第2話 花解

「いつまでお二人のみで雪影を退治し続けるおつもりですか」

 どこからか、山桜の花弁がちらちらと舞い散る。うぐいすが鳴く庭で奏臥と剣を振るう璃玖を目路へ入れ、奏花が呟く。禄花は虹彩だけを動かし奏花を一瞥した。

「いつまでも、というわけには行きますまい。なれば吾毘の者が対処できる術を考えるか、雪影の発生源を突き止めて対処するかを考えねば」

「それは考えているが、あれの発生源は芭釆ばさいにある。国交のない国との交渉が必要になる。それは少し難しいな」

 雪影の発生源が芭釆にあることは植物たちが教えてくれるので奏花も知っている。つまりは同じ能力がある、禄花も奏臥も知っているということだ。

「……芭釆の帝は斐臥ひがの帝ほど甘くないようですしね」

 奏花の零した言葉に禄花は無言で頷く。雪影という弊害がなくなれば、芭釆は吾毘へ攻めて来るだろう。雪影は吾毘にとって脅威でありながらまた、吾毘を守ってもいるのだ。

「では、吾毘の者が対処できるようになるしかありますまい」

「とはいえ、獣人族でも武器へ神気を纏えるのは限られた人間のみだ。璃貴殿はできぬし、今の志出の家臣にもそんな者はいない」

「母上。実はわたくし、試したいことがございます」

「だろうな。お前が考えなしにそんな話を持ち掛けるわけがない」

 微かに唇の端を吊り上げた禄花と、奏花はおそらく俯瞰で物を見るところが似ている。ただ、奏花に情はないが禄花にはあるというだけだ。

「以前より考えておりました。雪影は冬に活発になる妖。つまり日光に弱いのではないか、と。そこで陽の光を讃える印を武器に刻んではどうか、と」

「そういうからにはその印もすでにほぼ完成しているのだろう」

「ええ。ただ実践はまだです。危険ですので父上に試していただけたら、と」

「それが有効ならば確かに、志出の兵でも対応可能になるな……」

「ええ。その代わり武器を用意し、雪影と戦う訓練をする必要があります。そうなると父上と母上にも負担が」

「よい。永遠に我らが倒していたのでは、志出のためにも民草のためにならぬ」

「ええ。この先、璃貴殿のように神気を纏えぬ領主が現れることも増えるでしょう。どうしても血は薄くなる。そのためにも必要なことです」

「うむ。早速、以斉いせいの家に頼んで刀を何振りか用立ててもらおう。試しにそこへ印を刻んでもらえるか」

「はい」

 これでしばらく二人はそちらへかかりきりになるだろう。内心でほくそ笑んで孝行息子を演じる。

「父上にも印をお伝えしますので、数をこなすことは可能になるかと思います」

「己れは無理だな。細かい作業は苦手だ」

「母上には、吾毘の人間でも結界の持続が可能にできるようにしていただきとうございます」

「急に積極的になってどうした?」

 ほう、と一つため息をついて目を伏せる。春うらら。陽射しは穏やかだが、風はまだ冷たい。吸い込めばまだ少し冷たい空気が肺を満たす。空の色ばかりが春を告げる中、剣を振るう奏臥と璃玖を目路へ入れる。

「父上と母上が何でも解決してしまうので璃貴殿のように愚昧な領主が出来上がるのです。この先もそれが続けば政は乱れる。それは正さねばならないのではないでしょうか」

「はは、厳しいな。……だが確かに、現状は己れたちの怠慢でもある」

「そういう……つもりでは……」

「分かっているさ。このままではいかんと思っていたところだ」

 剣の稽古から弓の手ほどきへと変わった庭の様子を眺め、禄花へねだる。

「母上、剣を用立てる時に槍もお願いできませんでしょうか」

「槍? お前が使うのか?」

「いいえ、璃玖さまに」

「何故?」

「前領主の璃真さまは槍の名手であったと思い出しまして」

「ああ、吾毘の民は皆、騎馬での戦いに長けているからな」

「そろそろ璃玖さまにも乗馬の練習をしていただこうと思います」

「……あまり根を詰めるなよ」

「ええ。あまり詰め込み過ぎないように気をつけます」

 詰め込み過ぎて壊してしまっては元も子もない。上手に甘やかし、かつ出来得る限りの教育を施す。これは中々難しい。

「そういう意味ではないのだがな」

「?」

 禄花の苦笑いに首を傾げる。奏花には時間がいくらでもある。けれど璃玖はおそらく、長く生きて百年ちょっとだろう。それでも獣人族は長寿で体の頑丈な種族だ。普通の人間ならば五十年生きれば十分長生きである。確か獣人族は十二歳で元服と聞き及んでいる。あと七年で璃玖が領主に相応しいと誰もが認める知識、武術を身につけねばならぬ。

