第5話 偏花

 あれから奏花には時間の感覚がない暮らしをしている。

 璃玖がいつ帰り、いつ食事をしているかすら知らない。気を失うまでまぐわい、御帳台でうつらうつらと過ごし、再び璃玖に抱かれる。そんな毎日だ。

 その日は珍しく璃玖に抱えられ、御帳台から茵へと降ろされた。

「奏花、明日は正月だから君も支度をして」

「……正月、ですか」

「うん」

 不思議な気分だ。もうそんなに経ったのかという気持ちと、まだそれだけしか時間が経っていないのかという気持ちで璃玖を見る。璃玖は奏花の肩へ袿を掛け、髪を撫で梳いて湯飲みを差し出す。

「飲めるか」

 こくん、と頷いて湯飲へ口をつける。ひいやりと冷たい。今の奏花はただ、愛でられるだけの花だ。こんなものは到底人間の営みとは呼べない。

 無言で空の湯飲みを差し出し、梅花が受け取るのを待って璃玖の首へ手を回す。璃玖の膝へ跨って向かい合わせで抱きついて微笑んで見せる。

「璃玖さま、くださいませ」

「明日はおじい様とおばあ様に会うのだぞ?」

「ええ」

 存じております。ですからいつものようにわたくしが気を遣るまで蜜を注いではいけませんよ。加減してくださいませ。囁いて唇を食む。金色の虹彩に凶暴な捕食者の輝きが宿るのを認めて嬌声を上げる。

 結局、奏花は気を失ってしまったようだ。璃玖に抱えられて湯に浸かり、体を拭かれて小袖を羽織らされ、再び抱えられて渡殿を行く。璃玖の胸に凭れながら、外を眺めるとすっかり雪景色だった。

「今年は随分、雪が深うございますね」

「うん。お陰でみんな今年は雪かきばかりしている」

「ふふふ、六太さんと雪遊びはなさいましたか」

「奏花、私はもう子供ではないぞ」

 璃玖はこの正月でやっと十四になる。まだまだ子供だ。答えずに目を閉じる。璃玖の元服から二年。歪な関係のまま二年も経った。奏臥と禄花は何か察しているだろうか。それならば訪ねて来ないのはおかしい。璃玖が二人へ奏花の現状をどう説明しているのか気になる。

 茵へ下ろされ、髪を結われながら脇息に凭れる。奏花はすっかり璃玖に世話をされる側になってしまった。

「水を飲むか?」

「いいえ。璃玖さま、お食事は」

「済ませた」

 ほほほほ、と梅花たちが笑いながら部屋を出て行く。璃玖の膝にしどけなく凭れかかって小袖の裾へと手を潜らせる。

「こら、奏花」

「ふふふ」

 萌した蕊へ舌を伸ばす。みっちりと詰まった肉の感触を確かめるように舌でなぞって先芽へ吸い付く。

「ん、んむ」

 昂った先芽を自らの口蓋へ擦りつけ、舐めしゃぶる。口の中で弾けた蕊の吐き出す蜜を飲み干して顔を上げた。

「璃玖さま、すっかりどちらも使い分けられるようになられて」

 狼の姿と人の姿を使い分けられるのならば、性器も自分の意志で使い分けられるのではないか。璃玖が言った通りだったようだ。

「どちらが好みだ? 奏花。申してみよ」

「どちらも……んん……ぁあ、ぁは……」

 奏花は人にはなれなかった。奏花は花だ。愛でられるだけの花。ならば花として存分に咲くしかない。この数か月で分かったのはそれだけだった。

 分かってしまった。奏花には、今の暮らしがしっくり来る。ただ璃玖を悦ばせるためだけに咲く花。淫らに誘って微笑むためだけに在る体。人の営みには馴染めなかったのに、この生活にはすぐに馴染んだ。

 正しい人になどなれなかった。奏花は人ではなかったから。

 突き上げられ揺さぶられながら媚びを含んだ嬌声の花弁を零す。そうして咲くのが当然のことだったのだろう。腹の中へたっぷりと蜜を注がれて目を閉じる。

 いつも通りに何度目かで気を失い、常に倣って璃玖に起こされて麝香が匂い立つ体のまま衣冠単に着替える。誂えたのはいつだっただろう。璃玖の衣冠単は奏臥か禄花が設えたのだろうか。どちらも奏臥の狩衣と同じ色目だから、並ぶとまるで兄弟のようだ。違うのは、璃玖はきっちりと髪を結い上げ垂纓冠を被っていること。奏花は梳いた髪を結わずに下ろしていること。

「奏花」

 璃玖が手を伸ばす。狩りの獲物だろうか。銀色の毛並みが美しい毛皮の襟巻を掛け、満足そうにしている。

「狐、ですか」

「うん」

 最近は屋敷に居ない間、璃玖が何をしているのか奏花は全く知らない。いつの間にか屋敷に戻っていて、いつの間にか屋敷から出て行っている。興味もなかった。奏花はただ、飾られた花だから。花には人の営みなど関係ない。璃玖に抱えられて銀奏の背に揺られる。

「璃玖さま、わたくし寒くはありません」

「それでも襟巻はしておいた方がいい」

「なぜです」

「跡が見える」

「……」

 無言で襟巻を巻き直す。奏花の薄い皮膚、白い肌には無数の花弁に似た跡が散らばっている。見えない場所は構わないが、首筋は目立つ。特に璃玖は蜜を吐きながらあちこち噛む癖があるから、奏花の項には歯型がくっきりと付いているのだろう。抵抗せずに璃玖へ凭れ、詰所の塀を眺める。外に出るのは随分と久しぶりだ。庭へ入ると紀之元が厩から手を振る。

「お久しゅうございます、奏花様」

「久しぶり、紀之元。元気でしたか」

「はい。奏花様もお元気そうで安心いたしました。それどころか益々お美しく」

「おやおや、紀之元は少し見ぬ間に世辞が上手になって」

「お世辞ではございません。本当にお美しくおなりになって、お幸せそうです」

 幸せ。幸せか。そうかも知れぬ。人ではないのに人であろうともがくのを止めたら楽になった。そういうことなのだろう。

「……生まれて初めて、花としてあるがままに過ごしているのですよ」

「それは良うございました」

 笑みを浮かべた紀之元へ曖昧に唇を吊り上げて見せる。璃玖は黙って二人を眺めていたが、空を掴むように手を振った。梔子を一輪残して銀奏は花弁になって解れて消える。

「行こう」

 差し伸べられた手を取り、璃玖に従う。渡殿から煉義が慌てた様子で庭へ下りて来る。

「お久しぶりです、花仙様」

「お久しぶりです、煉義殿。お元気そうで何よりです」

「……花仙様もお元気そうで良かった」

 煉義の隣に立つ見慣れぬ兵士へちらりと目をやる。兵士は平伏して渡殿の床へ額を擦りつけた。

「一昨年から務めております。兎神族の阿兼理飛あかねさとひと申します」

「ひょっとして、たかいこさんのお父様ですか」

「はっ」

「顔を上げてくださいませ。お勤めご苦労様でございます」

 煉義の隣で身を硬くしている理飛へ声をかける。しかし奏花に加えて璃玖も居るのだ。理飛は顔を上げることはなかった。こうなると奏花と璃玖が早々に立ち去るしかあるまい。立ち去ろうともう一度視線を送る。項にある大きな黒子が目に付いた。

