第6話 想花
正月過ぎまでは、幾度か奏臥が雨辺山の屋敷の結界を破ろうと試みたようであった。破れぬと悟ってからは雨辺山の麓に奏花が建てた早駆け様の祠に何度か、禄花が訪れた。
祠のご神体である鏡と小島の庵にある鏡が繋がっている。そこから聞こえて来る声を背中で聞いて、無心に乳鉢で薬草を潰す。
「……己れには奏が居た。だがお前は違う。……気づいてやれんですまなんだ」
ぽつり、ぽつりと。大きな雨粒が降るように、吐き出された後悔へ答える言葉を奏花は持たない。
「母上も父上も、何も間違ってはおりませぬ」
そう言うのは簡単だ。間違っていないのに、奏花は正しく育てなかった。事実、そうである。仕方のないことだ。誰が悪いわけでもない。
正月が過ぎた頃、祠に璃玖が来た。長い間そこに立っていたが押し出すように「奏花」と呟いたきり、黙り込んでしまった。
「……奏花……、……」
もう奏花のことなど忘れろと言えば楽になるのかも知れない。それでも奏花は、誰の言葉にも返事はしなかった。
穏やかで停滞した日々は緩やかに過ぎて行った。そろそろ干浬にも短い夏が来るだろう。それはそんな
「――奏花!」
慌ただしく奏花を呼ぶ禄花の声に祠へ集中する。小さな祠へ両手をかけて禄花は酷く狼狽している。
「奏花、璃玖が!」
ざわ、と臓腑が縮み上がる。胸を押さえて続きを待った。
「璃玖が雪影に憑かれた!」
乳鉢を取り落とす。すり潰した薬草が床へ散らばった。雪影に憑かれたのならば、半日も経たずに命を落とすだろう。早朝に来たということは、おそらく倒れたのは昨日の午後か。
璃玖が、死ぬ。
禄花が雨辺山へ来ているということは、薬草や医学の部分で手を尽くしたが救えなかったということだ。
「……」
行ってどうなる。璃玖は奏花に会いたいなどと思うだろうか。一つだけ、無理矢理にでも璃玖を留まらせる方法はある。しかし璃玖はそれを望むだろうか。
迷って迷って、鏡へ手を伸ばす。
人として死ねるのならばその方が幸せだろう。璃玖はまだ十五だ。早すぎるのではないか。鏡の前で逡巡していると、腕を掴まれた。
「!」
油断した。引きずり出される。咄嗟に祠の鏡と小島の鏡との繋がりを断つ。それでも禄花は手を離さない。引きずり出されて、見慣れた雨辺山の裾野へと転がる。
「奏花! この阿呆め!」
ぎゅっと抱きしめられて言葉を失う。母はこんなに小さな人だっただろうか。
「……母上」
ようよう答えると禄花はすっくと立ち上がって奏花の手を引く。
「話は後だ、すぐに干浬へ」
「母上」
「まだ魂は離れていないが魄がおかしいんだ。今は奏が離魂を食い止めているが呼び戻せないでいる」
「母上」
「お前なら呼び戻せる。声をかけてやってくれ」
「――母上」
禄花の花鵬へと引きずられながら、静かに呼びかける。
「母上。一年前ならいざ知らず。今のわたくしが呼びかけても璃玖さまの魂魄が呼び戻せるかどうか。分かっておられるでしょう」
「分かってないのはお前だ、奏花。とにかくあの子に会ってやりなさい」
「……」
手を引かれるまま、花鵬の背に乗る。一刻程で見慣れた屋敷の庭へ下り立つ。結界の解けた十二花神の庭はもう全ての花が季節を無視して狂い咲くことはない。造られた池の畔に水仙が咲いていた。
「花仙様!」
寝殿から煉義が転び出て来る。少し痩せただろうか。微笑みながら、煉義は奏花の手を取って寝殿へと誘う。
「よう参られました。ささ、こちらへ」
御帳台には反魂の呪符が張り巡らされている。額に汗が浮き出た奏臥の肩へ手を置く。
「父上。代わります」
「……頼んだ」
御帳台の中へ入ると枕元にはおみちが控えていた。出て行こうとするおみちを制して璃玖の頭上へ座る。
「……璃玖さま」
顔を近づけて呼ばう。微かに瞼が震えた。額を押しつけてもう一度、小さく呼ばう。
「――璃玖さま」
押しつけた額から、璃玖の魂に干渉する。木が根を張るように、広く、広く深く、深く。隅々まで巡らせ、包み込む。
「父上」
「うん」
「三魂のうち天魂、地魂が離れようとしております」
「うむ」
「七魄のうち喜が欠落しております……。わたくしは魄を整えますゆえ、父上は天魂、地魂が離れぬよう押さえてくださいませ」
「分かった」
額を合わせたまま呟く。
「
璃玖が僅かに首を動かした。届いている。ならばあるいは。
「
キン、と耳鳴りがして視界が白くなる。
「
呟きながら白い空間を進むと、その先に小さな銀色の尻尾が見えた。
「璃玖さま、見つけた」
ころころと鈴を転がすような童独特の笑い声が谺する。いつしか風景は見慣れた雨辺山の
「璃玖さま」
呼ばうと薄が揺れて、懐に小さな銀色の毛玉が飛び込んで来た。その懐かしい温もりを大事に抱える。きゃはは、と聞き慣れた笑い声が耳殻をくすぐった。
「璃玖さま、帰りましょう」
途端に銀色の仔狼は耳をぺたんと塞いでしまった。いやいや、といわけない仕草で頭を振る。
「璃玖さま?」
「――……だって、そうか、りくのこともうきらいでしょ」
「……どうして?」
「ひどいこと、いったもの」
「……それはわたくしのせいでございましょう?」
「ううん」
首を振り、奏花の懐へ鼻先を埋める。小さな頭を撫でる。薄い頭蓋の感触が懐かしい。
「そうかはりくのために、ずっとがまんして、りくのためだから、がまんできなくなったんでしょ?」
「……」
奏花を仰いだ双子の月を眺める。そうか。そうだった。大事にしてきた、大事だからこそ璃貴の所業にも目を瞑って来た。それでも璃貴の答えは。ならば耐えて来た璃玖の年月は何だったのか。いつか愛されるのではないかと堪えさせて来たのは何のためだったのか。小さな毛玉を抱きしめ、あやすために体を揺らす。
「そうですね。わたくしは悔しかった。奏花の大事な狼さんを、大事にしてくれないあなたのお父上が、どうしようもなく憎うございました」
それでも、越えてはならぬものを越えてしまったことも事実なのです。
「だから璃玖さまは、何も気にすることはないのです。わたくしは後悔していないのですから」
戻りましょう。皆様待っておられますよ。
「そうかも?」
「……はい」
人の姿になった幼い頃の璃玖が奏花の狩衣を掴んだ。
「おうた、うたって?」
「……はい」
――銀色おおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。
――奏花のおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。
――
――奏花のおおかみさんどこまで駆ける。自由にどこまでも駆ける。奏花を置いてどこまでも。さよならおおかみさん。幸せにおなり。よかった。よかった。さよなら。寂しい。
「りくはそうかをおいて、どこへもいかないよ。だからそうかも、りくをおいていかないで」
何かが弾けて溢れて流れ出した。息が詰まって口を開くと、声にならない嗚咽が漏れた。薄野原がほろほろと崩れて行く。
「――っ」
