飼い慣らされた狼は花ばかりを見る

吉川 箱

第1話 初花

 ねぇ、璃玖りくさま。奏花そうかと璃玖さま、世界に二人だけになれたらどんなに幸せでしょうか。

 奏花の膝で眠る璃玖の髪を撫でながらかそけく呟く。愛しい小さな寝息は優しく部屋の中を満たす。何度も何度も、きっと璃玖が大人になっても奏花はこうしてこの愛し子の髪を撫でるだろう。

 ああ、璃玖さま。奏花と璃玖さま、世界に二人だけになれたらどんなに幸せでしょう。

 心の底から奏花はそれを願う。目を閉じれば昨日のことのように璃玖の父親、この吾毘あびの領主である志出璃貴しすいりきが奏花と彼を引き合わせた時のことを思い出す。

 幼く、しかし気高い獣の毛艶は失われ、やせ細って目ばかりをぎらぎらと凍てついた皓月のように光らせていた。

「ヴヴヴヴヴ」

 伸ばした手へ深く噛みついたまま、小さな獣は低く唸った。背中の毛を逆立てて全身で奏花を、否、世界を拒絶している。彼にとって全てが敵なのだろう。まだ生まれて三年しか経たぬというのに。悲しくて切なくて噛まれた手に構わず世界中に恐怖している幼い獣を空いた手で抱きしめた。

「ヴ……ヴヴ……」

「大丈夫。わたくしはあなたを傷つけたり、叱ったりしませんよ」

 くるり、と丸い目が金色の虹彩を上に向けて奏花を捉える。おずおずとゆっくり口を開いて奏花の手を解放した小さな狼は、頭を低くしてぎゅっと目を閉じた。

 ――そうして誰かを噛んで、殴られたことのある仕草だ。

 その小さな頭をそっと撫でる。ぺたん、と倒れた耳と耳の間を何度も、何度も。

「……?」

 怯えた丸い金色の虹彩は次第に滲んで潤む。彼は先に牙を立てねばならぬほど、他人に拒絶されて来たのだろう。いや。身内にも拒絶されて来たからこそ、奏花はここへ呼び出されたのだ。普段、奏花を呼ぶ時にはこんな場所に通すことなどあり得ない。噎せ返るような暑さも、蝉しぐれもしんと途絶えた冷たい暗がり。屋敷の敷地の一番奥、陽の差さぬ土蔵の中に彼は蹲っていた。

「叱りませんよと言ったでしょう? ね?」

 獣の姿ですらまだ幼い。大人が怖い顔で自分を見ているだけで不安だろうに。小さな体を膝に乗せ、頭から背中まで優しく撫でる。子狼はくぅん、と静かに鳴いて禄花の手に付いた牙の跡を舐めた。

「ありがとう。いいこ」

 子狼の気持ちが落ち着くまで静かに小さな頭を撫でて待つ。汚れた毛並みのすぐ下に感じる骨の軽さと脆さが指に伝わる。

「花は好きですか」

 微かに頭を擡げて丸い目がぱちくりと瞬きした。自らの唇へ人差し指を当て、頬を緩める。

「見ていて?」

 躑躅、牡丹、桜、竜胆、梅、最後に芍薬を出して子狼の鼻先へ差し出す。

「好きな花はありますか」

「……きいろいの」

「黄色い、何の花でしょう。菜の花かな、女郎花かな?」

 子狼の答えに胸が詰まる。この子は、自分が好きな花の名前を知らないのだ。誰も彼に、花の名前など教える人がいないから。

 思い出せるだけ黄色の花を手のひらから出してふう、と息を吹きかける。黄色の花は暗い土蔵の中でも、闇に慣れた目に鮮やかだ。奏花が息を吹きかけた花はしばらく宙を舞う。その中の一つに目を輝かせて幼い狼が声を上げた。

「それ、すち」

「……たんぽぽですね」

「たん、ぽこ?」

「ふふふ」

 かわいい言い間違いを訂正するのはもったいない気がして答えず、花を出し続ける。野を駆けるのが好きなのだろうか。蒲公英の中を駆け回る子狼を想像して覚えず微笑んだ。

「では、璃玖さまのためにたんぽぽをたくさん出しましょう」

 冷たい土蔵の床を覆い尽くさんと蒲公英を手のひらから出し続ける。子供らしい笑い声を漏らした子狼にぽつりと呟く。

「わたくしも、普通の人とは違います」

 つ、と動きを止めて振り返った瞳は戸惑いと気づかいと縋るような問いかけ。

 暗くじめついた土蔵の中と、僅かな隙間から見える世界がこの幼子の全てだ。彼が世界を拒絶しているのではなく、世界が彼を拒絶している。隔離されたこの空間しか知らない若君。

 あなたも私も、この世界の外に居る。この世界に居場所のない他所から来た部外者だ。

「寿命もね、長いのです。母は今二百を過ぎたところなので、おそらくわたくしもそれくらいは生きるのでしょう」

 かつかつ、と獣の爪が土を蹴る、小さな足音が近づく。禄花の手を舐め、幼い獣は伏せて寄り添う。

雨辺山うべやまの中に庵があって、そこで暮らしております。花畑があって綺麗なんですよ」

「ひとりで?」

「ええ」

「えんえんしない?」

 首を傾げた仕草で何となく察する。寂しくないか、と言いたいのだろうか。

「そうですね……璃玖さまがわたくしと一緒に暮らしてくださったら寂しくなくなりますね」

「……」

 性急過ぎたか。戸惑うというより、思案している、という様子の小さな頭を撫でる。

「……いいよ」

「え?」

「いっしょ、いても、いいよ」

 無意識に覗き込もうとしたが、子狼は目玉を動かして頑なに奏花と視線を合わせない。優しく背中を撫でると、耳が横へ下りて八の字になっている。甘えているのだろう。

「本当ですか」

「ん」

「……嬉しいです」

 璃玖をこんなところに閉じ込めたのは父親であるこの吾毘領の領主、璃貴の命令だろう。璃貴へ対して、少し意地悪な気持ちになった。

「そうと決まればすぐにでも我が家へご案内しましょう、璃玖さま。みんなに内緒、ですよ」

「しみつ?」

「ええ、秘密です」

「えへへ」

 ぱっと立ち上がりながら、人の姿へ変じて小さな手を伸ばして奏花の首へしがみついた璃玖は丸裸だ。土蔵の中のどこを見回しても、璃玖のものと思しき着物は見当たらない。

 獣の姿で生まれた若君。

 けれど、着物すら与えずに人の姿など必要とするだろうか。この冷たい土蔵の中、生まれて三年もの間、この小さな手がどんな風に生きて来たかを考える。込み上げてきたものを堪え、蜻蛉を外して狩衣の腹へ裸の璃玖を抱き込む。

「おやまぁ、狼さんもかわいらしかったけれど、こちらのお姿も大変かわいらしゅうございますね」

 さぁ、奏花にお顔をよく見せてくださいませ。ああかわいい。ああいとしい。このまま抱っこして行きましょうね。

「ん」

 小さな手は迷って迷ってそれから遠慮がちに奏花の単の合わせ目へ入って来た。

「ふふ」

「どうしました?」

「ぽかぽかする」

 瞼の裏が熱くなって、鼻の奥がつんと痛んで、視界が滲むのを堪えて軽くて儚い体を抱きしめる。

 さぁさ、参りましょう。大事な大事な璃玖さまがお風邪など召されませんように大切に大切に包んで参りましょう。


 ――銀色おおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。


 奏花の住む雨辺山の深い森の中、庵に辿り着く頃には璃玖は小さな寝息を立てていた。

「童の着物を仕立てなくては」

 奏花は食事をしないので庵には竈がない。竈を作らねばならぬし、璃玖の食事を用意せねばならない。

「梅花」

「ここに」

 軽く手を揮うと花弁が徐々に女人の形を取る。手のひらに残った梅の花弁へ吐息を吹きかける。

「璃玖さまの着物と、とりあえず米か粟を里で交換して来ておくれ。三歳くらいの人の童は何を食べるのだろうね……」

 間を置かず宙を掴むように手を振り、吐息を吹きかける。

「土鼠。竈を作っておくれ」

 きゅいっ。

 小さく鳴いた鼻面を撫でてやる。しとねに腰を下ろして、まだすやすやとかわいい寝息を立てている温もりを眺める。

「こんなにいとけないものをどうして放っておけるのやら」

 はたと思い付いて花弁の蝶を呼び出す。ふう、と吐息を吹きかけると夕闇へ溶けるように消えて行く。童の着物なら奏花のものを母が取っておいてあるかも知れぬ。しばらくすると銀色に輝く花弁の蝶から張りのある声が聞こえて来た。

『どうした? お前から連絡とは珍しいな、奏花』

「母上、わたくしの童の頃に着ていた着物はそちらにありますでしょうか」

『あると思うぞ。奏に届けさせよう』

「ありがとうございます。あの、母上」

『なんだ?』

「三歳くらいの人の童とは、一体何を食べさせればよいのでしょう」

 言い終わる前に、花弁の蝶からダンッ! と大きな音が聞こえて来た。

『拾ったのか、君が生んだのか。相手は? 答えなさい、奏花』

 会話に割り込んできた低い声は明らかに不機嫌だ。

「父上、落ち着いてください」

『ちょ、奏! 待て待てどこへ行くおい! ……あー……ごめん。奏がそっちへ血相変えて飛んでったから、れもお前の着物を持って追いかけるよ』

「ありがとうございます……」

 奏花の父、奏臥そうがは一人息子の奏花に大層甘い。その反面、奏花に色目を使う人間に厳しく未だ子供扱いをしている。

「困ったな。父上が来てしまう」

 まさか童相手にまで厳しく接しはしないだろうが、それでも経緯を話せば今すぐにでも璃貴の元へ抗議に飛んで行くだろう。

 そう、文字通り飛んで来るのだ。

 ひゅいー、という鳴き声と共に大きな羽ばたきが聞こえて来る。風圧で庵の壁がみしりと音を立てた。

「奏花!」

「しぃ。父上、声が大きゅうございます。璃玖さまが起きてしまう」

「……璃玖様と? ではこの子は璃貴殿のお子か」

「はい。手習いを教えてもらえぬかとお屋敷に呼ばれたのですが……あまりに酷い仕打ちを受けていたので見かねてここへ連れて参りました」

「……それは璃貴殿、志出家の問題で君が負うものではない」

「ですが放っておけません」

「しかし」

「はいはい、そこまで」

 奏臥の肩を後ろから叩いてひょっこり顔を覗かせた人物にほっとして、笑みが零れた。臥世真君がせいしんくんと呼ばれるほど清廉潔白、頑固者の父を制御できる唯一の人物。

「母上」

「もうすぐ九十才にもなる息子のすることにいちいち口を出すのは過保護過ぎじゃないか? 奏」

「しかし、禄花ろくか!」

「奏花にも思うところはあったんだろう。それなら奏花に協力してやるのが己れたちの務めだ」

「しかし、これは志出のお家の問題で奏花には関係ないことだ。これは間違っている」

「あのな、奏」

 言い合いを始めた両親に一つ咳払いをする。

「父上。確かに璃玖さまの教育や養育については領主殿が全責任を負うべき所です。ですが、そんなことがこの幼子に何の関係がございましょうか。当たり前に庇護されるべき童が庇護されていない。親である璃貴殿が愛してやらぬのならば、誰かが愛してやらねばこの子は人になれませぬ。それが分かっていて見過ごすことなどわたくしにはどうしてもできませぬ。璃貴殿への説教ならいつでもできますが、この子を守るのは今すぐでなければなりませぬ」

 きっぱりと言い切って顔を上げる。奏臥は驚いたように奏花の顔を眺め、それから眉尻を情けなく下げた。

「私は……お前が不当に扱われぬか心配なだけだ……」

「存じておりますよ、父上。けれど捨て置けませぬ。この子を捨て置けば、わたくしは本当に人ではなくなってしまいます」

「……」

 ぐ、と言葉を飲んだ奏臥の肩を禄花が軽く叩く。

「……奏花の方がよほど大人だ。迷いはないのだな?」

「はい、母上」

「で、あれば。最期まで、お前だけはその子の味方で居てやれ」

「……はい」

「困ったことがあれば言いなさい」

「はい、父上」

「ほれ、お前が着ていた着物を持って来た。食事は柔らかめに粥を作ってやれ。三歳ならそろそろ何でも食べられるようになる頃だろうが……どうにも栄養状態が悪いようだな」

 どさりと布に包まれた水干を床へ置き、奏花の懐を覗き込む。徐々に声を落として禄花は目を伏せた。幼いとは言え、璃玖は細く小さく余りに儚い。

「ええ……」

 奏臥も眉を寄せて奏花の狩衣の中で眠る璃玖を見る。放っておけなかった、という奏花の気持ちを理解してくれたのだろう。

「この状態ではおそらく、しばらくは柔らかめの粥で様子を見る必要があるだろう。胃が食事に慣れねば障りがある。童でも飲める滋養のある薬を処方してやれ」

「……よく寝ている」

 ぽつりと呟いた父に、この人も子育てをした人の親であったと頬を緩める。

「竈や井戸が必要だろう。緑藍りょくあいに作らせておくから、君は休みなさい」

 土間の隅でちまちまと窯を作っていた奏花の土鼠を助けるように奏臥の土鼠が作業へ加わる。梅花が外から戻り、米と着物を置いて食事の支度を始めた。

「父上」

「うん」

「ありがとうございます」

「……うん」

「ん……」

 話し声に目が覚めたのか、奏花の懐で璃玖がもぞりと身じろぎした。人の姿を取ることに慣れていないのだろう。いつの間にか小さな頭にはかわいい三角の耳が出てしまっている。ぺたんと垂れていた耳がぴくぴく、と動いて小さな手が目を擦る。