「それでは、煉義殿。失礼致します」

「花仙様……お体、ご自愛ください」

「ええ」

 大きな体を縮めて奏花を覗き込む煉義の脳内には様々なことが駆け巡っているに違いない。安心させるために軽く前腕へ触れた。途端に璃玖に腕を掴まれ引き寄せられる。

「おじい様とおばあ様はどちらにいらっしゃるか分かるか、煉義」

「はい、寝殿の母屋に居られます」

「分かった。行こう、奏花」

「はい……」

 振り返り煉義へ軽く会釈する。心なしか奏花の腕を掴んだ手に力が籠った気がする。

「璃玖さま」

「……」

 璃玖の手を押さえると、力が緩んだ。母屋へ入ると宴会していただろう兵士たちが一斉に声を上げる。

「花仙様」

「雨山花仙様だ」

「花仙様がいらっしゃった」

 中心にいた玄色の直衣がふらりと立ち上がる。続いて翡翠色の束帯が素早く近づいて来た。

「奏花……!」

 抱きしめられて久々に懐かしい白檀の香りを吸い込む。脇から手を差し入れ、奏臥の背へ触れる。

「父上、お久しゅうございます」

「うん」

「何だ、思ったより元気そうじゃないか」

「ええ。母上もお元気そうでなによりです」

 子供にするように頭を撫でられ、禄花を仰ぐ。身長こそ禄花の方が少しだけ高いが、いわけなさの残る顔立ちを見れば禄花が奏花の母だなどとは誰も想像しないだろう。精々が兄弟と言ったところか。

「おじい様、おばあ様、私が我儘を言って奏花を困らせてすみません」

「いいさ。まだ若いお前が奏花を下卑た視線や話題から遠ざけたいのは理解できる」

 禄花に肩を叩かれ、璃玖がきっちりと頭を垂れる。奏臥も無言で頷いていて、なるほどやはりそういう説明をしていたのかと納得する。

「屋敷に籠って花のように暮らしておりましたが、璃玖さまが甘やかしてくださるので屋敷から出るのが億劫になってしまいました。わたくしは、人より花に近いゆえ」

「花として暮らすが楽、か」

「はい」

 奏臥も禄花も思うところあるのだろう。言外に気遣われ、二人の手を取る。

「雪牙隊にも父上、母上にもわたくしができることは多くありませぬ。後二年、璃玖さまが十六になるまではこのように過ごしたいと思います。我儘をお許しくださいませ」

「うん……うん。お前の良いように過ごすがいい。な? 奏」

「うん。君の良いようになさい、奏花」

「ありがとうございます」

「奏花、私は皆に挨拶をして来る」

「はい。わたくしはしばし父上、母上と居りますので」

「うん。すぐ戻る」

 奏花の指を掴んで璃玖が言う。視線が最後まで離れ難いと告げている。

「武器に刻んだ呪や結界の呪に不具合はございませんか」

「うむ。問題ないようだ」

「割れて呪が壊れても効果が持続するようにできないか、考えております」

「うん。今のところ呪を刻んだ武器を複数携帯することで破損には備えている」

「……となると本当にわたくしのできることはなさそうです」

 覚えず瞳は璃玖を追っていたようだ。禄花も同じように顔を向け零す。

「璃玖にとっては、お前が傍に居るだけでいいんだ。そうしてやれ」

「私たちとは、時間が違うからな。今はできるだけ傍に居てやりなさい」

「はい」

 奏臥や禄花とは例え十年会わずとも、寿命から考えればほんの少しの時間だ。だが璃玖は違う。だからこそ、この数か月奏花が顔を見せなくとも奏臥も禄花も特に気にした様子はなかったのだろう。

「奏花、待たせた」

「もうよろしいのですか」

「うん。帰ろう。おじい様、おばあ様、よいお年をお過ごしください」

「うん。お前たちもゆっくり過ごすといい。ではな、璃玖。奏花」

「母上、あまり御酒を召されませんように」

「うん……?」

 目を逸らして宴の輪へ戻って行く禄花の背中を苦笑いで見送る。

「では父上、失礼致します」

「うむ」

 母屋を出る璃玖と奏花の姿を、誰かが「麗しい姉弟のようだ」と言った。同じ色目の衣冠単。璃玖の背はとうに奏花の背を超えた。

「あれが兄弟に見えるかよ。どう見てもありゃあ……」

 煉義の声は、酒宴の騒ぎに紛れて消えた。璃玖の耳にも入っただろうか。常と同じに手を取られ、銀奏の背へ抱え上げられる。

「璃玖さま」

「うん?」

「帰ってたっぷり、かわいがってくださいませ」

 璃玖の胸へ頭を凭せ掛ける。間違っていたのは奏花だった。人は人にしかなれぬ。悪人だろうと善人だろうと人は人以外になれない。

 花は、人にはなれぬのだ。

 花は花にしかなれない。所詮無理なことだったのだろう。奏花は百年かけてようやく認めたのだ。己は人ではないと。

 奏花は人を惑わす毒の花。それ以外の生き方などできない。

「奏花……っ」

「璃玖さま。いいのです。わたくしはあるべき姿に戻っただけです」

 だからこれはあなたの咎ではありません。

 囁いて璃玖の首へ手を回す。梔子屋敷へ着くなり乱雑に引き千切られて蜻蛉が白砂へ転がって行った。自ら袴を解きながら笑う。

 噎せ返る梔子の匂い。夜の帳に梅花たちの笑い声が溶け込む。花は笑う。花は誘う。

 毒の花は甘い嬌声をまき散らしながら、人を狂わせる。奏花はそのようなものであったのだ。ずっと。

「璃玖さま……奏花のここは、璃玖さまに蜜を注いでいただくためだけにしか使っておりませぬ」

「……っ、私以外に、触れさせるな……っ」

「……はい」

 御帳台へ下ろされ解かれ、璃玖の首へ手を回して微笑む。蕾を指で割り開かれて滴るほど粘液を分泌する。易々と柔らかな粘膜へ導かれた璃玖の指を含んで、蕾は淫らな水音を立てた。