置いて、行かないで。どこへ行っても、どれだけ離れてもいい。二度と会えなくてもいい。それでもどこかで生きて、幸せでいて欲しい。
目を開くと良く見知った御帳台の中だった。
逆さまに覗き込んだ顔を抱きしめる。瞼が熱い。鼻の奥がつんと痛む。
「璃玖さま、起きて。起きてください。置いて逝かないで。独りにしないで。どれほど離れていても構いません。生きていてください。お願いです」
抱えた璃玖の頬へ雫が落ちる。ああ、璃玖さま雨です。とうとう天まで泣き出した。
「――違うぞ。そなたが泣いておるのだ」
掠れた声で呟いて、大きな手が奏花の髪を撫でた。おみちが腰を浮かせる。奏臥が印を解いて安堵の表情を覗かせた。夢うつつ、という様子で奏花の頬へ手を当てた璃玖は、再び目を閉じる。
「……なぁ、奏花。雨辺山の屋敷に……そなたと二人きりで住んでいた頃が、一番幸せだった……」
「……まこと、左様にございますね……」
禄花が璃玖の腕を取り、脈を調べる。奏臥と奏花へ視線を送り、禄花は一つ頷いた。
「魂魄が安定した。薬湯を飲ませて休ませよう」
禄花が薬湯を用意する間、膝に乗せた璃玖の頭を撫でる。奏臥が咎めるかと思ったが、「休む」と一言放って出て行った。
「花仙様、代わりましょう」
おみちが声をかけて来た。静かに頭を振って答える。
「わたくしは眠らずとも障りない身です。おみちさんこそお休みなさいませ」
「己れも付いておる。休むがいい」
駄目押しとばかりに禄花に促され、渋々と言った素振りでおみちは頷いた。
「……ではお言葉に甘えます」
頭を下げる前も、下げた後もおみちの視線は奏花の膝に頭を乗せた璃玖へ注がれていた。おみちの背中を見送り、禄花は奏花へ顎をしゃくって見せた。
「今度こそ、ふらっと居なくならずに璃玖と双方が納得するまで話し合え」
それがどんな答えを導き出しても、今度こそ逃げ出さずに向き合え。
禄花はそう言いたいのだろう。小さく頷いた奏花へ薬湯を差し出す。
「飲ませてやりなさい。己れも少し休む」
「……はい」
薬湯を吸い飲みに移して璃玖の口へ注し込むが、眠りが深いためか飲み下さずに零してしまう。自ら薬湯を口へ含んで、璃玖の口内へ注ぐ。こくり、と喉が動いたのを見てもう一度。薬湯を全て飲ませて顔を上げると、煉義が困った素振りで廂に控えているのが見えた。
「煉義殿。声をかけてくださればよいのに」
「いえ、お邪魔をしてはならぬと思いまして」
「……煉義殿にはいつも気苦労をおかけして」
「いいえ。花仙様。いいえ」
床へ伏せて黙り込んでしまった。煉義の元へ行こうとして、璃玖の頭を膝から下そうとする。察した煉義は御帳台の傍へ這い寄って再び伏せた。
「どうぞ、そのまま」
「お顔を上げてくださいませ」
「は」
顔を上げた煉義は奏花を見つめ、それから再び顔を伏せた。
「……俺はずっと、若君が羨ましゅうございました」
「……と、申しますと?」
「俺の父は俺が生まれる前に亡くなり、実の父は知らずに育ちました。母の後添いが志出家に仕える昴詰の父でございます。父とはいえ血の繋がりはございません。だから俺は、義兄弟たちに遠慮して生きて来た。俺にも花仙様のようなお方がいたら、随分心強かっただろうと思います」
「……だから煉義殿はいつも、わたくしと璃玖さまを気遣ってくださったのですね」
「……」
煉義は複雑な表情で床を見つめ、それから少し微笑んで顔を上げた。
「実を言うと、花仙様は俺の初恋でして」
「……おやまぁ」
そういえば以前、煉義が幼い頃に会ったことがあると言っていた。
「若君への羨ましさは男の嫉妬も含まれておりました」
ははは、と笑った煉義の快活さに何度救われて来ただろう。
「あの時も俺は、残酷だとか惨いとか思う前に嫉妬しておりました。あなたはいつも、世の中のことなど何も興味がないといった風情でしたので。こんなに激しくあなたに思ってもらえる若君は――花仙様にとって、特別なのだろうと」
「……」
奏花は人にはなれなかった。けれど。奏花は人と分かり合おうとしたことがあっただろうか。
「……わたくしは煉義殿の友になりたかった。あなたなら、きっとわたくしの残酷な一面も真摯に話を聞いて諭してくださったでしょうね」
「なりましょう。今からでも」
煉義の言葉に、胎の奥の一番柔らかな場所を突かれたような心持ちになった。
実直な男だ。話をする前から諦めずに向き合っていれば、煉義のように付き合えた人もきっと居たのだろう。
「……なれるでしょうか」
「ええ。きっと」
「ふふ……。煉義殿」
「はい」
「ありがとう」
静かに頭を振る大きな体は優しい。見ていなかったのは奏花の方だ。いつだってきっと、優しい人は奏花の傍に居たのだろう。
「では失礼いたします。また様子を見に来ますので」
「ええ、よろしくお願いいたします」
煉義が出て行き妻戸が閉まる音がすると、不意に手を握られて璃玖を見やる。
「璃玖さま?」
「……だから私は煉義が嫌いなのだ」
「良い方ですよ」
「そなたに特に、な」
「……あ! 嫉妬ですね、璃玖さま」
声を上げると璃玖は眉を顰めた。ごろん、と横になって璃玖は奏花の膝を抱える。
「わたくしの膝では首が痛うございましょう。今退きますゆえ」
「いい。膝枕が嫌なら添い寝してくれ」
「まぁ、璃玖さま。まるで幼子のようですね」
「そなたから見ればまだ子供なのだろう?」
目を閉じている璃玖の唇には笑みが乗っている。璃玖の髪を撫でながら、少し見ぬ間にまた成長した横顔を眺める。
「いいえ。もう十分、ご立派な若君です」
「ではそなたを娶ろう」
戯言を、と一蹴されるとでも思ったのだろう。奏花は璃玖の頬を撫でて頷いた。
「ええ。璃玖さまがそれでよろしいのであれば」
「はは、そうであろう。そなたのことだ断られると思って……よいだと?」
「ええ」
璃玖は起き上がって奏花の手を掴んだ。
「璃玖さま、お体に障ります」
「良いのか? そなたが嫁だぞ?」
「ええ」
「おじい様を呼んで一筆書いてもらおう。後から断っても無駄だぞ?」
「父上ですか……面倒ですから、母上にしておきませんか」
「分かった。おばあ様で良い。誰か! 誰かおらぬか!」
「璃玖さま、さっきまで伏しておられたのです。ご無理はなさらぬよう」
「今を逃したらそなたはまた隠れてしまうだろう? ええい、誰か早う!」
「隠れませんので、どうかまだ横になっていてくださいませ」
「誰かおらぬか!」
おみちが顔を覗かせ、喜色を浮かべて駆けて行く。
「花仙様、真君様、璃玖様が!」
「璃玖! 目が覚めたか!」
「ああ父上……」
面倒な方が先に来てしまった。額に手を当てる奏花に構わず、璃玖が体を起こして奏臥へ言い募る。
「おじい様、奏花が承諾してくれたので私と奏花は結婚致します。奏花が隠れてしまわぬよう、おじい様の前で証文を書いてもらいたく」
「けっ……こ……」
「父上、どうか落ち着いてくださいませ」
「けっ……、禄花、禄花ぁ!」
「何だよ、璃玖は病人だぞ? 騒ぐな」
