第3話
なんだかものすごく、常軌を逸する程、複雑な空想をしていたような気がする。
……気がしたが、気がしたことを、その雑草は一瞬にして忘れてしまった。
そもそも雑草にはものを想像したり、考えたりすると言う習慣がほとんどない。習慣がないというか、その為の能力が備わっていないというべきだろう。実際のところ、どうすれば効率良く光合成ができるかということや、土の中の水分をどのように効率良く全身に行き渡らせるかを創意工夫する程度の英知はあったが、それは『考える』ということとは少し違った。
それなのに、その雑草がただの一瞬でも、何かを空想し、その中に身を置いていたのだとすれば、それは凄まじく奇跡的な出来事であると言えた。しかしそんな奇跡もすぐにその雑草の記憶から消える。
そしていつものように、葉と根から生きる為の栄養を蓄え続ける努力に邁進し始めた。
雑草のような単純な生き物には、感情や思考の類は存在しないように考えられているが、しかしまったく皆無と言う程ではなかった。おぼろげに喜怒哀楽や、成長するために少しでも有利になるような思索を、巡らせることもある。
例えば、隣で根を生やしている別の雑草が、近くにある土の栄養を奪い取ってしまうという悩み。
これは哀しみや怒りに属する感情を雑草にもたらす。当然こちらも負けじと栄養を土から吸おうと試みるのだが、しかし奴の根の働きは己のそれを遥かに上回っていて、ちょっとやそっとの頑張りでは必要な栄養を大きく奪われてしまう。
ならばと、空からもたらされる日光をできるだけいただこうと試みる。しかし隣の雑草が伸ばした自分より背の高い葉の存在が鬱陶しく、それが遮蔽物となり、吸収できる日光の量を僅かだが制限されてしまっていた。これは根から得る栄養と比べるとまったく大したことがなかったが、それでも鬱憤はどうしても溜まって来るというものだった。
上記の二つの損害も、雑草の生育を致命的に妨げる程のものではない。なんとか生きて成長していくことは十分に可能ではあるし、そういう意味では問題はないのだが、しかし苛立ちは毎日のように募って行った。
こんな奴が隣に生えているというだけで、自分はこれほどまでに忸怩たる思いをし続けなければならない。理不尽と不幸、そして隣人への激しい怒りに、雑草は常に腸の煮えくり返る思いをしていなければならなかった。こんな思いをさせられると言うだけでも、雑草にとって隣人は、憎らしくてたまらない存在だったのだ。
いっそのこと、自分は枯れても良いから隣人のことも枯らしてやりたいなどと言う、本末転倒な願いすらも、その雑草は感じ始めていた……その頃だった。
ふと、大きな音がして、隣人が雑草の傍から消えた。
大きな巨人の手が伸びて、隣の雑草の茎を掴み、力一杯引き抜いたのだ。そのことは、視覚や聴覚を持たない雑草でも、すぐに理解することができた。浴びられる日光が突如として増え、土の中で得られる水分や栄養の量が増えたのだから、その原因が取り除かれたと見るのがあまりにも妥当だった。
雑草は歓喜した! これで、ムカつく隣人に自分のものになるはずだった栄養を吸い取られずに済む! ふんだんに栄養を吸収し、このあたりで一番大きな雑草となって、周りの奴らの分まで光と水を我が物にしてやるのだ。そしてますます大きな草に育っていく。これほど痛快なことはない。
そんな風に考えていた時だった。
雑草の茎に、信じられない程の力が加えられる。
異変を感じる間もなく、雑草は隣人と同じように土から引っこ抜かれ、隣人と同じゴミ袋の中に放り込まれる。
「やれやれ。草抜きの授業は、面倒臭いな」
子供の声がする。しかし聴覚を持たない雑草には、何も聞こえない。
日光の照りつける学校の裏庭で、生徒達による草抜きが行われていた。
〇
楓は腕に縄を括り付けられて、高所にぶら下げられている。縄は遥か上空から伸びており、まるで天に括りつけられて垂らされているかのように、異様なまでに長い。
青空が見える。照り続ける太陽にその身が焼かれ、楓は喉が焼けるように乾くのを感じる。全身には粗末なぼろ布のような服が引っ掛かっていて、垢塗れで酷くみじめな姿をさらしていた。
今の自分は、雑草になる夢を見ていて、そこから覚めたのか。それとも、自分の本当の姿は雑草で、その雑草が見ている夢がここなのか。分からなかった。
周囲には、自分と同じように、垂れ下がる縄に腕を取られてぶら下がっている人間がたくさんいた。そのすべてが年頃の少女であり、中には銀縁眼鏡をかけたショートボブの少女や、気の弱そうな大きな垂れ目を持つポニーテールの少女も混ざっていた。