「おなごのように濡らしてはしたない」

 笑みを含んだ囁きに、奏花は動きを止めて璃玖を眺めた。

「ふふ……うふふ」

 笑いが止まらない。璃玖に顔を見られぬよう、しっかりと抱きついて囁く。

「おなごのようにかわいがってくださいませ」

 おかしくて敵わない。笑いすぎて涙が出そうだ。

 ――璃玖さま。どこで女子が、どのように濡れるのを知ったのでしょう。

 もう璃玖に奏花という化け物は必要ない。璃玖は人に成った。人と暮らして行ける。孤独にはならない。女子にも拒絶はされなかったのだろう。

 ああ。奏花は世界でただ一人の化け物になってしまった。

 奏花はもう、夜を見つめて過ごすことはない。小さな寝息を聞くことも、心臓の音にそれを握り潰す想像をすることもない。麝香が強く香る蜜をたっぷりと注がれ目を閉じ、閨にひっそりと咲く。朝も昼も知らぬ。璃玖のためだけに咲く花になった。

「奏花様」

 梅花の声に重い瞼をなんとか押し上げる。

「……誰か来たのか」

「いいえ。若君が奏花様に着物を着せよ、と」

「……」

 上半身を起こす。袿がずり落ちて自分が全裸であることを知る。身じろぎすると蕾から蜜が溢れ、伝い落ちた。

「……先に湯あみを」

「かしこまりました」

 小袖を羽織って母屋を出る。渡殿を移動しながらふと気づく。

「璃玖さまは?」

「狩りに行かれたようです」

 ならば今日は休みなのだろう。この月が夜警の番なのか昼警の番なのかも分からない。璃玖も同じで、奏花が一人で居る時何をしていたか聞くことがなくなっていた。これはいい兆候なのだろう。

 そうして奏花への関心が薄れ、他へ目が向けばいい。そうやって奏花以外の人間と密に関わることが増えればいい。そうあるべきなのだ。

 湯に浸かって戻って来ると、床に散らばった奏花の着物を梅花たちが片付けているところだった。梅花たちをぼんやりと目路に入れていて気付く。璃玖が奏花へ襟巻として持って来た狐の毛皮。吾毘には銀色の毛並みを持つ狐は生息していない。銀色の狐は荊の結界のさらに向こう、海峡を越えた以流の地にしか生息していないはずだ。影も海を越えることはできないようで、だから地続きになっている僅かな部分だけを荊の結界で守っている。

「荊の結界は生き物の往来もできない……渡って来られるのは鳥や種子だけ」

 罪人を以流へ流刑にする時だけ、奏臥の作った解呪札を授ける。それすらここ五十年ほどは奏臥も奏花に任せている。結界を解除できるのは奏臥の他に禄花と奏花だけだろう。奏花の独り言に梅花たちは反応せず、母屋を片付け次々と出て行く。

 つまりこの狐は璃玖が以流へ渡って狩って来たか、誰かが以流から持って吾毘へ渡って来た、ということになる。可能性としては前者だろう。銀奏ならば海峡を飛び越えることは容易だし、雪牙隊のお勤めのために璃玖へ解呪符を持たせているかも知れない。

「……そういえば以流の罪人に子供ができたら、その子に罪はあるのかと言っていたな……」

 秘密を持ちたがる年頃だろうが、危険ではないだろうか。軽く頭を左右に振る。

「煉義殿も、父上も母上もいらっしゃるのだ……」

 気づかないわけがないし、何か問題が起こっても奏臥や禄花が対処するだろう。少し考えて梅花へ声をかける。

「狩衣を。少し出て来ます」

「はい。髪は結いますか」

「……このままで」

「かしこまりました」

 大通りを行くと、どこの家でも吾毘独特の早駆け様の飾りが目に付いた。戸口へ絵を貼っている家もあり、何気なく眺める。槍を構えた若者が狼に跨っている絵だ。

「銀奏に乗って駆ける若君ですよ」

 突然横から声をかけられ、いささか驚いて大きな体躯を仰ぐ。

「……煉義殿」

「干浬ではこの図が人気です。若君は尊敬されておりますね」

「そうでしたか。大変にご立派に描かれておりますね」

「酒宴で興が乗った雪月花仙様が描かれた絵が元になっているのですよ」

「母上が? そうですか」

「若君が初めに雪月花仙様の絵姿をお描きになられて、それを大いに気に入った雪月花仙様が礼にと」

「……ああ……そういえば母上が大層自慢しておられましたね。大事に表装してくれと言われて随分困らされました」

「その雪月花仙様の描かれた若君の絵姿の写しを持って夏に璃内へ帰った者が皆、これは旅路の守りに効果があると言いまして」

「そんなことがあったのですか……」

 煉義の隣で深々と頭を垂れる男へ声をかける。項に大きな黒子。見覚えがある。

「お顔を上げてくださいませ、阿兼殿」

 奏花が名を呼ばうとびくりと体を硬直させ、それから恐る恐る顔を上げた男を不躾にならぬ程度に視界へ収めた。浅黒く雪焼けした肌、独特の刺繍が施された帯、神兎族に多い彫りの深い顔立ち。片足にのみ重心を置く独特の立ち方に少し違和感を覚えた。そんな立ち方をする者を以前、どこかで見かけた気がする。

「……お二人とも、お勤めの帰りですか。ご苦労様でございます」

「ありがとうございます。その、花仙様」

「はい、何でしょう」

「今日は冷えます故、よろしければ私の上着をどうぞ」

「?」

 首を傾げて大男を仰ぐ。煉義の頬が赤くなっている。奏花とは決して目を合わせない。けれども煉義の視線は確かに、奏花の襟や首の辺りを行ったり来たりしていた。

 ああ、と小さく口の中で呟いて苦笑いをする。奏花の肩へ自分の上着をかけた煉義の腕へ僅かに触れて笑みを作る。

「お気遣いありがとうございます、煉義殿」

「……いえ、……今日はもう、お帰りになられるがよろしいかと」

「そうですね。用事は改めて梅花に頼むとします」

 阿兼に見られたのはまずかったかも知れない。一瞥すると、男は再び深々と頭を下げており表情は窺えなかった。

「それでは煉義殿、阿兼殿。失礼いたします」

 しばらく通りを歩いて木鹿を呼ぶ。ぽんと高く飛んで梔子屋敷の庭へ下り立ち、煉義の上着を一振りして梅花へ渡す。

「手入れをして香を炊きしめておいておくれ」

「はい」

 狩衣や袴を脱ぎながら梅花へ押しつける。単も脱いで小袖のみになり、梅花から受け取って袿をかける。

「それからいくつか薬草を摘んで来て欲しい。気分転換に自分で、などと思ったけれど困ったね」

 阿兼に見られてしまった。煉義は口の堅い男だが、阿兼はどうだろう。どう誤魔化そうか。理由を考えるのも億劫だ。御帳台へ横になって香炉から立ち上る煙をぼんやりと追いかける。うとうとしてしまったようだ。目を空けると蔀戸の向こうは茜色に染まっている。