「しかし! 聞いたか! 奏花と璃玖が結婚と!」
「いいじゃねぇか。な、璃玖坊。念願叶ってよかったな」
「はい、おばあ様!」
「璃玖さま! 横にならないのならわたくしはもう、帰ります!」
立ち上がって御帳台を出て行きかける。振り返ると璃玖は手を伸ばしたまま、眉を寄せて奏花を見ていた。
「……」
褥を指さして短く放つ。
「横になられませ」
「どこにも行くな」
「行きませぬ」
「……」
まだ疑っているのか。一つため息を吐いて、手のひらから梔子を一輪出す。自分の髪を抜いて梔子へ括りつける。吐息を吹きかけると梔子は二輪になった。一輪を璃玖の胸へ押し込めるような仕草で押しつけると消える。もう一輪を奏花自らの胸に当て押し込める。首を傾げていた璃玖が、途端に奏花の方を見た。
「これでわたくしの居場所は分かりますね。さ、横になられませ」
「……だが、嫌でなければここに居てくれ」
「おりますよ。ね? 璃玖さま」
「……うん」
奏花の方を向いて褥へ横になった璃玖の髪を撫で、自分が着ていた袿をかける。昔していたように胸を軽く叩きあやしながら手を握った。
「……璃玖さま」
「うん」
「これは?」
「うん」
繋いだ手を帯でぐるぐる巻きにしている璃玖へ満面の笑みを向ける。禄花と奏臥がそれぞれに奏花の肩へ手を置いた。
「それくらい信用されていないのだ、諦めなさい」
「……わたくし、そこまで信用されぬことをしましたでしょうか」
「いや、正しくはお前が完全に姿を消したらこの己れにも奏にも探し出せぬからもう、逃がす訳には行かぬだけだ」
「というわけで、私たちがしっかり奏花を見ておくから、お前は安心して寝なさい、璃玖」
「お願いします、おじい様」
「……」
ようやく目を瞑った璃玖を見やり、額へ手を当て深く長いため息を吐く。禄花は腕組みをしたまま奏花の横へどっかりと腰を下ろした。
「ため息を吐きたいのはこちらの方だ。己れも奏も元々、結界術は得意じゃない。お前が奏誼殿に結界術を教わっていたのは知っていたが、まさかそれから独自に鍛錬を続けているとは思わなかった。この己れも完全に探せぬのだ。目を離すわけにはいかないだろう」
「禄花が呆然と『探せぬ』と呟くのがどれほどのことか、お前に分かるか、奏花。それが私に、璃玖にとってどれほどのことか」
「……」
意図して才を隠したわけではない。凡庸であろうとしたのだ。生まれ落ちた時より異物であった。だからこそ非凡であればより一層、この世界から疎まれると理解していたから。
「私たちの息子は優秀過ぎて親を越えてしまった。だから私たちは理解してやれなかった。お前が何に苦しんでいるのか」
禄花が奏花の頭を引き寄せて額を突き合わせる。
「知っていたはずなのにな。誰よりも己れが、世の理から外れるという孤独を。奏に出会って独りではなくなって忘れていたんだ。……すまん」
「それでもお前もいつかは、私にとっての禄花のような相手に巡り合うのだろうと、そうすれば孤独ではなくなるのだろうと、高を括っていたのだ。私も愚かだな」
「……母上が父上と出会ったように。いつか、分かり合える、分かち合える相手と巡り合うのだろうと幼い頃はわたくしもそう思っておりました。でもわたくしは未だによく分かりません」
璃玖の瞼が細かく震えているのを眺める。それでも奏花は言わねばならなかった。正直に。話し合わなければ分かり合えないのだから。
「特別だというのならば、確かにわたくしにとって璃玖さまは特別なのでしょう。百年、誰のことも気にかけて来なかったわたくしにとって確かに璃玖さまは特別です。璃玖さまを傷つける、害する企みを持つものならば例え璃玖さまの親兄弟であろうと根絶やしにしなければと思うほどには。けれどそれは璃玖さまの望みではない。そんなわたくしが璃玖さまのお傍に居ることは良いことではありません」
禄花と奏臥は黙って奏花を見つめている。だから話さなくてはならない。奏花が笑みの下に押し込めて来た、醜く非道な本心を。
「……初めてお会いした璃玖さまは、痩せてみすぼらしく一握りで頭蓋を潰せそうな小さな小さな狼でした。わたくしの手を噛んだ汚らしい毛玉は、それでもわたくしより数段素晴らしい生き物に思えました。……わたくしは、誰かに噛みついたことも本心を叫んだこともなかった。それなのに一人前に孤独だ疎外されていると世間を恨む、愚か者だと気づかされたのです。だからわたくしは、璃玖さまを連れて帰った」
帯で硬く巻いた璃玖の手が熱を持つのが分かる。肩に置かれた奏臥の手へ軽く触れ、静かに息を吸い込む。
「父上や母上がしてくださったように。正しくあれと育てて、あの子がわたくしと同じ孤独なままの異物として育つのならわたくしに仲間ができる、と。けれどあの子は正しく育った。優しく育った。孤独は酷くなっただけでした。わたくしとあの子は違う。わたくしとあの子は違ったのだ、と。それなのにあんまりではありませんか。それでもわたくしのような化け物に育たずに済んで良かったと、手放す覚悟をした愛しい子が愚か者に殺されるのをどうしてただ見ていなければならないのです……!」
火を噴くより熱の籠った言葉を吐き出し、奏花は洟を啜った。
「璃玖さまは正しく育った。聡く優しい子です。お立場を考えるとこの先、非情にならねば自身が命を落としかねない場面はいくらでも訪れるでしょう。その時わたくしは、堪える自信がありませんでした。わたくしが本心のまま璃玖さまの敵を排除すれば、あの子を苦しめる。ならば、離れて見ぬようにするしかありません」
ぽろん、と雫が零れ落ちる。奏花はそれを止める術を知らない。
「わたくしの知らぬ間に命を落としたとしても。ほんの五十年ばかり耳を、目を、心を塞げば済む。お心のままに生きたのだと言い聞かせて、これが正しかったのだと思うしかありません。誰にも傷つけられないように閉じ込めるのは、あの暗い土蔵に押し込めることとなんら変わりないのですから」
でも璃玖さまが死んでしまうかも知れないと言われて来てしまいました。冷酷な化け物にすらなり切れないのです。わたくしには、もうわたくしのことすら分かりません。
顔を上げると常ならば無表情なはずの奏臥がほろほろと涙を零していた。禄花は涙を堪えるように唇を引き結んでいる。帯で結んだ手が強く握り締められて璃玖を見る。璃玖は横向きになって奏花へ背を向けたまま、声を詰まらせながら吐き出す。
「烏滸なことだ奏花。こんな優しい化け物があるはずもない……」
お前は他の者などどうでもいいと思うくらいに、私を大事にしてくれただけだろう。
視界がぼやけた。鼻が詰まる。顔に熱が集まって擦った目が酷く痛む。
「生きていて。死なないで。わたくしより長く生きて。そんなの無理でしょう? そんなの困らせるだけでしょう?」
禄花にぎゅっと抱きしめられる。
「阿呆め。百年かかってようやく駄々を捏ねたか」
「……二人のことは二人で決めなさい。私たちはね、奏花」
禄花ごと奏花を抱きしめ、奏臥が言う。