「璃玖さま。あまり強く擦ると赤くなってしまいますよ」

「ん……?」

 金色の虹彩が奏花を捉える。零れ落ちてしまうかと心配になるほど丸い目を見開き、それから照れくさそうに小さく呟く。

「ゆめじゃ、なかった」

 甘えるように奏花のひとえへ小さな手を差し入れて、温もりを確かめている。そんなことすらこのいわけない子供はさせてもらったことがないのだ。

「これからはずぅっと、この奏花と一緒ですよ」

 甘く目尻を下げて懐を覗き込むと、春風に野の花が揺れるように璃玖が微笑む。

「璃玖さまに、お着物を用意したのです。璃玖さま、わたくしの父と母です」

 奏花以外の人間が居ること、見たことのない場所に居ること。眼へ一遍に入って来た情報にぽかんと口を開いたまま辺りを見回し、それから目の前の人物をきょろきょろと眺める。無表情の奏臥を見ると璃玖は自分の親指を口に含んですん、と鼻を鳴らすと奏花の胸に顔を埋めた。禄花が奏臥の背中を叩く。

「睨むな、奏」

「う……」

「怖くありませんよ。……父はいささか表情を動かすのが苦手で」

 懐の中の小さな背中を撫でる。奏花は自分の体ごと揺らして、璃玖へ柔らかく話しかけた。

「まずは奏花に、こちらの水干を着て見せてはもらえませんか? 璃玖さまの金色のお目々にこの若苗色の水干はとても似合うと思うのです」

「そうか、よろこぶ?」

「ええ。見せていただけるととても嬉しいです」

「きる」

「はい。奏花がお手伝いいたしますね」

「うん」

「まずは小袖こそでを着ましょうね」

「おそで?」

「小袖です。奏花も着ておりますよ。これです」

 おずおずと奏花の懐から足を出した璃玖の、小さな体の細さに禄花も奏臥も眉を顰めた。禄花と奏臥の方へ背を向けさせ、璃玖の小さな肩へ小袖を被せる。

「小さなかわいいお手々をこちらへ。袖の中で奏花と手を繋げますか。ああ、お上手です」

 体が冷えてしまう。大急ぎで大口袴おおぐちはかまを穿かせ、それから水干を着せて括袴くくりばかまを穿かせる。単はもっと慣れてからでいい。袖の括紐くくりひもも絞ってしまい、動きやすくした。

「ああ、おかわいらしい。よくお似合いですね」

「そうか、うれし?」

「ええ、うれしゅうございます。おかわいらしいのにきりりとしたよきお姿です」

 髪を整えるのはまたの機会でいい。今は人の姿で食事をすることを目標としよう。

 梅花が木椀に粥を持って来た。膳ごと受け取って膝へ横向きに座らせた璃玖の前へ置く。禄花がゆったりとした動きで円座を引き寄せごく自然に奏花の隣へ座る。禄花に目で促されて、奏臥も静かに座った。

「璃玖さまのかわいいお口へ奏花が匙でお運びしますよ。させてください。よろしいですか?」

「ん」

 粥を木匙で掬って吐息で冷まし、唇を当てて熱すぎないか確認してから璃玖の口元へ差し出す。きょとんと見上げた璃玖へ、微笑んで見せる。

「お口を開けてくださいませ」

 素直にぱか、と開いた口へ慎重に匙を差し入れる。顎が動き、喉が粥を飲み下すのを確認してから次を差し出す。何度か繰り返すと、椀の中身はすっかり空になった。

「おいしかったですか」

「ぽかぽか、する」

「温かいのですね。まだ食べられますか」

 ふるふる、と首を横に振って、璃玖は自分の腹を撫でた。

「ふくれた」

「お腹が一杯になったのですね。璃玖さまがたくさん食べてくださって、奏花はうれしゅうございます」

「そうか、うれし?」

「はい」

「おれも、うれし!」

 にこにこと笑った璃玖に覚えず破顔する。奏臥が懐から手拭いを取りだし、奏花へ差し出す。

「口を拭いてやりなさい」

「はい、父上」

 口を拭いている奏花と隣に座った禄花を見比べて金色の瞳がきょろきょろしている。禄花が璃玖の手の甲へ、人差し指と中指で足を作ってゆっくりと小さな腕を登って行く。

「とんとんとんとん、どんどん上っていくぞぉ? そぉれ、一番上までたどり着いた! こちょこちょこちょ~!」

「きゃははっ」

 子供らしい笑い声を上げた璃玖が身を捩る。奏花も子供の頃よくやった手遊びだ。

「とんとん、こちょちょ!」

 子供はすぐに真似て遊びを覚える。禄花の次は奏花、それから奏臥の方を見て、璃玖は手を後ろに隠して上目遣いで顎を引いた。

「父上」

 無表情の大人など、璃玖にとっては怖いばかりだろう。暗に態度を改めよと咎めて声をかける。奏臥は溺愛している一人息子に睨まれて眉をハの字に寄せた。

「こほん……。上手に私をくすぐることができたら、肩車をしよう」

「かた、ぐる?」

「肩車は危のうございます父上。高い高いにしてください。そこへ座ったままで」

 六尺強ある奏臥の肩車など、落ちたらと考えるとぞっとする。奏花の幼い頃、高い高いで上へ放り投げすぎて奏花を泣かせ、禄花に叱られたことなどもう忘れてしまったようだ。奏花の強い物言いと視線に奏臥は小さく何度も頷く。

「う……うむ」

「高い高いをしてくださるそうですよ、璃玖さま」

「たかたか?」

 そんなことすらしてもらったことがないのだ。奏臥を怖がる璃玖の手を取って、奏花が見本のために奏臥をくすぐって見せる。

「ほらこちょこちょこちょ、ね、怖くありません」

「こちょ、ちょ」

「ああくすぐったい、これは参った。どれ」

 奏臥が円座に座ったまま璃玖の両脇へ手を入れ、腕を伸ばす。腕を曲げ伸ばす動きで上下する視界が楽しいのだろう。少々手荒な遊びが好きなのはさすが男の子と言ったところか。はしゃいで大きな声で笑う璃玖に、奏臥の頬も微かに緩む。しばらくそうして遊んでいたが、うとうとし始めた璃玖はすとん、と奏花の膝に座ると狩衣の懐を探る。単の合わせ目に手を入れるとこてんと小さな頭を奏花へ預けて寝てしまった。

「ふふ……」

「どうしました、母上」

「いいや。奏花も眠くなるとよく己れの着物の合わせ目へ手を入れてたなぁと思って」

「入れられた手が温いので、もう眠いのだと分かる」

 奏臥も同意するように続けていささか照れくさい気持ちになった。

「もうそんな小さな頃のことは覚えておりません」

 気恥ずかしくなり俯くと、仄かな寝息を立てる健やかな寝顔が目に入る。自然とあやすように背中へ当てた手を動かす奏花を眺め、禄花が立ち上がって膝を払う。

「さて。己れたちは帰ろうか、奏」

「……奏花。困ったことがあればすぐに知らせなさい。私たちはいつでも君の味方だから」

「……はい、父上。母上も、来て下さりありがとうございます」

「一人で悩まないこと。分かったな?」

 禄花が奏花の頬を撫でて目を覗き込む。頷いた奏花の髪を奏臥の手が撫でて行く。蔓や花でできた鳥、奏臥の式神である香鵬かほうの羽ばたきが遠ざかる音を聞きながら、幼子の背を撫でる。奏花は両親から愛されていることを知っている。だから奏花は、璃玖を放っておけなかった本当の理由を両親には告げられないでいた。

 父上、母上。璃玖さまも奏花も、化け物なのです。だから璃玖さまを真に理解できるのはこの世に奏花だけでしょう。父上と母上がいくらそんなことはないと言っても、それが事実だと奏花は知っているのです。

「わたくしの場合は、両親も人ではなかった。違いはそれだけです。それだけでも、わたくしには救いがあった。璃玖さまには本当に誰一人理解者がいない」

 それがどんなに恐ろしいことか。どんなに心細いことか。どんなに孤独なことか。それはきっと、奏花にしか分からないだろう。

 ――かわいいおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

 璃玖をあやしながら奏花も眠ってしまったようだ。久々に幼い頃の夢を見た。

「そうか!」

 舌足らずな呼び声。両親と住んでいた山へよく遊びに来ていた子供だ。初めは同い年だった。彼だけがどんどんと年を取って行った。従兄の奏誼そうぎも、物ごころついた頃にはすでに壮年で子供があった。奏誼の子供もどんどん奏花の年齢を越して行く。奏花だけが幼い外見のまま、かつては同じ年であった子供たちも年老いて死んでしまう。奏花と他の人間とは生きている時間が違うのだと思い知る頃には古くからの知人は皆、逝ってしまった。変わらぬのは、両親と奏花だけ。そのことが酷く孤独だった。誰とも知り合うことがなければ、誰の死を悼むこともない。そうして奏花はこの庵に籠るようになった。時折、璃貴から声がかかることすら面倒になっていた。志出家の家人の顔を覚えることもしない。彼らは道端の花と同じだ。道端で揺れる花は、季節が巡ってまた同じ花が咲く。顔を覚えなければ、その花を「個」として認識しなければ、それは名もなき道端の「花」だ。喪った悲しみを感じる必要もない。

 懐の温もりに意識が浮上する。無意識に撫でると着物がずるり、とずれる感覚があった。

「?」

 目を閉じたまま、手探りで小さな頭のある辺りを撫でるとごわごわとした毛の感触が伝わって来る。

「璃玖さま?」

「きゅうん」

 ああ、まだ無意識の時はこうして獣の姿に戻ってしまうのか。徐々に人型の方が便利な場面が増えれば、自然と人型を取ることを覚えるだろう。今の璃玖には人型を取ることによる利がないのだ。

「璃玖さま、お腹は空いていませんか」

「きゅう……。すいて、ない。もすこち、ぽかぽかがいい」

 胸に押し当てられた小さな頭蓋骨の感触に目を閉じる。大切に大切に抱きしめて、温もりを確かめる。

「温かいですか」

「うん。たたたかい」

 拙い言葉は愛しくもあり悲しくもある。懐の小さな体をあやしながら今日の予定を考える。

「もう少ししたら、湯あみをしましょうね。璃玖さまの綺麗な銀の御髪を、奏花に手入れさせてください。体が綺麗になったら食事をしましょう。それから庵の周りを散歩しましょうね」

「さんぽ?」

「ええ、一緒に手を繋いで、お散歩です。お花もたくさん咲いていますよ。お花、好きですか?」

「すち」

 懐の中で、もぞもぞと璃玖の体が動く。人の姿になった小さな手が奏花の単を掴んで頬を寄せる。

「そうか、おはなのによい。いいによい」

 璃玖はきちんと、自分の意志で必要に応じた姿を使い分けている。やはり今までは獣の姿で居る外なかったか、必要がなかったのだろう。土鼠が竈の脇へ大きな木桶を置いて釜で沸かした湯を入れる。璃玖が甘えて奏花の懐へ潜ったり顔を出したりしている間に、木桶は湯でいっぱいになったようだ。

「璃玖さま、湯あみしましょう」

「ゆやみ」

「温かいお湯の中でお体や頭を洗って拭きます」

 獣の姿の時に毛づくろいしているからか、酷く汚れているというわけではないようだ。それでも髪には櫛は通らないだろうことが明らかだし、何より健康状態を確かめたい。狩衣を脱いで小袖だけになり、木桶へ足を入れる。それから璃玖の水干を脱がせて膝へ座らせ肩へ湯をかける。ぶるぶる、と震えた後、璃玖の体から力が抜けて行くのが分かった。

「璃玖さま、熱くはありませんか」

「んーん。ぽかぽか」

「璃玖さまのお手々は小さくてかわいらしゅうございますね。あんよもかわいい。湯あみが終わったら今度はこのかわいいお腹がぽんと膨れるまで粥を食べましょうね」

 話しながら手拭いで体を撫でて行く。どこも怪我はないようだが、やはり全体的に細く、栄養が足りていないようだ。最後にゆっくり、襟足から湯をかける。

「璃玖さま、頭を濡らしますよ。初めは後ろからです。湯がかわいいお目々に入らぬよう、かわいいお手々でしっかり目を覆っておいてくださいね」

「ん」

 素直にきゅっと小さな手を自分の両目に当てた姿に覚えず笑みを浮かべてしまう。それでも奏花は湯が璃玖の小さな耳に入らぬよう、目に入らぬようにと慎重に髪を湯で流す。

「さっぱりなさいましたか」

「ん……ちもちー」

「気持ちよくて眠くなってしまいましたね」

 璃玖の体を手早く拭いて小袖を着せる。その間に濡れてしまった小袖を脱いで奏花も新しいものへ着替える。狩衣を着るのは面倒で、袴を穿いたらうちぎを羽織って璃玖にも袴を穿かせる。璃玖の髪を拭いて、椿油を少し馴染ませ梳くと銀色の髪は青みを帯びてきらきらと煌めいた。

「ああ、璃玖さまの御髪はまるで月の光を跳ね返す雪原のようですね」

「そうか、りくのかみ、すち?」

「ええ。綺麗です」

「えへへ」

「食事にいたしましょうか」

「うん!」

 璃玖は食事とは奏花の膝でするもの、と理解したようだ。何の迷いもなくすとん、と膝へ横に腰を下ろし、こてんと頭を胸へ押しつけた璃玖が奏花を仰ぐ。その瞳には警戒の色は一切なく、澄んだ信頼だけが映っている。