「そうは言っても獣人族は十二で元服と聞き及んでおります。ならば璃玖さまにはあと七年で一通りの知識を付けていただかなくては。……人の命とは斯くも短うございますね」

「獣人族は体の成長が早いからな。初めて狩りに出るのが十二の歳と大体決まっているらしい。だから勉学はゆっくり教えればいいさ。何と言っても長寿な種族だからな」

「左様ですね……」

 膝に置いた手拭いへ視線を落とす。ぽつり、ぽつりと手拭いの上へため息のような囁きを零した。

「本当は、そうして氷山に志出家の方が来てくださって、璃玖さまに志出家のしきたりを教えてくださればよいな、という打算もありまして」

「……そうだな。志出に限らず、吾毘の民は皆、騎馬や槍を幼い頃から習うしきたりだ。元々が遊牧民や狩猟民だから幼い頃から家畜と接するし、狩りを習う。そういう機会も作ろう」

「はい」

 世界を広げよう。あの子の世界を。広い広い世界へ投げ出されたあの子は一体何を思うだろうか。

「本来ならば璃貴殿が先代のように雪影討伐に立ってくださって構わぬのだが」

 何度もその言葉を家臣の前で連呼して奏臥が氷山へ志出家から駐屯兵を出すようにという話をしたのはそれからすぐだ。夏の雪影の出現が少ないうちから訓練を、という要望もすぐに通ったらしい。

「あれだけ言っておけばお前に手出しすることは愚か、ここへ来ることすら厭うだろう」

 高く青く澄んだまだ幼い春の空へ、奏臥が紙でできた式神をいくつも放つ。璃玖は弓を構えて自在に動き回る式人形を追い落して行く。

「奏は北の対の君がお前に似た雰囲気だったのが余程、ご立腹だったと見える」

 笑いながら盃を煽った禄花が抱えた酒瓶を軽く叩く。己れも気分はあまり良くないがな。呟いた横顔に笑みはない。

「当たり前だ。失礼にもほどがある。正月にお方様に着せていた着物を見たか、禄花。奏花が幼い頃よく着ていた花薄はなすすきの色目だ。先日も同じように同じ色目を着ていた。聞けば璃貴殿の好みだという」

「……それは……少し灸を据えてやらねばなるまいな」

「そうであろう」

「おじい様。あの方はちっともそうかににておりません。そうかの方がもっとずっときれいです」

 憮然と遮った璃玖が弓を空へ向ける。ひゅ、と鋭い音がして奏臥の操っていた紙の式人形の最後の一つが射抜かれて落ちた。

「見事だ」

「ありがとうぞんじます。でもりくはまだ、馬にのってえものをいたことがないので、もっとしょうじんいたします」

「喋り方が奏花に似て来たな」

「……うふふ」

 はにかんで笑う璃玖の表情はまだいとけない。梅花から湧き水で冷やしていた竹筒を受け取る。階を下りた奏花の足へ抱きつき、璃玖が背伸びする。

「そうか、そうか、おばあ様がりくがそうかににてきたって」

「おやまぁ。嬉しゅうございますね、璃玖さま。さ、汗を拭きましょうね」

 額や首筋の汗を拭い、湧き水の入った竹筒を差し出す。

「ん」

 何の迷いもなく、奏花が飲ませるのを待っている。そのことに満足して竹筒の口を宛がう。

「今度、璃玖さまに奏花から馬を贈りましょう。璃玖さまの好きな花で作りますよ。璃玖さまは何のお花がよろしゅうございますか」

「ん~……、くちなし」

「梔子、ですか?」

「ん」

 蒲公英ではなく。首を傾げると、璃玖は頷いて奏花の手ごと竹筒を掴んで水を飲む。

「おいしい」

「湧水で冷やしておきましたから。でもあまりたくさん飲んでお腹を壊しては大変です」

 銀の髪を撫でる。すっかり垂髪にも慣れた様子だ。すぐに高元結もできるだろう。そうすれば二筋垂髪、みづらも目前だ。

「奏花」

「はい」

 簀子から禄花が声をかける。璃玖の手を引き、階を上がって簀子で小さな足を拭う。駆け回ったせいか、足の裏が熱い。冷やすためにも丁寧に何度も、冷たい湧き水へ浸した手拭いで膝の上へ乗せた璃玖の足を覆うようにして拭う。