「ただお前が幸せであれと願っているんだ。私は禄花に出会って、これからどんな苦難が待ち受けていようとも彼が傍に居てくれるのならば幸せだと思った。けれどお前が生まれて私の指を小さな手で握ってくれた時に、私はそれ以上の幸せがあるのだと初めて知ったのだよ」
背を向けたままの璃玖へ、禄花が声をかける。
「そういうわけだ、璃玖。納得が行くまで話し合いなさい。けれど今は休め。奏花はもう、どこへも行かないから」
「……はい」
ぐす、と洟を啜る音がした。いつ頃からか、璃玖は奏花の前で泣かなくなってしまったから、少しだけ顔を覗いて見たい気がした。
「しかし一体、この頑固者は誰に似たのだか……」
懐から出した手拭いで奏花の頬を拭って奏臥が笑う。
「奏花はお前に似たんだ、奏。似なくていい所ばかり似おってからに」
「君に似ていると思うが。禄花」
「お前己れが死んだと思って自分で自分の首斬り落として護摩壇にくべただろうが。極端なとこがそっくりだ阿呆め」
「……」
「……」
背中を向けていた璃玖が振り返って身を起こした。奏花も泣き顔のまま顔を上げて奏臥を仰ぐ。
「二百年ほど前の話だ、忘れなさい」
「あの頃に比べたら奏は丸くなったというか、無茶はしなくなったな」
「……頭が痛くなって来ました、おじい様」
「わたくし父上にだけは節度とか限度の話をされとうないと思います」
「ごほごほごほっ……っ、いいから、璃玖は休みなさい」
しばらくは誰のものともつかぬ洟を啜る音が聞こえていたが、それも止んだ頃に璃玖の寝息が聞こえて来た。禄花と奏臥は互いに目を合わせると頷き、立ち上がる。
「雪牙の者たちにも伝えて来る。彼らも心配していたから」
「はい」
「雪牙隊で阿兼家と親しくしていた者にとって、お前は受け入れがたい存在になったことは確かだ。覚悟はしておきなさい、奏花」
「はい、父上」
璃玖との話し合いの結果、奏花が干浬へ留まることもあるのだろうか。奏臥はそうなった場合を見越して付け加えたのだろう。静かになった御帳台の中、蔀戸の方へ目をやる。四方を覆っていた紗布は取り払われて庭が見える。
神に見立てた花は、もう季節を無視して狂い咲かない。桃や木蓮、滝の流れに見立てた雪柳。紀之元が手入れをしていたのかも知れない。荒れた様子は窺えない。吹き込んで来た風に目を閉じる。
禄花は察している様子だったが、いつから璃玖と奏花が「そう」であったか奏臥が知ればまた一悶着ありそうだ。今までの奏花ならば「面倒だ」とこうなる前に璃玖と距離を置いただろう。それでも距離など置けなかった。離れ難かった。奏花の答えなど、とうに出ていたのだ。
どのくらい経っただろう。庭へ目を向けると陽は中天から傾き始めているようだ。未の刻か申の刻だろうか。床に零れた陽射しを眺めながら璃玖の寝息を聞く。
「明るい時間にあなたの寝息を聞いてじっとしているなんて久しぶりですね」
零した呟きにためらうように、妻戸が開いておみちが顔を覗かせた。
「あの、璃玖さまのお体を拭く用意を致しました」
「ありがとうございます、でもおみちさん。家人でもないのに若い娘さんに世話をさせては申し訳ありませんから、一度お家へお帰りくださいませ。ご両親も心配なさっておられるでしょう」
「……だ、だいじょうぶ、です……」
「?」
おみちは璃玖の枕元に居た時から何か言いたげだった。少し考えて手招きする。
「では璃玖さまのお体を拭くのを手伝っていただけますか。わたくしは……片手が使えませんので」
しっかりと帯の巻かれた左腕を僅かに持ち上げて見せる。おみちは酷く傷つけられたという顔をした。
ああ。
ああ、この子は。昔からそうだった。何となく察して頭を下げる。おみちは御帳台の中へ入ると奏花の向かいへ座った。無言で湯桶へ手拭いを浸して帯で繋がれた璃玖の手を拭う。
「……わたし、たかいこちゃんがあんなことになっているのに、あの日とても嬉しかったんです」
おみちは璃玖の額を拭いながら子守歌でも口ずさむように吐き出した。
「花仙さまが、居なくなったから。花仙さまが居なくなれば璃玖ちゃんはわたしを見てくれるかも知れないと思ったから」
璃玖の首筋を拭きながら、聞こえても聞こえなくても構わないほどに小さな声で答える。
「わたくしが居なくなればあなたが璃玖さまのお世話をするだろうと、思っておりました」
「ふふ……花仙さまに分からぬことなど何もありませんね」
おみちの声音は皮肉に揺れている。璃玖の小袖の合わせ目を緩めるおみちの手を目路に入れて、罵られるのを待った。
「されど花仙さまはご存知ない。璃玖ちゃんがどれほどあなたを想っているか。璃玖ちゃんの目に映るあなたがどれほどに美しいか。わたしがどれだけ傍に居ようと、あなたに勝てるはずもないことを」
瞼の下で璃玖の眼球が動くのを静かに眺める。
「ええ。賤しくもわたしはあなたが居なくなって璃玖ちゃんがあなたのために空けた心の場所に居座ることができると、あなたに成り代われると、喜び勇んで駆けつけました。璃玖ちゃんがわたしのことなど見ていなくとも初めは幸せでした。それでもきっと、いつかお方様になれると自惚れて西の対を片付けるまでは」
あはは、とおみちは高く細く笑い声を上げた。千切れそうなほどに手拭いを捩じり、握り締めた指は白くなっている。
「大切に、大切に隠したあなたの絵姿を何百枚と見るまでは。あんなにも美しいひとをわたしは見たことがない。あんなにも美しいひとにわたしが勝てるはずがない。璃玖ちゃんにとってあなたはずっとずっと、世界で一番美しいひとだった。会えなくなってさらに夢のように美しくなってしまった『璃玖ちゃんの中の』あなたに成り代われるはずなど、なかった……!」
見つめれば瞬きをし、呼吸が聞こえ、梔子の香りが漂うだろう。触れればきっと、滑らかで柔らかな肌は仄かに温もりさえ伝えて来るだろう。それほどまでに緻密に描かれた絵姿は、百の言葉よりも描いた者の気持ちを雄弁に語る。
「なぜ、戻って来たのです……」
顔を伏せたおみちに、奏花が何を言えただろう。片手で璃玖の小袖の合わせ目を直す。
「いつか璃玖さまが女子を抱くのなら、あなたかも知れぬと思っていました」
繋いだ手を強く握られたが知らぬ素振りで真っ直ぐにおみちを見つめる。
「わたくしが居なくなった後この屋敷に上がる女子も、あなたであろうと」
何やらさっぱりとした心持ちだ。顔を上げて晴れやかな気分で告げる。
「わたくしは幼い頃から隠しもせず璃玖さまを慕っていたあなたのことが、ずうっと以前から嫌いでございましたよ。ようやく口にできてすっきりいたしました」
ふふふ、と笑った奏花をおみちはぽかんと口を開けて見ている。もう一度微笑み、震える璃玖の瞼を目路へ入れる。
「本当の気持ちを親にすら話したことのないわたくしですから、この先も璃玖さまがわたくしを想うという確証はございません。わたくしが干浬へ戻るとも限りません。璃玖さまはここにお勤めがありますが、そもそもこの吾毘もわたくしには関わり合いのない土地です。……ですからあなたは、あなたの想いを璃玖さまにお伝えになってみてはいかがでしょう」