楓は下を見る。数百メートルは離れた距離にある地面はだだっ広いただの荒野で、目の前には大きな塔のような建物が築かれており、そのテラスから何人かの中年の男が身を乗り出して、自分たちに脂ぎった視線を注いでいた。
見世物にされているのだということに気付いて、楓はおぞましい気持ちになった。どうして自分たちはぶら下げられているのか、自分たちはいったい何で、この世界はいったい何なのか。楓には何も分からなかった。ただ無気力に、ぶら下げられていることに甘んじる諦めの気持ちだけが、心の中に強くくすぶっていた。
じりじりと照りつける太陽が齎す喉の渇きが、限界に達しそうになる。このまま乾きに苦しんで狂いながら死んで行くのかと思うと、ぞっとしそうなほどの恐怖が全身を包み込む。
テラスにいる男の何人かがホースを持ってきて、そこから水を放って楓達へと振りまいた。
楓は思わずそれを口にした。ホースの水は闇雲にばらまかれているのではなく、中年が気に入った少女の口元を狙って吐き出されているようだった。複数の中年が手にした何本ものホースの水の内、楓に向けられる物は少なくはなく、楓はそれでどうにか渇きを癒すことができた。
さらに、テラスにいる男達は何か泥団子のような見た目の物体を取り出して、楓達の方に放り投げて来た。いくつかはどの少女にも命中せず荒野へと落ちて行ったが、他のいくつかは楓達の全身に命中し、その体に泥のような物質が付着した。
有機物の匂いがした。楓は思わず自分の身体にへばりついた泥を手で拭い、観察してみる。
それを見ていると、楓は自分が腹が減っていることを思い出した。誘われるようにして匂いを嗅ぐと、金魚の餌か何かのような、香ばしさが漂ってくる。
見ると、周囲の少女たちは、体に張り付いたその泥をぬぐい取っては口に運んでいる。なるほど。これは自分たちに与えられるエサらしい。楓は、若干の躊躇を飲み込んでからそれを口にした。美味くはなかったが、食えない程まずくもなかった。
高所から腕一本に縄を括られてぶら下がっていても、どういう訳か、血が偏って肉体が壊死するようなことはなかった。ぶら下げられている苦痛は絶えず感じていたが、それが健康に支障をきたすことは、何故かここでは起こらないらしい。
楓は気まぐれのように降り注がれるホースの水や、投げつけられる泥状の餌を口にして、日々を生きた。見世物にされる屈辱もいずれは麻痺し、かと言って男達に感謝や愛情を抱くこともなく、植物のような気持ちで時間が流れるだけだった。
そうしていると、ぶら下げられている少女たちの中にも、人気のある者とそうでない者がいることが分かって来た。人気のある者は多くの放水や餌にありつくことができるが、そうでない者は飢えと渇きに苦しみ場合によっては死に至り、ぶら下げられたまま亡骸になっては、上空から縄を切られて荒野へと落下していった。
多くの施しを得る為、男達に向けて何やらアピールするような身振りを行う者もいたが、そういうことをする者の多くは人気のない少女達だった。ならばとアピールをやめてみても一向に施しが増えることはない為、どうやら施しが多い少ないは、自分たちの努力ではどうすることもできないらしい。
楓の人気度は、中の上か上の下と言ったところだった。常に一定の上と渇きに悩まされてはいるが、周囲と比べてその程度が目に見えて大きい訳ではない。むしろマシな部類、と言ったランクだった。
人気のある者は多くの水と食料を得て活きが良く、他の少女たちに挑発的な表情を浮かべることさえあるほどだった。半面、人気のない者はガリガリに痩せ衰えており、喉を掻き毟って飢えと渇きに耐えていた。
楓の右下あたりにぶら下がっている癖のある赤い髪の少女などは、特に人気のない部類にあった。もし身なりをきちんとすることができれば、それなりに見栄えのしそうな目鼻立ちをしているのだが、痩せ衰えた今となっては、ひしゃげたぼろ雑巾のようにみじめだった。
少し前までは、男たちに懸命にアピールをしてどうにか生きながらえようと努力していたが、最近ではその気力や体力を失ったかのように俯くばかりで、微動だにすらしない。命の灯が消えるまで、あとわずかというところだろう。
そんな折、餌の時間が始まった。男達はにやにやとした脂ぎった表情で、手にしたエサ団子を少女たちに向けて投げつけて来る。その内のいくつかは楓に被弾し、泥状の餌が身体にへばりついた。