「……璃玖さま、璃玖さま。おかわいらしくて大好きです」

「……りくも、そうか、すち」

 梅花が運んで来た粥を璃玖の口へ運ぶ。大人しく奏花の腕の中、甘えた仕草で胸へ凭れる小さな体を抱きしめる。

「ああ、今日もたくさん食べられましたね。奏花は嬉しいです」

「ん」

「お茶を飲んだら、お散歩へ行きましょうね。さ、お口を拭きますよ」

「ん」

 簡素な庵の外へ出る。行きは眠ってしまっていたから、外に出るのは初めてだ。

 木漏れ日に揺れる下草、裾野へ続く獣道はあまり人の立ち入らぬ場所だと一目で分かる。庵の裏には花畑があり、そのさらに奥には木立の向こうに滝が見える。庵は山の中腹に位置していて、これより先はどんどん低木と下草だけになり、頂上にはまだちらほらと雪が残っているのが見えた。璃玖は大きく息を吸い込むと子供らしい甲高い声を上げて駆け出した。ぐん、と身が低くなり、耳が生え尻尾が生え、四つん這いになる頃にはすっかり子狼の姿になって花畑へ突っ込んで行く。水干や袴を拾って奏花はゆったりと後を追う。

「そうか!」

「はい、璃玖さま」

「りく、ここ、すち!」

「では奏花とここで暮らしましょうか」

「そうかと?」

「ええ」

「ずっと?」

「ええ」

「そうか、めってされる?」

「誰が奏花を怒るのですか?」

「……ととさま」

「……」

 知っているのだ。この子は、自分の父親に疎まれて土蔵に押し込められていたことを。

「……璃玖さま。実を言うと奏花は璃玖さまのお父上よりうんと偉いし、とても強いのです。だから璃玖さまのお父上が奏花を叱ることなど、できないのですよ」

「……ほんと?」

「ええ」

 幾分毛並みの良くなった子狼を抱きしめる。小さな額に唇を寄せて目を閉じる。

「決めました。誰が何と言おうと奏花はずぅっと、璃玖さまと一緒に居ます」

「ずっと?」

「ええ」

 ずうっと、ずぅっと誰が何と言っても奏花は璃玖さまの味方ですよ。

 抱きしめて背中を撫でる。固い肉球が奏花の膝に当たっていたが、柔らかく小さな足の裏の感触へ変わって行くのが分かった。人の姿になって縋る璃玖へ、小袖をかけて抱きしめる。不安定な姿は、不安定な心の表れだ。変わる姿に応じて衣を拾ってやればいい。衣を着せてやればいい。それだけのことだ。それ以外は他の者と同じ、ただの子供だというのに。

 ひゅいー。

 香鵬の鳴く声に振り向くと、奏臥が恐ろしい剣幕で奏花の方へ向かって来るのが見えた。怯えた璃玖を胸に庇ってその小さな耳を塞ぐ。

「奏花! 璃貴殿には話を付けて来た! その子を二度とあんな場所へ戻さなくていい!」

「……え、父上?」

「その子が閉じ込められていた土蔵を見て来た。あんなのは親のすることではない。君が怒って当たり前だ。さ、璃玖殿。餅を買って来た。甘葛あまずらもある。いらっしゃい」

 上目遣いで奏花を眺めた璃玖に袴を穿かせて、頷いて見せる。おずおずと奏臥へ近づき、小さな手を伸ばす。奏臥は璃玖の小さな手を柔らかく掴んだ。

「これからは私を祖父と思いなさい。ほら。甘葛だ。けずを作ってあげよう」

「……じいじ?」

「うん」

 照れくさそうに笑って、小首を傾げた璃玖は奏臥の手を強く握った。歩き出した二人を追いかけ奏花も立ち上がる。

「奏花、璃玖殿と暮らすならあの庵は手狭だろう。もう少し北へ大きな屋敷を建てよう。禄花に頼んでおく」

「はい」

「それからしばらくは璃貴殿の使いもここへは来られないように結界を張っておいた。山自体の結界も強固なものにしておいた。これで安心に暮らせるだろう。必要な物があれば私に言いなさい。買って来る」

 これは本格的に怒っているらしい。奏臥の横顔を盗み見る。いつもと変わらぬように見えるが、真っ直ぐ前を見たまま視線を揺らさぬ。やはり璃貴に対して怒っているのだろう。

「それから魚を釣って来た。今日の粥に入れてあげなさい」

「じいじ、めっしたの?」

「うん? いや、璃玖を怒ったのではないのだよ」

「だれ、めっしたの?」

「誰とも仲違いはしていない。少し話をして来ただけだ。璃玖はうちの子にするから、と」

「……そうか、ととさまに、めっされない?」

 不安になった時の癖なのだろうか。奏臥に尋ねながら璃玖は自らの親指を口に含んで視線を揺らす。決してよい環境に育ったとは言えないのに、聡明な子だ。銀の髪を大きな手が撫でる。

「そんなことは私がさせぬから大丈夫だ」

 そんなことがあったら、今後吾毘とも志出家とも一切関わらぬ。

 珍しく微笑んで見せた奏臥は、冗談ではなく本気で言っているから恐ろしい。璃貴もさぞ肝を冷やしたことだろう。先代から世話になっている仙人一家に見限られたら。奏花の母、禄花がこの寒さが厳しく貧しい領地に塩の作り方や寒さに強い作物の作り方などをもたらした。恩人などという言葉では表せないほど、吾毘にとって禄花と奏臥は大事な存在だ。その息子である奏花は両親同様に丁重に扱われて来た。その機嫌を損ねたのだから、今頃志出家では大騒ぎだろう。

 奏臥の作った削り氷を食べている間に禄花がやって来て三人の顔を眺め、仕方がないな、というように笑った。

「璃貴殿が慌てて使いを寄越して来たぞ、奏」

「構わない」

「それほどか」

「それほどだ」

 短いやり取りで両親は何事か分かり合ったのだろう。禄花は一つため息をついて自分のつま先を見、それから肩に担いでいた籠を下した。

「では存分に。奏花、滋養にいい野菜を少し持って来た。粥に入れるといい」

「ありがとうございます」

「冬が来る前に屋敷を立ててやる。童との暮らしは目が離せぬことが多いから、用があればいつでも言うといい」

「はい、母上」

「ばあば、おいし、よ!」

 璃玖が削り氷を禄花へ差し出す。奏臥が祖父だから禄花は祖母、というのを理解しているのだ。

「なんじゃ、己れをばあばとな? ひひひ、い奴じゃなこりゃこりゃ、あーひゃっこいほれ、璃玖の口にも入れてやろう。どら」

「うふふ」

「うまいか」

「おいし!」

「おー、おー。そうか。おいしいか」

 人の理から外れた者ばかり。けれども一見、穏やかな光景。偽りだとしても、璃玖にそれが必要であればよいではないか。そう思えた。

「童の頬はもっとまろくてふくふくでなければな。そうだろ? 奏花」

「……はい」

 人の命も短く儚い。同じように短く季節は巡る。冬の気配を空に感じる頃、禄花の建てた北の屋敷に奏花と璃玖は住まいを移した。新しい住まいで一冬を越え、春を迎え、夏を過ごして秋の訪れを感じる頃には璃玖は変じては毛並みの良い子狼、人の姿になってはふくりとまろい元気な童に成長していた。

「これ、璃玖! いたずら坊主め! じいじの手習いは終わったのか?」

「きゃははっ、ばあば、ここまでおいで!」

「禄花。君まで璃玖と一緒になって散らかさないで」

「もう、母上! 璃玖さま!」

 禄花が建てた屋敷は元の庵よりも大分立派だ。屋敷の近くにある沼を狼の姿で駆け回り、簀子すのこへ飛び込んで来た璃玖が胴震いする。蒲の穂の間を駆けて来たのだろう。ふわふわとした穂綿が秋空に飛んで行く。蔀戸しとみどの奥、ひさしの中には璃玖が手習いをした紙が何枚も散らかっている。その一つを摘み、相好を崩して奏臥が手招きをする。

「璃玖。ほら、こちらへおいで。ばあばに見せておやり。璃玖は随分、手が上手になりました、と」

 狼の姿から人の姿へ変じながら、妻戸をくぐった璃玖の肩へ小袖を被せる。手慣れた様子で自ら帯を結び、袴を穿いて奏臥の手から紙を受け取り自慢気に禄花の目の前へ差し出す。

「こっちがりくのなまえ。こっちがそうか」

「おお、上手だ上手だ。今度は己れの名前も書いておくれ」

「『ばあば』はかけるよ」

「ばあばの名前は禄花と言うのだ」

「ろくかばあば!」

「よし、ばあばが教えてやろう。筆はあるか? よしよし、おおかわいい小さなお手々をこうしてな、ほれこれが『ろ』」

 璃玖を膝の上に乗せて文机へ向かい、小さな手を取って筆をなぞらせる。禄花も奏臥もすっかり璃玖を孫のようにかわいがっている。禄花が賑やかに話しかけるからか、璃玖は言葉も多く覚えてお喋りが達者になった。

「ほれ、これが『く』、『か』。ろくでなしの禄花、だ」

「ろく、ないの?」

「あっはっは、そうだぞ。ばあばはろくでなしだ」

「じゃあ、りくがろく、かいてあげる! これで『ろくであり』だね!」

「あっはっは、璃玖は賢いな」

 大きく「ろく」と書いた紙を額に押しつけられて禄花が笑い転がる。大らかな手習いの成果を拾い集めて奏臥が微笑む。

「父上、母上。お酒を用意しましたのでどうぞ。璃玖さま、食事にいたしましょう」

「はぁい」

 元気に駆け寄り、甘えた仕草で奏花の袴を掴む。袴を掴んだ手を優しく包み、しとねへ座る。その膝へ横向きに腰かけ、いつものように小さな頭を奏花の胸へ凭せかける。食事はもう、粥ではない。少し柔らかめに炊いた米と魚や干し肉、野菜や山菜を炊いたもの。もうそろそろ、自分で食事を口へ運ぶようにせねばならないか。考えながら璃玖の口へ匙を運ぶ。

「美味しいですか」

「うん!」

「父上、正月明けに璃玖さまと領主殿へご挨拶に伺おうかと思っております」

「必要ない」

 間髪入れずに答えた奏臥へ禄花が苦笑いをした。

「そうは参りません。それに奏花のかわいい璃玖さまがどれほど素晴らしくご成長なさったか自慢したいのです」

 微笑んで璃玖の頬に付いた米粒を取ってやり、口へ運ぶ。

「そうか、りくがいいこだと、うれしい?」

「おやまぁ璃玖さま。奏花はどんな璃玖さまでも大好きですよ。いいこでも悪い子でも璃玖さまは奏花の大事な璃玖さまです」

 膝の上の小さな体をぎゅっと抱きしめる。璃玖は小さな手を奏花の首へ回して、無邪気に答える。

「りくも、そうかだいすき! おおきくなったら、およめさんにしてあげるね!」

「うふふ、ありがとうございます」

「そうかがうれしいように、りくごあいさつおぼえるね!」

「……! ……っ、っ」

 孫を見守る目をしていた奏臥の顔色が一変した。禄花が奏臥の肩を叩く。

「奏。顔が怖い」

「しかし禄花。嫁、嫁に奏花が嫁に」

「九十才にもなる息子が今さら嫁に行こうが婿に行こうが本人の自由だ。覚悟を決めろ。未練がましいぞ、奏」

「しかし禄花……っ」

「誰にも出会えぬ方が寂しかろう」

「……」

「己れはお前に出会えて幸せだ。ならば奏花も幸せになって欲しいと願っている」

「……私こそ君に出会えて幸せだ」

 あ、これは惚気が始まるなと察してせっせと璃玖の口へ食事を運ぶ。一年ですっかり童らしくまろくなった頬を撫でて璃玖の小さな口を拭く。

「璃玖さま、お散歩に参りましょうか」

「うん!」

 うっそうと生い茂るくずの脇を抜け、白い小さな花を指さして璃玖へ言い含める。

「璃玖さま。あれは仙人草です。あれの汁に触れるとかぶれるのであの花のあるところに近づいてはいけませんよ」

「うん」

「葛は根から葛粉が取れます。お餅が作れるので、今度採りに参りましょうね」

「うん!」

 小さな薄紫の花を咲かせているのは犬香需いぬこうじゅ。赤く丸い吾亦紅われもこうは止血剤に。筮萩めどはぎは咳や強壮に。竜胆りんどうは消炎や整腸作用が。

「きれいね!」

「……そうですね、璃玖さま」

 薬効など関係ない。この子が野の花を綺麗だと笑えるのならばそれでいい。雨辺山は吾毘の領地でも北寄りの、険しくあまり人の分け入らぬ山だ。そういう山を所望したのは奏花だからそのことに不満はない。しかし初秋とは言え山頂には万年雪の残る山中、風が冷たく頬を撫でる。

「璃玖さま。寒うなって参りました。戻りましょうか」

「そうか、おててつめたい?」

「いいえ、璃玖さまの小さいかわいいお手々がほこほこと温こうございます」

「そうか、りくのてすき?」

「ええ、大好きです」

「うふふ」

 簀子から続く階を上ろうとして、屋敷の中から聞こえた声に足を止めた。

「奏誼殿が亡くなった時のあの子を覚えているか。あの年は紀之片きのひらも亡くなって己れもお前も悲しかった。しかしあの子の悲嘆はもっと深い。己れはもう二度とあんなあの子は見たくない。あの子には共に生きる者が必要なんだ。出会いを制限するな」