さらに強く手を握り締められ、軽く握り返す。つくづく偽るということが苦手な子に育ってしまったと誇らしいような、呆れたような心持ちで高い鼻梁へ目を落とす。
「……絵姿は絵姿です。璃玖さまが都合よくわたくしだと思い込んでいたものにすぎません。どうか、後悔のないようになさいませ」
「わたし……やっぱりあなたが嫌いです、花仙さま」
「わたくしもです。奇遇ですね」
答えて笑うとおみちは口元へ手を当て、逃げるように立ち上がる。
「性格悪い!」
泣き笑いで言い放ち、御帳台を出て行くおみちの足音を聞きながら目を閉じた。
「でも……それでもきっと勝てないんだろうな……」
遠くから花の香りが風に乗って運ばれるように届いた囁きに目を閉じる。寝たふりが苦手な愛し子がため息と共に吐き出す。
「無責任に煽るな、奏花」
璃玖は閉じていた目を開き、じろりと奏花を睨む。双子の月はゆろゆろ揺れた。
「おや。疚しいことがないのならば寝たふりなどなさらなければ良いのです」
「……っ、そなた、まこと辛辣に物申す花であるな……」
「不言花がお好きでございましょう、璃玖さま。物申す憎らしい花など捨て置けばよいのです」
「……それでも私は、この花しか要らぬ」
「この性悪の毒花を望む物好きは璃玖さまくらいです」
硬く結んだ手へ口づけられ、作った笑みは失敗した。帯の巻かれた手を空いた手で押さえる。
「……母上は、人が好きです。父上も分かりにくいですが、温和な方です。ですからわたくしはずっと、どうして自分がどうしても人を愛しいと、守りたいと、好きだと思えないのか考えていました。考えて考えて分かったことは『わたくしは人ではないから』でした」
「うん」
春の風が花の香りを運んで来る。風に嬲られた髪が眼前をちらつく。奏花はずっと、そんな口に出すほどでもない小さな不快の中で生きて来た。
「どうしても、自分を人だと思えませんでした。どうしても、人を仲間だと思えませんでした。自分を、人を、知れば知るほど、己が異質であるということを実感させられるだけでした。人は悪気なく花を手折ります。なれば、悪気なく人を手折る存在が在ったとして、どうしてそれを人に責められましょう。それはただ、そういう生き物として生まれたというだけです。わたくしはそういう生き物であるというだけです」
「……うん」
「わたくしたちは人に無害であると証明し続けなければ、人と一緒には暮らせないのです」
「うん。そなたはだから、自分が悪者になってまで私を置いて行ったんだろう。それでも私は、彼らと心の底から分かり合うことはできない。孤独を分かち合うこともできない。そなたとしか、分かり合えない」
体を起こし、璃玖は蔀戸の向こうにある庭を指さした。夏の陽射しに床が白く反射している。
「そなたという私を守る膜がなくなって気づいた。そなたの抱えていた孤独に気づいた。どこに居ても何をしていても思い知らされる。どんなに優しかろうとどんなに気遣われようと彼らと私は違う。いつ断罪されいつ化け物と罵られるか分からぬ。彼らにとって私は雪影と変わらぬ存在なのだ、と」
不意に何を守っているのか、何から守っているのか分からなくなった。そうして気づいた。守りたかったのは一つだけだ。奏花。そなたが居れば他に何も要らなかった。
天地がひっくり返った気がした。私が人に馴染もうと、親切にして来たのは全て、そなたに褒めてもらうためだった。そのためにそなたと離れねばならぬなら、人になど馴染まなくて良い。人になどなれなくて良い。そなた以外の人間など、取るに足らぬ。どれほど死のうと知ったことではない。
「そなたもそう考えたのだろう。それなのに私は、あの時そなたを選ばなかったのだ」
庭を渡って母屋へ入って来た風は、仄かに暖かく甘い花蜜の匂いがした。反射した光に眼球の奥が痛む気がして、目を瞬かせる。
「いつかそなたは言ったな。狼の姿になって駆け比べをした私に、六太が狡いと言った時だ。六太は狼にはなれぬのだから、私は人の姿のまま駆け比べをせよ、と。その代わりに六太を助ける時には狼の姿になって救えと。あれは私に人で在れとした教えだった。人の中で暮らすために、人にとって無害であると、人の味方であると証明せよという教えであったのだろう? でも私は、この命をそなたを守るために使いたい。他の人間のためではない。この国のためでもない。そなたのために使いたい。二人で暮らそう、奏花。雨辺山の屋敷で過ごしたように。そなたが私をあの土蔵より連れ出した時から、私の世界には私とそなたしか居なかったのだから」
「愚かなことです、璃玖さま」
「愚かでいい。己が化け物であると知りながら人のふりをして暮らす苦痛を知っているそなたが、私にはそうして暮らせと言うのか」
ああ、確かに願った。この哀れな子供が奏花を選びますように、と。奏花と同じに化け物になりますように、と。それと同じくらい、この子だけは人として生きられますようにと願ったのに。
帯で結ばれた手を己の頬へ当て、目を閉じる。
「以流で暮らしましょうか、璃玖さま」
「……そなたに迷惑をかけることになろう」
「本当は分かっておられるのでは。もう、あなたが雪影に害されることはありません」
「……」
返事の代わりに、璃玖は奏花の髪を一房掴んで口づける。奏花を見つめる双子の月に、迷いは浮かんでいない。
「……正確には、雪影に影響されない存在へ変じさせることができる、のです」
「雨山の隠し宮と
こくり、と頷く。やはり聡い。
「今回も、本来ならば雪影に憑かれて魂魄は剥がれ落ちていたでしょう。雨辺山の奥殿に祀っているのはあなた。私が建てた祠にお祀りしているのは璃玖さまです。そうとは知らずに干浬と璃内を行き来する者たちはあなたを神として拝んで来た。あなたはもう、半分神なのです」
「……雨辺山にだけ結界を張っているからあそこには大事な何かがあるとは思っていたが、そんなことをやらかしていたのか……」
盛大にため息を吐きながら、禄花と奏臥が階から母屋へと上がって来た。奏臥は眉間に深く皺を刻んだまま、黙って奏花の後ろへ座った。
「だから本来ならば即刻剥がれるはずの魂魄が剥がれずにいた、というのだな」
「ええ、父上」
ごめんなさい、と唇だけで謝罪した。深く深く呼気を吐き出し、奏臥は小さく「もうよい」と呟いた。
「父上も母上も雪影の正体はご存知でしょう。あれはわたくしたちのように不死の存在が囚われ動けず狂って生き物の本能だけが思念として外へ助けを求めたために生まれた化生です。そのために魄の負の感情を増幅させる。結果魄が壊れて人が狂い、魂は肉体から離れ、肉体を支える魄も尽きて死に至る。人には耐えきれぬからです」
雪影がどうやって作られるのか知らない璃玖だけは、奏花の説明を飲み込めない様子で瞳に疑問を浮かべている。
「我らはすでに魄――、肉体がこの世の理から外れています。だから雪影の影響を受けない。ですから」
