第4話 不言花

 例年通りに清和せいわ月には干浬ひりに建てた屋敷へ移る。宣言通りにこの屋敷には璃玖と奏花しか入れぬ。門の脇には冬でも枯れぬ梔子くちなしが植わっている。そのせいか、それとも奏花の住まいだからか、雪牙隊の者たちはこの屋敷を「梔子屋敷」と呼んでいるそうだ。里の者から聞いた、と璃玖が教えてくれた。

「おや璃玖さま。お着物を脱いだのですか?」

「うん。里の外れでおみちが自分だけ皆と同じ花を摘めなかったと泣いていたから、狼の姿になって崖の下まで花を摘みに行ったんだ」

「それは……良いことをなさいましたね」

「うん」

 はにかんで微笑んだ璃玖の、肩へかかった髪を後ろへ流す。

「璃玖さま。そろそろじいじのところへ挨拶に参りましょうか」

「うん」

「お着替え致しましょう」

「ん」

 梅花に翡翠色の半尻を持って来させる。下げみづらにはなだの組紐を使おうとしたら、璃玖が首を横に振った。

不言色いわぬいろがいい」

 どこまでも梔子が好きなのか。不言色の組紐でみづらを結い、あこめと袴を穿かせる。単、白藍の指貫袴を着付けて最後に半尻を着せる。みづらも難なく結えるようになった。これなら何とか元服までにはもとどりも結えるだろう。冬の間にまた少し背が伸びたようだ。もう奏花からは璃玖のつむじが見えない。目線がほぼ同じだ。両手で頬を包む。

「さ、大変麗しゅうなりました。参りましょうか」

 みづらの根元へ門の傍に咲いている梔子を挿す。梅花が連れて来た馬へ跨り、当たり前のように奏花へ手を差し伸べる。璃玖の温もりを懐に感じていたのはいつも、奏花の方であったのに。今はすっかり、こうして背中に璃玖の温もりを感じることが多くなった。雪牙隊の詰所へ入り、馬を下りる時も当たり前のように奏花を抱えて下し、紀之元へ馬を預ける。

「おじい様。今年も遅れて参りました。よろしくお願い致します」

「うん。良く参った。みんなへ挨拶しておいで」

「はい」

 一礼して屋敷へ入る背中を見送り、奏臥が呟く。

「大きくなったな」

「ええ。もうわたくしとそう変わりません」

「元服の頃にはお前の背を越えそうだ」

「何やら寂しゅうて仕方ございません」

「分かる。ほんの少し前はじいじばあばと甘えてこんなに小さかったのに」

 璃玖様が戻られたぞ、という声に屋敷へ目を向ける。賑やかに歓迎されながらきっちりと挨拶をする姿にはどこか威厳と風格が備わって来た。

「私の狩衣と同じ色目の半尻もよく似合う。元服の時には直衣と束帯は私が仕立てよう」

「お願い致します」

 不如帰の鳴く声を聞きながら、麗らかな陽射しを浴びてしばし黙り込む。高元結に結った髪が春風に吹かれて靡いた。

「父上がお許しくださるのなら、以斉の名を名乗りたいとおっしゃられました」

「……そうか。うん。許すも何もあの子は私の孫だよ」

「ありがとうございます」

 その時には皆が知ることとなるだろう。獣と蔑まれた若君は、とうとう父親に認められることなく自ら志出の家を捨てたのだと。けれど益々、その活躍は人々の口に上るだろう。悲劇の若君の、勇猛果敢な戦いぶりは人々の心を揺さぶるだろう。

 無言で微かに笑みを浮かべたまま、己のつま先を見つめる奏花に奏臥は何を思ったのだろうか。軽く奏花の肩へ触れ、璃玖を歓迎する声の中へ入って行く。梅花が奏花の横へ立つ。

「おかしゅうて敵わぬ。弟君は余程の名君でなければ璃玖さまと比べられ続けるだろう。その重圧に耐えきれるお子があのぼんくらから育つとでも?」

 ふふふふふ。奏花が嗤うと梅花も笑った。それは陽射しのように麗らかに朗らかに。

 うふふふふ。ほほほほほ。

 それはまるで絵巻物のように美しく。呪いのように薄ら寒い。花は、人に非ず。

 花は、人の味方に非ずと誰が知り得ようか。何故のん気に花が人の味方だと驕っていられるのか。花に尋ねたこともないのに。本心を言わずに花が笑う。

「梅花」

「はい」

「皆に酒を買って来てください」

「はい」

 屋敷を眺め、梅の綻ぶ庭を横切る。不如帰が鳴いた。声のする辺りへ首を巡らせる。

「帰り去くに如かずと血を吐くまで鳴いたというお前も、他人の巣へ己が卵を生み置くと言う。恥知らずな。我が庭で鳴くこと一切許さぬ」

 わたくしと璃玖さまに帰る場所などないというのに。

 白砂を踏む音だけが春の庭に響く。厩に居た紀之元がふと顔を上げた。

「あれ」

「どうなされた」

「ほととぎす、鳴かなくなったなと思って」

「どこかへ飛んで行ったのでしょう」

「そうだな」

 皆様、どうぞ。手を休めて。酒を買うて来ました。さ、どうぞ。

 奏花の声に紀之元が破顔する。

「ああ、奏花様だ。さぁ、行こう、行こう」

 荊の向こう、結界の外へ。打ち捨てられた不如帰のことなど、誰も知らない。

 奏花が酒を差し入れたことにより、宴会が始まった。そうなると酒を飲める年ではない璃玖は当然、帰される。見回りに行くという璃玖に付き合って荊沿いに馬を走らせる。

「荊の向こうにも人が住んでるの?」

「そうですね、ごくわずかに。けれど彼らの生死は不明です」

「どうして?」

「吾毘の人たちが以流に住まなくなってから長らく、以流は重罪人の流刑地となっているからです」

「重罪人……」

 璃玖が眉を潜める。木鹿もくろくで璃玖の馬へ並走しながら、奏花は荊の向こうを見やった。

「何度も罪を重ねた者、何人も人を殺した者、そういうごくわずかな人間が以流へ流刑されます。ですから、彼らが本当に生き延びているか、誰も知らないのです」

「奏花も?」

 奏花や禄花、奏臥が植物を介して遠くの土地の状況でも知ることができることを知っている璃玖だからこそ、この問いかけなのだろう。頷いて答える。

「……数名は生き残っているようです。雪影を避けるため木の上へ家を作り、規模も小さいながら集落もある。ただ、生活は厳しいのでしょう。子供が生まれても成人できる確立は低く、そこからさらに生存できる者は僅かです」

「だって、以流で生まれた子供には何も罪はないじゃないか……」

「それでも彼らを受け入れることはできません。吾毘に死罪という刑罰はございません。以流への流刑が最も重い罰です。その者に相応しい罰は神が与える。獣人族の考えでは、それが最も過酷な罰だからです。しかし都には死罪もございます」

 それとも璃玖さまは、流刑に処されるよりいっそのこと死罪になった方が良かったと思いますか。

「……分からない」

「拳を振り上げ誰かを害するということは即ち、『拳を振り上げられた誰か』に反撃されることも覚悟の上でなさねばならぬということなのです。拳を振り上げられ、哀れにもそのまま打ち殺された者の反撃の代わりが以流への流刑だとしたらそれは悪いことでしょうか」

「……」

「以流で運よく生きながらえ己に子ができ、その子が死に直面しているのに何もできない時、それがその者に対する『振り上げた拳への反撃』ではないでしょうか。璃玖さまはどう、思われますか」

「……分からないよ……」

「もし奏花が今、誰かに殺されてしまった時、璃玖さまはその者を死罪にも流刑にもせず、説得して二度と罪を犯さぬようにと解放することもまた、正しいでしょう」

「そんなの、許せるはずがない!」

 無意識なのだろう。眉を寄せ、首を横へ振りながら、澄んだ瞳が奏花を見つめる。

「では奏花を殺した者が流刑となり、その者に子供ができた時、璃玖さまは今と同じようにその子に罪はないとおっしゃいますか」

「……罪はない。けれど……許すことは、難しい……」

「それは何故です」

「それは……それは私にとって奏花が大事だからだ」

「では璃玖さまは、璃玖さまにとって大事な者へ行われた罪には重罰を、璃玖さまにとって大事ではない者へ行われた罪は軽微な罰をお与えになるのですか?」

「……それは……」

 琥珀色の虹彩が揺れている。動揺しつつも懸命に奏花が何を言わんとしているかを探ろうとしている。

「例えその基準で軽い罰で済ませた者がいたとして見逃した者が次にまた誰かを殺した時、その殺された誰かを大切に思っていた人に璃玖さまは罵られる覚悟をせねばなりません。それは許しに伴う責任です」

 それはとても難しく、大変に尊いことです。けれど誰かを裁く時、事情を汲むことはあれどそこに感情を挿し挟んではいけないこともあるのです。

 奏花の言葉に璃玖は頷いた。

「先代の族長たちはそれを、自然や運命や神に委ねたのではないでしょうか。それが公平と信じて。何が公平か、何が本当に正しいかということはとても難しいのです、璃玖さま。全てを公平に、全てを一つの間違いもなく正しく行うことは難しい。ですから流刑は『なるべく公平に』『できるだけ正しく』と考えた結果なのでしょう」

 璃玖は気づくだろうか。この理屈には大前提があることを。黙り込んだ横顔を眺める。

「けれど奏花、それは正しい人が行わなければ無実の人でも罰を与えることができてしまうのでは?」

「その通りです。ですから、刑を下すには細かな規定や指針を作り、それを執行する領主となるお方は正しくある必要があり、また十分にその者の罪を調べて吟味する責任がございます」

「理念は後続に守られねば意味がないと、奏花は言いたいのでしょう?」

 答えず微笑む。璃玖はそれを肯定と取ったのか氷山の頂を目路へ入れて馬首を巡らせる。

「最後に以流へ流刑になった者は?」

「火つけ次兵。二十年前、璃貴さまが、璃内の里へ十回以上付け火を繰り返していた者を流刑したのが最後と聞いております」

「生きて……いるだろうか……」

「どうでしょう。極少人数の気配はございますが、年齢や性別までは分かりません」

「奏花にも分からないの?」

「植物には、人間の年齢や性別など興味のあることではないのですよ。植物たちの見ている景色を共有すれば細かなところまで見ることはできますが、そうしたところでわたくしは一体、彼らに何ができるでしょう。彼らが以流へ流刑にされた意味が分かりますか、璃玖さま」

 頭を振った青銀の髪を見つめて微かに唇を笑みの形へ吊り上げた。

「人は一人で生きて行けません。どんなに人が殺したくても、殺してしまえば自分が生きる術を失うのならば我慢するでしょう。どんなに火をつけたくても、森を燃やしてしまえば自分の住むところや食べるものがなくなるのならば我慢できるのです。自分が生き伸びることだけで精いっぱいの状態なら、罪を犯すことを考える余裕がないからです。何か手助けできたとして生きることに余裕ができてもし、こちらへ来て里を襲ったら? 許すということ、判断を下すということには責任を伴います。彼らに手を差し伸べる。確かにそれは正しく清い行いです。しかしその判断に伴う責は、奏花には負いかねます」

「うん……」

 この子は聡明だが優しすぎる。奏花が甘やかしたせいだろうか。本当に醜悪なものとは、どんなものかを知らない。何せ奏花が優しいなどと勘違いしているのだから。

 花霞の氷山の麓とは対照的に、鈍色の雲を抱いた荊の向こうを眺める。悲鳴のような音を立てて風が吹きつける。眉を顰め、身震いした璃玖へ声をかけた。

「さ、璃玖さま。屋敷へ戻りましょう。明日からはまた、煉義殿に稽古をつけていただくのでしょう? 支度をしませんと」

「うん」

 雪牙隊の詰所へ戻ると、門の前で六太が璃玖へ盛んに手を振るのが見えた。奏花に気づくと六太はちらりと上目遣いで見て、口の中でもごもごと挨拶をする。

「かせん様、おひさしぶりにございます……」

「はい。お久しぶりにございます、六太さん。璃玖さまを待っておられたのですか」

「う、はい」

「遊びに行くのか? 六太」

「うん! れんぎ様とのけいこは明日からなんだろ? げんすけたちと釣りに行こうぜ!」

「いってらっしゃいませ。暮れ七つには帰って来てくださいませね」

「うんっ!」

 奏花を振り返った璃玖へ頷いて見せる。馬の手綱を受け取り、六太と駆け出す背中を見送る。奏花が一人で璃玖の馬を連れて来たのを見て、宴席から紀之元が庭へ下りて来た。奏花の手から手綱を受け取り、厩までしばし歩く。