「奏花」

 しっかりした足音が母屋の外から聞こえて来る。妻戸へ目を向けると璃玖が扉をくぐるところだった。

「お帰りなさいませ」

「うん。外に出たのか」

「はい」

「煉義に叱られた」

「……」

 答えに困って首を傾げると、璃玖は奏花の髪を撫でて自嘲の笑みを浮かべた。

「外に出すのなら、隠すか控えろと」

「……申し訳ありません」

「奏花が悪いのではない」

 花はただ花であるだけだからな。悪いのは花を独占しようとする愚か者だ。

 どんな意味で言ったのだろう。意味はないのだろうか。璃玖の真意が分からず、煌めく双月を見つめる。璃玖は痛みを堪えるような表情で奏花から目を逸らした。

「……煉義の上着か」

「ええ。気遣って肩にかけてくださったので」

「なるほど余りいい気分ではないな。煉義の言う通り、気をつけることにしよう」

 璃玖の言葉の意味など測っても取り留めのないことだろう。何故なら奏花は人ではないのだから。人の考えなど理解できるはずもない。初めからそうして諦めてしまえば良かったのだろう。

「食事にする」

「はい。梅花に用意させます」

「うん」

 膳を挟んで向かい合わせに座り、奏花が璃玖に食べさせるのにも慣れてしまった。人を知りたいと、人になりたいと願って掴もうとすればするほど人という生き物からかけ離れて行く。奏花の答えは出てしまった。だから後は、璃玖の答えを待つだけだ。

 張り巡らせた紗布が空気を孕んで膨らむ。呼吸をするように、薄布は内側へと戻る。奏花は無性に、雨辺山の屋敷へ帰りたいと思った。あの頃のように口ずさもうとした子守歌は、けれど塞がれて崩れて零れて夜に散る。

 ――銀色おおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

 一節も歌いきれずに崩れた子守歌の代わりに、薄い皮膚に赤い花びらが散った。いつも通りに。

 ――かわいいおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

「久しぶりだな、子守歌を聞くのは」

 袿を引き寄せ、璃玖の背へ手を回す。麝香が薫る。数えるように背骨の一つ一つをなぞって璃玖の胸へ顔を埋める。気づかれなかった。なぞった背骨へ、小さな種を一つ、植え付けたことを。何のためにそうしたのか、奏花自身にも答えられぬ。

「お嫌ですか」

「いいや……そなたは変わらぬな」

 もう何度、そう言われたか分からない。うっそり笑って答える。

「わたくしは花ゆえに」

 だから皆、奏花の見た目を越える時に変わってしまう。それは仕方のないことで、この先もずっとそうなのだろう。相手が戸惑う姿を、どうすることもできずに眺めることしか奏花にはできない。そうして相手の態度が決まったのなら、その新しい関係を受け入れること以外に何ができるのだろう。

 ひとの時間は酷く短いから。奏花まで戸惑っていては、あっという間に居なくなってしまう。後悔ばかりが募って行く。だからこれが最善であると奏花は知っている。奏花は璃玖が答えを出すまで待つしかない。

 そうして璃玖が出した二人にとっての新しい距離を受け入れる。これまでも、これからも。そうして行く他にないのだから。

 御帳台を出て行く璃玖の背中を見送る。奏花よりがっちりと逞しく、大きくなった体。幼さと甘さは削ぎ落とされ、敏捷さと鋭さが備わり始めた貌。二人を親子だと思う者はもういないだろう。

「……いってらっしゃいませ」

「うん」

 璃玖が支度して出て行く気配を背中を耳にして聞く。紗布がはた、と風にはためく音がして静寂に包まれる。目を閉じたまま、密やかに歌う。


 ――奏花のおおかみさんどこまで駆ける。自由にどこまで駆ける。奏花を置いてどこまでも。さよならおおかみさん。幸せにおなり。よかった。よかった。さよなら。

 ――寂しい。


「梅花」

「はい」

「いくつか薬草を採って来ておくれ」

「かしこまりました」

 起き上がって小袖を着た。東の対に薬棚を作ろう。小袖の上へ袿を羽織って土鼠を呼び出す。小さな体が細やかに働く横で久々に薬を調合する。

「季節の変わり目には咳が出やすいから咳止めと、それから傷薬。喉が弱いから風邪薬も咳止めと炎症を止めるものを多く配合しないと。食が細い方だから胃薬は必要ないだろうけれど、滋養剤は用意しておいた方がいい。それから……」

 ここ数年、璃玖のためにしか薬を調合していない。璃玖の体調や体質に合わせて細やかに変えた配合はもう覚えてしまっている。煎じ薬や丸薬、保存が容易なものを作り置きしておこう。たくさんの薬を見て、いつか璃玖は下らぬと笑うだろうか。

 その場にきっと、奏花はもういない。

「確かに下らぬな。それでも他にすることがないのだから」

 呟くと土鼠がきゅい、と一声鳴いた。顎の下辺りを指でくすぐるように撫でると小さな手は器用に薬棚作りに戻る。

 いつも通りに屋敷へ戻って来た璃玖の口へ食事を運ぶ。少し首を傾げ、璃玖は奏花の手首を掴んだ。

「薬を作っていたのか?」

「ええ。匂いますか」

「ああ。少しな」

「すみません、手を洗ってきます」

「いい。私がまだ幼い頃はそなたの指からは常に薬草の匂いがしていた」

 少し懐かしくなっただけだ。璃玖は遠くを見るような目をして微かに微笑んだ。

「璃玖さまが大きゅうなられてからは、季節の変わり目に喉が痛いとおっしゃることも、冬に腹を冷やしてお腹が痛いと泣かれることもなくなりました。わたくしの指から薬草の匂いがしなくなったのは、璃玖さまが丈夫になられたからでございます」