「そうか?」

「……璃玖さま、もう少しお外で遊びましょうか」

 毬を出して遊びに興じる璃玖を茫洋と眺める。人の命は短い。人の時間は早い。璃玖は獣人だから、常人よりは少し奏花の時間に近いだろう。それでもこの子と、いつまで一緒に居られるだろうか。

「そうか。そうかってば」

「はい」

「そうぎ、ってだぁれ?」

「……奏花の従兄殿です」

 答えて晴れ渡る秋空へ目をやった奏花に何か思うところがあったのだろうか。璃玖はそれ以上のことは尋ねず、奏花の手を握った。

「……璃玖さまの手は温くて柔らかくて優しいですね」

「そうか、りくのてすき?」

「ええ」

「じゃあ、りくのて、いつでもあげるね」

「……ありがとうございます、璃玖さま」

 この小さな手と、いつまで、どこまで行けるだろう。いつかこの手が、奏花を必要としなくなるその時まで、どうかせめて共に在る時は健やかであれと願って止まない。

「救っているのではなく、奏花が救われているのですよ、璃玖さま」

 この小さな手に。この小さな手が持つ無限の未来に。その可能性に。救われているのは、幸せを分け与えられているのは奏花の方だ。

 軽い体を大切に掬い上げて胸に抱く。

「かわいい、かわいい、大事な奏花の璃玖さま。大きくおなりくださいませ。健やかにお過ごしくださいませ。それが奏花の幸せでございます」

 一点の曇りもない、信頼を映した金色の瞳が奏花を見つめ返す。

「りくがげんきだと、そうかしあわせ?」

「はい」

「そうかがうれしいと、りくもうれしい」

「奏花も璃玖さまが嬉しい楽しいとお過ごしくださることが幸せにございますよ」

「りょうおもいだね!」

 まったく子供の成長には驚かされる。目を丸くしたまま腕の中の小さな、けれど力強い命へ向き合う。

「両想いにございますね」

 ふくふくと、けれどまだまだ儚く小さく軽い骨の感触を慈しんで額を合わせる。

 璃玖さま、大きく、大きく、大きくなぁれ。自分の力で孤独を跳ね返せるほどに。己の腕で選択肢を掴めるほどに。その足で未来へ歩んで行けるように。

 願いを込めて額を合わせる。

「両想い……」

 簀子に崩れ落ちた奏臥を禄花が雑に足蹴にした。

「おら、帰るぞ奏」

「禄花、両想いだと」

「うるせぇ、行くぞ。ではな奏花、璃玖坊。また来る」

「はい、母上。お気をつけて」

「じいじ、ばあば、さよなら」

 奏臥の出した香鵬に乗って北の空へ飛び立つ二人を見送る。風を避けながら香鵬が小さくなるまで見送ると、小さな温かい手が奏花の合わせ目へ入って来た。

「そうか、ばあばたちはどこにすんでるの?」

「ここよりさらに北端の、氷山ひざんです」

「ひざん?」

「ええ。父上と母上にはそこをお守りするお役目があるのです」

 廂の中へ入り、茵に座って地図を広げる。梅花たちが散らかった手習いの紙を拾って片付け、火鉢を二人の脇へ置いた。

 胸へ抱いた璃玖を袿で包んで地図を指さす。

「ここが璃玖さまのお父上が居られる璃内りないの里。それより二百里ほど西にあるここが斐臥国ひがこくの都、です。わたくしの父母はここから吾毘へと参りました。そして璃玖さまと奏花が今、住んでいる雨辺山は璃内から北東へ五十里離れたここにあります。ここよりさらに七十里先、北端の海に面したここに氷山はあります」

「ひざんのむこうの、うみのむこうにはなにがあるの?」

以流いるという一年の半分が雪に覆われた吾毘の何倍もの広大な土地があります。人が暮らすにはあまり適しません。以流のさらに向こうには、芭釆ばさいというさらに大きな国がありますが、国交はありません」

「どうして?」

「雪影が出るからです」

「ゆき、かげ?」

「雪影は妖の一種です。一面雪景色の中、ふらふらと人が歩いてくるような影が立つ。人かと手を振ると手を振り返す。おーい、おーいと呼びながら近づいて来る。その影に捕まると人ははくを食われて廃人になると言います」

 奏花の単をぎゅっと掴んだ璃玖の頭を撫でる。懐を覗き込むと怯えた瞳と目が合った。

「大丈夫、雪影は氷山から西へは参りません。じいじとばあばが守っていますから」

「じいじ、ばあば、すごい!」

「ええ、ああ見えて凄いのですよ」

 ほほほ、と笑う梅花たちがすっかり部屋の中を片付けるとくるくると躍るように回り花弁になって消えて行く。梅の香りの中、御帳台へ奏花の袿を敷いて璃玖と横になる。

「じいじは毘で陰陽師をしていたのです。ばあばは仙人で薬学に長け、植物を操る術を身につけております。二人はそれぞれ力を合わせて雪影から吾毘を守っているのです」

 すうすうと小さな寝息が聞こえて来て袿をかけ直す。小袖越しにも小さな背骨が分かる。その背骨を指でなぞりながら数える。睡眠も食事も必要としない奏花にとって、夜は退屈な時間だった。今は違う。愛しい温もりを夜ごと確かめる。時には温かさが心地よく、眠ってしまうこともある。璃玖が来てから退屈な時間など一瞬たりともない。そうして少しうとうとと夢の狭間を彷徨って、かわいい温もりがもぞもぞと動くのに気づいて目を開く。ぴょこぴょこと小さな耳が銀色の髪の上で動く。尻尾が袴の中で押さえきれずに揺れているのが分かる。

 朝が待ち遠しいなど、初めての気分だ。

「そうか、おはよ」

 温かな、人生の陽だまりが始まる。

「璃玖さま。今日はお箸の練習をいたしましょうか」

「おはし?」

「ええ。お呼ばれした時、奏花のお膝ではなく一人で食事をしなければならないかもしれません」

「およばれ」

「ええ。本当は奏花がずうっと璃玖さまのかわいいお口に匙を運んでいたいのですが、そうもゆかぬのです」

 璃玖が大きくなっても奏花の膝に座らせ食事をさせたい。かなり本気だ。しかし璃玖の体が大きくなったら、奏花の膝は窮屈になるだろう。いつか奏花の膝に璃玖が収まらなくなることを考え、少し寂しく思う。

「りくがおはし、できるとそうか、うれしい?」

「嬉しいです。山を下りて道行く人を捕まえて自慢したくなるくらいに嬉しいです」

 奏花は滅多なことでは山を下りない。その奏花が山を下りるのだ。とても珍しいことと知っている璃玖は目をきらきらと光らせる。

「じゃあ、りく、おはしする!」

「でも寂しいのでまだしばらくは奏花と二人の時は、奏花のお膝で奏花にお口まで運ばせてくださいませ」

「ひみつ?」

「ええ、秘密です」

「ゆびきりげんまん!」

「ええ、誰にも内緒ですよ」

「ばあばにも?」

「ええ」

「じいじにも?」

「そうです」

「ひみつ!」

「約束ですよ」

 頬と頬を合わせて目を閉じる。愛しい愛しい、柔らかな温もりを抱きしめる。

 いつも通り、奏花の膝で食事を摂らせた後、梅花に箸と豆を甘く煮たものを用意させる。それから璃玖の小さな手に合わせた小さな箸を握らせた。奏花も見本になるよう、箸を持つ。

「こうして、こうです璃玖さま」

「こーして……こ、う?」

 摘み損ねた豆がぴょこん、と飛んで行く。

「あはは、飛んで行ってしまいましたね。お豆が璃玖さまのようにとても元気で困りました」

「あはは!」

 梅花もほほほ、と朗らかに笑って飛んで行った豆を片付ける。初めは面白がってわざと豆を飛ばしていた璃玖は、すぐに要領を掴んで上手に摘んだ豆を奏花の口元へ差し出す。

「そうか、あーん」

「まぁ、嬉しいです璃玖さま。あーん」

「おいしい?」

「美味しいです。璃玖さまにお箸で運んでいただいたと思うと何倍も美味しゅうございます」

「うふふ、りく、もっとれんしゅうする!」

 箸で摘んだ豆を食べさせ合って、二人ともすっかり腹が膨れてしまった。この小さなかわいい腹に昼食が入るだろうか。心配しながら梅花に箸と膳を片付けさせる。

「もっとれんしゅうして、りくがそうかにごはん、たべさせてあげる」

「楽しみです、璃玖さま」

「そうか、うれしい?」

「大変嬉しゅうございます」

「れんしゅうして、ばあばとじいじにみせたら、よろこぶ?」

「喜びますとも。こうして、背筋を伸ばして座って箸を使って一人でお食事できたら、なんとご立派なお姿かと二人ともとっても驚いてたくさん褒めてくださいますよ」

「りく、れんしゅういっぱいする!」

 あの暗い土蔵に閉じ込められていた小さな狼はもう暗闇などすっかり忘れてしまい、生まれた時から清和月せいわづきの太陽が如く笑っていたと言わんばかりだ。奏花の脇できっちりと正座した璃玖を抱き寄せて再び膝へ乗せる。

 願わくば、この子が二度とあの暗く冷たい土蔵のことなど思い出さぬように。

「璃玖さま、璃玖さま。これ以上素晴らしゅうなられては奏花が困ってしまいます」

「そうか、こまる?」

「ええ困りますとも。奏花の大事な璃玖さまが世界で一番おかわいらしくて賢くて素晴らしいと皆に自慢しとうて困ってしまいます」

「えへへ」

 小さな手で奏花の指をきゅっと握ってはにかんで見せる。まん丸でかわいい金色の虹彩が上目遣いに奏花を見つめる。

「りくも、そうかがいちばんきれいって、みんなにじまん、する」

「ああ璃玖さま、璃玖さま、なんと愛おしいことでしょう」

 しばらく互いに抱き合って温もりを確かめる。真っ直ぐ奏花だけを映す瞳のなんと純粋なことか。奏花の手を握り、璃玖が立ち上がる。

「おさんぽしよ」

「はい」

 小さな手に導かれて野辺を行く。野草を薬効のことなど考えずに眺めて歩く。小さな手が指をさした花に微笑む。

「おはなもおそらも、きれい。でもそうかが、いちばんきれい!」

「!」

 ああ、愛さずにいられようか。このいとけない、純粋で真っ直ぐに信頼を愛情をぶつけて来る存在を、愛しいと思ってしまうことが止められる訳がない。

「璃玖さま、璃玖さま。奏花のかわいいかわいい狼さん。大好きですよ」

 揺れるススキの合間に小さな耳や尻尾が見え隠れする。わざと奏花に居場所を伝えて見つけるのを待っている。

「かわいい狼さん、見つけた」

「きゃははっ」

 抱きしめて小袖や袴に包む。歌うように何度も何度も囁く。奏花のかわいいかわいい、大事な大事な狼さん。奏花の大切な璃玖さま。大きくなぁれ、健やかに安らかに。大事な大事なかわいいお耳に、楽しい便りがたくさん届きますように。かわいい尻尾を揺らす道行きが、安寧でありますように。

 子守歌代わりに何度も囁く。魂まで滲み込んで、他の誰が何と言おうとしなやかに己の道を進めるように。

 神無月から神帰月になり、初雪が降り屋敷のある山の中腹辺りも雪に覆われる頃、璃玖はしっかりと振る舞いと作法を身につけた。

「璃玖さま、参りましょうか」

「うん!」

 年明け三日目には毎年、奏臥も禄花も奏花も吾毘の歴代領主へ挨拶に山を下りる。去年は奏花のみ新年の挨拶を辞した。今年は璃玖と一緒だ。見せつけるように、わざとゆったり木鹿もくろくの背へ璃玖と二人で乗って璃内の町中を行く。この日のために以斉の家紋である睡蓮模様の半尻の狩衣を仕立てた。翡翠色の狩衣に白藍の指貫袴さしぬきばかまは父が陰陽師だった頃に着ていた色合いだ。鮮やかな瑠璃色の糸鞋しがいには金糸で細かな刺繍が施されている。髪の長さが足りず、垂髪すべらかしもみづらも結えないのが残念だが仕方ない。道行く人々が振り返る。

『おいあれ、奏花さまじゃないか?』

『ほんとだ、何十年ぶりだ』

『珍しい、奏花さまだ』

『お連れのお子は奏花さまのお子だろうか』

 常なら香鵬で志出の屋敷に降り立ち、挨拶のみしてすぐに立ち去る。町中など歩かない奏花が、梔子くちなしの花でできた鹿の式神で、しかも童を連れているとなれば噂はあっという間に広まる。

 木鹿から下りぬままゆったりと志出の屋敷の門をくぐる。

「……」

 一昨年は人の気配がなかった北の対に複数の人の気配がしている。土蔵に閉じ込めていた心配ごとがなくなった途端にこれか。覚えず眉間に皺が寄る。主人の不機嫌に反応して梔子の鹿は歩みを少し緩めた。首筋を軽く叩いて気にせずとも良いと知らせ、庭へと進む。