「奏花様。璃玖坊ちゃんは」

「六太さんと遊びに行ってしまいました。まだまだ子供ですね」

「何をおっしゃいます、奏花様。この干浬の里で璃玖坊ちゃんの聡明さを知らぬものなどおりませぬ。六坊だって近頃じゃ二言目には『雪牙隊に入ってりくの右腕になる』と勢い込んでおりますよ」

「そういう日も、もうそんなに遠い未来ではないのでしょうね」

 まだ浅い春の空を茫洋と仰ぐ。璃玖は正しく育っている。正しい人へと。このままならば、いつか手放さなければならぬ日が来るだろう。人の側へと。

「奏花様。寂しゅうございますか」

「そうですね……」

 これが、寂しいという気持ちなのかも知れませんね。胸を押さえた奏花へ、紀之元がほう、とため息を吐いた。

「紀之元、ではわたくしはこれで。もし父上や母上が居場所をお尋ねならば梔子屋敷へ戻ったとお伝えください」

「はい。かしこまりました」

 ゆっくりと通りを行く。璃内りないの里は通りも隅や路地へ目を向ければ人や家畜の屍で溢れているが、干浬ひりは比較的物乞いも屍も少ない方だろう。奏臥と禄花が里の外れへ死者を弔うための場所を定めたので、干浬では遺体を放置しない。穢れが里へ溢れないので妖の類いも里中へは出ない。安全なのだろう。遺体の代わりに物乞いが多い。雪牙隊の屋敷の近くで茣蓙に座った物乞いへ餅を差し出す。

「ありがとうございます、ありがとうございます、花仙様」

 額を擦りつけて平伏する物乞いへ一つ、頭を下げて通り過ぎる。梔子屋敷へ戻るまでの間に幾人かの物乞いへ餅を振る舞った。

「さすがは雪月花仙様のお子。慈愛に満ちた菩薩のように美しいお方じゃ」

 答えず曖昧に微笑んで立ち去る。梔子屋敷へ入ってすぐ、梅花を呼んだ。

「梅花」

「はい」

「表の屑を夜になったら片付けておくように」

「はい」

「何が慈愛か。渡したのは骨も肉も一欠片も残らず消える毒入りの餅ぞ」

 禄花ならば救えぬまでも、おそらく何らかの薬を渡したことだろう。先ほど餅を渡した乞食たちは奏花の見立てでは病で長く生きられぬ。延命したとて彼らにとって、何が慈悲だろうか。

「干浬が安全だからと、病人や子供を捨てる者までいる。いくら安全な里とて厳しい冬をどう越すつもりだ。冬が厳しく雪影が出る。ゆえに放棄された土地だったというのに。人間というのは本当に愚かしい」

 面倒だ。何もかも。全てが。いっそ全て放り出して一人、以流で暮らそうか。

「あと二年……」

 あと二年だけ。人のふりをしてみる。己の望むことより正しいと教えられたことを選んでみる。あと二年だけ。

 あの子を、精一杯慈しんでみる。

「梅花」

「はい」

「璃玖さまの夕餉の支度を」

「かしこまりました」

 庭の梅が風に揺れる。小さな花弁が散って空へ舞う。勾欄こうらんへ手を置き、全てを乱暴に壊したい気持ちを押さえる。

 世界はこんなに穏やかなのに、いつまで経っても奏花は。

「死にたい、なぁ……」

 見せつけられる。あの子は正しく育つ。あの子は優しい。あの子は。

 あの子は奏花のような、化け物にはならぬ。

「ひとに、生まれたかった」

 何の疑問も何の悩みもなく。疑うこともなく、ただそうあるものだと。

「奏花!」

 目の前へ山桜を一枝突き出されてはっとする。山桜の枝を差し出した主へ微笑む。

「おかえりなさいませ。魚は釣れましたか」

「うん。梅花に渡して来た。奏花にはこれが土産だ」

「ありがとうございます。母屋へ飾りましょうね」

「うん!」

 もう璃玖を膝に乗せることはできない。できなくはないが、奏花の背と変わらぬくらいに大きくなった。近頃は璃玖の向かいに膳を置いて少し、酒を嗜むようになった。雨辺山の屋敷と同様、蔀戸を開け、几帳の代わりに紗布を巡らせた廂から春の庭を眺める。

「父上に、璃玖さまが元服なされた際は以斉の名を名乗りたいとおっしゃっていると伝えました」

「うん。おじい様は、何て?」

「名乗りたいも何も璃玖さまは我が孫だ、と」

「へへ……そっか」

 はにかんで自分が釣って来た魚の塩焼きと米を口へ運ぶ。もう一々、奏花が口を拭いたりすることはやめた。

「璃玖さま……。今年は雨辺山へ戻るのはやめて、冬も干浬で過ごしましょうか」

「……! いいの?」

 まるでずっとそうしたかったかの口ぶりだ。それはそうだろう。干浬には友もいる。奏臥と禄花もいる。璃玖の世界は広がって行く。閉じた世界から羽ばたいていく。目を伏せ、盃を仰ぐ。

「璃玖さまが元服なさるまでは、奏花もこちらで過ごそうかと思います」

「……っ、奏花、璃玖が元服したら雨辺山へ戻るの?」

「こちらには父上も母上も居りますし、雪牙隊の方も居られます。璃玖さまが元服なさったら、奏花はしばし見聞の旅に出ようかと」

「……そう……」

 これでいいのだろう。この子は人として成った。だからこの先は、人として生きるのが道理なのだ。奏花の役目は終わった。奏花の醜い思惑は為されなかった。そういうことなのだろう。

 その後はどこか、近海の小島でも見つけて人と関わらず暮らそう。奏花はおそらく、人と交わってはいけないのだろう。

 しばらく無言になったかと思うと、璃玖は突然箸を置いた。

「璃玖さま? もうお召し上がりにならないのですか」

「……うん。六太たちと、途中でびわを食べたから……」

「まぁ、夕餉の前に? 悪い子たちですね。……では湯あみの用意をしましょうか」

「うん」

「梅花。膳を片付けて。湯あみします」

「はい」

「あとで璃玖さまがやはりお腹が空いたと言うかもしれません。握り飯を作っておいてください」

「かしこまりました」

 いつもなら六太たちと遊んだ後は、湯あみの時に今日は何をしただとか六太が転んだとか話をするのに、璃玖はぼんやりとしたままだ。最近は自分でやると断固固辞してきたのに、奏花が手拭いで璃玖の体を拭いても何も言わない。額に手をやるが、熱はないようだ。

「璃玖さま? 川遊びで冷えましたか?」

「ううん」

 髪を拭いて、御帳台へ横になる。いつも通りに奏花の隣へは来るが、近頃は奏花が璃玖に抱き込まれてしまう。袿をかけて璃玖の肩へ額を押しつける。

「奏花?」

「はい、璃玖さま」

「……璃玖のこと、好き?」

 幼い頃は散々尋ねられたが、最近は問われたことがなかったと気づく。首を動かし璃玖を仰ぐと、琥珀色の虹彩が静かに奏花を見下ろしていた。

「大好きですよ、璃玖さま。わたくしのかわいい狼さん」

 ――かわいいおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。銀色おおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

 幼い頃のように囁いて両手で頬を包む。強く抱きしめられ、璃玖の衣へ焚きしめた伽羅の香りがした。伽羅独特の甘さの中に、いつもならば璃玖の体臭である若木のような瑞々しさを感じるはずだ。その夜は何故か、ほんの少し苦味にも似た官能的な香りを見つけた気がして、眠ってしまった璃玖の髪を撫でる。

 翌日、朝から奏臥との稽古に出かけた璃玖を迎えに行くと、奏臥に手招きされた。

「? 何です、父上」

「奏花」

「はい」

「璃玖が私に相談してきた。奏花が璃玖が元服したらどこかへ行ってしまう、と。だから元服を二年遅らせることはできないか、と」

 昨夜、その話をした途端に無口になったのはそのせいか。合点が行った、という顔をしてしまった奏花に、奏臥は茵を指し示して座れと視線で促す。

「父上が言ったのではありませんか。璃玖さま離れしろと」

「言った。だがそれは物理的に離れろと言う意味ではない」

「それでもお傍に居たらつい、過保護になってしまうのです。ならば物理的、距離的に離れるしかありますまい」

「……そうか」

「ええ」

「……それも、分からぬではない、が……」

「……」

「……、……」

 麗らかな陽射しの中、無表情がようよう口を開く。

「璃玖の言うように、元服を十四まで遅らせるか」

「父上は一体、わたくしに璃玖さま離れして欲しいのかして欲しくないのかどちらなのです」

「……璃玖がな」

 ぽつり、と己の組んだ膝へ落として、奏臥が扇で手のひらを叩く。

「童たちにからかわれて、そなたへ意地を張ったからだろうか、嫌われただろうか、悩ませただろうかと気病みしてな。見ていて哀れでつい、安請け合いしてしまったのだ」

 落ち着かない様子で自分の手のひらへ扇を打ち付ける。

「何、じいじが言って璃玖が十六になるまでは一緒に居るよう、奏花を説得すると」

「……父上。甘うございますよ」

「う……。分かっている。分かっているが、あの子にとってお前は親だ。まだ親と離れたくない気持ちは分かる」

「元服を区切りと心の整理も済ませたわたくしの、決心を鈍らせないでくださいませ」

「奏花」

 背後の妻戸から声をかけられ、振り返る。玄色げんいろの直垂を着た禄花がどっかりと奏花の隣へ腰をかけた。

「璃玖坊はな、雪牙隊の兵士たちの前では必死に彼らの望む『若君』を演じておる。それは二人きりの時にお前へ手放しで甘える時間があるからこそ、だろう。もう少しの間だけ、璃玖を甘やかしてやってはくれぬか」

「……それは璃玖さまのお為になりません」

「……璃玖坊が皆の望む若君を演じておるのはな、お前がここへ、璃玖坊の居場所を作ろうとしていると理解しているからだぞ?」

 重ねて言い継ぎ、禄花は奏花の背へ手を置いた。

「……十六までです。それ以降は。この先、璃玖さまには璃玖さまの人生があるのです……そう、あらねばならぬのです」

 昼の警邏をしていた兵士たちが昼食を食べに戻って来た。騒がしい足音を聞きながら、腹の底から吐き出す。

「奏花のかわいい璃玖さまは、小さなお手々の璃玖さまは、奏花より少し、大きゅうなられた。立派になられた。お喜びせねばなりません。寂しいなどと、言えるわけがございません。小さな狼さんを懐に抱いて大事にして参ったのは他の誰でもない、この奏花にございます、母上。少しずつ離れる準備をしなければ、到底耐えられそうにございません」

 とたたた、と少し重くなった足音が駆けて来る。洟を啜る奏花に、美しい毛並みの狼が胴を擦りつけた。

「奏花、ごめん」

「璃玖さま。璃玖さま……大きくなられて嬉しいのですよ。本当です。でも寂しいのです。抱っこをしても、頬を撫でても誰も見咎めなかったあの頃が懐かしいのです。だってまだ、璃玖さまは十歳ですもの。何故いけないのでしょう。今でもわたくしのかわいい璃玖さまであることに違いはありませんのに」