 まろい頬はすっかりと引き締まって大人の顔つきになった。手を伸ばしてそっと頬を撫でる。

「璃玖様」

「どうした、梅花」

 誰かに見られるのを厭うように、璃玖は奏花の手を掴んで梅花を振り返る。梅花はいつも通りに短くほほ、と笑って璃玖へ答えた。

「雪牙の方がお見えになられております」

「お通ししなさい」

 璃玖の代わりに奏花が答えると梅花は頭を下げて母屋を出て行く。しばらくして、煉義と変わらぬくらいに大きな体躯の青年が妻戸をくぐる。

「お、お久しぶりです、花仙さま」

「まぁ、六太さんですか。すっかりご立派になられて」

 幼い頃の面影はくるりと丸い目の辺りにある。けれど奏花よりも遥かに大きくなった体を縮めた六太は、もう子供とは呼べない。

「どうした、六太。何かあったのか」

「いや、明日は休みだろう。今年の夏の居残り番がくじ引きで決まってな。璃内へ帰る者の道中の安全を臥世真君に祈願してもらうんだ。ついでに居残り番の慰労会をしようと。それで皆が宴会に若君を呼べと言い出して。お前は一度梔子屋敷に戻ったら来ないと言ったんだが、皆がどうしてもと聞かなくて。仕方ないから俺が呼びに来た」

 断るだろう? と丸い瞳が問いかける。奏花は璃玖の手の甲を押さえ、覗き込むようにして言い聞かせる。

「お行きくださいませ、璃玖さま。璃内へ帰る方とは半年会えませぬ。せっかく誘ってくださった皆さんのお気持ちを無下にするものではございませんよ」

「……しかし」

 言い淀んで己の袴を握り締めた璃玖の手を再び撫でる。

「雪牙の皆様は璃玖さまにとって家族のようなもの。不義理をなさるのは良くありません」

「花仙さまがここまでおっしゃってくださるのだ。行こう、璃玖。花仙さまに誓って無茶な飲ませ方はせぬから」

 今までは断る口実に奏花が心配するから、などと言っていたのだろう。六太が璃玖の手を引っ張る。奏花は璃玖の背を押し上げて頷いて見せた。

「楽しんで来てくださいませ。六太さん、璃玖さまをよろしゅうお願いいたします」

「はい、花仙さま。俺が必ず送り届けますので。さ、璃玖。行こう、行こう」

 六太自身も璃玖を誘いたくて仕方なかったのだろう。六太と二人で渋る璃玖を門まで送り出す。大きな牡丹を一輪出して、璃玖に持たせた。大輪の牡丹は夕闇に薄く光って二人の足元を照らす。

「お気をつけて」

「これは美しい。まるで花仙さまのようですね」

「おやまぁ……六太さんはしばらくお会いしないうちに、随分口がお上手になられましたね」

「世辞ではなくて、誠でございます花仙さま」

「そういうことにしておきましょう。さ、お気をつけて」

「奏花、遅くならぬように戻る」

「いいえ。皆様とゆっくりなさってくださいませ。遅くなるようならば今日はそのまま詰所にお泊りください。夜道は危のうございますから」

「そうだぞ、璃玖。皆待っておる」

「しかし、……っ」

 まだ渋る璃玖の腕を無理矢理引いて六太が歩き出す。ぼんやりと光る牡丹を見送って、奏花は己の腕を擦った。

「これはよきこと……。こうして他へ目を向けて行かねば」

 秘密ができ、屋敷へ籠ることがなくなり、奏花以外と交流して行くのはよいことだ。そうして徐々に奏花を必要としなくなる。親離れというのはそういうものだろう。璃玖の世界は広がって行く。奏花と二人だけの閉じた世界にはいつまでも居られない。

 六太が「花仙様は快く送り出してくださった」と言えばこれまで使っていた「奏花が心配するから」という口実は使えなくなる。不満そうにしていた璃玖も、何度目かには「行って来る」とだけ告げるようになった。春が来て、短い夏が来た。人が減り、六太の一家は璃内へ帰ったようだった。

「奏花、屋敷の外に出ぬのか」

「特に用がございませんので」

 璃玖が屋敷に居ないのであれば、食事を用意する必要もない。奏花だけならば、大抵の用事は梅花に言い付ければ足りる。璃玖も察したのだろう。得心したと言った様子で一つ頷く。

「私が居らぬ日も外に出ぬのか」

「璃玖さまが居られぬのならばなおさら、外に用事はございません」

 雪牙隊の半分が璃内から戻る秋には、梔子屋敷に戻らぬ日が増えた。

「璃玖さまの背ならばもう一段上へ棚を増やしても良さそうだ」

 すでにぎっちりと隙間なく埋まった薬棚を眺める。近頃は梔子屋敷へ戻って来ても、酒が残っているのか他で済ませているからか、奏花を抱きしめて眠るだけのことが多い。

「二日酔いに効く薬も作るか。梅花」

「はい」

「いくつか薬草を採って来ておくれ」

 ここのところ頻繁に梅花が薬草を集めているから、禄花は奏花が薬を作っていることを知っているようだ。何度か梅花に話しかけていたようである。この日も禄花が梅花に何事か話しかけていたが、集中してしまい声をかけられるまで気づかなかった。

「奏花さま」

「どうした梅花」

「禄花さまの莉蝶を預かってまいりました」

「放て」

 奏花の許しを得て梅花は懐から薄桃の花弁を出し、両手で捧げる。風に煽られたかの如く揺れた花弁は蝶の容を取って奏花の周りを飛ぶ。

「奏花」

「母上。いかがなさいました」

「璃玖に二日酔いの薬を作るのだろう? 己れにも一つくれ」

 ふあ、とあくびまで聞こえて来て久々に聞いた母の変わらぬ様子に覚えず笑みを零す。

「ふふ……分かりました。作って梅花へ持たせます」

「うん。頼んだ」

 莉蝶は芍薬の花になってふうわりと解けて消える。梅花の採って来た薬草を調合し、少し迷って袿を羽織る。

「母上は詰所に居られるようだ。届けるついでに顔を見せてくるとしよう。片付けをしておいて」

「はい」

 大通りを歩くと干浬の早い冬の訪れを告げる冷たい風が奏花の髪を弄ぶ。ここ一年ほど結うこともなかったからそのままで来てしまった。通りには見知らぬ顔が増えたようだ。詰所の門をくぐると、寝殿で兵士たちと酒宴を繰り広げている玄色の直垂がぱっと身を起こして庭へ下りて来た。見慣れた面々は煉義の率いる二の隊だ。奥に煉義を認めて頭を下げる。微かな違和感を覚えた。そうだ、ここのところ煉義の影のように付き従っていた理飛が居ない。

