第5話 強盗
寝ようと寝ようと思っても眠れないから人間の体は不思議だ。謎の女性は寝息を立ててすやすやと眠っている。
この時間はとても幸せな一方で、現実世界で着々と延長料金が積み重なっていると考えるとゾッとする。そもそも、ずっと寝ている客はどういう扱いを受けるんだろう。
前払いした分とは別に異世界プレイ代と延長料金を足したらかなりの額になるのは想像に難くない。そのお金を回収せずに深夜の繁華街に放り出すとは考えにくいから、きっと目覚めるのを待っていることだろう。
まさに夢のような時間だった。なぜ異世界設定なのかは最後までわからなかったけど本物の母乳を飲めたし、自分に赤ちゃんプレイの才能があることが判明した。初めての入店で不安だった部分が解消されたから次からは堂々と遊びに来れる。
なんて将来の楽しみに胸を膨らませるのが久し振り過ぎて興奮が収まらない。これでは寝ようと思っても眠れない。
「だぶ」
実はもう夢から覚めている可能性に賭けて声を出したものの、俺の口から出るのは赤ちゃん言葉だけ。体だって思うように動かせなかった。
「だぁ……」
このまま赤ちゃんとして生きるのも全然アリだ。だけど夢はいつか覚める。楽しい夢が長ければ長いほど現実で受けるダメージが大きくなる。
いっそのこと、絶対に夢から覚めない。あるいはこれが夢ではなく、本当に異世界に転生したと確信できれば心の底からここでの赤ちゃんライフを謳歌できるんだが……。
その確証を得るには今の俺はあまりにも弱い存在だ。言葉も体力もない。あるのはただ、無条件で甘やかしてくれる謎の女性の存在だけ。
彼女がいるから俺は赤ちゃんでいたいと思える。本当の両親が夢の世界で見つかるはずがない。
もし見つかったら大問題だ。舌を噛み切って死んでやる。
ガタッ!
「あばぁ?」
窓が風で揺れたのとは違う。誰かがこの部屋を覗いていたような気配も感じた。だが、今の不自由な体ではそれを確認することもできない。ただありのままの状況を受け入れるだけ。
ただの通りすがりならまだいい。この女性の美しい寝顔に見惚れていたのだろう。それにしても不用心な人だ。カーテンも閉めないなんて。
俺に授乳したことで疲れ切ってしまったのならそれは申し訳ない。だから彼女を責めることはできないし、注意する言葉を発することもできない。
コンコンコン
こんな夜中に訪問者とはいかにも怪しい。彼女の両親……つまり祖父母になる人が様子を見に来たのなら合鍵を持っていてもおかしくないし、緊急で助けを呼んだ様子もないからわざわざ夜に来るのは不自然だ。
明らかに中の様子を伺って、すやすやと寝息を立てるこの女性が起きないことを確認している。
「あばっ! おぎゃぎゃ!!」
起きろ! 不審者だ!
そんな想いを込めて音を発する。言葉ではない。これはただの音だ。意味が通じなくてもいい。せめて目を覚ましてくれれば。だけど俺の願いは届く様子はない。
これから生まれてくる子供のために体力を養っている。そんな人を強引に起こすのは気が引けて、これ以上の大きな音は出せなかった。
「よし、いけそうだな」
「はい」
扉の向こうからかすかに聞こえる声は二人分。その内容はとても穏やかなものとは言えない。やはり泥棒だ。彼女には悪いが、寝ている間に金目の物だけ盗って逃亡してほしい。
仮に俺が一般的な成人男性の体力を発揮できたとしても大人二人と戦って、ましてや勝利できるとは思えなかった。
起きた時に部屋が荒らされていたらパニックになるとは思う。でも、新しい命と新人ママが元気にならきっとどうにかなる。今の俺は何もできない赤ちゃんなんだ。お願いだから盗みだけして帰ってくれ!