 奏花の頬をざらざらした舌が舐める。ふわふわの毛並みを撫でながら、璃玖の背中へ頬を寄せた。

「ふふふ。璃玖さま、お着物をどこへ脱いで来てしまったのですか……」

「あっ! いけない。つい……」

「まだまだ奏花がお傍にいないといけませんね。璃玖さまは慌てん坊さんです」

 もう少しだけ、お傍にいても良いですか。

 青銀の毛並みへ囁くと、璃玖は返事の代わりに奏花の鼻をべろりと舐めた。

「ずっと居て。傍に居て。元服しても、ずうっと。約束したじゃないか」

 ずっとは一緒に、居られないのですよ。璃玖さま。

 飲み込んで艶やかな銀色の毛並みを撫でる。

「さ。お着替え致しましょう、璃玖さま。皆さんが見ておられると恥ずかしいですから、こちらへ」

 妻戸の辺りに落ちていた璃玖の着物を拾って御帳台へ連れて行く。夜警組は寝ていたのだろう。あくびをしながらやって来た煉義が頭をかきながら奏臥へ問う。

「いいんですか、臥世真君。ありゃ隠れて甘やかし放題のお墨付きを与えちまったことになりやしませんかね」

「!! 奏花!」

「大声を出さないでくださいませ、父上。さ、璃玖さま。昼餉は梔子屋敷でいただきましょうね。煉義殿、午後からよろしくお願い致します」

 失礼致します。挨拶をして、梔子でできた木鹿へ璃玖に抱えられて乗り込む。駆け出した木鹿の角として生えた枝には梔子が咲いて匂い立つ。

 その年の冬、初めて奏花と璃玖は宜山にも雨辺山にも帰らず梔子屋敷で過ごした。当然、璃貴への挨拶は「今年は干浬にてお勤め致します」と断った。奏臥も禄花もそれが楽だったのだろう。次の年、璃玖は十二になり元服したがやはり同じように「干浬にて璃玖の元服の儀を行うので書面にてご挨拶と変えさせていただきます」と奏臥が文を送った。皆に酒を振る舞い、雪牙隊の詰所を開放して里の誰でも祝えるようにした。雪牙隊の兵士の子供たち、商家の者、行商人、白拍子、琵琶法師などが入り乱れての酒宴に、璃玖は奏花の贈った梔子の狼に跨って現れ、駆け抜けながら庭に用意した的を射て行く。最後に奏臥の用意した鳳凰を射止めると、色とりどりの花弁が雪の積もった冬の庭へ舞い散る。

「おお……」

 どよめきと歓声の上がる中、駆けるごとに梔子の花をまき散らす狼の背から下りる。璃玖が離れると狼は崩れて散って梔子の香りが辺りへ漂う。璃玖は頭を垂れて宣言した。

「これより以斉銀鳳丸璃玖いせいぎんほうまるりく、元服に当たって雪牙隊のために尽くし、さらに研鑽することを誓います」

 以斉。以斉と名乗ったか。

 志出とは名乗らなんだ。志出は捨てたのだ。

 見ろ。臥世真君が槍を授けた。

 雪月花仙様が弓を。おお、雨山花仙様が梔子の馬を贈られたぞ。

「璃玖さまの益々のご活躍をお祈りして、馬と狼の式神を贈ります。奏花はいつでも、璃玖さまのお傍に」

 璃玖の手を取り、吐息を吹きかける。璃玖の手のひらに咲いた梔子が解けて崩れる。これで梔子の馬と狼の式神はいつでも璃玖の呼び出しに応じる。不思議と穏やかな表情を浮かべた璃玖は、少し大人びて見える気がした。

「……うん」

「呼んでみてくださいませ」

銀奏ぎんそう

 璃玖が手のひらへ吐息を吹きかけると先ほどの大きな梔子の狼が花をまき散らしながら現れる。首の後ろを撫で、再び手のひらへ吐息を吹きかけると消える。

「銀奏、のう」

 意味深に呟き禄花が頭の後ろで手を組む。奏臥は無表情のまま、こっくりと頷き尋ねる。

「馬の方は何と名付ける」

不言丸いわぬまると」

「不言花か。つくづくお前は梔子が好きだな」

 揶揄うように笑った禄花へ微笑み、璃玖は奏花たちの方へ向き直って胸へ手を当てた。

「不言丸とは後で野を駆けてみる。ありがとう、奏花。ありがとうございます、おじい様、おばあ様」

「さ。皆様。今日は以斉家の祝い事。存分に楽しんでくださいませ」

 奏花が深々と頭を下げると、雪牙隊の兵士が弦を鳴らして一列に並ぶ。

「若君。晴れてあなたはこの雪牙隊の正式な隊員です。皆も異論あるまい!」

 煉義が高らかに告げた。

 応。それぞれに剣を掲げ、一斉に兵士たちが足を踏み鳴らす。見ていた子供たちの目に憧れの光が瞬く。

 璃玖が頷き、跪く。

「拝命致します」

 禄花がどこからか樽酒を抱えて来て庭へ置く。

「飲め飲め! 我が孫の元服の祝いだ! 遠慮は要らん!」

 元々寒さの厳しい土地で狩猟生活をしていた一族ばかりだ。寒さ対策か、ウガリタという発酵酒を飲む習慣がある。この酒は奏花など一口で目が回るほどで、この酒を飲む習慣のある吾毘の人間は皆、滅法酒に強い。お陰で源泉かけ流し状態でどれだけ飲んでも酔わない禄花は彼らと酒を飲むことを好む。今日の宴会は中々終わらないだろう。

「璃玖さま。奏花はこれにて失礼いたしますね」

 夕暮れまで続いた宴会をそっと抜け出し、梔子屋敷へ戻る。璃玖は今夜は夜通し宴に付き合わされるだろう。湯殿で湯に浸かっていると、璃玖が入って来た。

「中座していらっしゃったのですか」

「うん。みんな私が中座したことにも気づかないほど酔っていたよ」

 特におばあ様。苦笑いした璃玖と顔を見合わせて笑う。

「今日はとてもご立派でした」

 元結にした垂髪の乱れを直して結い紐を解く。毛先を濡らして、温泉の湯を貯めるために敷き詰めた岩を並べた縁へ頭を持たせかけさせる。梅花に用意させた米のとぎ汁を流し掛け、頭皮を揉むように洗って湯で流す。椿油を軽く撫でつけて簡単に髪を結い直す。今までは恥ずかしがって何かと言い訳をしていたというのに、今夜は大人しく奏花にされるがままだ。

 ――銀色おおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

「ふふふ、ここで眠ってしまいそうだ」

「おやおや、それでは璃玖さまがふやけてしまいますね。上がりましょうか」

「うん」

 髪を拭いてもう一度、椿油を馴染ませて髪を梳く。美しい青銀の髪は宵闇へ仄かに浮かび上がる。白い紗布越しにしばし月を眺める。

 ――奏花のおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

 零れ落ちそうにまん丸だった金色の瞳は、涼やかに切れ上がって幼子から少年へと変化しつつある。不思議なもので、それでも奏花が思い出すのはまん丸な瞳をきょろきょろとさせていた、初めて会った頃の璃玖の姿だ。

 ――かなしおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

「奏花」

「はい」

「寝る」

「はい」

 月へ背を向け、璃玖の胸へ顔を伏せる。伽羅の香りに目を閉じる。

 一緒に狂って欲しかった。奏花と同じにならずに済んでよかった。今すぐこの胸へ腕を突き立てて心の臓を引き摺り出してしまいたかった。長い長い夜に、この温もりがあってよかった。金の目玉を抉り出して舐めしゃぶりたかった。その澄んだ虹彩に映る自分が、少しだけましな生き物に見えた。

 奏花に真実と言えるものなど、一つもなく。

 健やかな寝息に耳を澄ませる。生きている、力強い、そして優しい音だ。


 ――奏花のおおかみさんどこまで駆ける。自由にどこまで駆ける。奏花を置いてどこまでも。さよならおおかみさん。幸せにおなり。よかった。よかった。さよなら。寂しい。


 正月の一か月は昼の警備。次の月は夜の警備で、疲れていたのだろう。梔子屋敷に帰って来るとすぐに寝てしまう。初めの一か月、詰所まで璃玖を迎えに行ったが誰ぞにからかわれたのか不機嫌な表情で「迎えは要らぬ」と断られてしまった。そんな生活が続いて一年はあっという間に過ぎた。

 いよいよ奏花は何もすることがなくなってしまった。

 二年目の正月も奏臥、禄花、璃玖には干浬でのお役目があるために璃内への挨拶はできないと奏臥が璃貴へ文をしたためた。正月前から時々、璃玖が咳き込んでいた。咳止めの薬を飲ませたが二月には声が掠れて喋るのがつらそうだった。掠れた声が直る頃には、璃玖の吐く言葉は幼子の高い音から、青年のそれへと変わっていた。桃月の中頃。夜中に璃玖の呼吸が乱れたのを感じて頬へ手を伸ばす。

「璃玖さま?」

「……奏花」

「ここに居りますよ」

「……体が、おかしい」

「……どこか痛むのですか」

 起き上がってまだ横になって身を固くしている璃玖の肩へ手を置く。呼吸が早く、浅い。本人も困惑しているのだろう。潤んだ金色の虹彩がゆろゆろ揺れている。

「璃玖さま? どこが痛むのです?」

「……痛い……のとは違う気がする。……腫れて、る」

「どこが?」

 言いづらそうに膝を擦り合わせ、それから奏花の手を掴んで己の下半身へと引っ張った。

「ここ、が」

「……」

 手のひらへ、成人男性ならば誰でも知っている感触が押しつけられた。ほう、と漏れた吐息と共に緊張で強張っていた体から力が抜けた。

「なぁんだ……。璃玖さま。それは璃玖さまのお体が大人になられた証拠にございます。病気でも、異常でもございませんよ」

「嘘だ! 今までこんな風になったことなどない!」

「落ち着いてくださいませ。男ならば誰でもなるのです」

「奏花がこうなってるのを見たことなどないっ!」

「わたくしは眠りませんし食事もしませんし、性欲も薄いのです」

「せい、よく?」

 初めて聞く言葉に璃玖は眉を潜めた。奏花自身、肉欲など持ち合わせていないので上手く説明できる気がしない。しかし璃玖には必要なことだ。しばし考えてまだ幼い雄蘂ゆうずいへ指を這わせる。

「子作りのできる体になったのです、璃玖さま。ここに子種が詰まっていて、ここから出る。それが女人の体に入ると子を孕む」

 蕊の奥、たっぷりと蜜を含んで膨らんだ房を揉む。璃玖は体をびくりと震わせた。

「……っ、あっ……」

「ここや」

 房を揉み、蕊の根元を緩く握って扱く。戸惑う金色の虹彩が滲んで璃玖の頬が上気する。

「ここを、こうすると。ほら、腫れて来た。健康な男になった証拠にございます」

「あっ、あっ、奏花……っ! おしっこ、漏れちゃう……っ!」

「それは小水ではございません」

 袴を解いてあこめの中へ手を入れ、滾って身を擡げた蕊へ直接触れる。璃玖は胴震いして奏花の手へ精を放った。青臭いのにどこか甘い香りがする。麝香じゃこうに似ている、と思った。

「~……っ! んぅ……っ」

「……ああ、狼に近いのか……」

 奏花の手に収まり切らず、幼い蕊はとろとろと精を吐き続ける。狼は犬科の動物だ。犬科の動物は一般的に妊娠を確実なものにするため射精時間が長く、その間雌との結合が解けぬように蕊の根元が膨らむ。奏花の手へ精を吐き続ける璃玖の雄蘂も根元が膨らんでいる。

 空いた手で蕊から流れ続ける精を受け止め、目を閉じて短く浅い呼吸を繰り返す璃玖へ手のひらを見せた。

「ほら、璃玖さま。小水ではございませんでしょう?」

「……っ! ……うぅ……っぐすっ……っ」

 原因が分かれば安心するだろう。そう思ったのに、奏花の汚れた手を見て璃玖は、さらに涙を流した。何故泣くのか。どうしたらいいのか分からず、璃玖の顔を覗き込む。

「璃玖さま? どこか痛むのですか? もしやわたくしの爪でしべを傷つけましたか?」

 涙を流し、洟を啜った璃玖が目を逸らして唇を噛む。押し出すように唇の隙間から零した。

「怖い……」

 己の体の変化が怖いのだろうか。優しく抱きしめ、まだとろとろと精を吐く蕊を優しく手で包む。

「怖くありませんよ。大丈夫。精を出しきってしまえば終わります。ね?」

 しかしどのくらいで終わるものなのか、奏花にも見当が付かない。しゃくり上げながら己の蕊から目を逸らす璃玖がこのことへ恐怖を感じてしまうのではないか。奏花は己の袴を脱ぎ、単と小袖の裾をはだけて璃玖へ己の秘所を見せた。