「奏花、久しぶりだ。奏が残念がるだろうな。お前の顔を見たがっていたから」

「母上、あまり御酒を召されませんよう。薬をお持ちしました」

「お前が顔を見せてくれたら酒なんぞ飲まんさ」

 ははは、と朗らかに笑って奏花の肩を撫でる。見た目は奏花が僅かに年上に見えるだろう。禄花も他人が己の見た目を越えて行くばかりの人生だ。ふと尋ねてみたい気がした。

 母上、わたくしがあなたの見た目を越えた時、何を思いましたか。

 軽く首を振り懐から薬を出す。

「さ、母上。今飲まれるのであればわたくしが煎じますゆえ」

「いや、持って帰って奏に煎じさせるとしよう。そろそろ戻って来るだろうからな。それまで時間はあるか。璃玖は休みだろう? 梔子屋敷で待っているのか?」

「……璃玖さまは、お休みでしたでしょうか」

「会っておらんのか」

「ええ……今日はお戻りになっておられません」

 今日どころか一月ほどほとんど顔を合わせていない。珍しく梔子屋敷に戻った時は、一日中奏花を寝台から出さぬから、数日動けなくなる。少し気まずそうに禄花が視線を逸らした。

「まぁ、年頃だからな」

 禄花の言わんとするところを何となく察して曖昧に唇を吊り上げる。禄花の手へ薬の入った包みを置いた瞬間、何かが弾けるのを感じた。

「!」

 北を見た奏花の視線を追った禄花が、問いかけるより早く花鵬の背に飛び乗る。

「奏花!」

 返事もせず一目散。荊の結界を横目に海を越える。冷たい海へ突き出た岬の奥に続く森へ降り立つ。既にそこは、呻き声と血の臭いで充満していた。

 木の上に作られた、雨どころか風すら凌げそうにない狭い板の上には、木をくり抜いた盃らしきものが転がっている。その横には見慣れた酒壺が置かれていて、璃玖が干浬から手土産に持って来たものなのだろう。

「璃玖さま!」

 奏花が背骨へ埋めた種から伸びた枝が外殻のように璃玖を守っている。周りには地面から伸びた枝に背中から貫かれた男が三人、天を仰いでもがいている。何が起ったのか理解できない様子だ。その中の一人は璃玖と同じ年頃の少年だった。

「ひゃは、女ぁ……女の匂いだぁ……! 犯して火をつけてぇ……!」

 枯れ枝のように細い手をばたつかせた男を仰ぐ。最後に流刑になった火つけ次兵はその頃、二十歳。二十年以上経っているから年の頃からするとあれが次兵だろう。その声を聞いて、少年は自嘲気味に呟いた。

「はは……所詮畜生から生まれたら畜生にしかなれねぇのか……」

「……璃玖さまはあなたに『友になろう』と声をかけたのではありませんか? あなたはその答えに毒を盛った」

 答える代わりに少年は息を詰めた。

「……畜生が親でも正しく生きる道はあった。あなたが望んで、畜生と成り下がったのです。あなた方を貫いているのは所詮、蔓。もがいて折れれば助かるやもしれませんね」

「ちくしょう! がああああ、いてぇ!」

 奏花の言葉に男二人が抜け出そうと手足を動かした。冷ややかに眺める。彼らは背中から蔓に貫かれていて、下を見ることができない。例え蔓が折れたとしても地上までかなりの高さがあり、地面へ叩きつけられ命を落とすだろう。少年は諦めたのか顔を上げて空を見ているようだった。彼らがもがくたびに地面が血で汚れたが気にせず璃玖へと駆け寄る。奏花が触れると璃玖を守っていた枝は引っ込んだ。璃玖を抱えて血で汚れた口を拭う。額に汗をかいている。呼吸が浅い。脈も乱れている。拭ったその血を躊躇なく舐めた。

「――はは、は、……この毒で良かった。この世でわたくしにしか解毒できぬ」

 呟いて璃玖を抱えると花鵬の背に乗る。梔子屋敷に降り立ち、すぐに薬を煎じて璃玖へ口移しで飲ませる。

 御帳台へ寝かせて汗を拭う。しばらくすると呼吸が戻った。脈も落ち着いている。もう一度薬を口移しで飲ませると、璃玖を横たわらせて袿を被せる。

 結界を一段階解いた。すぐに忙しない足音と玄色の直垂が庭へ駆け込んで来る。

「奏花!」

「母上。璃玖さまを頼みます」

「何? 何があった?」

「毒を盛られたようです」

「毒……誰に?」

「……これから捕まえて参ります」

 伝えて梔子の狼の背へ乗る。疾風となった狼は瞬く間に目当ての男の前へと奏花を連れて行った。

「か、花仙様……」

 男は喉が乾くのか掠れた声を出した。奏花が無言で左手を振ると、地面から伸びた蔓は小さな人影と小柄な人影を捕まえてそそり立つ。中天の陽を背にしたその蔓に捕まった人影は、何が起きているか全く分からないのだろう。悲鳴一つ上げられずに男と奏花を見ている。

「阿兼殿」

「……っ、か、花仙様これは一体……」

 ずい、と一歩男へ踏み出す。男は腰が抜けたのか地べたへへたり込んだ。

「一体何事かと尋ねたいのはわたくしの方でございます、阿兼殿」

「ひ……っ」

「何ゆえ璃玖さまに毒を?」

「な、何かの誤解でございます……」

「誤解、ですか」

 干からびた声で答えた理飛へさらに一歩、踏み出す。

「わたくし、あなたを志出の屋敷で見かけたことがございます。璃貴殿の専属隠密の中にいらっしゃいましたよね。あの頃から不愉快なほど血の臭いがする方だったので覚えていたのです」

 素早く動くためだろう。片方の足にのみ重心を置く、独特の立ち方。どこかで見たと思ったが、璃貴専属の隠密の立ち方だ。

「……っ、っ!」

 ようやく何事か起きていると理解した理飛の妻が、声を上げた。

「花仙様、うちの人が何をしたと言うんです!」

「おっとう!」

 半狂乱でたかいこが泣き叫んだ。手を伸ばして、指先から蔦を出す。細くしなやかで柔らかな蔦は、たかいこと理飛の妻の額に小さな種を埋め込む。それから理飛の目の前へ、指先に乗せた小さな種を差し出す。

「これがどんなものか、先にお見せしましょう。鳳仙花をご存知ですか」

「ほうせん、か……」

「ええ。種が弾けるのですよ。こんな風に」

 ぽん、と一つ手を叩く。ぱぁんと弾けて赤い液体と白と朱と桃とが散らばった。たかいこが耳障りな甲高い声で長い悲鳴を上げている。

「わああああああ、わああああああ、おっかああああああああ」

「お、おたえ! おたえええええええ!」

「やかましい」

 短く言い放ち、もう一つ手を叩く。途端に静かになって先ほどよりも少量の赤い液体と白と朱と桃とが散らばる。己の周りに降った肉の破片を浴びて惚けている理飛の額へ種を埋め込む。