「お前の組んだ印の効果は奏の折り紙付きだ。やじりにも試してみたい」

「分かりました。鏃に刻むか矢柄やがらに刻むかで効果に違いがあるかなども試してみましょう」

 禄花に答えて璃玖の口へ竹筒を運ぶ。ぷはぁ、と気持ちがいいほど満足気な吐息を聞いて、璃玖の口を拭う。奏花の髪を摘んで弄びながら璃玖はされるがままだ。

「さ、璃玖さま。汗をかかれたので御召し物を替えましょう」

 簀子で当然のように裸になった璃玖が奏花の前に立つ。当たり前に新しく用意してあった小袖と袴を着せる。

「……梅花にやらせぬのか」

 言外に否定的な意味を含んだ奏臥の言葉へ振り返りもせず答える。

「わたくしがやってはいけないのですか?」

「……」

「じいじはこんなにかわいい璃玖さまにまで要らぬ心配するなんて困ったお方ですね。夏の間だけでも氷山の近くへ居を構えようかと考えておりましたが、これでは離れていた方が良さそうです」

「! そ、それはまことかっ」

「ええ。父上が璃貴殿にかけあってくださったお陰で、この氷山に志出家の家臣の方がいらっしゃるのであればその方たちの近くに夏の棲み処を構えようかと」

「う、うむ。すぐに駐屯兵の住居と、奏花たちの夏の棲み処を準備しよう。禄花! 禄花!」

 慌ただしく簀子に上がって来た奏臥に禄花が苦笑いする。

「そんなに声を上げずともすぐ隣に居るんだから聞こえておるよ」

「しかし禄花。夏の間は奏花と璃玖が氷山の近くに住むというのだぞ?」

「うんうん。嬉しいなぁ、奏」

 禄花は冷静で時に非情にもなれるが、奏臥には甘い。だから奏花は両親の愛を疑ったことはない。けれどそれは、間近で見てもやはり奏花にとってよく分からない感情だ。

「代わりに冬の間はできるだけ雨辺山に籠って、手習いや勉学などに励もうかと思います」

 そうすれば璃貴もおいそれとは奏花を呼び出すまい。意図を察したのか、奏臥は小さく何度も頷いた。

「……そうだな。そうしなさい」

「はい、父上」

 分からない。奏花の告白を聞いた後でも、奏花が近くで暮らすというならば喜べる奏臥の気持ちも、他のことには冷静な禄花が奏臥には甘くなる気持ちも理解できない。このまま理解できずとも何の問題もなく生きて行けるだろう。けれどこのままならばいつかきっと、人として踏み越えてはならぬところを越えてしまう。

 奏花はそれが、ほんの少しだけ怖いのかも知れない。

 きっと一番恐ろしいのは、いつか越えてはならぬ一線を越えてしまうかも知れないことを「些細なこと」と思っている自分だ。それすら本当はどうでもいい。

 両親に教えられた「倫理観」としてそれがいけないことだと学習しているだけだ。越えてしまったのならば仕方ないとしか思えない。奏花にとってそれは「入ってはいけない」と教えられた場所に入ってしまった蹴鞠を取るため、その場所へ入るか入らないか程度のことだ。奏花はそれに抗うだけの感情も愛着も、人という生き物に対して持つことができない。

「しかし父上、せっかく自分たちで自分たちの領地を守ろうと志して集まってくださる方々を『駐屯兵』と呼ばうのはいかがなものでしょうか。集まっていただいた方々の士気が上がるような、良き呼び名を付けられては?」