 庭へ入り、鷹揚に寝殿前へ木鹿で乗り込み、璃玖の手を取る。小さな足に押され、白砂が沈むのを見ると自然と笑みが零れた。

「さ、璃玖さま」

「うん」

 屋敷の中心にある寝殿から、領主である志出璃貴が飛び出して来た。

「奏花殿、先ぶれをくださればお迎えに上がったものを」

「すぐに帰りますゆえ」

 何気なく璃貴の足元を見ると余程慌てたのか裸足のままだ。笑いを堪えるために扇で口元を隠してその場で頭を垂れる。頭を上げると胸を張って虹彩だけで璃貴を見下ろす。

「新しい年を寿ぎ本年の幸多からんことを願いに参りました。北の対にもお方様を迎えられたようで何よりです。さ、御座へ戻られよ璃貴殿。璃玖さまが新年のご挨拶をなさいますよし」

 いつもと違う様子の奏花を仰ぐ璃玖を視線で示す。奏花の視線に目を落とした璃貴は素っ頓狂な声を上げた。

「こっ、これが璃玖と?!」

「己がお子へ『これ』とは如何に」

 璃貴は獣の姿で唸る璃玖しか見たことがないのだろう。不機嫌を露わに扇で手を打つ。途端に璃貴は飛び上がって寝殿へ戻り、御座へ正座した。

「さぁ、璃玖さま。お父上にご挨拶なさいませ」

「うん……」

 小さな手が不安げに奏花の手を掴んだ。璃貴には見えぬよう扇で口元を隠したまま、いつも通りに璃玖へ微笑む。

「帰りに飴を買って参りましょうね」

「! うん!」

 安心したのか、堂々と階を上り簀子へ正座すると、深々と頭を垂れたまま滔々とうとうと喋り出す。

「おちちうえにおかれましては、ごきげんうるわしくさいわいにございます。はつはるのおよろこびとしすいけ、ますますのごはんえいをねがいまして、このしすいりく、しんねんのあいさつとさせていただきます」

「……うむ」

「では璃貴殿、これにて失礼いたします」

 奏花の声をこの茶番の終了と理解したのだろう。ぴょこん、と立ち上がった璃玖はぽーんときざはしを飛び越えて奏花の胸へ縋りつく。

「りく、じょうずだった?」

「ええ。お上手でしたよ、璃玖さま。大変ご立派で、奏花はとても鼻が高うございます」

「そうか、うれしい?」

「ええ、大変嬉しゅうございます」

 梔子でできた鹿の背へ璃玖を乗せ、それから自分も横向きに腰をかける。背中から璃玖を抱き込んでもう用は済んだとばかりに志出家の屋敷を後にする。帰りもことさら璃玖を見せつけるように寄り道をする。木鹿から下り、手を繋いで璃玖と二人、町をゆっくりと歩く。

「璃玖さま、飴湯はいかが?」

「あめ?」

「ええ、甘うございますよ」

「じいじのつくってくれる、けずりひより?」

「どうでしょう、比べてみましょう。飴湯を一つくださいませ」

「奏花様からお代などいただけません。わたくしが領主様に叱られてしまいます」

 頭を下げてかわいい兎の絵が描かれた湯飲を差し出した商人へ銅銭を渡す。

「よいのです。今日は璃玖さまに『買い物』とはどういうものかをお見せするためにしていることです。どうか受け取ってくださいませ」

「璃玖様、というとやはりこの方は獣の若様……っ」

 しまった、と顔を顰めた商人へ優美に微笑んで見せる。璃内の人間はやはり、領主の若君がどんな生まれか噂を知っているのだ。兎の描かれた扇を指さし、璃玖へ声をかける。

「璃玖さま、兎ですよ。璃玖さまが変じた狼の方がおかわいらしいですが、こちらの兎もかわゆうございましょう?」

「そうか、うさぎすき?」

「奏花のかわいい小さな狼さんが一番好きに決まっています」

「えへへ」

 はにかんで奏花の袖で顔を隠した璃玖に商人の表情が和らぐ。璃玖は受けるべき人から愛情を受けられなかったただの幼子にすぎぬ。

「さぁ、璃玖さま。次は野菜を買って参りましょう。璃玖さまは欲しいものや見たいものはございますか」

「んーん」

 隠れるように奏花の足へ抱きついた璃玖へ話しかける。反物を扱う大きな商家の店先へ置かれた藁で編まれた狼の飾りを指し示す。

「ほら、ご覧ください。早駆けさまのお飾りですよ。早駆けさまは大神さまの使いです。大神さまが新しい年に良い気を運び、悪い気を追い出してくださるように屋敷へ飾るのです。大神さまは璃玖さまのご先祖さまですよ」

「りくの、ごせんぞさま?」

「そうです。ですから璃玖さまが狼の姿になれることは大神さまの眷属である証で、誇るべきことですよ」

「……みんなと、ちがっても?」

「奏花もみんなと違いますが、みんなと同じではない奏花はお嫌いですか」

「んーん。りく、そうかのことだいすき」

「……奏花も璃玖さまが大好きですよ」

 奏花の言葉に町人がはた、と動きを止めた。聡い璃玖は何事かを感じ取ったようだ。己の親指を口に含んで上目遣いに奏花を窺う。

「町は楽しくございませんか」

「りく、はやくそうかと、おうちかえりたい」

 胸に抱えると単の合わせ目に手を入れられた。眠いか、緊張しているのか。幼い璃玖には負担だったのだろう。それでも今日、ここへ来る意味はあった。

「奏花はかわいいかわいい大事な奏花の璃玖さまを、皆に自慢したかったのですがお疲れになってしまわれたのですね。では早く帰りましょう。きっと後からじいじとばあばも屋敷へ来てくださいますよ」

「じいじとばあば、くる?」

「ええ。そうしたら、奏花の璃玖さまが今日どれほどご立派にご挨拶できたかお話ししましょうね」

「じいじ、ほめる?」

「ええ、褒めてくださいますとも」

 早く帰りましょうね。今日の夕餉は璃玖さまの好物ばかりを用意いたしますよ。背中を軽く叩いてあやしながら、甘えて奏花の胸へ頭を押しつけた璃玖へ頬を寄せる。それはまるで、本物の母子のように人の目には映っただろう。

「そうか、だいすき」

「ええ、ええ。奏花も璃玖さまが大好きでございますよ」

 璃玖をしっかり胸へ抱え、ふう、と息を吐く。梔子の花弁が舞い、木鹿が現れた。ゆったりと木鹿の背に揺られて町を行く。梔子の香りを振りまき、莉蝶りちょうを飛ばしながら人々の噂話に耳を傾ける。

『聞いたか? じいじとは、臥世真君のことだろうか?』

『ならばばあばとは雪月花仙せつげつかせん様のこと?』

『まるで自分のお子のように育てておられる』

『領主様が捨てた子を、奏花様がご自分の子のように』

『なんということ』

『獣ではないではないか』

『御領主様は薄情な父親だ』

『お優しい雨山花仙うざんかせん様は若君を見捨てておけなんだのじゃろ』

『それなのに御領主様は、奏花様に若君を押しつけて後妻を取られたとか』

『臥世真君にそんなこと知られたら……』

 ただで済まさぬだろう。前領主の璃真りしんは堅物で中々嫁を取らず随分家臣を困らせたものだが、現領主の璃貴はその真逆で貞節な奏臥の逆鱗に触れそうなことばかりをしている。しかし後妻の話はこれ以上、璃玖の耳に入れたくない。

「璃玖さま。ここからは香鵬で参りましょうね」

「ん」

 親指を口に含んでこくん、と頷いた小さな頭を撫でる。梔子で作った香鵬で北東へ飛び去りながら、志出の屋敷を見下ろす。蜻蛉とんぼを外して狩衣の中へ深く抱き込むと璃玖は、いつも通りに奏花の単へ手を入れた。だが今日に限ってはそれだけではなかった。単をまさぐり、さらに小袖の合わせ目から手を入れ、素肌に触れようとしている。奏花は単と小袖の合わせ目を緩めて璃玖の背中を摩った。

 大きく合わせ目を広げると璃玖はちゅ、と音を立てて奏花の平らな胸に吸い付く。驚きはしたが、女子とは違い小さく薄いその突起を必死で探って吸い付く璃玖に奏花は切なくなった。

 奏花なりに璃玖を慈しみ、愛している。それでも母にはなり切れぬのだ。

 小さな舌が懸命に吸うたび、成り代われぬのだと思い知らされる。偽りすら満足に与えてやれない。ならばせめて愛情だけは嘘偽りなく、惜しまず与えよう。瞼の裏が熱を孕む。

 ――かわいいおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。銀色おおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

 常なら子守歌を歌えばすぐに寝てしまうというのに雨辺山の屋敷に着いても、璃玖は眠ることなく奏花の胸へ吸い付いたままだ。そのまま御帳台へ横になって璃玖のしたいようにさせておく。午後になるとしとみの向こうから騒々しい足音と声が近づいて来た。

「璃玖、じいじばあばと餅つきするぞ!」

 ぴくぴく、と三角の耳が動いてまん丸の虹彩が御帳台の外へ向けられる。

「ばあば!」

 駆け出して禄花の胸に飛び込んだ小さな体を見やり、着物を直す。奏臥と目が合ったが、いつも通りの無表情で庭へ臼を置いて璃玖を手招きした。

「璃玖。じいじと餅をつこう」

「璃玖さま。今日は大変上手に新年のご挨拶ができたこと、褒めていただかなくていいのですか」

「ん……」

 禄花の元から奏花の元へと駆け寄って手を握りしめ、足へぴったりと寄り添った璃玖の髪を撫でる。しゃがんで視線を合わせ、奏臥と禄花のいる庭へと璃玖の背中を押す。

「父上と母上にもお見せしたかったです。璃玖さまの堂々と大変ご立派なお姿を」

「知っているよ。璃貴殿の庭の梅が教えてくれた。璃玖坊は賢いなぁ。ばあばは璃貴殿に散々自慢してやったぞ。さすが我が孫じゃろう、と。だからこうしてご褒美につきたての餅を食べさせてやろうとやって来たわけだ」

「ああ。璃玖はうちの孫なので璃貴殿はもう二度と璃玖のことに口を出さずともよいと伝えたら何やら慌てていたがな」

「……」

 それは慌てただろう。奏臥の無表情を仰いでため息を吐く。

「梅花」

「はい」

「もち米を蒸しておくれ」

「承知いたしました」

 奏臥の傍で臼の中や禄花の持つ杵を好奇心いっぱいに覗き込んでいる璃玖へしゃがんで目を合わせる。

「璃玖さま、母上と大根を下してくださいますか」

「ん!」

「よしよし、ほればあばとあっちへ行こう。おお、おお、璃玖の手はちっこくてかわいいのぉ」

「ばあば、こっち!」

 屋敷の中へ入って行く禄花と璃玖を見送って、奏臥が口を開くのを待つ。しかし元来無口な父が一向に話を切り出さぬのでもう一つ、ため息を零して奏花は扇で口元を覆った。

「父上、璃貴殿は後妻をお迎えになったご様子」

「うむ。今後一切、璃玖について奏花へ口出し無用と言い置いて来た」

「それでも璃玖さまは志出家の嫡男。璃玖さまが望むならばその道は閉ざしてはなりません」

「璃玖が望むのならば我が家へ迎え入れることもできる」

「……それは熟慮に熟慮を重ねていただかなければなりません。父上は母上と共にあるために仙となられた。しかしそれは共に生きる相手が居らねば孤独の道です」

「……君は孤独か、奏花」

「……まだ分かりません。孤独を実感するほどわたくしは人と関わっては来なかった。何も分からぬまま、何にも心奪われぬまま、何にも心動かされぬまま、何も望まぬまま百年余り、生きて来た」

 踏み出すつもりだったのか引いたのか。奏臥の足元で白砂がじゃり、と音を立てた。

「誰かをかけがえのない人と思った時、わたくしが何を思うかは今のわたくしにも分かりません」

 それがあの子かどうかも。かそけき呟きは白砂に沁み込む。

「ただあの子をいとけないと、愛おしいと、捨て置けぬと思います。わたくしはわたくしにそのような心があったとは思いませんでした。土蔵からあの子を連れ出した自分自身に驚いております。わたくしは一生、何にも心を動かされることはないと思っていた」

「……君は、生まれて来ねばよかったと思うか」

「いいえ、父上。わたくしは生まれて来ねばよかったと思うほどの強い感情を抱いたことすらないのです」

「……――っ」

 表情を変えぬのが常の奏臥が、己の額を片手で覆って俯いた。手に邪魔されて奏花からは表情が窺えない。屋敷の中から璃玖の無邪気な笑い声が聞こえて来た。

「奏誼殿が亡くなった時、父上も母上も大変にわたくしを気遣ってくださった。けれどわたくしは気遣っていただくほど何かを思ったわけではないのです。……あれほどにかわいがっていただいたのに。奏誼殿を追うように紀之片が亡くなった時も同じです。わたくしが打ちのめされたのは『あれほど世話になった二人が亡くなったことに皆が心配してくださるほど何も感じなかった』ことであって、二人が亡くなったことではありませんでした」

 数歩進んで背中を向けたまま、続けた。父の顔を見ずに済むように。己の闇を覗かずに済むように。

「人は死ぬ。わたくしにとって世界とは、生まれた時からそのようなものであったので」

 奏臥は今、どんな表情をしているだろうか。見ずとも分かる気がした。町の者が、志出の家人が、奏花を見るような目で見ているのだろう。

 まるで、理解できない異世界の生き物を見る目だ。

 父親ですら、奏花を真に理解することなどできない。愛情を注がれても人間にはなれない。そういう生き物も居るのだ、と知っているからこそ、奏花は璃玖に愛情を注ぐ。

「あの子は人に、なれるでしょうか」

 奏花を置いて。それは少し寂しく、そしてきっと正しい。けれどもし、ああ、もし璃玖がどれほどに愛情を注いだとしても奏花のようにこの世界の異物で在り続けたのならば。その時こそ奏花は、その感情がどういう形でどんな名前のものであれ、初めて人らしい感情を手にするのだろう。

