心が暖かくなるショートストーリー集

藍埜佑(あいのたすく)

第1話「最後の贈り物」

 ナオミは昔から本が大好きだった。幼い頃から、冒険、ロマンス、ミステリー、ファンタジー……どんな物語も貪欲に、楽しんで読んでいた。ナオミはいつか作家になり、自分の物語を世界に広めることを夢見ていた。


 しかし、人生は思い通りにはならないものだ。ナオミは成長し、結婚し、子供をもうけ、田舎の教師として働いた。作家にはならなかった。彼女はできる限り本を読んだが、自分で書く勇気は持てなかった。自分の書くものなど凡庸で、取るに足らない、他人が読む価値などないと思ったからだ。いや、実際は自分をそう思い込ませたからだ。彼女は自分の人生に満足しており、書くこと……本を出すなどということは子供じみた夢にすぎないのだ、と繰り返し自分に言い聞かせていた。


 65歳のとき、ナオミは末期がんと診断された。彼女の余命はあと数ヶ月だった。青天の霹靂だった。彼女はその残された期間を家族と過ごし、ずっとやりたかったことをしようと決めた。体調が許す限り、本で読んだことのあるとても行きたかった場所に旅行し、懐かしい映画を観、大好きだった音楽を聴いた。彼女はすべての瞬間を最大限に活用した。


 しかし、ひとつだけどうしても満たされない想いがあった。それは本を書かなかったことだ。彼女は生涯の夢を果たせなかった。彼女は、自分の才能と情熱を無駄にしてしまった、と感じていた。なぜもっと若い時に、ほんの少しだけの勇気を持てなかったのか……。


 ある夜、ベッドに苦しそうに横たわりながら、彼女は夫のアキラにそのことを打ち明けた。アキラは彼女を抱きしめて額にキスをした。そして君の気持はよくわかるよ、とやさしさに満ちた表情で囁いてくれた。ナオミはそれだけでふっと心が軽くなる気がした。


 これで思い残すことはない……そうナオミが思った時、アキラが不意に「ちょっと待って」と言った。彼は立ち上がり、クローゼットから小さな包みを持ってきた。そして彼はそれを彼女に渡し、開けるように言った。


 彼女は包装紙を破り、息を呑んだ。本だった。ハードカバーの本で、光沢のあるジャケットがついていた。穏やかで緻密な装丁だった。表紙には大きな文字で彼女の名前が書かれていた。


 彼女は急いで本を開き、ページをめくった。それは短編小説集だった。彼女が何年もかけて書いた物語。レシートの裏やノート、紙切れに走り書きした物語。彼女が忘れたり、捨てたり、引き出しに隠したりしていた物語。凡庸で、取るに足りなくて、他人が読む価値などない物語。それを夫は密かに集め、保存してくれていたのだ。


「僕はずっと前からきみのファンで、愛読者だったんだよ」


 アキラは優しくそう言った。


 ナオミの末期がんが発覚してからすぐにアキラはそれを出版社に持ち込み、編集して一冊の本にまとめていたのだ。彼は彼女の夢を実現させたのだ。


 ナオミは目に涙を浮かべてアキラを見つめた。ナオミはこみ上げる想いのあまり、何も言葉が出てこなかった。しかし話す必要はなかった。彼は彼女の気持ちを知っていたからだ。


 彼は微笑んで言った。


「これが僕からの最後のプレゼントだ」


 ナオミはアキラを抱きしめ、キスをし、心から感謝した。


 彼女は本を胸に抱いた。静かに喜びと安らぎがこみ上げてくるのを感じた。


 そう、彼女は物語を書いた。書き続けていた。思いもよらぬ、大切な読者のために。


(了)

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心が暖かくなるショートストーリー集 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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