「璃玖さま。奏花も璃玖さまと同じになります。見ていてください。ね? 怖くない」

 そもそも奏花は人としての欲が薄い。自慰など何十年ぶりだろう。まだほんの子供だった頃に数回した程度だろうか。震えて泣いている璃玖の目の前で萎れた花柱を緩く握る。なるべく何も考えないようにして手を動かした。徐々に身を擡げた奏花の花柱へ璃玖の視線が固定されているのが分かる。ただでさえ狼としての性が勝っている璃玖は性器の形すら他人と異なる。恥ずかしいなどと言っている場合ではない。

「はぁ……ふ、ぅん……っ」

 久しく忘れていた感覚。覚えず閉じようとした奏花の膝を掴んで、璃玖が上半身を起こした。璃玖の目の前で蜜を吐き出して余韻に浸る。

「あ……ぁあ……」

 己の手へ放った蜜を璃玖へ見せる。璃玖の雄蕊はまだとろとろと精を吐き出していて、日に焼けた内腿を汚していた。

「ね……? 奏花も璃玖さまと同じにございましょう?」

「同じじゃない、まだ止まらない。どうして?」

「璃玖さまは獣人族ですので、狼の性が強いのです一刻ほどかかるかと」

「止まらない。奏花、どうしよう……」

 茵に零れた精が溜まって行く。不安なのか、掠れた声で呟いて璃玖はさらに奏花へと這い寄った。璃玖は奏花の額へ自分の額を押しつけて蜜で濡れた己の蕊を奏花の花柱へ擦り付ける。裏筋をなぞり上げられて腰の奥へ切ない熾火が燻る。

「奏花……奏花……」

「璃、玖さま……っ」

 とろとろと流れ続ける蜜が淫猥な水音を立てる。璃玖の吐息が唇にかかる。目を上げると熱を孕んで蕩ける金色の虹彩が奏花を見つめていた。

「奏花……、……っ、たすけて、苦しいよ……」

「璃玖さま、璃玖さま、大丈夫ですよ……」

 半刻ほど経っているが、璃玖の蕊から蜜が止まる気配はない。璃玖の頬をゆっくりと、今まさに流れ落ちんとする涙を舌で舐め取り唇を重ねる。

「璃玖さま。大丈夫です。わたくしを見ていて。怖くありません。ね?」

 何度も軽く唇を重ねては離す、を繰り返す。とろりと蕩けた金色の瞳が奏花に気を取られているうちに、己の指を舐めて後蕾へ宛がう。奏花は花だ。しかもあらゆる植物の特性を己の身へ自在に現せる。本来の目的にすら使ったことのない慎ましやかな蕾へ己の指を押し入れる。

「んっ……」

 糊空木のりうつぎの粘液を分泌しながら、固く閉じた蕾を自らの指で割り開く。見えているから畏れるし気になるのだ。半ば恐慌状態になっている璃玖の目から、璃玖の雄蘂を隠せばいい。

「璃玖さま。大丈夫です。奏花がお傍に居りますよ」

 璃玖の頬を両手で包んで息を吐く。涙を流す小さな頭を抱き込んで、細いだけの奏花の体とは違う、引き締まった野生の動物のように敏捷な筋肉を纏った腰を跨ぐ。膝立ちになって、それからゆっくりと腰を落とす。

「あっ、あっ、ぁあ……」

 しぃ。大丈夫。だいじょうぶですよ、璃玖さま。何も怖くない。奏花はここに居ります。ね?

「ゆっくり、息を吐いて。わたくしを見ていてください。ね、怖くない」

 他人の器官が己の内側へ侵入する感覚。体が反射的に震えた。膨らんだ根元の手前まで腰を落として、もう一度璃玖の頬を両手で包む。

「璃玖さま。しばらくこうしていましょうね。もう怖くございませんよ」

 はらはらと涙を零す璃玖の頭を抱えて子守歌を歌う。

 ――銀色おおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

 銀色の髪へ唇を寄せて歌う。腹に密が溜まって行くのが分かる。目の端に涙の粒を乗せて璃玖が奏花を仰いだ。奏花の懐へ顔を埋めて深く息を吸い込むのが分かる。銀色の睫毛を眺めて、璃玖が落ち着いたことに安堵する。ほう、と呼気を漏らすと根元の膨らみを越えて璃玖の蕊が奏花の内側へ入ろうとするのが分かった。

「んっ……」

「あ……っ」

 奏花の動きが刺激になるのだろう。上気した頬、潤んだ瞳が奏花を上目遣いに見やる。刺激せぬように、というのは案外難しい。後蕾は筋肉に覆われているから、少しの動きも思わぬところに連動している。

「奏花……」

「はい」

「……っ」

 答えるだけで刺激になるのか。何かを堪えるような表情をした璃玖の額へ唇を押しつける。

「璃玖さま?」

「むずむず、する……」

「どうしましょう、奏花にはどうして差し上げたらよいのか分かりません……」

 身体の機能について理解していても、実際に体験がなければ意味がないのだ。知識だけで頭でっかちの奏花には、最適解が分からない。困って額を合わせて鼻の頭を璃玖の鼻の頭へそっと擦り付ける。微かに頭を左右へ振って、鼻の頭を擦り合わせ、璃玖の虹彩を覗く。

「璃玖さま?」

「……っ!」

 両手で尻を掴まれた。拗ねたような、焦れたような表情で睨まれて覚えず眉を下げて首を傾げる。何か気に障ったのだろうか。尋ねようと口を開いた瞬間、尻を掴んだまま力を込めて腕を上げられ、内壁を蕊が抜けて行く感覚に戦慄く。

「っ、あっ……!」

 ぬち、と蕾から淫らな水音がした。璃玖の肩へ掴まりながら、何とか体を支える。その間に璃玖は奏花の尻を掴んだ手を上下させるが、情けなく内腿が震えるばかりで若木のようにしなやかな体へ取り縋る。

「あっ、あっ……」

 気が付けば腕の力だけではなく、突き上げるように腰を打ち付けられていて膨らんだ蕊の根元まで割り開かれるたびにそれ以上先まで穿たれたら体が裂けてしまうのではないかという恐怖に怯えて身が竦む。その動きすら刺激になるのだろう。璃玖は荒い吐息をまき散らしながら、ひたすら奏花の中を擦り、突き上げることに集中している。

「ぁあ、あぁあ……こわ、こわい、りくさま、さけちゃう……っ」

 殺される、と思った。壊される。生まれて初めて抱いたこれは、「恐怖」だ。

 恐怖で体の動きが制限される。思うように動かせない体は、ただただ璃玖の小さな頭を抱えるのに精いっぱいだ。溺れる人間が小さな木片に縋る無様さに似ている。

「んぁ……っ、あぁ……っ、りくさま……っ、こわい、こわれちゃう……っ」

「……っ!」

 眉を顰めて強く体を引き寄せられる。体に上手く力が入らない。腕が酷く重い。鈍くなった体で必死に璃玖の頭を抱き寄せる。乱れてはだけた胸元へ吐息がかかる。今まで散々甘えて吸われた胸の小さな実を舌先で転がすように舐めしゃぶられて雷に打たれたように体を震わせる。

「――っ! んぅん……っ」

 おかしい。体が制御を失う。自分がどうなっているか分からない。夕焼け空を眺めた時のような正体不明の息苦しさが体中を駆け巡る。全身が総毛立つような、痺れるような、それでいて甘酸っぱいものを食べた時のような感覚が背骨をじわじわと這い上がる。

「あ、あ、あ、……っ」

 ああ、きっとこれは「死」に近い。己の意志に反して体が制御を失い、圧倒的な何かに蹂躙される感覚。背骨を這い上がる疼きと、腹の奥に重怠く溜まって行く痺れに体の中が掻き回される。滅茶苦茶に翻弄され、疼きが脳髄に達した瞬間、奏花の体から力が抜けて行く。まるで力を吸い取られたようだ。ぐったりと体が重く、自分の意志では指一本持ち上がらない。それなのに璃玖の蕊に穿たれた蕾の感覚だけはやけに鮮明で、奏花を殺す勢いで猛り狂っていた蕊が徐々に萎んで行くのが分かった。萎んで行く蕊の根元にあった膨らみも小さくなって行く。引き裂かれそうな太さだった蕊は容易に奏花の蕾の薄い萼を越えた。

「……んぁ……っ」

 ふ、と熱の籠った吐息を零して璃玖が胴震いする。根元まで蕊を押しつけ、それでも足らぬとばかりに奥へ奥へとさらに腰を進めることを止めない。眉根を寄せ、蕩けた金色の虹彩はまるで獲物を見るように奏花を射る。ぞくぞくと這い上がったのは、眠る璃玖の頭蓋を潰すことを考えながらもそれを懸命に堪えた時に似た愉悦。覚えず仰け反った喉に噛みつかれ、陶然とした喘ぎが零れた。

「ぁは……ぁ」

 そのまま喉笛を噛み千切って。突き上げて引き裂いて粉々に砕いて欲しい。欠片も残らぬように。

 やがて、完全に萎れて見慣れた形に戻った蕊がずるりと引き抜かれたのを感じたところで記憶が途切れた。

「奏花」

「……ん……」

 瞼が重い。腰も重たく、寝返りを打つのすら酷く億劫だ。それでも璃玖の声のする方へ顔を向ける。額にかかった髪を指で払われ、何とか目を開けた。

「奏花。大丈夫か」

「璃玖さま……大丈夫、とは……?」

 気遣わしげに覗き込む金色の虹彩へ微笑む。璃玖の頬へ手を伸ばそうとしたが、僅かに持ち上がっただけで腕が動かない。

「いい。無理をするな。梅花に頼もう。ごめんね、私が酷いことをしたせいだ」

「ふふ……璃玖さまがわたくしに酷いことなどするはずもございません」

 答えると璃玖は悲し気に目を伏せた。銀色の睫毛が震えるのをぼんやりと眺める。

「とにかく、体を拭こう。梅花」

「はい」

「湯と手拭いを用意して」

「承知しました」

 音もなく母屋を出て行く梅花を見やり、次第に鮮明になってきた視界に思考が追い付く。乱れた小袖は緩く合わされているが、袴も穿いていない尻の辺りが濡れているのが分かる。起き上がろうと膝を曲げると己の内腿同士が擦れた。

「……ぁ、ん……っ」

 覚えず甘い吐息が漏れる。奏花の体はたった一晩で変えられてしまった。璃玖は頬を染めて目を逸らす。

「奏花、今日は見回りを休む」

「いけません。わたくしはゆるりと過ごしますので、璃玖さまはお勤めに行かれますよう」

「でも、こんな状態の奏花を置いて行けない」

「梅花もおりますゆえ」

 奏花の返事に答えたように、梅花が湯桶と手拭いを持って来た。何とか体を起こしたが、腰から下の感覚が遠い。

「奏花。無理をしないで」

 璃玖に支えられ、茵へ座る。璃玖は奏花と目を合わせようとしない。

「いけませんね、日ごろの運動不足がこんなところで祟るとは。わたくしも初めての経験で戸惑っているだけですし、そんなに心配なさることもありませんよ」

「……うん……」

 それでもまだ気まずい様子で目を合わせない。そういえば璃玖も初めてのことなのだ。戸惑っているのだろう。湯桶に手拭いを浸してから軽く搾り、奏花の顔を拭く璃玖の好きにさせることにした。大人しく目を閉じる。胸から腹、太腿を拭いて汚れを湯で濯ぐ。再び太腿へ手拭いを当てたところで璃玖の手が逡巡する。

「璃玖さま」

「うん?」

「湯殿へ連れて行ってくださいませ」

「……うん」

 易々と抱え上げられていささか驚く。いつの間にか、奏花と変わらぬくらいの背丈になった。それでもまだ子供だと思っていたのに。湯船に浸かると献正家から太鼓が六つ鳴るのが聞こえた。

「大変! 璃玖さま、辰の刻ですよ。支度をしなくては。ああ、髪を結う時間がありますでしょうか」

 梅花に命じて手拭いで体を拭く。璃玖の体も拭いて、いつも通りに小袖を着せて母屋へ追い立てる。銀の髪を拭き、手早く結い上げる。どうにか立ち上がって、いつも通りに璃玖の背中へ手を添えた。

「今日のお見送りはここまででお許しください。さ、璃玖さま。いってらっしゃいませ」

「……今日は早く戻る」

 だから無茶はするな。とでも言いたげに璃玖は両手を下から掬うように支えて、奏花の目を覗き込んだ。軽く頭を傾けて頷く。何気ない仕草の一つ一つに思い知る。璃玖は優しい子に育った。奏花とは違う。