「そうだな。そうしよう。考えておく」

「えっ、奏に名前を決めさせるのか」

「何か問題でもございますか、母上」

「……奏の名付けなぁ……」

 目玉を上へ向け、自分の顎を撫でながら禄花は胡坐をかいた自分の膝へ肘をついた。

「おじい様、りくもかんがえます」

「おお、そうか。一緒に考えてくれるか」

 単と袴を着替えた璃玖が、奏臥の膝へ座る。禄花が奏臥の膝へ座った璃玖の頭を撫でた。

「志出家の家臣でこの氷山の地を守れるようになれば、いつかおっしゃっていたように、へお二人で旅をすることも叶うでしょう」

 奏臥と禄花が顔を見合わせ、それから奏花を見つめた。

「そうか。そう、そのためにこんなことを言い出したのか」

「……ありがとう、奏花。私はお前の父になれてよかった」

「おやおや、邪魔者を追い出して璃玖さまとゆっくり二人きりになるためかも知れませんよ?」

「ははは、お前もなかなか言うようになったな」

「そ、そそそ、奏花っ!」

「間に受けるな、奏。戯言に決まっているだろうが」

 本気です、とは言わずに笑みを作って璃玖の着物を畳む。禄花のことだ、一月もあれば兵たちの屋敷も、奏花たちの屋敷も作り終えてしまうだろう。諸々準備をしなくてはならない。

「梅花」

「御意」

「璃玖さまの着物を持って行ってください」

「はい」

「璃玖さま、お暇しましょうか」

「うんっ」

 奏臥の膝からすっくと立ち上がり、迷いなく奏花の膝へ座って小さな頭を懐へ預けて来る。一昨年はまだ、胸の上辺りに頭があった。今はもう、肩の辺りに頭がある。掬い上げるように抱きしめて梔子の香鵬を呼び出す。

「では父上、母上。また明後日に参ります」

「うむ。その時にお前たちの棲み処をどこへ作るか大まかに考えよう」

「はい、母上。よろしくお願いいたします」

「私たちの屋敷に近いところへ作る」

「……父上。それでは志出家の方に璃玖さまへしきたりを教えていただくのに難儀しましょう」

「難儀せぬ距離を空ける」

「……奏花、これはもう無理だ。諦めろ」

 禄花が苦笑いをして奏臥の背中を叩く。奏花も一つ、大きくため息を吐き出して見せた。どうせ夏の間だけだ。仕方あるまい。

「困ったおじい様ですね、璃玖さま」

「りくも……」

「?」

 香鵬の背でもじもじと奏花の単の合わせ目を弄って璃玖が目を伏せる。銀色の睫毛が陽に透けてきらきらと反射する。

「りくも、そうかとふたりのおうち、しずかなところがいい……」

「あらあら璃玖さま。ではうるさいじいじからも少し距離のある場所にしてもらいましょうね」

「そっ、奏花――!」

「では父上、母上、また来ます」

 奏臥がまだ何事か言っているが香鵬は羽ばたき一つでぐんぐん遠ざかる。雨辺山の棲み処は冬ごもりの場所にする。以前の庵はそのまま、奏花の呪術道具や呪符、薬草の保管庫として使えばいい。持ち出されては危険な物ばかりだから結界を強固なものにしておいた方がいいだろう。

「結界……結界ですか……」

「どうしたの?」

「いいえ、璃玖さま。さ、もうすぐおうちですから、しっかり奏花に掴まっていてくださいませね」

 今年の夏は少し賑やかになりそうですね。璃玖さまにお友達がたくさんできると良いですね。いつものように璃玖の体を湯で拭いて寝殿の御帳台へ入る。禄花がこの屋敷を建ててしばらくしてから、奏花は禄花に内緒で屋敷を増築した。御帳台の奥へ、さらに部屋を足して寝室にしている。

「ここでだけ、璃玖さまに内緒のお名前をお付けしましょうね。この場所以外では名乗ってはいけませんよ」

「うん」

 神妙な顔つきで頷いた璃玖の耳元で名前を囁く。いいですか。誰に尋ねられても答えてはなりません。じいじにも、ばあばにも内緒です。璃玖さまと奏花だけの秘密のお名前ですよ。