「そうか、みてみて」

 小さな手がたっぷりと水気を含んだ大根おろしを入れた器を差し出す。受け取ってそのまろい頬を撫でて労う。

「まぁ、璃玖さま。お上手ですね。璃玖さまの下してくださった大根はさぞ美味しゅうございましょう」

未女豆岐まめつきに甜菜の汁を煮詰めた麩を入れよう。甘くて美味しいぞ。璃玖のまろくてかわいいほっぺが落ちるくらい」

「! りくのほっぺ、おちちゃう?」

 慌てた様子で自らの頬を押さえた璃玖へ朗らかな笑い声を上げた禄花を、母として愛している。惜しみなく愛情を注いで奏花を守って来た、奏臥にも感謝している。

 それでも奏花は人間になれなかった。

 両親を愛しているからこそ、それを悟られぬよう細心の注意を払って来た。しかしこれからは二人の干渉が邪魔になることも多かろう。父への告白はこれ以上、二人を傷つけたくない奏花の子としての気遣いだ。

 梅花が蒸したもち米を運んで来た。禄花に手水を渡して璃玖の小さな足へ木沓きぐつを履かせる。

「奏花はここで準備をしますゆえ」

「すぐきてね。そうかもきてね」

「はい、璃玖さま」

 愛を注ごう。惜しみなく注ごう。璃玖が望むのならば奏花の全てを与えよう。そうして育てて成るのは、人か化け物か。

「子供というのはすぐに大きくなる。成長が楽しみなものだ」

「ええ、母上。本当に楽しみでございます」

 奏臥が複雑な表情で目を伏せた。指を弾くほどの間、袴に捕まってはしゃぐ璃玖へ憐憫を含んだ視線を向けると杵を掴んでいつも通りの無表情に戻る。

「璃玖。よく見ておいで」

「よっし、ばあばが手水で餅を返すぞ。見ておれよ」

「璃玖さま。危のうございますので少し離れましょう。父上と母上の餅つきが普通だと思われては困ります」

 たすきで袖を括った二人が頷き合う。奏花が腰を落として臼の脇へ移動すると、奏臥は杵を掲げた。

「そぉれ、ハイッ」

「はい」

「ハイッ」

「はい」

「ハイッ」

「はい」

 どちらの動きも目で追えぬ。以前、奏誼が両親の餅つきを見て早すぎて目を回したくらいだ。臼の中を眺め、禄花が璃玖へ手招きする。

「ほれ、璃玖坊。餅じゃ。食おうぞ」

「ふわぁ、そうか、みてみて」

「まんまるでふくふくで、璃玖さまの頬のようですね」

「そうかのおなかみたいに、しろくてすべすべ」

 奏花へ顔を向けた奏臥へ、苦笑いして見せる。

「湯あみの時には裸ですので」

「……」

「おっ、奏が小言を言わぬとは。珍しいこともあるもんだ」

 お可哀想に表情からは読めませんが父上は今、それどころではありますまいとは言えず扇で口元を隠して微笑む。熱々の餅を千切って大根おろし入った器と、未女豆岐まめつきの入った器へ放り込む禄花の手元を璃玖は瞳を輝かせて眺めている。

「さぁさ、璃玖さまお食べください。ほら、お箸が上手になりましたとじいじとばあばに見てもらいましょうね」

 梅花が持って来た小皿に餅を取り分ける。随分、箸使いが上達した璃玖の手元を見て禄花が相好を崩す。

「おお、璃玖坊、上手上手」

「……大変上手になったね、璃玖」

 何事か思う顔で、それでも璃玖を褒めて奏臥が杵を置いた。

「うんっ」

「うまいか?」

「うんっ。ばあばもどうぞ」

「おお、璃玖坊からもらう餅は美味いなぁ」

 大きく、大きくおなりください璃玖さま。

 あなたが奏花を人にも化け物にもするのです。ですから璃玖さま。大きくおなりください。自分の足で歩けるように。己の腕で掴めるように。

 あなたの選択を、奏花が見届けられるように。大きく。大きくおなりください。

「そうか、あーん」

「うふふ、嬉しゅうございます璃玖さま。あーん」

 当たり前とばかりに奏花の膝へ横向きに座り、小皿から餅を箸で摘み上げ奏花の口へ運んだ璃玖を愛しく見つめる。

「おいしい?」

「ええ、とても」

 抱きしめた小さな儚い体を確かめる。腕の一振りで殺してしまえる。恐ろしいほどに脆弱なこの体を何度も何度も腕に抱いて確かめる。こんなにも壊れやすいものを、壊すのではなく守るのは非常に難しい。面倒でとても愛おしい。

 脆弱で壊れやすい人間を壊さないように付き合うより、関わり合いにならぬ方が楽だからこの百年余り一人で居た。善良な父母の教えを守るより、人間を壊すことの方がいつ面倒ではなくなるか分からぬまま生きて来た。この子はまさに面倒事の塊だ。

 ああ、璃玖さま。いつか奏花が何もかも面倒になって人に仇名すものとなったらば。あなたがわたくしを殺してくださいますように。

 小さな儚い頭蓋骨へ額を合わせる。

「璃玖さま」

「ん?」

「愛しておりますよ」

 この小さく脆弱な頭蓋を貫いて咲かせた花は、きっと美しかろう。それでも今は愛を注ごう。偽りでも、奏花はそれしか知らぬから。

「りくも、そうかがいちばんすき」

 わたくしが人ではなく化け物だと判明した暁には。わたくしを一番好きだとおっしゃってくださる璃玖さまが、わたくしを殺してくださいませね。それまでは惜しみなく注ぎましょう。

 毒かも知れぬ、壊れた愛を。

「父上、お願いがございます」

「うん?」

「璃玖さまももう五つ。これからは折りを見て璃玖さまに剣を教えていただきとうございます」

「まだ早かろう」

 哀れなほどに善良な奏臥の頭の中には、色々な考えが巡っていることだろう。奏花は静かに、けれどきっぱりと奏臥へ否と突き付けた。

「いいえ。いずれ志出家の家督を継ぐならば遅いくらいでございます」

「奏花。子供の前でする話ではなかろう」

「いいえ母上。誰が何と言おうと璃玖さまは志出家の御嫡男。璃玖さまが望めばこのまま我が家でお過ごしいただく道もございますが、そうでないのならいずれ志出家の当主となるお方としての教育も必要にございます」

「そうか、りくといっしょにくらすの、いや?」

「違いますよ、璃玖さま。璃玖さまには志出家の当主になる権利がございます。けれど、このまま奏花とずっと一緒に暮らすことも選べます。奏花は璃玖さまが将来、どちらを選んでも悔いのないようにお手伝いしたいのです」

 小さく柔らかい体を抱きしめ、銀の髪を撫でる。愛しい愛しい、早く壊れてしまえ。狂気を押し込め、笑みを浮かべて見せる。

「武術も勉学も璃玖さまの道行きを照らします。璃玖さまがどんな道をお選びになっても、奏花はいつでも璃玖さまの味方です」

「……ん」

 甘えて単の合わせ目へ手を差し入れた璃玖の背を撫でる。奏臥は相変わらず思案顔のまま、頭が鉛にでもなったかの如く緩慢な動きで頷いた。

「……分かった」

「父上、お気が進まぬようでしたらこうするのはいかがでしょう。剣の稽古をつけていただくため、わたくしが璃玖さまを氷山へ連れて参ります。父上のご都合の良い時、わたくしがそちらへ連れて行く。いかがでしょう」

「それならば……」

 奏臥も禄花も忙しい身。都合の付く時、奏花が連れて行くとなればさほど回数は多くない。ようよう頷いた奏臥に禄花もそれならば、と目で答える。

「璃玖さまがお嫌なら、無理にとは申しませんので」

「そうか、りくがおりこうだとうれしい?」

「おや、璃玖さまはいつでもお利口ですよ」

 どちらでもよいのだ。璃玖がとんでもない愚物になろうと、名君になろうと奏花には関わりのないこと。ただ、人と成るか人以外と成るか。奏花の興味はそこにしかない。けれど人間性とはやはり、ある程度の知性の上に成り立つものだと思う。愛情の他に知識と教養も必要だろう。獣人の血が濃いとはいえ奏花のように仙術があるわけでもないから、己を守る術も必要だ。

 璃玖が、奏花以外に殺されるのは興ざめである。奏花自身も過保護に璃玖を守るにしても、己でも身を守れぬでは困るだろう。

「じいじ」

「うん?」

 奏花の膝から下り、璃玖は奏臥の袖を引っ張った。璃玖の方へ首を傾け、奏臥は顔を寄せる。

「りくに、けんをおしえてください」

「……うん」

 ああ、なんと健気で愚かだろう。この子は奏花の愛を信じて、奏花の望むようにすると言うのだ。

「璃玖さま……!」

 抱き寄せて優しく優しく髪を撫でる。璃玖を抱き寄せながら、わざと禄花へ背を向け、奏臥を正面から見た。

「本当は剣術など必要ないと、そう言いたいのです。璃玖さまのことはこの奏花が必ずお守りしますゆえ。お約束いたします」

 そうしてぬくぬくと愚物に育てても良い。けれどどうせなら、誰の目からも立派な人物として育てばなお良い。それでも人として欠けて育てば、奏花が一生愛して閉じ込めても良いだろう。

「剣術ができなくとも、勉学が伴わぬとも、璃玖さまがお健やかにお過ごしくださればそれでいいのです。奏花はそれで構いませぬ。一生、奏花が傍に居ります。一生、奏花とこの雨辺山でお暮しになれば良いのです。奏花は璃玖さまに、決して不自由などさせません」

「奏花、それは間違っている」

 厳しい声で抗議した奏臥へ静かに面を向ける。奏花のかんばせへ能面のように貼りついた笑みを見て、奏臥は二の句が次げずにいる。

「そう、間違っている。それでは土蔵に璃玖さまを閉じ込めることと、なんら違いがございますまい。ですからお願いしているのです、父上」

「……っ、分かった」

 これで奏臥は二度と、璃玖を志出家の当主に相応しい教育を受けさせることに異を唱えぬだろう。どちらでもいい。奏花にとって、璃玖が愚物と育とうが英雄と育とうがどちらでも構わぬ。人と成ろうが化け物と成ろうが構わぬのだ。それでも奏花は、璃玖を己の欲とは真逆に育てようと努めるだろう。それでも、化け物に育ってしまう可能性がいつでもそこにあることを望みながら。

 むしろ、愚物の化け物に育ってくれた方が愛しいかも知れぬ。

 うっそり微笑む奏花を、奏臥は酷く傷ついた表情で見つめた。奏花は昨日までと何一つ変わっていない。けれど奏臥が奏花を見る目は変わってしまった。それを理解していたから、今まで黙っていただけだというのに。

「……あまり長居をするものではないな。禄花、帰ろうか」

「? もう帰るのか?」

「ああ」

「じいじばあば、もうかえるの? またくる?」

「ああ。また来るよ、璃玖坊」

 璃玖の頭を雑に撫でる禄花を少し離れたところで香鵬と共に待っている奏臥へ歩み寄る。香鵬の首を撫でている奏臥へ近づき、密かに囁く。

「父上。奏花はずっと『こう』でありましたよ。そんな子供は望まれぬと知っていたから黙っていただけです」

「――!」

 哀れな程に動揺している父の二の腕へそっと触れる。

「ごめんなさい」

 あなたたちの望むような子供に育たなかった。正しい人間になれなかった。

 そのことを、申し訳なく思う気持ちは本物だ。

「……謝るな。私こそ、すまない」

「父上が謝る必要などございますまい」

 お可哀想なお父様。璃貴のように、己の子ですら化け物と疎ましく思うことができたのならもっと楽に生きられただろうに。正しいばかりに、それもままならぬ奏臥はやはり哀れな人なのだろうと奏花は思う。謝罪はそのことに対するものだ。

 そして正しい人であるからこそ、奏臥の足は遠のくであろう。奏花が奏臥へ告白したのもそれが目的だ。

 香鵬に乗って北の空へ向かう両親を見送る。真面目な奏臥は己を責めて悩むだろう。けれど禄花に奏花のことは言えないだろう。禄花も奏臥が口にするまで、悩みを無理に問いただすことはしない。璃玖を抱えて夢見るように微笑む。

「璃玖さま、やっと二人きりにございますね」

「? うん!」

「愛しておりますよ、璃玖さま。奏花の大事な大事なかわいい狼さん」

「……りくも、そうかすき!」

 欠片も曇りのない信頼を映す金色の虹彩を、抉り出して舐めしゃぶってやりたい。泣き喚く悲鳴を聞きたい。その柔らかな頭を握り潰して手を入れ、掻き回してやりたい。

「璃玖さま、愛しておりますよ」

 だから我慢する。だから愛情を注ぐ。あなたはいつか、わたくし以上の化け物になるでしょうか。ならずとも良いのです。成ろうと成るまいとあなたはその時、わたくしにわたくしが真実欲してやまないものを与えるでしょう。わたくしが偽りの愛情を注いでも化け物に成るのであれば安堵するでしょう。偽物の愛情で人と成るのであればその時、わたくしは初めて、絶望という感情を知ることになるのでしょう。

