明るい雰囲気から一転して悪態をつかれる。こういう客引きをする店はきっとろくなものじゃない。クチコミサイトにもそう書いてあった。そもそも、人気店なら客引きなんかしなくても勝手に人が集まる。

 夜の店に対して恐怖心を抱いていたからこそ、俺は強くなれた。


「ここら辺だと思うけど」


 スマホで店の情報を再確認する。予約を入れてホテルで待ち合わせするのではなく店舗でプレイに興じるタイプの店なのでそれなりに大きいビルに入っている。

 ただ、一つのビルにいろいろなテナントが入っている上に堂々と看板を出すタイプではないみたいでかなりわかりにくい。


 公式サイトに書かれている住所と地図アプリが示す住所は一致しているのに入り口がわからない。


「適当に入るのも恐いしなぁ」


 目当てとは違う店に入るのは萎えるし、全く無関係の場所に入るのはもっと面倒なことになってしまう。

 今日こそはと昨日のうちに仕事を片付けて絶対に残業をしないと心に決めて迎えたチャンスを逃したくはない。


 公式サイトのアクセスの部分を目を凝らして読んでいくうちに重大な情報を見落としていることに気付いた。


「なるほど。この階段」


 ビル脇の階段から2階に上がってください。


 関係者しか使ってはいけない雰囲気を醸し出しているこの階段が夢への入り口に繋がっていた。

 一段一段噛み締めるように上っていく度、鼓動は高鳴るのに指先は緊張で冷たくなっていく。


 扉を開けたらもう後戻りはできない。わざわざ階段を階段を上っておいて間違えましたは通用しない。


「いくぞ」


重厚感のある扉をゆっくりと開けると桃色の妖しい光が脳を痺れさせた。高揚感と緊張をごちゃまぜにされて冷や汗が止まらない。


「いらっしゃいませ。ご予約はされているでしょうか?」


「あ、いえ。初めてなんですけど」


「かしこまりました。履物はこちらでお脱ぎください。ご案内いたします」


「は、はい」


 女の子を守るためにマッチョで黒い服を来た人が店番をしているのかと思いきやスーツを身にまとった礼儀正しい人が出迎えてくれた。

 反社的ではないというかイメージとかけ離れていて力が抜ける。


 でも油断は禁物だ。妙なマネをしたら裏に連れて行かれて身ぐるみを剥がされるかもしれない。こういう店に来ている以上、警察を頼ることもできない。いくら評価が高い店でも超えてはいけない一線を超えればお灸を据えるどころじゃ済まされない罰が待っているはずだ。


「この4名でしたらすぐにご案内できますが、いかがいたしましょうか?」


「あっ! えと、めぐみさんをお願いします」


「かしこまりました。こちらでお待ちください」


 めぐみさん。サイトのプロフィールには1番の巨乳と紹介されていた。加工はされてるだろうけど写真を見る限りはその紹介に違わないボリューム感だ。今日の目当ては思いっ切り甘えること。


 客引きにいいおっぱいがあると言われようが、俺はめぐみさんのおっぱいに甘えにきたんだ。

 だったら予約しておけよって話ではあるんだけど、電話をするのが恐かったのともし残業になったらキャンセルしないといけないから日和ってしまった。


「お飲み物はいかがいたしますか?」


「え?」


 ソファに案内されるとメニュー表が出てきた。しかし値段の表記はない。もしかして法外的な値段の飲み物が出てくるのか?


「無料のサービスとなっております。お好きなものをお選びください」


「じゃ、じゃあ緑茶で」


「かしこまりました」


 匂いが残らない無難なものを選んだ。緊張で喉が渇いていたから助かる。待合室には何人かの気配があるけどカーテンで仕切られていてどんな人がいるかはわからない。


「お待たせいたしました。お会計は先払いとなっておりますので、現金でよろしいでしょうか?」


「はい。現金で」


「総額8万円になります」


 この額はクチコミで知った。指名料やらサービス料やらもろもろ含めるとこの額になる。それなりの高級店を選んだ。それくらい俺は溜まっていた。安い店に何度か行くよりも高い店で思い切り発散する。


 それに、俺が望むプレイはここでしか実現できない。恋人がいたとしてこんなプレイを頼んだら即別れを告げられるだろう。

 彼女がいた当時はこんなこと全く考えなかったけど、社畜として数年間を過ごしていくうちに目覚めた願望だ。


「……ちょうど頂戴いたします。それでは準備が整うまでお待ちください。お手洗いはご利用になりますか?」


「いえ、大丈夫です」


「それでは失礼いたします」


 お兄さんは恭しく頭を下げて去っていった。俺より若そうなのにしっかりしている。きっとお店のランクによって違いが出るんだろう。この店に心を決めて、客引きをきっぱり断ってよかった。


 本番はこれからなのにすでに満足したような気持になりつつある。


「手、拭いておくか」


 緑茶と一緒に出されたおしぼりで手汗を拭う。女性の体に触れるのが久し振りなのと、妄想してきたプレイをどこまで実現できるかが不安で落ち着かない。


 専門店だからきっと大丈夫。クチコミでも好評だったじゃないか。自分に言い聞かせて待つこと数分。ついにその瞬間が訪れた。


「お待たせいたしました。こちらへ」


「は、はいっ!」


 促されるままカーテンをくぐると、一瞬裸に見えるようなキャミソールの上に動物のワッペンが付いたエプロンを着た女性が立っていた。


「偉いね~。一人で来たの?」


「ひゃいっ! そうです」


 大きな胸によって歪んだクマさんの顔に意識が持っていかれて声が上ずる。写真で見るよりも存在感が増しているのは嬉しい誤算だ。


「わぁ! おしゃべりできるんだ~。でも、もっともっと甘えたかったら、バブバブしてもいいんでちゅよ~」


「ば……ばぶっ!」


「よちよち。じゃあ、お部屋まで一緒に行きましょうね~」


 手から伝わるぬくもりは女性特有の柔らかさだけではなく、全てを包み込むような優しさすら感じた。

 そう、俺が来たのは赤ちゃんプレイができる店だ。


 俺は今日、赤ちゃんになる!!

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