 母屋を出て、庭を行く背中を紗布越しに眺めて独り言つ。蘭、桃、牡丹、芍薬、蓮、紫薇、桂花、菊、水仙、芙蓉、柘榴……色とりどりに季節を無視して花が狂い咲く庭をもう小さくなどない若者が確かな足取りで出て行く。

「一緒に居られるのも僅かかも知れませんね……」

 大きく成った。正しく育った。奏花とは、別のものに育った。答えは出ているのだろう。

「奏花様。米がありませぬ」

 梅花が告げて命を待つ。少し考えてから手早く不言色の袴を穿いて白縹の袿を羽織り、母屋を出る。

「分けていただいて参ります。お前は屋敷を片付けるように」

「はい」

 梔子屋敷を出てすぐ、商家の並ぶ通りの向こうから煉義がやって来るのが見えた。

「花仙様」

「煉義さま。本日は夜勤にございましょう? 今、お帰りですか」

「ええ。引き継ぎをして少しふらふらしておりました」

「まぁ……ふふ」

 筋骨隆々の大男である煉義がふらふらという表現がおかしくて口元へ手を当てる。照れくさそうに後頭部を掻いた煉義はふと真面目な表情をした。

「花仙様、本日は若君はどこか具合が悪うございましたでしょうか」

「何故です?」

「引き継ぎの時、少し上の空というか心ここにあらずといった様子でしたので……」

 煉義と璃玖は交代に隊を率いている。その引き継ぎの時に様子が気になったというのだろう。煉義になら話しても大丈夫か。ちらりと見上げて手招きをする。通りの端へ寄って身を縮めた煉義の耳へ口を寄せた。

「実は璃玖さま、昨夜精通なさったのです」

「……! それは大変おめでたいこと」

「それがわたくしが上手くお伝えできずに怯えてしまって、酷く心が乱れたご様子なのです」

 怖いと泣いてしまわれて。視線を落とすと大きな手を肩に添えられた。

「なぁに、六太とそういう話をするようになれば年頃の男とはそういうものだと理解いたしますよ。あまり思い詰められませぬよう」

「ありがとうございます。いけませんね。知識はあってもどうして差し上げればよかったのか。とんと見当もつきませぬ」

「花仙様も……その、男、でしょう」

 言いにくそうにもごもごと煉義は口の中で言葉を転がしながら、見ている方が哀れになるくらいに目を泳がせた。最後に奏花の胸の辺りへ視線を落とし、不躾であったと恥じるような表情をする。熊のように大きな体を縮めた仕草に覚えず頬が緩んだ。煉義はそれが当然だとでも言うように、魂の底から善人である。そのことがほんの少しだけ羨ましいような気がした。

「父や母は人で在った頃がございますが、わたくしは生まれつきこうでしたから。体は男という形を持っていて、知識はあっても実際にそういうことには全く欲が湧きませんので分からないのです」

「なるほど。花仙様は花なのですね」

 曖昧に微笑んでみせる。奏花は人ではない。そんなこと、分かり切っていたのに。

「様子を見て私からも話せる時に話しておきましょう」

「ありがとうございます。そうしていただけるととても心強いです」

「お任せください」

「お願い致します。それと、このことは他言無用でお願い致します」

「臥世真君が知ったら大変でしょうね……」

 頷いてため息を吐く。頬へ手を当て、首を傾げて小さく顔を横へ振って見せる。

「父上は少し子供の気持ちというものに鈍感で。ただでさえ己の体の変化に戸惑っておられる璃玖さまを、傷つける結果になりかねませんので……」

「あい分かり申した」

「ありがとうございます」

 一礼すると、去り際に煉義は一言、尋ねる。

「花仙様」

「はい」

「実は手前、幼い頃に一度花仙様にお会いしたことがございます」

「……そうだったのですか」

「この干浬で再びお会いした時にまるで夢のようだと思いました。……幼い頃の記憶にあるお姿と、一つも違わなかったので」

「……そう、でしょうね」

 茫洋と呟く。奏花では足りぬことはこの先増えて行くだろう。これを機に煉義に任せるのは良いことかも知れない。詰所へ向かう煉義の大きな背中を見送る。風が奏花の髪をさっと撫でる。世界中でたった一人、この場所に立っているような感覚に目眩がした。

 答えなど、とうに出ている。

 ここからの四年は、璃玖がこの地で生きていくための基盤を作る四年だ。奏臥や禄花もいつまでもこの地に留まるとは限らない。これからは煉義や六太、雪牙隊の隊士たちが璃玖の家族になって行く。そうあるべきだ。

 薬草や薬と引き換えに米をもらって梔子屋敷へ戻る。屋敷の門の前に奏臥が立っていた。

「父上、どうなさったのです」

「入れぬ」

「わたくしと璃玖さま以外には招かれぬ限り入れぬようにしてありますゆえ」

「……」

 奏臥は不機嫌に眉を顰め、それから藁を撚った縄で括られた魚を突き出す。

「璃玖が少し、体調を崩しているようだったのでな。戻ったらこれを」

「昨日、詰所にて少し御酒をいただいたようで。御酒が体に残ったのでしょう。魚はありがたく頂戴します。父上がくださったと伝えればお喜びになりますよ」

「禄花のような酒豪になられても困る」

「ふふ、全くです」

「うむ」

 精通したなどと言えば、奏臥はまた騒ぎ出すだろう。己の体の変化に戸惑っている璃玖にとってもそれは良いこととは言えない。璃玖にも口止めしておこう。

 立ち去る気配のない奏臥に一つ、息を吐き出して門の中を手で指し示す。

「どうぞ。御酒でもお出ししましょう」

「うむ」

 屋敷の中が気になっていたのか。季節を無視して狂い咲く花の庭を抜け、寝殿へと奏臥を案内する。張り巡らされた紗布に奏臥は何故か、僅かに微笑んだ。

「いかがなさいました、父上」

「いいや。お前らしいと思って」

「この屋敷がですか?」

「ああ」

 梅花に命じて酒を用意させ、蔀戸を全て上げて庭を眺める。

「花神の庭か」

「お気づきでしたか」

「しかし梅がない」

「梅は居りますゆえ」

 膳を置いて立ち去る梅花を眺め、奏臥は扇で手を打った。

「なるほど、梅花たちで十二の花か」

「はい」

「十二の花神で屋敷を守るか。お前は兄上と同じで結界術が得意であったな」

「……叔父上は強固な結界の中にも遊び心や雅を取り入れる方でしたね」

「お前が兄上の粋を継いでくれるのならばこれほど嬉しいことなどない」

 奏臥も禄花も結界術はさほど得意ではない。だから気づくはずもない。この梔子屋敷の結界は、満開の花弁のように八重に十重に、百もの術が重ねてあるなどと。奏花と璃玖以外の人間は入れぬように施した術など、表面のひとひらに過ぎない。

「ではな。馳走になった。一度、禄花も招いて安心させてやってくれ」

「はい。外までお見送りいたしましょう、父上」

「うむ」

 綻びはないだろうが、余計な場所を歩き回られても困る。梔子を横目にゆったりと門を出ると、遠くから璃玖が銀奏で駆けて来るのが見えた。奏臥や禄花、奏花たちが頻繁に木鹿で行き来するせいだろう。干浬の人間はこの大きな狼の式神にもすんなりと慣れてしまっている。

「おじい様!」

 銀奏は巨躯をふるりと震わせると梔子の花を一輪残して消える。奏臥に深く一礼して、それから奏花へ気遣わし気な一瞥を送る。

「随分早いな、璃玖。まだ未の刻だぞ」

「少し体調が悪いので、早引けさせてもらいました」

「大丈夫か? 奏花、しっかり診てやりなさい」

「はい」

「おじい様が梔子屋敷へおいでになるのは初めてですね。いかがなさいました?」

「何、璃玖へ魚を持って来ただけだ」

「……ありがとうございます」

「うむ。ではな」

 私を気にせず早く休みなさい。そう言い残して木鹿に乗って立ち去る奏臥を二人してしばらく見送った。

「奏花、休んでいなくていいの? ああ、でもおじい様が来たのに休んでなんていられないか……」

 手を引いて屋敷の中へ導かれる。自分の心の整理もできていないだろうに、璃玖は奏花の顔を心配そうに覗き込んだ。

「大丈夫。わたくしは傷も怪我もすぐに癒えるのですよ、璃玖さま」

 少し切れ長になった瞳を見開き、奏花を捉えてそれから璃玖は眉を寄せた。

「だからといって、痛みがないわけじゃないでしょう?」

「……」

 ああ。ああ、この子はどこまでも。白い布を踏み躙ってやりたいような、美しい絹織物を泥の中へ放り込んでやりたいような、感情の波に支配された。

「璃玖さま。わたくしは不老不死なのですよ。死ねないのです。何度試しても死ねませんでした」

 璃玖は動きを止め、目玉だけを忙しなく彷徨わせた。

「どう、して」

 どうして死のうとしたのか。そう言いたいのだろう。まるで夕餉は何が食べたいですかと尋ねるが如く、軽く笑みを浮かべて答える。

「璃玖さま。外見だけなら、わたくしはいくつに見えますでしょうか」

「……私より五つほど上かと」

「百年です」

「……え?」

「十六、七の姿に見えるようになるまで、百年かかりました」

 金色の虹彩が揺れる。聡い璃玖は、奏花の言わんとするところを察したのだろう。奏花の手を掴んだ指に力が籠るのが分かった。

「食事も睡眠も必要とせず、この先どれほど生きるのかも分からず、首を落としても死ぬことはなく、翌朝には何事もなかったかのように元通りに再生されている。そんな生き物は生きていると言えるでしょうか」

 そんな生の中で正気を失えたのなら、楽だったのかも知れない。だが奏花は正気を失うこともできなかった。僅かばかり、狂えただけで。淡々と。ただ淡々と、この世界の異物であると日ごとに実感させられるだけの生に意味はあるのだろうか。

「……それでも奏花は私を救ってくれたから。痛い思いも、苦しい思いも、辛い思いも、悲しい思いも、して欲しくない」

 温かな手が奏花の手を包む。もうすっかり奏花よりも大きくなった手ですっぽりと包んでしまう。けれど温もりは、あの頃のまま。

「璃玖も、眠らずにいられたらいいのに」

 わざわざ腰を折ってやらねば届かなかった奏花の首へ易々と手を回し、璃玖が囁く。

「奏花と、同じになれたらいいのに」

 鼻の奥がつんと痛んだ。吹き荒れた嵐に心の中が騒いだ。

 同じに狂ってくれたらよかった。同じに狂わずにいてくれてよかった。同じに絶望してくれたらよかった。同じにこの世界を嫌ってくれたらよかった。同じに。

 同じにならずに済んで、よかった。

 いつも同じだ。結局、奏花は璃玖を巻き込むことを恐れている。吹き荒れた嵐はぴたりと止んで不意に心は凪いだ。

 両手に包まれた手を、空いた手で軽く押さえて引き寄せる。

「……璃玖さま。お腹は空いておられませんか。食事にいたしましょう。父上が釣って来た魚もございます」

「……うん」

 それ以上追及しようとしない聡さが、優しさが、余計に悲しい。奏花と璃玖は違う。奏花は腐っているのだ。土に還ることもできずに腐敗し、悪臭をまき散らすだけの醜い、死体にもなれぬ哀れな理から外れた、野ざらしの悼ましい屍。

「食事の前に湯あみなさいませ」

「……奏花も?」

「……ご一緒してよろしいのですか」

「……うん」

 どうせ屋敷には奏花と璃玖しかおらぬ。水干と単を脱がせ、袴に手をかけて顔を上げる。璃玖は顔を背けて唇を噛んでいる。

「しばらくは自分の思うようにならないものなのですよ、璃玖さま」

 微笑んで小袖の裾を割る。緩く身を擡げた蕊を手で優しく扱く。徐々に形を変えた雄蘂は奏花の目の前で先芽から蜜を零す。ああ、やはり。甘い癖にどこか獣じみた麝香が薫る。不意に奏花のように狂うことなく育った璃玖に対して、どす黒い澱に似た感情が渦巻くのを感じた。