「今一度お尋ねいたしますよ。何故、璃貴殿は璃玖さまに毒を?」

「――っ」

 目玉だけで奏花を捉え、理飛は後退る仕草をした。実際には少しだけ手足を動かせただけに過ぎない。

「烏滸な者というのは本当に愚かで嫌になりますね。あなたは璃玖さまに毒を盛って、家族も自分も無傷で干浬から逃げ出せるとでも?」

「……っ、お許しください……!」

「あなたはあなたの妻と子供を殺したわたくしを許しますか?」

 瘧にかかったように震える理飛へ、腰をかがめて顔を近づける。歯の根も合わず、がちがち噛み鳴らす口の端からは涎を垂らしていて、奏花の問いへの答えはない。

「主が主なら隠密すらこの有様か」

 ふう、と一つため息を零す。白藍の袿は所々、血で汚れている。梔子に例えられる奏花の貌にも血と肉片がこびりついていた。

「――、奏花!」

 禄花に支えられて璃玖がやって来るのが見えた。その瞳には異物を見る畏れが滲む。わざと璃玖の方へ顔を向けて呟く。

「――わたくしは今まで、多くのことを我慢してきた。ええ、我慢して来たのです」

 分かりますか。問いかけると理飛は背を伸ばした奏花を目で追い、顔を上げた。

「愚かで矮小な人間に敬意を払うという理不尽に耐えて来た。耐え難きを耐えに耐えて、結果がこれです。わたくしの失望があなたに分かりますか」

 何を言っているのか分からない、という顔で理飛は奏花を仰いでいる。変わらず奏花の視線は璃玖へ向けたままだ。

「わたくしはあなたの主が誰だか知っています。おまけにあなたがあなたの主から璃玖さまを殺せと預かった毒は、あなたの主に頼まれてわたくしが作ったものなのですよ」

「……!」

 璃玖を支えていた禄花が奏花を見やる。血と肉片で汚れた面をわざと晒してうっそり微笑む。

「その毒をわたくしは、あなたの主以外に処方しなかった。そんな毒を我が子へ使うような愚かな人間に、わたくしは今まで我慢して来たのです」

「――、奏花……」

 聡い璃玖は多くのことを悟ったのだろう。蔓の上、頭を失い揺れる四本の足を仰ぎ頽れた。

「その愚昧な人間でも敬え、と父母が言ったから。あんな人間でも璃玖さまの父だから。いつか改心して璃玖さまに親として愛情を示すかも知れぬから。ただ、それだけのことでわたくしは長らく我慢を。ええ、我慢を強いられて来たのです」

「……奏、花……」

 真っ直ぐに禄花を見つめ返す。禄花はまるで見たこともない怪物を見るような目で奏花を眺めている。

「だからと言って、理飛の妻子を殺す必要などなかったはずだろう! こんな……残酷な……」

 叫んで狩衣の胸の辺りを掴み、璃玖は血を吐いた。本来なら解毒剤を飲んでも七日は養生しなければならぬ。

「では連れて来なければ良かったのです。阿兼殿は、初めから。璃貴殿の命を受けて雪牙隊に潜入した。璃玖さまの暗殺を命じられたのならば、家族を捕らえられることを考えなかったとでも? 璃玖さまへ毒を盛っておいて、無罪で放免されるとでも? 以流の罪人どもに裏切られてもまだ、あなたはわたくしを責めるのですか」

「……っ」

「以前わたくしと問答いたしましたね。罪人の子に罪はないと。しかし許すことは簡単ではないと。では璃玖さま」

 血まみれの面を璃玖から逸らさず告げる。璃玖の瞳が大きく見開かれた。

「わたくしを許せますか。わたくしはずっと、こうでありました。ずっとただ我慢をしてきた。迂愚うぐな人間でも殺してはならない、害してはならないと教えられてきたから。ずうっとずっと、ただ我慢をして来たのです。いつでも殺せる不愉快な虫けらを、群がるままにしておけと言われたから。わたくしは人間ではございません。人のようなふりをしてきた。人ならば取るであろう行動をしてきた。人として正しいであろう行動を選んで来た。本当はずっと我慢していました」

 わたくしは花ゆえに。

 人にはなれない。人を愛せない。人を同族とは思えない。不愉快な害虫と何が違うのか分からない。けれどずっと、我慢をしてきただけ。

「それでも……こんな非道は許されない。奏花」

 いつの間にか騒ぎを聞いて駆けつけた雪牙隊の面々と、奏臥までもが奏花を何か理解できぬものを見るように視野へ入れている。その視線は、奏花がずっと周りを見て来た視線と同じだ。奏花にとっては周りの全てが理解不能の異物だった。

「……ずっと……偽って来たのか……」

「ふふ、あはははははははは!」

 酷く傷ついた様子で呟いた璃玖に、笑いが止まらない。笑って嗤って、喉が痛むほど笑ってため息を吐く。

「偽る? 見破れなかったのはあなた方。わたくしはずっとこうでありました。生まれた時から。あなた方は自分が見たいものを真実としていただけでありましょう」

「……っ」

「裏切られたとお思いでしょうね。ではお尋ねしますがわたくしは一体、何を、誰を、裏切ったというのです? 『あなたの思う、都合のいいわたくし』を裏切ったからわたくしが悪いのですか」

 冷たく返した奏花に璃玖は絶句した。揺れる双子の月を見つめ返す。

「わたくしの真など、知りたいと思ったこともないのでしょう。それなのにまるで被害者は自分だとでもいう顔をなさって。おかしゅうて仕方ありません。見えているのに見ていなかっただけ。わたくしはずっと、わたくしでありました」

 ずうっとずっと、わたくしはわたくしが化け物であると知っておりましたよ。

 奏花の言葉に呆けている人々の顔を眺める。何の感情も湧いて来ない。

 ちらり、と禄花へ目をやる。奏花へ注視しながらも、璃玖の脈を調べているのが見て取れた。

「……さようなら」

 一言残して理飛の襟首を掴む。花鵬を呼び出し、大きく羽ばたきさせて風を起こした。集まって来た人々が風から己を庇って顔を伏せた隙に花鵬へ乗る。理飛は蔓で縛って花鵬の背へ転がした。