「璃玖はすでに半分神として功徳があるから耐えられた、と」
「そう、だと思います」
「そんなことをして、どうするつもりだったんだ」
大きなため息を再びまき散らしながら、禄花が奏花の横へどっかりと腰を下ろす。
「このまま璃玖さまが人として暮らすならば、時期を見て宮と祠を撤去しようと思っておりました」
「人として暮らすことを拒絶したのならば、不死のお前が神として永遠に祀るつもりだったのか」
胡坐をかいた己の膝へ肘を突いた禄花の虹彩が確信を持って問う。璃玖が奏花と共に生きる、と言い出した時のための準備だったのだろう、と。答えず奏花はさらに唇の端を吊り上げた。
「毒に耐えられたのもそのお陰か」
「……はい、おそらく」
「お前の作った毒を飲んで助かるなんておかしいと思ったんだ。特にそう作れと言われのでなければ遅効性の毒なんてまどろっこしいもの作るはずがないし、飲んだら助かる見込みなど一つもないような毒しか作らないだろ。なのにあの阿呆に言われるまま毒を作るなんておかしいし」
「……苦しんで死ぬなんて残酷ではありませんか」
例えば殺してくれと毒を盛られた相手が懇願するような苦しみが何年も続く毒も作るのは可能だ。だがあの愚物にそんなものを渡したらどうなるか。だから毒の入った瓶の蓋を開け、その瓶の中の空気を僅かに吸い込んだだけでも即死する、扱いが難しく使うには慎重にせざるを得ない毒を作った。能面のような笑みを貼り付けると奏臥は一つ身震いし、禄花は鼻を鳴らして笑った。
「……そういうことにしておくか……ともかく、おかげで璃玖は助かったとして、そもそも何で璃玖は雪影に向かって行ったんだ。六太に聞いたぞ。突然狩衣を脱いで雪影へ被せた、と」
「狩衣を?」
奏臥も不思議そうに璃玖へ顔を向けている。璃玖は噎せて咳をしながら顔を背けた。
「ごほっ……それは……あまりに奏花のことばかり考えていたせいか、雪影が奏花の姿で現れたので……」
「雪影が?」
「それで何故、狩衣など脱いだのです?」
奏花が首を傾げると、奏臥も頷く。禄花だけは何かに思い至ったようで顎に手を当てにやにや笑った。
「まぁ、いいじゃないか。そう追及してやるな」
「気になるではないか。禄花、何故笑っている」
「璃玖さま、何故狩衣を脱いで雪影に被せたのです?」
「もういいではないか! おじい様も奏花も!」
「璃玖坊はな、皆にも雪影が奏花の姿に見えているとしたら困ると思って狩衣を脱いだのであろ?」
「何故、困る?」
奏臥はさらに首を傾げて問いかけたが、奏花は察して一つ咳をした。
「父上、わたくし水が飲みとうございます。持って来てくださいませ」
「うん? 何故だ奏花。何故、私を追いやろうとする?」
「追いやろうなどとはしておりません。水が飲みたいだけです」
「……では、持って来よう」
解せぬ、と全身で表現しながら立ち上がって妻戸をくぐる奏臥の背中を見送る。禄花はげらげらと腹を抱えて笑いながら、奏臥の後を追いかけて出て行った。
「璃玖さま、今のお話は他の方になさらぬよう」
「……話せるわけがなかろう」
「でしょうね。私の姿に変じた雪影が裸だったから狩衣を脱いで被せようとしただなんて。慎重な璃玖さまが雪影に触れるなんておかしいと思いました。そんなことをする前に斬っておしまいになればよろしかったのです」
「偽物と分かっていてもそなたの姿をしたものを斬れぬ」
愚かな。本当に愚かな子供だ。それでも愛しい、奏花の狼。銀の髪を撫でて言い聞かせる。
「……次は斬ってくださいませ。奏花はここに居りますゆえ」
「……ん」
夕方になって、六太がやって来た。体を起こして奏花の差し出す匙から粥を食べる璃玖を見て一言、「よかったな」と零して帰った。夜の帳の中、うっすらと花霞で明るい庭を眺め、春の空気を吸い込んで眠る璃玖の隣へ横になる。静かな寝息と、もう簡単には潰せぬ頭蓋を静かに見つめた。懐かしい静寂。健やかな寝息と風に木の葉や草の揺れる微かな音。
生きている。
奏花も、璃玖も。異質でも、人という群れに身を置くことはできなくても。
それでも、生きて行く。
静かに帳の向こう側にある朝を見つめる。璃玖と二人、夜明けを眺める暮らしを思い描きながら。
ああ、父上母上。わたくしはようやく、孤独ではないというのはどういうことかを知る日が来るのかも知れません。
穏やかに上下する胸へそっと触れる。目を閉じて鼓動を聞く。璃玖の胸へ置いた手を握り締められ、顔を上げる。微笑む双子の月が優しく撓う。抱き寄せられた温もりに身を預けた。
梅花に朝食を用意させ、璃玖に食べさせる。まだ本調子ではないのだろう。うとうとと眠る璃玖の額の汗を拭いつつ扇で扇ぐ。しばらくすると煉義がやって来た。
「雪牙を辞めようと思う」
煉義が挨拶するなり、璃玖はそう告げた。憑き物が落ちたように晴れやかな表情をしている。
「……どう、……どうして、でしょうか」
煉義は珍しく口ごもって不安気に瞳を揺らしていた。璃玖は厳かに口を開く。
「今まで以斉家に甘えてうやむやにして来たが、志出の家督を正式に放棄しようと思う。そうなると私はこことは関わりのない人間だ。そんな人間がいつまでも頭目のような顔をしているわけには行くまい。雪牙の頭は正式に領主から煉義を任命するよう、お願いしておこう。それまで煉義には苦労をかけることになるだろう」
「花仙様も、ご一緒ですか……」
「そうですね。寧ろわたくしのせいですので」
「……」
黙り込んでしまった煉義の表情が、あまりに寂しそうで言葉に詰まる。何度か口を開き、噤むを繰り返してから煉義は乾いた声を零す。
「少し離れたところから通われるのではいけないのでしょうか」
「雪影への対策ならば父上と母上も居りますし、わたくしはなるべく里に下りず人目につかぬ暮らしをした方がよいでしょう」
「私は奏花と離れるつもりはない。奏花が今の棲み処に戻るのなら、私もそこで暮らす」
「寂しゅう、なりますね……」
もそもそと口の中で転がした煉義は体を縮めて俯いた。膝の上で握り締められた拳へそっと触れる。
「煉義殿とは離れ難うございます。ですがわたくしはやはり、父上や母上のように人を自分の仲間だと思えませぬ。ゆえにいつまた皆様を怖がらせるか分かりませぬ。皆様、本当はわたくしが異質だと知っておられるのです。だからわたくしがどんなに体は男であると言っても女子のように扱うのです。自分たちと違う生き物だと本能で分かっておられるのでしょう」
煉義ははっとした表情で奏花を見つめた。それから自分の膝の上で握り締めた拳を睨み付ける。
「あなたはただ、そういう風に咲く花であるというだけでしょう……」
「環境に合わねばそこには根付かぬのが花でございます。父母は自分たちが人に仇為すものではないと安心してもらうために長い間人のために尽力してきた。それをわたくし一人が覆してしまったのです。人は異質なものを畏れる。畏れは恐怖になる。恐怖は排除に、排除は凶行に繋がる。わたくしはわたくしが守りたい人のためにも、人の傍には居られないのです」