オムツ一丁で情けなく祈り続けた。
「ところで、なんか赤ん坊もいましたけど」
「知るかそんなこと。あいつの腹はデカいままだった。まだ産んでねえ」
「で、ですよね。さすがに今ならオレらでも勝てますよね」
「そういうこった。へへ、素直に国王様にでも守ってもらればいいものを。わざわざこんな辺境で一人で産むなんてバカな女だ」
「父親も居ないみたいだし後ろめたいことでもあるんじゃないすか? 魔物とのハーフだったり」
「オークとヤったのか? たしかにお似合だぜ。あの高飛車な剣士様によ」
「……あ、アニキ。すんません。想像したらあの……」
「けっ! これから殺す女に欲情してんなよ。…………殺す前に一発ヤるか。ちょうど母乳も出そうな体付き。ただ殺すのはもったいねえ」
「いいっすね! 今までオレらをコケにした分、わからせてやりましょう!」
「おっといけねえ。俺まであっちが臨戦態勢だ。いいな? 絶対に剣だけは握らせるなよ? いくらボテ腹でも剣を使われたら勝ち目はねえ。寝込みを一瞬で襲って押さえつけるんだ。そしたらまずは……ぐふふ」
「ちゃんとオレにもヤらせてくださいね。殺すだけじゃ収まんないっすよ」
「わかってるわかってる。一緒にあのデカい乳を吸い尽くしてやろうぜ。悔しいだろなあ。自分の子供じゃなく、散々バカにした小悪党になぶられるのは」
まるでエロ漫画の竿役みたいなゲスな会話に危機感を覚えた。これが創作なら俺もオカズにさせてもらうところだ。夢なのか現実なのか異世界転生なのかイマイチ状況は掴めていないが、この女性には恩がある。
ゲス野郎達の気持ちもわからんではないが、そういうのはきちんと対価を払ってロールプレイすべきだ。ましては殺すなんてとんでもない。
「おんぎゃあ!! ばぶぁっ!!! んぎゃあああああ!!!!」
疲れているからゆっくり寝かせてあげようなんて考えは一旦捨てて思い切り泣き声を上げた。この声に怯んで計画を中止してくれれば良し。どうやらこの女性が剣を持つと相手にとってはとても都合が悪いらしいので、時間稼ぎをしているうちに装備してくれれば完璧だ。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!! あぎゃあああああ!!!! んばあああああ!!!!」
「んんん……」
鬱陶しそうな反応を示したものの起きる気配は全くない。俺はオムツの中が汚れたりお腹が空いてもある程度は耐えられるが、これから生まれる子はそうはいかないんだぞ。熟睡するのはいいが育児方面でちょっと心配になった。
「アニキ、ガキが騒いでます」
「やつが目覚める前に行くぞ。扉も壊せ!」
「うっす!!」
バシャーーーーン!!!
「あぎゃっ!?」
木製の扉を突き破って部屋に侵入してきたのは二人。片方は三下っぽい陰気な人物だと想像していたが、なんと二人とも素晴らしい体格の持ち主だった。竿役としては満点だ。
手にはトゲの付いたメリケンサックを装備していて、あんな物で殴られたらひとたまりもない。
「赤ん坊は放っておけ。ティティアだ。ティティアの体を押さえろ!」
「うっす!」
ティティア。これが俺を助けてくれた謎の女性の名前なのだろう。不本意な形で一方的に名前を知られてしまったのでようやく対等になれた気がした。
彼女が……ティティアがこのゲス達に何をしたのかはわからない。もしかしたらティティアが極悪人で、彼らの人生をめちゃくちゃにした可能性だってゼロじゃない。
だけど、見ず知らずの赤ん坊に母乳を与えて、自分だって身重なのに両親探しを申し出てくれる人が極悪非道の限りを尽くすだろうか。
「おぎっ……」
俺だって金で女性を買ったゲス野郎だ。そういう商売とはいえやっていることはグレーゾーン。大の大人がオムツを履いて、赤ちゃんになっている。ティティアがこれから産む子供よりも先に母乳だって飲んでしまった。
世間から見れば同じ穴のムジナ。むしろ世間の目に晒された瞬間に俺の人生は終わる。そういうことをやってしまった。
罪を犯したわけじゃない。だから罪滅ぼしにもならない。ただの自己満足だし恩返しなんておこがましい。
「うへへへへ。やっぱいい体してんなあ」
「大人しく寝てりゃいい女なのによ。ボテ腹と一緒にたっぷり可愛がってやるぜ」
大男の魔の手がティティアに迫る。俺の存在は完全に無視されている。
オムツを履いた成人男性がスルーされるということは、彼らの目にも俺は赤ちゃんに映っているんだろう。
自他共に認める赤ちゃんの俺にできること。それは……。
「ぼぎゃあああああああ!!!!!!!!」
思い切り泣くことだった。
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