第27話 フローラ


 至近距離にある、クラウスの顔。


 僅かに見える右目と頬骨が、紅粉をのせたように色付いている。灼けた痕は更に朱くなっていてわかりやすい。

 いつもならば、見ていると落ち着く青の瞳。それが、普段とまるっきり違って唾を飲み込んだ。

 まるで、暖炉の火で焦がした砂糖のような。熱くて、甘い視線に、ぎゅうと喉が鳴る。


 クラウスが私に害を為さないことは、彼の性格的にも、誓約魔法をかけている事実からもわかっているのに。

 どうしてだか、逃げ出してしまいたい気持ちになる。


 ドクドク流れる血の音が、自分の胸の中から空気を震わせて私の鼓膜を揺らした。

 クラウスはそんな私を静かに見ている。


 怖がらせないように、でも逃げないように。

 そうっとそうっと背中に腕を回してきた。


 衣擦れの音。

 クラウスの服やマントを留める、装飾の凝ったボタンが何かにぶつかった音。

 耳をくすぐるように聞こえるそれらを認識してすぐに、大きな体に包まれた。


 外気の名残りで、触れた瞬間だけひやりとする。

 でもそれはすぐに互いの体温で消えた。


 気恥ずかしくて、でも嬉しいような。

 形容し難い、とけて染み込んでいく感情。


 今先ほどまで続けていた呼吸は、吸っていたのだったか。それとも、吐いていたのだったか。そんなことが曖昧になってしまう。


 だってこんなに暖かくて。

 安心するのに切なくて。

 どこか泣けそうな気持ちになるなんて知らなかった。

 ただ、婚約者との抱擁するだけなのに。


「ああ、そっか」

「……? フローラ……」


 すぐ耳元で聞こえるクラウスの声。

 私とテンポの異なる鼓動が、すぐそばで聞こえる。

 クラウスも、緊張しているのだろうか。


 そのことに思い至って、また一段きつく胸を絞られた気持ちがした。


「……クラウス様」


 ああ、もう駄目だ。

 色々と言い訳して、理由をつけて。

 ゲームだから、魅力的なのは当たり前なのだと納得していた過去の自分を恥じる。

 どこか俯瞰した気持ちでいたら、死ぬ目にさえあうのだと、あの旅で何度も思い知ったはずなのに。

 クリアした後だしって、またもや安易に考えていた。

 婚約という繋がりや、人と親しくなることの意味を。


「お慕い、しています」

「!」


 幅がある体幹を、子どもが縋るような拙さで抱きしめる。

 冬の厚い羊毛の衣類が、私の手のひらの中できゅっと音を立てた。


 ほう、とこぼれるため息。

 前とは段違いの温度差に、自分でも笑ってしまう。

 物理的な面ではなく、精神的な意味でだけれど。

 薄々勘づいていたのに、どうして逃げ回っていたのだろう。

 こうやって触れ合ってしまえば、こんなにも。


「好きです。クラウス様」


 涙目で見上げた私を見て、クラウス様は声のない吐息で私を呼ぶ。フローラ、と。

 いつかの広告で、画面下の表示バーに記載されていたその名前。これまで色々な登場人物にそう呼ばれてきた。

 デフォルト名。

 花を冠する女神様の愛し子の物語、その主人公。


 前世の漢字の名前のように、それぞれの文字に意味さえない。きっと開発した企画サイドが似合うように名付けた、たったのその四文字。

 呼ばれたとき。学園での噂話。凱旋時の呼び声。

 誰かが私のことを言ってるとわかっていても、いつでも、どこか他人事のようだったのに。


 ハラ落ちする。とはこういうことを言うのだろうか。

 彼が私をそう呼ぶだけで、その名前がやけにしっくりときた。


 ついつい溢れる涙を隠したくて、クラウス様の胸板に頬を寄せる。どくどくと聞こえる心臓の音に、小さく笑って、そして更に泣いた。


 もう思い出せない前世の名前。


 無意識のうちに抱えていた未練に、私は、こうして決別した。

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修道院エンドでしたが、エンドロール後にコワモテと結ばれました キシマニア @fmo230

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