他方で政治的な視野で見れば、奏花を排除するということは禄花や奏臥も吾毘から遠ざけることになる。吾毘にとって、仙人である禄花と奏臥は守護の神に近い。多少の不満はあろうとも、表立って奏花の排除を唱えるものはいないだろう。そういう意味でも、そんな立場の微妙な土地に留まるのは得策とは言えない。
「……あなたは……、あなたは……それでよろしいのですか」
無言で頷く奏花に、煉義は拳を緩めた。多くの責任を負うことになるだろう煉義が不憫になったのか、璃玖が取りなすように言を繋げる。
「すぐに居なくなるとは言わぬ。半年ほどはかかるであろ。なぁ、奏花」
「……璃玖さま。申し訳ありませんが、わたくしは一カ月ほどしか留まれません」
「何故?」
「赤子が生まれてしまいますので」
「……赤子?」
「ええ。母上もわたくしをお産みになった際、十月と少し胎に居たと申しておりましたので、おそらく二カ月後には臨月です。そうなるとしばらく動けませぬゆえ」
「……」
呆けている璃玖の顔を覗き込む。
「誰の子だ、などと仰らないでくださいませ。わたくし、璃玖さましか知りませぬゆえ」
「……言わぬ。煉義」
「はい」
「私の子だ」
「は……おめでとうございます」
深々と頭を下げた煉義の表情は窺えなかった。こんな形で言うつもりはなかったのに。いささか困ったが喜ぶ璃玖を見ると何とも言えぬ。
「私の子だ!」
「ええ、璃玖さま」
嬉しそうに奏花の両肩を掴んだあと、璃玖ははたと動きを止めた。
「ダメだ、臨月が近いそなたをどこにも連れて行けぬ! おばあ様でも見つけられぬ場所に今は隠れ棲んでいるのであろう? そんな場所まで移動させるわけには行かぬ。ああ、おじい様やおばあ様を呼ばねば。そなたが無茶をせぬように見張っていてもらわねば。体を冷やしてはならぬ。さ、これを羽織れ」
抱き寄せられ、平らな腹を撫でられる。気遣わし気に顔を覗き込まれ、袿を肩へかけられた。
「腹は大きくならぬのか。産婆を呼んでも意味はないのだろうか。そなたの時はどうだったかおばあ様に聞かねば」
かたん。
床に扇が転がったあと、扇の持ち主が膝から頽れる。見慣れた色目の狩衣が何やら陰鬱に低くまき散らす。
「赤子……ひぃ、ふぅ、み……計算が……計算が合わぬ……」
「いや奏花がここを離れたのは去年の冬の初めだろ。それより前だから計算は合ってるが……今はそこは問題じゃないぞ、奏」
「璃玖の子じゃと?」
床へ膝を突いたまま奏花へ顔を向けた奏臥へ頷いて見せる。
「ええ、父上」
「誰の子だ?」
たった今、自分で璃玖の子と言ったではないか。大分混乱しているようだ。常ならきっちりと結われている奏臥の髪がはらりと一房落ちた。
「わたくしと璃玖さまの子でございます。二人目と三人目の孫でございますね、父上」
「……双子か?」
「はい、母上」
「胎に居らぬのだな?」
「ええ。母上がわたくしをお産みになった時と同じく、分身の木に実として育てております。今は棲み処で梅花が世話をしておりますが、さすがに臨月には戻らねばなりません」
「一旦お前の胎へ戻して、ここへ分身の木を作ることも可能か?」
「可能ですが……そうなるとしばらくここから離れられぬかと。わたくしがここに留まるのはあまり良いことではございませんでしょう」
だん、と足を踏み鳴らして片膝を突き、奏臥が大声を出す。
「禄花! 君、知っていたな!」
「気付かぬ方がおかしかろうよ……まぁ、子ができるほどとは思っていなかったし時期にも驚いたが」
時期的にはおそらく奏花が干浬を離れる直前、璃玖が毒を盛られる前である。やはり禄花は薄々気づいていたようだ。
「いつ気づいた?」
「小さな頃から璃玖は奏花にしか関心がなかっただろうが。まぁ己れも確信したのは璃玖が毒を盛られた時の奏花の態度を見たからだが」
この子も結局、璃玖にしか関心がなかったのだよ。ぽつりと呟いた禄花はやはり、勘が鋭い。
「とにかく奏花はもうここから動くな! 赤子はここへ移しなさい! 私の孫だ、誰にも文句など言わせぬ! 禄花……孫だ……双子だと……禄花……!」
「落ち着け、奏。嬉しいな?」
「……うん」
「だがまぁしかし、璃貴殿に手出しさせぬためにも放棄するのであれば早く家督など放棄してしまうが良かろうよ、璃玖。お前たちに子ができたと知って、今さら璃玖を次期当主にするなどと言って我が孫を己の孫でもあると言い出しでもしてみろ。殺したくなってしまう」
せっかく今まで我慢して来たというのに。と禄花がつまらなそうに吐き捨てる。奏臥も深く頷いて、取り落とした扇を拾って口元を隠す。
「殺さずとも死ぬほど脅しておけばよい、禄花」
「父上も母上も落ち着いてくださいませ。わたくしが一年ほど前に死ぬほど脅したばかりでございますよ」
「……おじい様もおばあ様も奏花も物騒なことばかり言わないでください……」
奏臥の前だというのに璃玖は奏花をしっかり抱きしめたままだ。煉義は気まずそうに四人の間で大きな体を必死に小さくしている。
「まず家督を放棄して、あれの目を潰しましょう。二度と奏花を見ることも孫を見ることもできぬようにしてしまえば良いのです」
「それがいい」
「そうだな。やはり璃玖は賢いのぅ」
「生温うございませんでしょうか」
「子らに心配がなくなってから、棲み処を移せばよい。以前のように、梔子屋敷には私と奏花の他におじい様、おばあ様しか出入りできぬようにすれば良いのだから」
「そうしよう。奏花、お前はもう一人で動いてはならん」
「そうだな。まぁ己れらが見張らなくとも璃玖が離すまいよ」
「奏花、紀之元も入れるようにしよう。赤子が生まれたら、何かとお願いすることが増えるだろうし私もおじい様もおばあ様もそなたの傍に紀之元が居るのであれば安心だ」
「うむ」
璃玖に凭れたまま、手のひらを開く。奏花の手のひらに白い睡蓮が一つ咲いた。睡蓮の花弁が外側からはらはらと崩れて行く。全ての花弁が散ると、庭に十二の花が狂い咲く。
「璃玖さま」
「うん?」
璃玖の手を取って奏花の腹へ宛がう。穏やかな瞳で璃玖はゆっくりと膨れた奏花の腹を撫でた。
「わたくしと璃玖さまの子でございます」
「……うん」
不意に璃玖の虹彩が曇った。奏花の腹を撫でる璃玖の手へ手を重ねる。
「きっと璃玖さまに似て、かわいい小さな狼さんたちですよ。懐かしゅうございますね。わたくしの大事な大事な小さい狼さんは三角のお耳もしっぽもとてもかわいらしかった。初めてお会いした時より小さい頃の璃玖さまをわたくしは存じ上げませんのでとても楽しみです」
この子たちのおかげで、出会う前の璃玖さまともお会いできますね。璃玖を仰ぐ。覚えず微笑んでいたのだろう。璃玖は少しだけ切ないような表情で笑い、奏花の額へ自分の額を合わせた。
「……そなたしか、そんなことを言わぬ。だから私はそなたしか要らぬのだ」