「……わかった」

「璃玖さま、蔀戸しとみどの内側に布を貼り巡らせましょうか。冬は暖かくなるし、風に揺れる布はきっと美しい。何色がいいですか?」

「……白」

「白、ですか? 他の色も入れましょうか」

「ううん。白がいい」

「お庭に植える花も、冬に咲くものに変えましょうね。山茶花、椿、蝋梅、水仙……」

「くちなしは?」

「……梔子は夏に咲く花ですから、氷山の棲み処に植えましょうか」

「うん」

 何故、こんなにも梔子に拘るのだろう。不思議に思って尋ねてみる。

「璃玖さまは、梔子がお好きですか」

「うん」

「理由をお聞きしてもよろしいですか?」

 寝殿の奥、璃玖と奏花しか知らぬ寝室の御帳台へ横になる。奏花にぴったりと寄り添った璃玖の小さな肩を単や袿で包む。

「そうかに、にてるから」

「梔子がですか?」

「うん。きれい」

「この山のどこかに咲いておりましたでしょうか」

「ううん。土ぞうのそばに……においがあまくて……まどから見てた……なまえ、しらなかったから……おばあ様がおしえてくれて……」

 それだけ言うとすうすうと健やかな寝息を立て始めた璃玖の寝顔を眺める。要するに閉じ込められていた志出の土蔵の傍に梔子が咲いていたが、花の名前を教える者など居なかったから名前を知らなかったというのだろう。禄花が教えたというのなら、氷山で梔子を見たのだ。

「……」

 姫椿だの梔子だの、人は奏花を白い花に例えたがる。その中身が如何なるものかなど考えず。見目が白花だろうと中身が化け物ならば化け物なのだ。

「何故、見抜けぬのか……」

 愛情を注いだその外見だけが麗しい生き物の、内実は化け物だと見抜けぬ可哀想な奏臥。璃玖はどうだろうか。璃玖は見抜くだろうか。愛情を注がれた、姿容だけが美しいそれは何度も己の頭を握り潰そうとしていた化け物だと。見抜いた後、どうするだろうか。

 ――かわいいおおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。銀色おおかみさん雨辺野を駆ける。金色お目々はなぜなぜまるい。まんまるお月さま見たからまぁるい。

 規則正しい穏やかな寝息を聞きながら、奏花はじっと闇を見つめた。暗闇は、無明ではない。目を凝らして慣れてくれば闇の中にもものの容は浮かんで来る。暗闇は、無音ではない。耳を澄ませば風の音、虫の声、獣の足音が聞こえて来る。

 だから奏花は、この長い時間を退屈に思ったことはない。昼も夜も関係ないから呪符や呪具の研鑽に没頭できたし、それを不自由に思ったこともない。

 ただそこには、たくさんの音があり、たくさんの命が生きているというのに、奏花は常に世界に一人だった。虫にも獣にもそれぞれに営みがあり、風にすら法則がある。けれど奏花はどの法則からも外れている。誰も奏花を必要としないし、奏花も誰かを必要としたことはない。それはただ生きているだけで、生物としての営みはないように思う。

「んん……」

 腕の中で璃玖がもぞりと動く。寝ている時に狼の姿へ戻ってしまうことは減った。しかし時々、夢の中で姿を変じたのか耳や尻尾が出ている時がある。

「璃玖さま、いいこ」

 歌うように呟いて背中を撫でると銀色の耳はぺたんと垂れてやがて引っ込んで行く。人はただ生きて何かを成すことも残すこともなくとも、他人と関わることが既に大きな営みの小さな一部であるのではないだろうか。奏花はどうだろう。どうしても、そんな自然の営みの一部であるという感覚が湧かない。流れの中、扱いあぐねてただそこにぽん、と放り投げられているように思えてならない。奏花には奏花の役割が分からない。人間に興味がないのに、人を守る術を知っていたとして一体それが何の助けになるだろう。奏花にはしたいことなど何もない。強いて言えば、生きていたくない。死にたいのだ。死にたいのにもう百年近く生きてしまった。それでも外見は精々十六、七歳というところだろう。一体あと何年生きればいいというのだろうか。奏花を生んだ禄花ですら答えられないだろう。

 生きていることに意味などなくとも良いが、死ねない奏花の存在はただただ無駄だと思う。眠りもせず、食事も必要とせず、排泄をして土に循環されることもない。ただ単純にこの世界の異物である。

「璃玖さまはいつかわたくしを」

 殺してくださいますか。断罪してくださいますか。それとも愛してくださいますか。わたくしは一体どれを望むのでしょう。分かりません。己の心も分からないのです。どうでもいいのです。何も望みがないのです。何にも心が動かされないのです。人のふりをしてみても何も感じることができないのです。