「奏花! 待ちなさい!」

 追って来ようとする奏臥へ、札を放つ。単純な結界だから、奏臥なら一刻もすれば破れるだろう。解毒は済んだとはいえ、禄花が璃玖を放って追いかけて来るとは思えない。そのまま南へと進み、璃内へ向かう。志出の館へ降り立ち、寝殿へ理飛を投げ入れた。

「何事だ……ひっ!」

 血まみれで呆けている理飛を見て、璃貴が短く悲鳴を上げた。裸足のままずかずかと母屋へ上がり、璃貴の額へ種を埋め込む。蔓を放って生まれたはずの璃貴の次男と、北の方を引き摺り出す。

「なっ……狂ったか、雨山花仙……!」

「狂ってなどおりませぬ。お伺いしたいことがあって参りました」

 突然乳母から引き離され、床へ放り出された璃玖の弟が泣き出す。年の頃は四つだったか。名前すら知らぬ。

「似ておらぬな」

 冷ややかに見下ろし、小さな頭蓋に種を埋め込む。北の方にも同様に、種を埋め込んだ。

「何ゆえ璃玖さまに毒を盛ったのか、お伺いしとうございます」

「なっ、何のことだっ!」

 ふう、とため息を床へ吐き散らす。これだから嫌なのだ。耐えられない。璃貴の愚かさをこれまでどうにか堪えて来たのが不思議でならない。

「貴様は己が我が子に飲ませろと持たせた毒を誰に作らせたかすら忘れる阿呆か。あの毒は誰が作ったか申してみよ、この愚物が!」

「なっ、何を……っ! 我にそんな口を聞いてよいと思っておるのか、奏花! ――ぶへっ……!」

 蔦を丸めて璃貴の横面を張り飛ばす。文字通りに横へ吹き飛んだ璃貴は、床へ手を突き自分が何をされたか理解できぬ様子で浅い呼吸を繰り返している。

「貴様こそ、誰へ物申しておるか心得よ。何ゆえ璃玖さまへ毒を盛ったのか」

「ひっ……」

 後退る璃貴の前へ理飛を突き出す。理飛は壊れたのか、米袋のように大人しく奏花に振り回されるままになっている。

「こやつの額には先ほど貴様らに埋め込んだのと同じ種が埋まっておる」

 ぽん、と手を叩く。至近距離で弾けた理飛の歯が、璃貴の頬辺りへ刺さった。

「ひいいいいいい、ひぃいぃぃぃぃ!」

「何度も同じことを言わせるな。何ゆえ、璃玖さまに毒を盛った?」

「ふ、ふへぇ……っ」

 後退りながら小便を漏らした璃貴のどこからどこまでも徹底した愚物っぷりに嫌気が差した。初めに張り飛ばしたのとは反対側の頬を殴り飛ばして蔦で持ち上げる。

「答えよ。答えねば次は腕を引き千切る」

「ひっ……、おぬしが……っ、おぬしがあの化け物の慰み者になっておると聞いたからじゃ!」

「慰み……」

 北の方が顔を伏せた。そういえば理飛は常に影のように煉義の背後に付き従うことが多かった。いつだったか、煉義に上着をかけられ跡を隠せと言われた時にも一緒だった。ようやく理解して臓腑の底から空虚な感情が湧き上がって来た。

「それだけの理由で?」

 それだけのことで、我が子を殺すのか。あの愛しいかわいい肉の塊を。奏花が何年も潰すのを堪えたあの頭蓋を。握り潰すのを我慢したあの薄い胸の下に脈打つ心臓を。

「おぬしは我の思い通りにならなかった! それなのに、あやつは……! あやつは……っ! 化けの物くせにおぬしにも雪月花仙にも臥世真君にも甘やかされて特別に扱われておったではないか!」

 それだけの理由で。どこまでも愚かな。どこまでも醜い。どこまでも自己中心的な。それでも奏花は、この卑しい男を踏み潰さぬように我慢して来た。耐えて来た。それがどうだ。この殺す価値すらない愚物に、奏花の忍耐を強いるほどの意味があっただろうか。

 泣きじゃくる璃玖の弟を掴んで璃貴の眼前へ突き出す。

「見よ」

「ひ……っ」

「この種は一度植えれば血の流れに乗って体中に散らばり、孫子にも受け継がれる」

「そんな……!」

 恐怖のためか大人しかった北の方が呟いて璃玖の弟を抱き寄せた。この女子には親の情というものがある。しかし璃貴は小便を垂れ流して震えているだけだ。

「……」

 本当は全員殺してしまおうかと思ってここまで来た。何故か璃玖の顔がちらつき、頭を振って璃貴へ背を向ける。

「私が手を叩くだけでいつでもお前の一族を阿兼のように爆ぜさせることができる。ゆめ忘れるな」

 寝殿の階を下りる途中、戯れに軽く手を叩くと璃貴は失神してしまった。

 花鵬に乗って久しぶりに雨辺山の屋敷へ戻る。そろそろ奏臥が結界を解いて追いかけて来る頃だろう。寝殿の御帳台、からくりを動かしてさらにその奥の隠し部屋へ入り準備してあった結界を起動する。花の蕾に似た形で固まっている呪符が咲いて開いた。

「これを使う日が来るとは」

 雨辺山は元々招かれぬ者は裾野の辺りまでしか入れないで迷うように結界が張られている。さらに今、雨辺山の屋敷に目くらましの結界を張った。これでもう、奏花以外にこの屋敷には例え奏臥や禄花でも入れない。

 数年前から使っていない宜山の夏の棲み処や、干浬の近くの庵などはそのまま放っておいて良いだろう。母屋へ戻り室内を見渡す。腹の底がきゅうとするようなこの気持ちは何だろう。もう、ここへ戻ることもあるまい。

「……」

 空を掴む仕草で手を振る。これで梔子屋敷に居た梅花たちも花弁に戻っただろう。梔子屋敷の結界も解いた。花鵬を呼び出し、背に乗る。璃玖と別れた後、どこへ行くかはとうに決めていた。

「花鵬、東へ」

 梔子の鵬の首を軽く撫でる。数年前から東の海にある、小さな島に棲み処を用意していた。そこへ一度入ったらもう二度と外へ出ないと覚悟している。もっと早くにそうすべきだったのだろう。

 奏花はこの世界でたった一人、異物であったから。他の生き物とは暮らせないのだと、暮らしては害になると、本当は分かっていた。

「死ぬまで独りは、死んでいるのと何が違う」

 毒にしかならずとも。誰かに、璃玖に、ここに居ていいと言って欲しかった。

 無理な願いだと理解していたけれど。

 かくして雨山花仙、以斉奏花は人の世から消えたのである。

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