 狂ってしまえ。堕ちてしまえ。

 屹立した蕊を緩く握って、根元へ吸い付く。びくりと体を震わせ、奏花の頭へ手を置いた璃玖はそのまま尻餅をついた。軽く膝を曲げた状態で呆けている璃玖の小袖は足元がはだけて秘所が露わになっている。膝を掴んで開き、体を進めて足を割り開くと蕊の先へ舌を這わせた。

「……っ、奏花……っ」

「大丈夫です、昨夜も申し上げましたでしょう? 出してしまえば治まります」

「い、いやだ……っ! ダメだ、そんなところを舐めては……っ」

 青臭い麝香の蜜を零す蕊を舐めしゃぶる。己の袴を脱ぎ捨てて後蕾を指で解す。確認せずとも璃玖の視線が蕾へ釘付けになっているのが分かる。限界まで怒張した蕊から口を離し、足を広げて蕾を指で広げて見せた。粘液をたっぷりと分泌して、耳が穢れるような淫猥な音を立てながら、自らの蕾を割り開く。

「璃玖さま、どうぞ」

「――っ、っ、っ!」

 上気した頬、引き結ばれた唇。顔を歪めて奏花の足首を掴んで璃玖が覆い被さって来る。哀れな若君。異形のあなたは、同族の女子を抱くことすらできない。代わりに抱けるのは、この狂った化け物だけだ。大声で笑いたいのをどうにか堪える。代わりに零れたのは、自分の声とは思えぬほどに甘い音吐。

「あっ、あっ、あぁは……っ」

「――っ、どう、して……!」

 割り開かれ、押し入れられ、突き上げられて嬌声をまき散らす。忘れるだろうか。哀れな異形のあなたが、例え誰かに受け入れられたとしても。初めに抱いたのはこの狂った花だと言う事実は覆ることがない。

 狂え。堕ちろ。

 けれどもきっと、あなたは狂いも堕ちもしない。狂うのも、堕ちるのも奏花一人だ。

「っぁは、ぁあ、はぁあ……っ」

 昨夜のような遠慮はない。根元の瘤まで挿し入れられ、さらに奥へ奥へと腰を押しつけられて懇願する。壊してください。もっと。引き裂いて殺して。狂わせて。

 刻みつけてください。百年隠し通したわたくしの狂気を暴いたのは、わたくしを壊したのは、あなた。あなたがわたくしの背中を押したのです、璃玖さま。

 たっぷりと一刻以上かけて奏花の腹へ蜜を注ぎ、荒い吐息で奏花へ覆い被さった璃玖の髪を指先で綺う。繋がった場所から濃い麝香の香りが漂う。乱れてはだけた小袖は申し訳程度に、ようよう奏花の体へ引っかかっているような有様だ。

「……璃玖さま。湯殿まで連れて行ってくださいませ……んぁっ」

 掠れた声でねだると、璃玖は眉を寄せそれから無言で腰を動かした。腰へ足を絡ませ、璃玖が動きやすいように体勢を変えると片方の足首を掴まれ、肩へ担がれた。深く穿たれて息も絶え絶えに喘ぐ。

「んぁ、あぁ、……っぁあん」

 再び膨らんだ根元に慎ましい蕾はそれ以上引き抜かれることを拒む。片足を掴まれ、楔を打ち込まれたままひっくり返され、突き上げられながら注ぎ込まれる大量の蜜に腹が破れるのではないかと怯えた。怯える奏花の首へ鋭い牙が突き立てられる。背中に触れる毛の感触に璃玖が狼の姿になっていると悟った。必死に腰を突き上げて、璃玖へと押し当てる。首を暖かくざらりとしたものが撫でていくのが分かる。さらに容赦なく突き上げられ、引き抜く腰の動きにつられて膝が浮く。

「あぁ、あぁあ……っ、璃玖さま、こわ、こわれるぅ……っ」

「っ、はっ、はぁ……っ、はぁ……っ」

 荒い吐息がすぐ耳の横にある。人の姿に戻ったのか。まだ注がれる感覚と、重たく薫る麝香の匂い。背中に押し当てられたのは滑らかで敏捷な若枝の筋肉。肌が擦れ合うと麝香はさらに強く香る。とろんと重怠い感覚に動けずにいると、肩を噛まれた。反射で体がびくりと跳ねる。つられて締まった蕾に璃玖の蕊もどくん、と脈打つのが分かった。好きなだけ蜜を吐かせる。体を起こされ、胡坐をかいた璃玖の上へ腰を落とすような体勢で再び突き上げられても、掴まる力すらなくなすがままに揺さぶられてゆらゆらと躍る。喘ぎ声すら零せずに喉から漏れたのは呼気を吐くひこひこという音だけ。注がれ過ぎた蕾は緩んで、引き抜かれた後にこぽこぽと蜜が零れるのが分かった。汚れた小袖に包まれ抱き上げられたが指一本上げられない。小袖のまま湯船へ浸され、湯の中で小袖を剥ぎ取られた。丁寧に体を拭われ、目を閉じる。

「奏花は眠らないんじゃないの?」

「……必要ない、だけです。眠ることはできます。ただ必要ないので人のように毎日眠ることができません」

 必要ないのに眠るふりだけをすることもできる。だがすぐに飽きた。起きているのも、眠るふりをするのもどちらも飽きる。ならば起きて何かをしていた方がまだ有意義である。飽きるほど時間があるというのはそういうことだ。

 再び目を閉じる。瞼が重い。おそらくこれは疲労、なのだろう。奏花は今までに一度も限界まで己の身体を酷使したことがない。

「奏花?」

「……ん、はい……」

「眠いの?」

「眠くはないのですが……体が重いです」

 体、というよりは腰、だろうか。腰を中心にどことなく体が鈍く重い。

「梅花」

 目を閉じたまま梅花を呼ばう璃玖の声を聞く。そういえばずっと声が掠れていて風邪かと心配していたが、少し声が低くなったようだ。突然抱え上げられて目を開く。仰いだ璃玖の顔は、もう童のいとけなさのみが前面に押し出された甘ったるいそれではない。揺らぎすら美しい、少年から青年へと成長して行く危うさや妖しさがある。しばらく無言で見つめ合っていたが、璃玖は梅花へ奏花を預けた。

「支えていて。奏花、体を拭くよ」

「はい」

 自分でできる、と断る力すらなかった。されるがままに体を拭かれ、梅花の差し出した小袖を羽織る。沼に足を取られた人間のように、自分の動きが酷く鈍いのが分かる。帯を結ぶのすら面倒で、そのまま歩き出そうとした奏花の体を璃玖に軽々と抱え上げられ渡殿を行く。途中で気づいて梅花に命じた。

「璃玖さまの食事の用意を」

「はい」

 茵に下され、滅多に使わぬ脇息を引き寄せて肘をつく。

「こうまで体力がないとは。父上にお願いして剣の稽古でもつけていただいた方が良いやもしれませんね……」

「奏花に剣は似合わぬ」

 常とは逆に璃玖が奏花の髪をまとめる程度に結って答えた。自分で髪を拭いて緩く横に結わえる璃玖の手元をぼんやりと眺める。

「奏花、水を用意させようか」

「いいえ、璃玖さま。大丈夫でございます」

 普段はしない行動ばかりの奏花を気遣う璃玖の手の甲を押さえた。それでも璃玖は思案顔で奏花の肩を引き寄せ、梅花を呼ばう。

「梅花、奏花に水を」

「はい」

 肩を抱き寄せられたまま下唇へ湯飲みを宛がわれる。上目遣いに璃玖の顔を窺いながら、少しだけ水を啜った。

「璃玖さま、お食事なさってくださいませ。わたくしは平気ですので」

「……うん」

 何度も上目遣いに奏花へ視線を送りながら、もそもそと食事をする璃玖を眺める。梅花が奏花の脇へ酒を載せた膳を置いた。梅花たちが袖で口元を隠してほほほ、と笑う。紗布が風を抱いて外へ内へと膨らみ萎むを繰り返すたび、庭の景色は遠くなったり近くなったりしている。

「静かにございますね」

「うん」

 ああ。

 ああ、と心の中でため息を吐く。ここがそうなのだろう。今が、「そう」なのだ。

 璃玖は、奏花の年を越えていく。もう奏花の庇護を求める子供ではなくなったのだ。その軋みが、今始まったのだろう。誰よりも奏花の近くに居た璃玖だからこそ、その軋みは大きい。また奏花は置いて行かれるのだ。

「璃玖さま」

「うん?」

「雪牙隊の皆さまと御一緒に、詰所に泊まられるのはいかがでしょう」

 かたり、と箸を膳へ置いて璃玖は顔を上げた。

「奏花は」

「はい」

「奏花は、その方がいいと思うのか」

「もちろん、璃玖さまがお嫌ならば今まで通りにこちらでお過ごしになられると良いかと」

 脇息を脇へ退け、膝でにじり寄る。握り締められた璃玖の手へ触れ、一房落ちた銀色の髪を耳へ掛ける。

「もう、奏花が璃玖さまの為にできることはそんなに多くありませぬ。でも雪牙隊の皆様と過ごすことで学べることは多いでしょう。璃玖さま。璃玖さまは、大人になられたのですよ」

「……大人になんか、なりたくないよ」

 抱きしめられて簡単に後ろへ倒れてしまう。梅花たちがほほほ、と笑いながら膳を片付けて立ち去る。着込んだばかりの小袖を肌蹴られ、璃玖の頬へ手を伸ばす。

 手放せ、手放すな。狂わせろ、狂わせたくない。壊せ、壊すな。

「奏花とずっと、一緒に居たいだけなのに」

「璃玖さま。わたくしと璃玖さまは、ずっとは一緒に居られないのですよ」

「どうして?」

「……例え本物ではなくとも、わたくしと璃玖さまは親子だからです」

 それ以外のものであってはいけない。それは正しくない。本当は璃玖にもそれが分かっているのだろう。だから揺れている。だから戸惑っている。それは必ず、璃玖にとって悩みとなるだろう。

「わたくしが父母の元を離れたように。璃玖さまも近いうちにわたくしと離れて暮らし、いつか家族を作らねばなりません。そのためにも、詰所で暮らすのは良いことなのです」

 これは間違っています。これはわたくしの過ちです璃玖さま。静める方法はお教えしましたね。男は皆、自分で処理するものです。煉義殿や六太さんに教えていただくのが良いでしょう。

「ですから璃玖さま。璃玖さまはそんなにご自分を責めなくとも良いのです」

「違う!」

「璃玖さま」

「違う違う、ちがう、違う!」

 痛いほどにきつく抱きしめられて揺さぶられる。

「違う。違う、奏花」

 金色の虹彩を吸って流れる雫はきらきらと零れ落ちる。舐め取りたい気持ちを堪え、親指の腹で拭う。

「違う。奏花はずっと大事な人だった。親ではない。ずっとずっと、私には奏花しか居なかった。ここに」

 手を取って、璃玖の心臓へ宛がわれる。ことりことりと鳴るその音を、毎晩聞いていた。

「ここにずっと、奏花しか居ない」

 ああ。ああ、何と哀れな。何と愚かな。何と愛しい。

「璃玖さま。そこへ棲まわせる人を増やしていくのですよ。これから、大事な人を増やしていくのです。いつかわたくしより大事な人がきっと見つかります」

「そんなの現れない!」

「いますよ。きっと現れる。ですから、どうか」

「嫌だ!」

 いやだ。嗚咽の合間に小さく呟く璃玖の背中へ手を回す。狂ってしまえ。壊れてしまえ。そう願うのに、同時にどうしようもなく期待してしまう。正しく育て、離れて育て、と。突き付けて欲しい。証明して欲しい。化け物は、奏花だけだと。壊れているのは奏花だけだと。

 ――かわいいおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。銀色おおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