 広い広い海原へぽんと放り込まれたように。ただ、漠然と波に揺られて流されるしかできない。その絶望と恐怖と孤独すら、どこか遠くに感じている。

 暗闇の中、目を凝らす。風の音、虫の声、獣の足音。変わらず聞こえる音とは異なり、徐々に闇が薄れて行く。紗の布を一枚一枚剥ぐように、ゆっくりと深い闇は白んで行く。やがて完全に取り払われた闇が、奏花の虹彩にのみ残る。纏わりつく。規則正しい寝息が乱れて、小さな手が奏花の懐を探る。

「おはようございます、璃玖さま」

「ん……おはよう、そうか」

「朝餉を用意いたしましょうね」

「もう少し、ねてていい?」

「ええ」

 手のひらから梅の花を出し、吐息を吹きかける。目で命じて頷くと、梅花は足音も立てず寝所から出て行く。璃玖を単で包んで抱え、長い廊下を歩く。ここは神域。璃玖を主神とし、奏花を巫女とした結界の中だ。ここへは禄花も奏臥も入ることはできないし、禄花の作った寝殿の御帳台からこの入口さえ見つけることはできないだろう。慎重に幾重にも張り巡らした結界を抜け、御帳台へ出る。

 一晩のうちに梅花へ言い付けた、蔀戸の内側へ紗布を貼ることは終えたようだ。淡く透けた紗布独特の透けた景色が美しい。

「ふわぁ……!」

「璃玖さま、どうです?」

「きれい!」

 初春の朝、まだ冷たい空気を柔らかく遮って白い紗布がもったりと波打つ。透けた布から見える景色は茫洋と、しかしおっとりと内側と外側を断絶している。梅花の準備した膳を茵の前へ置き、璃玖を膝へ座らせる。

「菜の花の香りがここまで届きます。ああ、夕餉には菜の花のお浸しをお出ししましょうね、璃玖さま」

「うんっ」

 璃玖に付き合い、申し訳程度に食事を摂る。いつも通りに璃玖の口へ米を運び、汁物を飲ませて口を拭く。じっと奏花を見つめる璃玖へ、首を傾げて見せた。

「どうなさいました」

「そうかは、しょくじをしなくてへいきなの、どうして?」

「わたくしとじいじ、ばあばは人間ではなく、植物に近いのです。なので水と陽の光があれば食事をせずに済みます」

「そうか、お花なの?」

「そうですね。そのようなものです」

「じゃあ、むりにしょくじしたら、おなかいたくなる?」

「大丈夫です。植物にも虫を食べるものがあります。それと同じで消化してしまえるのですよ」

 答えて自嘲気味に笑う。奏花のどこが人間だろう。見た目が人間に似ているだけで、中身は全く異なるものだ。それでも璃玖は、ほっとしたように奏花へ体重を預けた。

「おなか、いたくならないならいい。でも、むりしないでね」

「……ええ。璃玖さまはお優しいですね」

「りくがそうかにやさしいのは、そうかがりくにやさしいからだよ。そうか、大すき!」

「!」

 偽りの愛しか注げずとも、璃玖は真っ直ぐにそれを返すのだ。愛を理解できぬこの、化け物に。

「……わたくしも、大好きですよ、璃玖さま」

 死にたくなるこの気持ちはなんだろうか。死んでしまいたい。今、ここですぐに。この子に良いものだけを残して死にたい。

 懐にすっぽりと収まっていた璃玖の体はもう、こうして膝に乗せては身が余るほどに育った。これからもっと成長するのだろう。そうしていつか、奏花の年を越えて行く。

「璃玖さま、……大きくなぁれ」

 この手を離れてどこかへ、そしていずれは遠くへ逝ってしまう。誰かの死を、悲しんだことなどないけれども。

 ひょっとしたら、この気持ちを「寂しい」と呼ぶのかもしれない。

 未だ小さな手を擦って奏花を見上げた璃玖の顔を覗き込む。奏花はいつでも、通り過ぎる人たちをただ眺めている路傍の石だ。璃玖もいずれは奏花を置いて逝く。目まぐるしく通り過ぎて行く、たくさんの名もなき花の一輪にすぎぬ。

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