 哀れで愛しい璃玖さま。それでもこの世に一人も、あなたへ本当の愛情を注ぐ人はいないのです。

 愛しい愛しい璃玖さま。大きくおなりください。健やかにお育ちください。

 そうしていつか、あなたがわたくしを壊すのです。あなたが手を下そうが下すまいが、その時にわたくしは勝手に壊れるでしょう。ああ、その時が今から楽しみです。

「そうか、だいすき」

 脆弱で小さな肉の塊が奏花の懐を握り締める。愛しくて堪らない。

「ええ。奏花も璃玖さまが大好きですよ」

 化け物を愛し、化け物に愛される哀れな子狼。それ以外の道を選べぬ可哀想な肉塊を、心底愛している。奏花の外見に騙され、内面の歪さ醜さを見ることのできないものたちよりも、この小さな頭に奏花という選択肢しかないこの哀れな子供を愛している。

 この子は、奏花が化け物だということすら判じることができないのだ。

 何と愛しい。何と哀れな。何と美しいのだろう。

「梅花、夕餉の用意を」

 片手を振って梅の花をまき散らす。花吹雪はやがて人の形を取り幽けく笑う。

「夕餉ができるまでの間に、手習いをしましょうね。じいじに次に会う時に、じいじのお名前を覚えてびっくりさせましょう」

「うん!」

 璃貴にも領民にも、惜しいと思わせねばならぬ。獣なのに、到底受け入れられぬ化け物なのに、若君として次期当主として望ましい人物に育てねばならぬ。璃玖が正しく育てば育つほど良い。正しくあれば正しくあるほど、璃玖の中に異形を感じた時の畏れは増すだろう。それでも領民に受け入れられたのならば、璃玖は人で奏花は人ではなかったとはっきりする。

「大事な大事な璃玖さま。どうか健やかにご成長くださいませ」

 あなただけが奏花の希望です。このまま何者でもなくただ生きて行くか、化け物として偽らず生きて行くか。わたくしもあなたと共に人と成れるか。

「わたくしは一体、どれを望んでいるのでしょうね……」

「そうか?」

 奏花の膝で首を傾げた璃玖の頬を指の背で撫でる。

「璃玖さまは、璃玖さまの望むままにお進みくださいませ」

「……りくは、そうかがよろこぶのが、いい」

「嬉しゅうございます。けれど奏花は璃玖さまがどんな道を選んでも、璃玖さまがお幸せならばそれで嬉しゅうございますよ」

「……ん」

 誘導などせぬ。正しく正しく。奏臥と禄花が奏花へしてくれたように、真っ直ぐに。それでも歪んだ奏花が異質なのか。それが運命だったのか。知りたいのだ。

 その日から、璃玖は眠る時に奏花の胸を吸うのが癖になったようだ。奏臥の元へ剣を習うために香鵬で移動する間も甘えて胸を吸う。璃玖が胸を吸いやすいよう、狩衣を着ることを止めた。単に袴、袿を羽織った簡素な姿の奏花を、禄花も咎めはしない。

「璃玖坊の指しゃぶりが直ったな」

「ええ」

 代わりに胸を吸うようになりましたとは言えずに唇の端を上げる。

「愛情が足りているのだろう。良いことだ」

 奏臥は何事か考え、黙り込む。禄花はそれを璃玖への複雑な思いと勘違いしているようだ。

「じいじ、もういっかい」

「うむ。それ、構えて見せよ」

「はいっ」

 果敢に奏臥へ向かって行く璃玖を眺めながら、禄花の言葉を反芻する。以前から、不安な時に指を吸う仕草をしていた璃玖のことは気になっていた。胸を吸うのが愛情を与えることになるのならば、必要としなくなるまで吸わせていいのだろう。禄花は何といっても奏花を育てた経験がある。

「璃玖さまはおねしょなどなさらぬので大変育てやすうございます。利発な方です」

「奏花もおねしょは一度きりだったぞ。まぁお前は食事自体必要とせぬから当たり前か……。その代わり、無限に花を出して窒息しかけていたのには肝を冷やした」

「うんと幼い頃のことにございますよ、母上」

 覚えている。禄花は気付かなかったが、あの時奏花は自分が何度蘇生するかを試していたのだ。五十回を越えたところで飽きて止めようと考えていた時、禄花が助けに来た。特に面白いものでもないし、酷く取り乱した禄花の様子で「これはどうやら母を困らせるらしい」と理解したから二度としなかっただけに過ぎない。奏花の考えなど想像もしないのだろう。禄花は手を伸ばして奏花の頭を撫でた。

「昔から手のかからぬ子だった。今もそうだ。だから心配しておる。手がかからぬからこそ、かけさせてもらえぬからこそ、お前は一人で悩みを抱え込む」

「悩みなどございません、母上。……悩むほど、何かを不自由と思ったことがないのです」

「それは……」

「璃玖さまを黙って連れ出した時もそうです。黙って連れ出したとて、璃貴殿に何ができたでしょう? 璃貴殿が奏花に何か強く抗議できるとでも? それが分かっていたからわたくしは璃玖さまを連れ出した。父上と母上へ甘えることもそう。わたくしが譲らなければ父上も母上も助言しながら璃玖さまを一緒に見守ってくださると分かっていたから無理を通しました」

 奏花は己の持っている権力を十分に理解している。これまでは権力などに興味がないから行使して来なかっただけだ。禄花は今まで見せたことのない表情で二の句を次げずにいる。奏花は僅かに首を傾け、春風の吹き渡る空を眺めて唇へ微かに笑みを刻んで見せる。

「奏花の思い通りにならぬのは、人の命だけです」

 それも奪うのは簡単なことで、延命だけが思うままにならぬのみ。それでもさして問題はない。奏花が誰かの延命を望んだことなどないからだ。

「ですから母上、璃玖さまには何不自由なくお過ごしいただきたいのです。奏花一人くらい、璃玖さまを思いきり甘やかしたところで何の問題もございません。そうでしょう?」

「……そうだな」

「ええ」

 禄花は思惑通り、奏花の告白を良い方へと勘違いしたようだ。人の命とて、思い通りにしようなどと望んだことがない。邪魔だが殺すのも面倒なだけだ。だから雨辺山に篭った。興味がないからだ。奏臥と禄花が人を助けよと言わねば、奏花は自ら進んで民人を助けることなどしないだろう。何にも興味がないのだから、禄花の手を煩わせるはずなどない。

「けれど同時に、璃玖さまには本来ならば受けるはずだった志出家嫡男としての教育も施さねばなりません。あの子はいつかわたくしたちの手を離れて人里へと戻って行く。その時、璃玖さまが困らぬよう尽力するのが、あの日あの場所から璃玖さまを連れ出した、奏花の務めと思っております」

「……助けが必要な時は言いなさい」

「はい、母上」

「己れたちもいい加減、過保護はやめねばならぬな」

「まぁ、母上。遠慮なく甘えに参りますよ?」

「ほどほどにしてくれ」

 朗らかに笑い声を上げ、手拭いを掴んで奏臥の元へ駆けて行く禄花の背中を目路へ入れる。奏花が奏臥や禄花に逆らわぬのは、親として愛しているからだけではない。勝てぬからだ。奏臥も禄花も不老不死。生まれてこの方、一度も本気で戦う機会などなかった奏花が戦いながら様子見で勝てる相手ではない。二人とも戦いにかけては奏花より経験豊富で分がある。奏臥はたなごころを加えるだろうが、禄花は違う。奏花が相手だろうと冷静に判断を下す。禄花が本気になれば初手から全力の一撃をお見舞いされて終わりだろう。だから逆らわぬに限る。奏臥や禄花と敵対するほどの動機も理由もない。それだけだ。

 相も変わらず仲の良い両親を後目に璃玖を膝へ乗せて汗を拭う。竹筒に入れた水を飲ませ、髪を整える。

「さ、璃玖さま。そろそろお暇しましょうか」

「もうちょっと、じいじといちゃだめ?」

「困りましたねぇ……、じいじに聞いてみましょう」

「じいじ、りくおとまりしてもいい?」

「奏花がいいと言うなら、夕餉の支度をしよう」

「そうか、だめ?」

 奏花の袖を掴んで上目遣いで仰ぐ璃玖の銀色の髪を撫でる。甘えれば奏花はダメと言わない。そう学習している。よい傾向と言えるだろう。笑みを浮かべて一つ、ため息を吐きながら璃玖を抱え上げた。

「……夏には雪影もあまり出ないと言いますし危険はないでしょう。仕方ありませんね。父上、お言葉に甘えます」

「ゆきかげ、じいじのおやしきにもでるの?」

「うーん、退治するのに楽だから、雪影を呼び込むためにこの屋敷の周辺だけ結界を張ってないんだ。氷山以降、人の住む里との境界線には何重にも結界が張ってある」

「山の中には私の式神が巡回しているし、屋敷の中には結界が張ってあるから大丈夫だ。けれど一人で屋敷の外に出てはならないよ、璃玖」

「はい……」

 不安げに返事をした璃玖は無意識で奏花の合わせ目へ手を入れる。すっかり癖になってしまったようだ。

「夕餉と璃玖坊の床を用意する間、禄花と散歩しておいで。雪影はその名の通り、冬の間活発に活動する妖だ。夏だし日中の今なら雪影も多くはうろつくまい」

「うん……」

 かっかっか、と快活に笑った禄花に小さく頷く。いつの間にか璃玖の小さな銀色の髪には、同じく銀色の小さな三角がぺしょんと前に垂れていて、見やると袴の中で尻尾が忙しなく揺れているのが分かった。

「奏花が居ります、大丈夫」

 小さな三角の間の髪を撫でると、途端に璃玖は元気よく顔を上げる。

「うん!」

 奏花の腕から下りて、当たり前のように手を繋いで引っ張る。小さな手の感触を確かめながらわざと引っ張られて歩く。

「そうか、はやく!」

「ふふふ、お待ちください。璃玖さま」

 奏臥と禄花の住まいは奏花たちの屋敷よりも幾分広い。しかし住むところに頓着しない禄花が作ったものだから、奏花たちの屋敷とは違って庭もなく塀に囲まれてもおらず、寝殿の脇に東の対がある程度でそれより先は夏を盛りに葛や夏草がうっそうと生い茂っている。

「……これでは父上のおっしゃる『屋敷の中』とは一体どこまでを言うのか分かりませぬね……」

 奏花も幼少の頃はこの屋敷で暮らしたが、雪影など気にしたこともなかった。注意をされた覚えもない。つまりはそういうことだろう。雪影は「人間の」精神に異常を来たす妖だ。

「そうか、かくれんぼ!」

「はい、璃玖さま」

 言うが早いか狼の姿になり、するりと夏の緑へ消えて行く璃玖の小袖と袴を拾い上げる。草の波間に見える小さな銀色の毛並みを目で追いかけ、ゆっくりと歩き出す。

「璃玖さま、どちら?」

「ここだよ~!」

「どこどこ、どちら」

「ここ、ここ!」

「ああ、かわいいお耳が見えました。捕まえに参りますよ」

「きゃははっ」

「あまり奏花から離れないでくださいませ」

「こっち、こっち!」

 すぐに見つけてしまうのは璃玖が退屈してしまう。適度に距離を開けながら、見え隠れする銀色の毛並みを追いかける。不意に後ろから声がして振り向いた。

「そうか、こっちこっち」

「璃玖さま?」

 おかしい。璃玖は奏花の斜め前に居たはず。草たちの感覚を追う。やはり璃玖の気配は背後にない。

「そう、か」

 掠れた声が、前方から聞こえた。奏花が璃玖が居る、と思っていた方向だ。慌てて駆け出す。前方の草に、倒れるように指示を出す。小さな狼の前にゆらゆらと揺れる薄い影。両手から出した葛の蔓に乗って勢いよく雪影へ体当たりする。羽織っていた袿が草叢の中へ落ちた。

「璃玖さま、逃げて!」

 こんなものに璃玖を壊されて堪るか。しかし奏花の術が効くかどうか分からない。ああ、こんなことなら父上と共に一度でもいいから戦っておくのだった。

「!」

 雪影との戦いは主に奏臥の仕事だった。ということは陰陽術が有効なのではないだろうか。

「ひぃふぅみよいむなやここのたり、ふるべゆらゆらとふるべ」

 拳へ囁き、雪影へ叩き込む。

 ひ、わああああああ。

 雪影は悲鳴を上げながらゆらゆらと揺れた。効いている。

「璃玖さま、屋敷へ走って!」

 震えてまだその場へ立ち竦んでいる璃玖へ声をかける。叫びながら、招雷草の種を雪影へ植え込んで雷を呼ぶ。

「いかずちの種よ、招け雷!」

 ずだあああああん!

 効いてはいるが決め手に欠ける。しかし余りに威力を上げれば璃玖に被害が及びかねない。梅の花を出し、吐息を吹きかける。

「梅花、璃玖さまを屋敷まで運べ!」

 余所見をしている隙に細長く伸びた腕で横へ薙ぎ払われた。草いきれの中へ倒れ込み、ようよう立ち上がる。

「ちぃっ! ゆらゆら伸び縮みして厄介な」

 素早い。目の前に現れたゆらゆらと揺れる影に反応できない。せめて受け身は取れるか。思考している数瞬に、小さな体が奏花と雪影の間へ割って入る。

「そうか!」

 ぎいあああああああ!