 璃玖の背中をあやすように撫でながら歌う。やがて嗚咽も切れ切れになり、安らかな寝息を聞きながら闇を見つめる。

 ――かなしおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

 その日から奏花は、山梔子屋敷に籠りがちになった。久々に禄花と顔を合わせたのは梅雨明け、七夜月の中頃だった。

「屋敷に籠って何をしていたんだ?」

「母上……、お久しぶりでございます。誰が書いても効果のある結界を考えておりました」

「それはまた……出て来たということは、完成したのだろう?」

「ええ。試していただきたくて詰所へ参りました」

 奏花の手元を覗き込んで、図案や文字のびっしり書かれた紙を指でなぞる。

「ふむ……。間違いも少なく、誰にでも書けるよう簡略化されているな……」

「はい。なのでこういうものには一番疎そうな煉義殿に書いてもらおうかと」

「あっはっは、お主もそういうところは容赦ないのう」

 夜警と昼警の兵士が引き継ぎをしていたのだろう。東の対から兵士たちが出て来る。渡殿を煉義がこちらへ向かって来るのが見えた。

「煉義殿、少しお話が」

「奏花!」

 腕を引かれて簡単に体はくるりと回る。璃玖の腕へ抱き込まれ、禄花からも煉義からも少し距離を空けさせられる。

「璃玖さま。おかえりなさいませ」

「うん」

「ご夕食は?」

「梔子屋敷で摂る」

「分かりました。その前に少し、煉義殿とお話がありますので璃玖さまは先に屋敷へ戻ってくださいませ」

「待ってる」

「しかし」

「待ってる」

「……分かりました」

 背中にべったりと璃玖を貼り付かせたまま、煉義へ向き直る。

「煉義殿、この図案を書いてみていただきたいのです」

「花仙様、これは?」

「結界です。これを誰が書いても効果が発動するものにできれば、雪影への対策が強化できると思いまして」

「さすが花仙様。試してみます」

「できれば今、書いていただけるとありがたいのですが」

「分かりました」

 首を巡らせ、寝殿の方へ向かおうとした煉義に着いて行こうとする奏花の手を、璃玖が掴んだ。

「では煉義、後ほど梔子屋敷へ持ってまいれ」

「璃玖さま、それは煉義殿に失礼でしょう」

「煉義はこれから夜警だ。後で良かろう」

「璃玖さま、わたくしここで待ちますので」

 璃玖の前腕を押さえる。振り返った切れ長の瞳は鋭く煉義へ向けられている。

「煉義」

「はい」

「夜警後、屋敷まで持って来てくれるな? それに時間をかけて丁寧に書いた方が良いだろう? 奏花」

「……それは……そうですが……」

「では良いな。おばあ様、失礼致します。夜警を頼む、煉義」

「うむ」

「ご苦労様でございます、璃玖様」

「璃玖さま、待ってくださいませ」

 奏花の話を聞かず、璃玖は手を取り歩き出す。

「……母上、ではまた」

「おう。ではな」

 階を下りて庭を引き摺られながら禄花の呟きを耳に入れる。

「のう、煉義殿……その、悪化してないか?」

「ですね」

 何のことを言っているのか、一目瞭然だが璃玖は一向に足を止める気はないようだ。

「璃玖さま、手が痛うございます」

「……」

 手首を掴んでいた力が緩む。手を離し、再び差し伸べられた手のひらへ手を重ねる。抱えるようにして銀奏の背へ乗せられ、金色の虹彩を仰ぐ。

「気をつけて。おばあ様は目ざとい」

 囁かれて首を傾げる。下したまま束ねることもせず流している髪を掻き分けるように、項を指で撫で上げられた。

「昨夜、噛んだ跡がある」

「あっ……」

 慌てて項を押さえたが、今さらだ。禄花に見つからなかっただろうか。璃玖の言うように、禄花は目敏い。

「用があれば私が伝えると言ったよね?」

「しかし、こうも長い間母上とも父上とも顔を合わさぬのは心配なさるでしょう」

「心配ならば屋敷へ来るだろう」

「……」

 来るわけがない。璃玖に後四年しかないのだから、二人きりにしてくれと言われたら奏臥も禄花も遠慮するだろう。心配したのか四月ごろには頻繁に訪れていた煉義も、最近は顔を見せなくなった。今日の璃玖の態度で何事かを悟ったに違いない。ふう、と耳元でため息を聞く。

「これではまた、出られないようにしておくしかなくなる」

「……」

 視線を落として銀奏の首筋を撫でた。体中に散った花弁は見る人が見ればすぐに分かるだろう。聡い者が見れば、その花弁を誰が奏花の体に刻んだのかも思い至る。それを奏臥が知ればどうなるか、璃玖とて分からない訳ではないだろうに。

「奏花にとっては知られてしまった方がいいのだろう。そうすれば、四年も待たずに私から離れられる」

「璃玖さま、そうではありません。わたくしはただ、璃玖さまに幸せになっていただきたいのです……」

「私の幸せ、か」

 璃玖の声音には自嘲が滲む。今からでも遅くない。親子に戻れるのであれば、戻る方がいいのだろう。それが分からぬ璃玖ではあるまい。

 梔子の狼は風のように大路を駆け抜け、塀をぽんと飛び越えて花神の庭へ降り立つ。先に降りた璃玖が当たり前のように奏花へ手を差し伸べた。その手を取って白砂を踏みしめる。

「少なくとも母上は先ほどのやり取りで何があったかを考えるでしょう」

「その方がいいのだろう?」

「……」

 答えられずに双子の月を見つめる。璃玖が、酷く傷ついた表情で奏花を見つめ返す。受け入れてはいけない。憐れんではいけない。

 ――しては、いけない。

「……?」

 過った考えに驚き、胸を押さえる。

「奏花? 胸が痛むのか?」

「……いいえ。いいえ、璃玖さま」

 痛むはずなどない。痛みなど忘れた。心も体も、痛みに慣れれば鈍くなる。けれど慣れることができぬのは、快楽であると奏花は知ってしまった。

 袿を肩から払われ、袴を解かれて顔を背ける。小袖のみになった奏花は抱え上げられ、母屋の中へと運ばれる。御帳台へ下ろされ、帯を解かれて貧弱な体を夜気へ晒す。

「璃玖さま、お食事、は」

「後でいい」

「ん、むぅ……っ」

 口の中を舐め回され、舌を絡め取られると抵抗する気など霧散してしまう。自ら足を璃玖の足へ絡め、擦りつけて胸を差し出しはしたなくねだる。

「璃玖さま、ここもかわいがってくださいませ」

 奏花以外を心へ棲まわせろだなどと笑わせる。誰にも譲らぬ。誰にも触れさせぬ。誰にも。この哀れな狼を、誰にもくれてやるものか。

 璃玖を誘うために膨らみ粒立つ胸の突起を舌先で転がされて甘い声で喘ぐ。璃玖を受け入れるためだけにある蕾はしとどに濡れて蕊を咥え込みたいとひくつく。

「璃玖さま……」

「拒まぬくせに……っ!」

「あっ、あっ、ぁあ……っ」

 蕾は割り開かれ、花弁の代わりに淫猥な水音をまき散らす。体の一番奥まで突き上げられ、注がれる蜜に淫らな音を吐く壊れた楽器になる。

「ぃ、いぃ、ああ、りくさま、きもちいい、ぁあ、いぁあ……っ」

 何度も気を遣り意識を失い、目を覚ますのは日が中天に上ってから。そんな毎日だから、出かけることも叶わない。御帳台で寝がえりを打つと、璃玖は既に詰所へ向かった後のようだった。

「奏花様。お客人が」

 重たい瞼を上げると、梅花がほほ、と笑った。

「誰が来た、と?」

「煉義殿です」

「……お通しして」

「はい」

 体を起こして小袖の上へ袿を羽織る。袴は見つけられなかった。ようよう御帳台から這い出し、茵へ座って脇息を手繰り寄せる。己から強く麝香が薫った。案内して先に立つ梅花に続いて母屋へ入って来た煉義は、奏花を認めると酷く狼狽え、顔を真っ赤にして俯いた。

「……花仙様、……っ、お加減がよろしくないのですか」

 遠回しな物言いに覚えず苦笑いする。袿の合わせ目を掴み、首を傾げて見せる。

「璃玖さまの体力に付いて行けませぬもので」

「……っ、昨日の結界を書いて参りました」

「お手数をおかけしました」

 赤くなって目を合わさぬ煉義へ、梅花が酒を出す。煉義は丁寧に断って奏花へ向き直り背筋を伸ばした。

「雪月花仙様には璃玖さまが精通なさったこと、それで兵士たちの奏花様への猥談の意味が実を伴って過敏に反応しておられる、と説明いたしております」

「……なるほど。さすがは煉義殿。お心遣い感謝いたします」

 となれば禄花は璃玖が精通したことをできるだけ奏臥に隠そうとするだろう。奏臥はどうにも人の心の機微に疎い。奏臥が璃玖の心を傷つけないよう、先回りをしてくれるだろう。

「煉義殿」

「はい」

「一つ、頼まれてはもらえませんでしょうか」

「は」

 袿の合わせ目を指で弄って、目を伏せる。口ごもる奏花を、煉義はちらりと仰いだ。

「……璃玖さまに、遊女を……紹介してはもらえませんでしょうか。できれば、その、……少し、性器の形が人とは違うことや、一刻以上精を吐き続けることや、途中で狼の姿になるかも知れないことを承知していただける方を」

 ぽかん、と口を開いたまま煉義は奏花を見つめている。息を吸い込み、口を開きかけ、それから唇を舐めて俯き、もう一度息を吸い込んで何事か口にしようとしてさらに目を閉じて俯き、煉義は長い間黙り込んだ。

「……なぜ、あなたがそこまでなさる必要があるのです」

 何故。何故と問われるとは思っていなかった。少し考え、それから口にする。

「……これ以上、あの方に『姿が他と違うから』という理由で拒絶される経験も、存在を否定される経験も、怯えた目で見られる経験もして欲しくないのです」

「……けれどあなたは違う」

「そうです。わたくしだけは、この世で何があってもあの方を拒絶も否定もすまいとしてきたつもりです。けれどわたくしは間違った。間違ってしまったのです」

 そう。奏花は間違ったのだ。

「親のようなものとして、母のようなものとして、例えなりきれなかったとしても、偽りだとしても、そういう存在としてあの方を拒絶も否定もしなかった。けれど、わたくしはあの方を『おなごの代わり』として拒絶も否定もせずに受け入れるべきではなかった」