「おや、璃玖さま。父上も母上も覚えておられますよ。かわいいかわいい小さい狼さん。雨辺山の野で駆け回るかわいい狼さん。あの頃が一番幸せだったと仰いましたね。またあの頃と同じに幸せが参りますよ」
誰の目を気にすることもない、異質な者だけの優しい景色。駆け回る子供たちと、笑い声。かわいい狼さん、どこどこ。見つけた。もう二度と離れない。
そこには人外のみしか居なくても。
穏やかな風景だけがある。
「決まったな。璃玖の体が回復したらすぐに、璃内へ行こう。何、文句は言わせぬ。私が一緒に行く。よいな、璃玖」
「はい、おじい様」
「もうおじい様ではないぞ、璃玖。己れのこともおばあ様ではなく義母上と呼べ」
かかか、と笑って膝を打った禄花へ璃玖は奏花を抱きしめたまま小さく頭を下げた。
「義父上、義母上、これからは私が奏花を大切に致します」
「うん」
「私の大事な子を頼む」
「はい、義父上」
七日後に璃玖と奏臥は璃内へと発った。禄花は梔子屋敷に残って奏花と留守番だ。
「奏花、見てみろ」
「?」
屋敷の中を引っ掻き回していた禄花が紙を数枚手にして母屋へ戻って来た。手元を覗き込んで慌てて禄花の手から紙の束を奪う。
「母上っ!」
「いや、よく描けておる。璃玖は奏に似て手も上手だが絵も上手いな。だがこれなんぞ奏が見たらひっくり返るぞあっはっは」
裸に袿を羽織っただけの奏花が物憂げに身を横たえているもの、脇息に手を突いて凭れているもの、どれもどこか情事の後を想わせるものばかりだ。おみちが見たというのはこれらの絵だろう。
「父上に見られる前に隠さねば……」
「お前らは本当に面白いな。東の対にはびっしり璃玖のための薬が作り置きしてあった。誰も間に入ることなど敵わぬ。互いに大事にしなさい」
「……はい。母上」
知っていたのに何も言わなかった。禄花は璃玖と奏花をどう思っていたのだろう。目を上げると禄花と視線がぶつかる。
「子の名は決めたか」
「はい。璃玖さまが名付けてくださいました。瑠璃丸、玻璃丸、と」
「以斉の宝だな」
「ええ」
禄花の手から奪った紙の束を梅花に渡す。花精はほほ、と笑って花弁が風に流されるようにふうわりと消えた。禄花は奏花へ背を向け、花霞に煙る庭へと歩む。
「己れもな、お前のことは言えないんだよ奏花。お前と奏さえ幸せなら、実は人のことなどどうでもいいからな。ただ奏はああ見えて人が好きだからな。奏が悲しまなければそれでいいんだ、己れは」
「わたくし、少しだけ分かる気がいたします。父上と母上が以斉の家や献正家、口茄上家を気にかける気持ち。わたくし、人のことなどどうでもいいと思う気持ちは今も変わりませんが煉義殿には幸せでいてもらいたいと思います」
「それでいいさ。人とてそうして自分の周りのほんの一握りの人間の幸せを願って生きているものだ。無理に全てを背負う必要などないんだよ」
御簾を上げて季節の狂った庭を眺めながら、ぷくりと膨れたままの己の腹を撫でた。梔子屋敷にはまだ、分身の木を作っていない。季節を無視して様々な花が狂い咲く。禄花や奏臥、奏花は一人でも暮らして行ける。それでも。
「それでも大事な一粒の砂を守るために、その土地全てを平和に整えねば守れぬ。だから母上は人の傍から離れられぬ」
「それになぁ、己れは多分誰よりも長くこの世を見て来た。その己れがつくづく思う。所詮、人が一人で生み出せるものには限りがある。可能性は無限の個性から生まれる。有限の中からは生まれぬ。愚かしく醜く、時に憎らしいがそれでも己れは人が嫌いにはなれぬ」
奏花が生きるだけならば、梅花に命じて布を織り道具を作り暮らして行くことはできるだろう。そこにはきっと、新しいものは生まれない。奏花は新しいものを必要としないからだ。
「愚かで醜いものの中からしか美しいものは生まれぬのでしょう。苦しみ憎み幸福を願うからこそ、人はより良いものを求め、作ろうとするのですから」
黙って一つ頷き、禄花は庭へ目を向けた。
「見かけは永遠に美しくとも、永遠に変わらぬのならばそれは死んだ世界だ。お前は良く知っていよう」
欄干へ足をかけ、庭へ身を乗り出して空を仰ぐ禄花を目路へ入れる。
「子が生まれるならば急いでここを離れることもなかろうよ。煉義も申しておった。畏れより、我らがこの地を離れる不利益の方が大きい、と」
やはり煉義は冷静だ。彼ならば雪牙隊の兵士たちを説得してしまうだろうと何となく考えていた。既に禄花と話し合っているのであれば、奏花はこの地に留め置かれることになるだろう。
庭へ視線を向けたまま、禄花は低く吐き出す。
「そういう意味では私はお前を死んだ世界で育てた。過ちであったのかも知れん」
「……時の止まった世界が気楽だと選んだのはわたくしです、母上。わたくしの生来の気質がそうであっただけでございましょう。あまりお気に病まれぬよう。ですが……そうですね、この子たちは人里で育てるのもよいかも知れませんね……」
禄花は後悔しているのだろうか。少なくとも責任を感じているのは確かだ。
「この子らが選べるように致しましょう、母上。それでももしわたくしのように育ったのであれば、それはこの子ら本来の在り様であったのでございましょう。誰のせいでもございません」
何もかもが思いのまま。けれど何一つ本物ではない、綺麗なだけの偽りの庭。
作ろうとすれば空すら通年晴天の庭を作れるだろう。だが奏花はそうしなかった。おそらくそういうことなのだ。自嘲気味に唇の端を吊り上げる。
「どのような在り様を選ぼうとも、ただわたくしは子らを愛するのみでございます、母上。母上や父上がなさったように」
「……っ」
「……わたくしはそれを過ちとは思いません。ただ母上がそう思ってしまわれるようなものにしかなれなかったことを申し訳なく思います」
虫一匹入り込めぬ閉じた庭にひら、と蝶が舞う。蝶が来た方へ目を向けると、璃玖が宙で手を広げているところだった。
「奏花、ただいま。途中で蝶を捕まえて来た」
綺麗だろう、と笑う璃玖の元へ階を下りながら禄花へ振り返る。
「それにこうして、愛しいものが止まった庭に風を送ってくれます」
庭へ下り、璃玖の隣に立つ奏花へ禄花が問う。
「幸せか」
璃玖が放った蝶を目で追い、ぐるりと庭を見渡した。ひらひらと舞う蝶が梔子の花に止まった。振り返り答える。
「ええ。父上、母上」
無邪気に笑みを浮かべる。それはきっと、夢見るような微笑みに映るのだろう。
見守る六つの瞳から目を逸らして時の止まった庭を眺める。
よかった。上手くやれた。
狼は野生ゆえ、閉じ込めることは難しゅうございますれば。自らこの箱庭へ戻って来るよう、離れられぬようにする必要があるのです。
飼い慣らされた狼は本来の居場所である森に戻ることもせず、花ばかりを見ているから。その花に自らが囚われているなどと気づきもしないのだ。
飼い慣らされた狼は花ばかりを見る 吉川 箱 @yuki_nisiyama
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