 細い腕が繰り出したのは、奏臥との手合わせに使っていた木剣。しかし木剣に貫かれた雪影は断末魔の悲鳴を上げてぐずぐずと崩れ、灰のようになって風に飛ばされた。

「璃玖さま……」

「そうか、そうか、うわあああああん」

 懐へ飛び込んで来た璃玖を受け止める。ようやく外の異変に気づいて駆け付けた奏臥と禄花が咄嗟に結界を張ったのを横目に胸へ縋る小さな背中を撫でて小袖を被せた。

「璃玖さま、もう大丈夫。奏花は璃玖さまが守ってくださって大丈夫でしたよ」

「ほんと?」

「ええ。どこも怪我をしておりません。後で一緒に湯あみしたら分かりますよ」

「そうか、どこもいたくない?」

「はい」

「すまん、屋敷の周りがどこまでだか草だらけで分からなかったのだな……」

 禄花が璃玖の頭を撫でた。奏臥は小さな木の杭を地面へ打ち込みながら呪符を貼り付けている。

「母上、璃玖さまがわたくしを守ってくださいました」

「璃玖坊が?」

「ええ。父上と剣の稽古をした木剣で雪影を倒したのです」

「それは真か」

「ええ、私が雷を打ち込んでも倒れなかったのに、璃玖さまが木剣を打ち込むと灰になって崩れて消えました」

「すごいぞ、璃玖」

 地面へ杭を打っていた奏臥が立ち上がって璃玖の頭を撫でる。奏臥と禄花は何事か思案する顔をして、それから雪影の消えた辺りを調べ始めた。

「璃玖坊、木剣を見せてくれるか」

「いいよ」

 璃玖は雷に打たれたかのように黒く変色した木剣を禄花へ差し出す。差し出された木剣を調べ、禄花が呟いた。

「神気が宿っている」

「神気?」

「ああ。仮説だが、璃玖は獣人としての能力が高い。つまり大神のかんなぎとして、神気で雪影を倒したのではなかろうか」

「……そう言えば先代は武器に神気を纏わせて自ら雪影を討伐していた」

「璃貴殿が当主としても人間としても神和かんなぎとしても能力値が低いから忘れておったが、元来志出家の当主というのはそういうものだったはずだ。元より吾毘は多数の狩猟民族が寄り集まって支配して来た土地。一族の長、さらにその長たちを取りまとめる大長は人物も戦闘能力も優れたものが代々継いで来たんだ」

 禄花があっけらかんと言い放つ。璃玖が奏花の袖を引っ張る。顔を向けると、金色の大きな丸い瞳はくるりと上を見た。

「りく、すごい?」

「ええ、璃玖さまはすごいです。それだけじゃありません。璃玖さま、奏花を助けてくださってありがとうございます」

 しゃがんで小さな体を抱きしめた。膝に抱えて体ごと揺らし、歌うように囁く。

「奏花のために戦おうとしてくださったのですね。とても勇気のある行動です。奏花は嬉しゅうございます。璃玖さまは立派ですね。さすが奏花の大事な璃玖さまです」

「そうか、うれしい?」

「ええ、とても」

 うふふ、とくすぐったそうに笑って頭を奏花へ預けた、軽くて小さな頭蓋骨の感触に震えるほどの悦楽を覚える。ああ、今すぐこの小さな頭を握り潰してしまいたい。けれどそれではつまらない。堪えるというのは何と甘美なものだろう。

「けれど璃玖さま、奏花は胆が冷えました。璃玖さまがお怪我をしたらどうしよう、と」

 小さな手をぎゅっと握り締めて声を震わせる。奏花はとても、怖いと思いました。璃玖さまがお怪我をしたらどうしようかと。この小さなかわいいお手々が、酷い怪我をしたらどうしようかと。ですから璃玖さま、奏花も強くなりますね。璃玖さまをお守りできるように。璃玖さまを何にも盗られないように。

 璃玖さま、璃玖さま。奏花の大事なかわいい狼さん。怪我がなくてよかった。

 囁いて小さな頭蓋へ頬を寄せる。子供の体温が仄かに頬へ温もりを伝える。璃玖は潤んだ金色の虹彩へ、きらきらした感情を乗せて口を開いた。

「りく、つよくなる。そうかをしんぱいさせないくらい、つよくなるよ」

「璃玖さま……」

「じいじ、りく、もっとつよくなりたい。りくを、つよく、してください」

 何て健気で、何て愛しくも愚かな。堪らなく愛しい。早く壊してしまいたいくらい。奏花の中で毒が芽吹く。愛しい愛しい、壊したい殺したい。今ではない。もっともっと育て。もっと奏花に傾倒しろ。そうして握り潰した頭蓋を啜れば、きっと甘美で悲しい味がする。

 それから璃玖は、三日ごとに氷山へ剣を習いに通った。禄花が町で話したのだろう。璃玖が雪影を倒した噂はあっという間に璃内へ広まった。真相を確かめたいのか、秋ごろには璃貴から何かにつけて屋敷への誘いが来るようになった。

「奏花。他の下らん用事は無視していいが、一応新しく迎えたお方さまへのご挨拶には行った方がよかろうよ」

「……母上がそうおっしゃるのであれば」

 正月にはもう屋敷へ囲っていたくせに何を今さら。渋々、を表情にも口調にも隠しもせず答える。正直面倒くさい。璃玖が大きくなったら殺してしまおうか。どうせろくな領主ではないのだ。璃貴の良いところと言えば、ろくな領主ではないが領主として大きく目立った欠点もないというところだろう。凡庸なのだ。ただの貴族の若君ならばそれでも良かっただろう。奏花が璃貴を好きになれないのは、凡庸ならば凡庸なりに領主たる勤めを果たす方法もあるだろうに、それすらすることのできない凡夫だからだ。

 先代領主の璃真は名君であったが多才多忙がゆえに晩婚で、しかも獣人族にしては短命だった。先代領主が死ぬ二十年前に生まれた璃貴は甘やかされて育ち、兄弟が居らず、彼の他に志出家を継ぐ者はいない。

「……璃貴殿は……やたらと体へ触れて来るのであまり好きではないのです」

「ああ……璃貴殿は結構長い間、お前を女子だと思っていたもんな……」

「父上と母上がわたくしのことを姫椿ひめつばきなどと呼ぶからですよ」

「奏がお前の生まれた記念に山茶花さざんかを庭へ植えたから、奏誼殿がお前を姫椿と呼んでかわいがったのだ。それで己れも奏もお前を姫椿、と」

「庭が整ったので思い出しました。あんなところに植わっていたのですね」

 屋敷と草叢の境目がなかった奏臥と禄花の屋敷も今は綺麗に庭を作り、塀で囲まれている。整えられた庭の隅にある、山茶花へ目をやる。

「璃貴殿には、元服の際に名乗ったはずなのですが」

「そりゃいつもは奏誼殿と奏の趣味で十二単ばかり着せられていたお前がいきなり衣冠単いかんひとえで『以斉白水丸奏花いせいはくすいまるそうか、元服のご挨拶に参りました』って現れたら名前なんかすっとんでっちまうだろうな」

 禄花がかっかっか、と悪びれず笑う。両親、身内ですら誰もその名で呼んだことはないが、奏花の幼名は白水丸である。奏臥の兄である或誼わくぎが名付けてくれた。

「その後も何かにつけ寝殿へ上がるようにおっしゃるのであまりお会いしたくないのです。いつだか火急の用だと呼びつけられて体調不良を理由に御帳台へ入れと言われたことがあって。わたくしは志出の医師ではないのでとお断りしましたが」

「そんな話は聞いたことがないぞ、奏花」

 禄花の顔から笑みが引いた。禄花は常から飄々として考えが読めない。しかしどうやら、怒っているようだ。

「今、初めて話しましたゆえ。母上」

「それでできるだけ璃内から離れたところへ移り住むと言い出したわけか……」

「行かなくて良い」

「いっちゃだめ!」

 庭から剣の稽古を終えた奏臥と璃玖が異口同音に奏花へ放つ。奏花は苦笑いして璃玖の汗を手拭いで拭う。

「ちちうえ、きらい」

「そんなことをおっしゃらず。璃玖さまのお父上ですよ?」

 まろい頬を撫でて微笑む。

「奏花は璃貴殿には感謝しているのです」

「どうして?」

「璃貴殿が居らねば、璃玖さまは生まれて来なかった。奏花と璃玖さまを出会わせてくださったので感謝しておりますよ」

 ね? と首を傾げると璃玖はこくん、と頷いた。竹筒から水を飲ませて口元を拭く。

「こんなに良い子に出会えた奏花は幸せですよ」

「……りくも、そうかにあえてしあわせ」

「嬉しゅうございます、璃玖さま」

 まだ柔らかな銀色の髪を撫でる。少し髪が伸びて来た。ようやく束髪そくはつにできるようになった。もう少しで垂髪すべらかしにできるだろうか。高元結たかもとゆいにできるのはいつになるやら。

「さて。帰りましょうか、璃玖さま」

「うん」

「母上、お方さまへのご挨拶の時にはわたくしもご一緒させてくださいませ。……璃玖さまも一緒に参りましょうね」

「りくがそうかを、ちちうえからまもってあげる!」

「ふふふ、ありがとう存じます。かわいいかわいい、わたくしの璃玖さま」

 この化け物を守る、と。無垢な瞳で璃玖は言う。愛しくてたまらない。小さな体を抱え上げて香鵬へ乗る。香鵬に乗れば奏臥と禄花の住まいがある氷山から雨辺山までは一時ほど。徐々に茜色へと変化して行く空を眺め、璃玖と他愛のない話をする。

「女手はもう全て覚えましたね。次は少しずつ、漢字を覚えて行きましょう」

「そうかのおなまえ、かけるようになる?」

「そうですねぇ、奏の字が難しゅうございますからしばらく先でしょうか」

「むずかしい?」

「ええ。奏でるという字を書くのですよ」

「かな、でる」

「奏という字は元々『申し上げる』という意味があるのです」

 物申す花。花のように美しく、されど強い意志で物申す人であれかし、と。

「けれど音楽を奏でる、という意味もございます」

「そうか、おうたじょうず」

「ありがとうございます。琵琶も琴も龍笛も一通り習いましたので、璃玖さまも少しずつ、覚えて行きましょうね」

「うん」

 ことん、と胸へ頭を凭れて璃玖は奏花の単の合わせ目へ手を入れた。好きなように懐を探らせておく。やがて小袖もはだけられ、小さな口が胸へ吸い付く。くすぐったいのと小さな頭を潰したいのを我慢して璃玖の背中を優しく撫でる。

 ああ、かわいい璃玖さま。この化け物しか縋る者のない、哀れで稚ない愚かな子供。知恵をつけなさい。世界を知りなさい。美しく残酷で容赦のないこの世界に、あなたは何を思うでしょうか。ああ、璃玖さま。楽しみです。

 結局、璃貴の後妻への挨拶は奏臥が断ったのかそれ以上の沙汰はなく。正月に奏臥と禄花、奏花と璃玖で揃って出向いた。北の対の君は儚げでどこか少女のような容貌だったが正月だと言うのに花薄の重色目を着た彼女を見た途端、奏臥は奏花へ「前に出ずともよい」と一言放つ。

「なんとまぁ。人の息子を何だと思っているのやら」

 禄花は低く喉を鳴らして笑う。

「一丁前に執着しおって不愉快な」

 吐き捨てた言葉は禄花にしては珍しく怒気を孕んでいる。奏臥の方はと言えば、ただでさえ表情に乏しいというのに彫刻のように眉一つ動かさずに真っ直ぐ璃貴を睨みつけている。

「?」

 首を傾げていると、璃玖が奏花の手を引いた。

「あの人、すこしそうかににてるね。でもそうかのほうが、うんときれい」

「なるほど」

 また分かりやすい無礼を働くものだ。奏臥に制され、奏花は後ろで一礼したのみ。璃貴の顔すらまともに見ずに済んだのはありがたい。璃玖はずっと奏花に抱っこされてご機嫌だった。帰り道、璃内の町を奏臥や禄花と歩きながら璃玖へ龍笛を教え始めたこと、中々の腕前だということを話して分かれる。

「ではな、璃玖坊。今度はばあばに龍笛を聞かせてくれ」

「うん! じいじ、また春になったらけんをならいに行くね」

「うん。冬の間は雪影が頻繁に出て危険だ。春になったら迷い込んで来たのを倒す練習をしよう」

「はい!」

『練習だと』

『雪影を倒す練習』

『やはり獣の若様は雪影を倒されたのだ』

 噂話を聞きながら、町外れで香鵬を呼び璃内を後にする。冬の間は奏臥も禄花も、雪影への対処で雨辺山へ足を運ぶ回数が減る。このまま奏臥や禄花の干渉をできるだけ避けたい。特に禄花だ。奏臥は感情を表面に出すのが不得意なだけで情で動く。だから禄花も奏花との間に何事かあったということは察しているが、奏臥を信用して見守るという立場を取っているというだけだ。しかし禄花は勘も洞察力も鋭く、情に流されることもない。奏花がどんな考えで璃玖を育てているか知れば、璃玖は都の口茄上くなかみ家にでも預けられてしまうだろうし奏花は蟄居を余儀なくされるだろう。口茄上家は以斉家の家人で、そこに璃玖を預けられてしまうのは少しやりにくい。

 奏臥たちを忙しくする理由と事柄が必要だ。

「璃玖さま、璃玖さま、大きくなぁれ」

 眠ってしまった璃玖の背をとんとんとあやす。懐の温もりと、規則正しい寝息を聞きながら考える。

「雪影……いつまでお二人で対処し続けるつもりでしょう……」

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