 だから揺らいだ。だから崩れた。だから璃玖を迷わせた。奏花は、その部分で璃玖を受け入れるべきではなかったのだろう。

 煉義も奏花も、互いへ視線を合わせず床を眺める。しばし沈黙した後、煉義は深く息を吸い込み、重く吐き出しながら答えた。

「……分かり申した。ただし、璃玖様がお断りになられたら無理強いはできませぬ」

「……そうですね。それでも良いのです。お願いできますか」

「……お引き受けいたします」

「無理を言って申し訳ありません」

「いいえ……その、花仙様」

「はい」

 煉義の瞳には、不思議な温かさが揺れている。

「無理をしてはおられませんか」

「いいえ。……いいえ」

 微かに首を横へ振り、唇の端を吊り上げる。袿を弄って視線を逸らすと、御帳台の近くに璃玖の書きつけが置いてあるのが見えた。梅花が拾って奏花の元へ持って来る。

 早く帰る。屋敷から出ないで待っていて。

 短い文字に目を閉じた。

「……煉義殿にご心配をおかけするようなことは何もございませんよ」

「……そうですか。では、私はこれで」

「わざわざお訪ねいただきありがとうございました」

 見送るために立ち上がろうとする奏花を手で制して、煉義は頭を垂れた。

「花仙様はご自覚ないようですが、目に毒ですので今日はお屋敷からお出にならぬ方が良いでしょう」

「……煉義殿はお上手ですね」

「世辞ではござらん。やれ、これでは若君の心配も頷ける」

 さっぱり意味が分からない。しかし体が重いのは確かで、動かずにいていいと言うのならば有り難い。

「梅花。お送りして」

「はい」

 去り際に煉義は半身を庭へ向け、立ち止まった。

「花仙様」

「はい」

「確かに童は、母御から無条件に肯定され、愛され育つものです」

 大きな体が慎重に言葉を選んで静かに言を繋ぐ。

「けれど必ずどこかでいつか誰かに、己を否定され拒絶される経験をするものです」

「それでも童が大人になるのは、無償の愛を知っているからです。……だからこそ、わたくしは璃玖さまに無条件の愛を注ぐ必要があった」

「あなたはご自分を偽りとおっしゃった。けれど花仙様。あなたが若君に注いだそれは、深い無償の愛情と何が違うのでしょう」

 奏花の狂気を、愛情だというのか。

 煉義の立ち去った後の庭へ見るとはなしに目を向けた。紗布が膨らみ戻りを繰り返す。景色は遠く近く。まるで腕に抱いた璃玖の、安らかな寝息のように満ち引きする。

 紗布を眺めながら脇息へ顔を伏せるようにして頽れる。痛みには慣れる。喪失にも慣れる。だから期待してはいけない。

 あの子は奏花にはならない。あの子は奏花とは違う。あの子は人だ。あの子は正しく生きる。

 あの子を、欲してはいけない。

「頭蓋を潰してしまえばよかったのに」

 柔らかい肉を引き裂いてしまえば良かった。心臓を抉り出してしまえば良かった。目玉を抉って口に含めば良かった。

 最初から。

 ああ、偽りでも歪でも最初から愛さなければ良かった。

 狂い咲く花神の庭へ下り煉義の書いた結界を試す。書きつけ通りに早めの帰宅をした璃玖は、庭に入るなり口を開く。

「おばあ様が、煉義の書いた結界はどうか、と」

「成功のようです。明日、母上に届けていただいてよろしゅうございますか」

「うん」

 紙を差し出した奏花の腕を掴んですっぽりと腕に包んでしまう。

「璃玖さま、今日こそはきちんとお食事なさってくださいませ」

「うん」

 どうにか顔だけを動かし仰いだ奏花の唇を啄んで目を閉じ、額を押しつけたまま璃玖は黙っている。

「璃玖さま。璃玖さまはわたくしと違って、お食事せねば体が弱りますゆえ、どうか」

「……分かっている」

 渋々という様子で頷いた璃玖の手を引き、母屋へ上がる。梅花が用意した膳の前へ座らせると、璃玖は奏花へ箸を差し出した。

「食べさせてくれ」

「えっ?」

「奏花が食べさせてくれ。どうせここには私たちしかいない」

「……六太さんにからかわれますよ?」

「奏花と私が言わなければどうやってからかうんだ」

「……」

 それはそうだが何年も前に一人で食べると嫌がって以降、一度も食べさせろだなんて言わなかったのに。釈然としない気持ちで箸を受け取る。

「ふふ、不満か」

「もう大きいので奏花に食べさせてもらわずとも良いとおっしゃったのは、璃玖さまですよ?」

 もう膝に乗せられるような子供ではなくなった。向かい合って膳を挟んで座り、焼き魚の身をほぐして少し塩をつける。

「璃玖さま、どうぞ」

 受けるように口元へ手を当てながら、箸で魚の身を差し出す。綺麗に並んだ歯列はもう、子供の歯など一つも残っていない。無言で咀嚼し、催促するように口を開く璃玖の口中へ食事を運ぶ。璃玖は金色の虹彩で射抜かんばかりに奏花を見つめている。視線を合わせず、無心に食事を璃玖の口へ運ぶ。

「もう、お腹いっぱいになりましたか?」

「うん」

「では湯あみの用意をしましょうか」

「うん」

 拍子抜けするほど大人しい。湯あみとて元服してからは一人で入ると言って譲らないことが多くなっていたのに。ほほほ、と笑いながら梅花たちが湯あみの用意をするために渡殿を行き交う。まるで水面を花弁が流れ行く様に似ている。

「奏花様。準備できました」

「分かりました。さ、璃玖さまどうぞ」

 妻戸を開いて頭を垂れた梅花へ答え、璃玖の前を空けるために半身になる。別の梅花が璃玖の前に置かれた膳を下げて立ち去る。それでも立ち上がらない璃玖へ顔を向けると、手を差し伸べられた。

「行こう」

「お一人で入られるのでは?」

「一緒は嫌か」

「……」

 璃玖は答えぬ奏花の手を掴んで引き立たせると、そのまま母屋を連れ出す。璃玖に腕を掴まれたまま渡殿わたどのを行く。ほほほと笑いながら梅花たちが後を追う。やり直そうとしているのだろうか。幼く、衒いもなく奏花に甘えていた頃の璃玖のように。ならばそれが正しいのだろう。例え偽りでも歪でも、璃玖と奏花は「親子のようなもの」であったはずだ。

 湯殿で当たり前に璃玖は奏花の前へ立つ。幼い頃から璃玖の着替えは梅花ではなく、奏花が行って来た。ここ数年は嫌がることも多かったので梅花に任せていたのだが、やはり璃玖は奏花との関係を「親子」に戻すつもりなのだろう。幼い頃そうしていたように璃玖の狩衣を脱がせ、袴を解いて着物を脱がせて行く。小袖のみになった璃玖はさっさと湯へ浸かってしまう。奏花も袿を梅花へ渡し、袴を解いて湯へ入る。

 璃玖が無言で奏花の帯を解く。湯の中で布がきしきしと小さな悲鳴を上げた気がした。

「……璃玖さま、わたくしは自分でやりますので」

 璃玖の手を押さえようとしたが、湯の中でするりと逃げてしまった手は帯を解きあっという間に梅花へ渡されてしまう。手持ち無沙汰で自らの帯を解いて小袖も脱いだ璃玖を眺める。お湯を吸って重たくなった小袖を梅花へ渡し、璃玖は手拭いを受け取った。

「璃玖さま。わたくしは自分で」

 答えず手拭いで奏花の体を拭いて行く。諦めて璃玖の好きにさせ、それからそっと手拭いを奪う。いつも通りに首筋から肩、腕へと手拭いを滑らせる。まだまだ子供のそれだった璃玖の体はまた少し、青年のそれへと変化している。薄っぺらな胸はしっかりと張りのある筋肉に覆われ、まぁるく膨らんでいた腹部や腰はは鋼のような腹筋に守られ、引き締まっている。まだ薄い下生えと萌すことなく収まっている蕊を拭い、梅花の差し出した新しい手拭いを受け取り背中を拭う。

「お背中が大きゅうなられて拭うのが大変です」

 奏花の手よりも随分大きくなった足を最後に拭って、梅花へ手拭いを渡す。あの頃のように足を両手で温めることはもう無理だろう。

「ご立派になられましたね」

 片手で潰せてしまえそうだった頭蓋も、今は両手でも余るだろう。頭を流そうと手を伸ばす。奏花の手を避けるようにざぶりと湯の中へ頭の天辺まで浸かった璃玖の腕を掴んで引き上げる。

「どうした」

「いえ」

 そのまま浮かんで来ないような気がした。滴る湯がまるで涙のように璃玖の頬を流れていくのをぼんやりと目路に入れる。落ちて来た璃玖の前髪を後ろへ撫でつけ、梅花から手拭いを受け取る。

「上がりましょうか、璃玖さま」

「うん」

 母屋へ戻ると璃玖はさっさと御帳台へ横になってしまう。やはり今の関係が適切ではないと、璃玖も納得したのだろう。そろそろ寝殿は璃玖に譲り、奏花は東の対に移るべきかも知れない。休暇の日にでも切り出そう。袿を一枚手に取り、御帳台へ入る。常のように璃玖の隣へ横になり、袿を掛けようとすると、手を掴まれた。

「璃玖さま?」

 痛みを堪えるような表情で微かに笑みを浮かべた璃玖を仰ぐ。

「私が子供の頃のようにしていれば安心か」

 答えられずに頭を振ろうとして迷う。その通り。親子に戻ろうとしているのだ、と安心していた。

 宥めなくては。とにかく手を離してもらって、それから起き上がって距離を取れば冷静に話し合える。璃玖はただ、奏花の他に誰も知らないというだけだ。勘違いしているのだ。受け入れてはいけない。奏花が毅然と断らなければならない。

 断る。

 その瞬間、何故だか浮かんだのはあのじめじめと暗く夏だと言うのに冷えた土蔵で威嚇して唸る璃玖の姿だった。

 諭して、間違っていると伝えなければ。けれど。

 それは本当にこの子にとって必要なことだろうか。分からない。断りたくないと思うのは奏花の理由だろうか。正しいのは何だろう。璃玖のためにどうするべきだろう。奏花はどうしたいのだろう。

 璃玖はもう、子供ではない。けれど、だから。

 璃玖の膝が奏花の足を割る。

「……、っ」

 言葉が見つからないのに開いた口からは適切な答えなど吐き出せず、吸い込んだ吐息は行き場を失う。奏花を見つめる双子の月をただじっと見つめる。帯を解かれ、唇を軽く触れ合わせたまま囁かれても双月から目を逸らせない。

「間違いだと、言わぬのか」

「……っ」

 そう。間違っている。奏花と璃玖は親子に戻らねばならぬ。けれど拒絶は璃玖を奏花から遠ざけるだろう。それでも受け入れることは正しくない。分かっている。奏花がどうするべきかなど、何が正しいかなど、模範解答は一つしかありはしない。

 ありは、しないのに。

 瞳を閉じて、璃玖の背中へ手を回す。とうに分かっていたのだ。

 璃玖が必要なのは、奏花の方。璃玖が居るから奏花は「人のようなふり」ができているだけ。璃玖がいなければ奏花はきっと人のふりすらできなくなる。この手を離せないのは奏花の方なのだ。拒絶すれば表面上は今まで通りだろう。この判断は正しくない。適切ではない。それでも。

 後悔でもいい。奏花はそれが知りたい。奏花はそれが欲しい。理論的でも理性的でもない、大きな感情に翻弄されるままに行動するしかない愚かさを知りたい。揺さぶられたい。それが人だろう。奏花はずっと、なれるものならば人になりたかったのだ。

「璃玖さま」

 袖から手を抜いて貧弱な体を晒し、璃玖の肩口へ顔を埋める。声が震えた。晩夏だというのに酷く寒い気がした。璃玖の小袖の合わせ目へ手を差し入れる。直に肌へ触れる。温い。奏花に人とはどんなものか知らしめて来たのは、いつだって璃玖だった。

「璃玖さま」

 璃玖の頬へ触れる。もう童特有のふくりとまろい面影はない。叶わぬことと知りながら、奏花はずっと望んで来た。

 璃玖さま。奏花を人にしてくださいませ。

 囁いて甘さの削ぎ落とされた体躯の輪郭をなぞる。絶望でもいい。揺さぶられ、なすすべもなく抗うこともできぬ感情を教えて欲しい。

「こんなものが人か?」

 分からない。けれど人はこの行為から生まれる。例外などない。奏花ですら、そこから生まれた。

「分かりませぬ」

 だから、知りたい。囁いて鼻の頭を擦り合わせる。薄く整った下唇へ、軽く歯を立てて甘噛みする。唇を合わせたまま吐息で誘う。

「璃玖さま」

 かわいがってくださいませ。

「――っ!」

 奏花はずっと、望まぬままに「正しい方」を選んで来た。これは正しくない。これは璃玖の為にならない。これは唾棄すべき愚かな行為だ。これは。

 けれどこれが、奏花の望みだ。

 未だ躊躇する璃玖の唇をこじ開け、舌を挿し込む。逃げる璃玖の舌へ己の舌を絡ませ、歯列をなぞり、舌の裏から口蓋までを蹂躙し、唾液を流し込む。

 璃玖さま。童の頃から奏花のここを吸うのがお好きでしょう?

 うっそりと微笑み、足を絡ませる。

「存分に味わって吸うてくださいませ」

 くすくすくす、と梅花たちが笑いながら母屋を出て行く。梅花たちが出て行っても御帳台には密やかな笑い声が満ちる。

 代わりに奏花のここへ、璃玖さまの蜜をご馳走してくださいませ。わたくしは、花ですので。花とは人を惑わすものなれば。これは花の性にございます。

「あっ、あっ……」

 言い終わる前に喉へ噛みつかれた。鎖骨へ胸へ。噛まれて吸われて奏花の肌に花弁が散る。誘うには余りに淡い小さな膨らみを舌先で転がされ、甘い音吐を零す。膝を璃玖の足へ擦りつけ、腰を揺らす。柔らかな内腿へ噛みつかれ、吸われ、蜜を貯めてはちきれんばかりに膨らんだ房を舐めしゃぶられて腰を浮かせる。

「……んぁ……あぅ……」

「どうして欲しいか言ってみろ」

 焦らされて自ら蕾を指で割り開く。

「璃玖さまを、奏花にくださいませ……っぁあぅ……」

 無用の器官をこじ開けて進む蕊に歓喜の声が転び出る。内側を満たす質量に安堵すら覚えた。容赦なく打ち付けられる昂りにはしたない嬌声をまき散らす。

 庭からひぐらしが愛し愛しと鳴くのが聞こえた気がした。

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