右下でぶら下がっている赤毛の少女を見る。
彼女の釣果は、今日は特に酷かった。その全身には一つの餌も張り付いておらず、少数回投げられたエサも体の横を素通りして、地面に消えてしまっている。投げつけている男の顔はどこかにやにやとしており、わざと外して楽しんでいるかのようにすら思われるほどだった。
楓は怒りを感じた。訳も分からず吊り下げられ、施しに頼って生きねばならない哀れな見世物に貶められていることに。不公平を絵に描いたようなこの世界の秩序と、それを作り出し嬉しそうに笑っている、男達の存在に。
楓は全身に張り付いた泥のようなエサをかき集めると、団子状に丸め直し、飢えて死にそうになっている赤毛の少女に向けて、慎重に投げつける。
何故かは分からないが、楓は物を投げるという動作に自信を持っていた。泥団子は赤毛の少女の脇腹に命中し、それに気づいた少女がこちらを振り向いて目をぱちくりとさせる。
「食べろ」
楓は言った。
「食べてくれ」
男達から、歓声が上がった。両腕を振り回し歓喜したようにはしゃぎ、楓の方を指さしながら両手を打ち鳴らす。
何かとんでもなくめでたいことが起きたかのような光景だった。楓は困惑する。全員が楓に注目しながら大きな声で何かをわめきたて、こちらを称えるかのように腕を振り回す。
一人の男が、大きな猟銃のようなものを持ってきて、大喜びで楓の方に向けた。
その猟銃の男を中心に、男達は肩を組み合い、讃美歌のようなメロディの歌を、楓には分からない言語で歌い始める。
呆然とその歌を聞き終えた楓の頭上に向けて、猟銃の男は、嬉々とした表情で引き金を引いた。
見事なまでの精度で放たれた弾丸は、楓の頭上にある縄を切り裂く。
縄を切られた楓は、全身を空中に投げ出され、荒野へ向けて真っ逆さまに落ちて行った。
意識が暗転する。
〇
その後も楓は、新たな世界で目が覚め、或いは、新たな夢の世界へと沈んで行った。
夢とも現とも、幻想とも実体とも付かない様々な光景を目にし、様々な体験をし、様々な姿になり、それぞれの世界で生き抜き、死んで行った。
前の世界の記憶を引き継げることは少なかったが、朧げに覚えていられることもあった。そうしたかすかな記憶を積み重ねる内に、楓には悟ったことがある。
自分が旅する世界の全ては、単なる幻想に過ぎないのだということ。
どれだけはっきりと感じた喜びも痛みも愛情もすべて、何もかもなかったことになって、夢を見ていたかのように消えてしまうのだということ。
楓はやがて無気力になって行き、どんな状況に置かれても足掻くのをやめるようになる。
ただ無感動に、与えられた状況に流されている内に、意識を失って夢の世界に沈むかのように、或いは目を覚まして夢の世界から舞い戻るように、次なる世界へとその魂を旅立たせていく。
そんなことが、永劫に思える程長い時間、続いた。
〇
ある時、楓は真っ白いベッドに横たえられた状態で目を覚ました。
全身にはたくさんの点滴の針が突き刺さっており、いくつものチューブが全身から伸びている。辛うじて薄く開けられる視界の先には、白い壁と天井、仕切りのような白いカーテンが見えた。
まるで病院の病室のようである。
その中にあって、楓はベッドに横たえられる病人と言ったところか。身を起こそうとしたが体のどこにも力が入らず、瞼を少し動かせる以外には、指先一本動かすことができなかった。
「この病室の子、全身不随になってから、もう十年は経つんでしょう? 可哀そうにねぇ」
病室の扉の向こうから、そんな声が聞こえて来る。
「そうよ。十六歳の時に不幸な事故にあってから、ずっとあのベッドの上よ。ご家族と、二人のお友達が熱心にお見舞いに来てくれるんだけれど、様態にも何の変化もないし。たまに少しだけ、瞼が震えるくらいで、身じろぎもしない」
「ずっとベッドで横になっていて、身動き一つ取れないまま、何を考えているのかしら?」
「何も考えていないんじゃない? というより、意識が少しでもあるんだとすれば、そっちの方が残酷だわ」
ナース同士で交わされる、患者についての噂話、と言ったところか? どういうことかと話を聞きに行きたくて仕方がなかったが、しかし楓の身体はまるで人形か何かになったかのように、指一本動かすことができなかった。
なんとも不自由な状況だ。それでも考える力と意思があるだけでも、雑草や魚の姿をさせられるのと比べ、マシだと思うべきなのだろうか?
そう考えて、楓は、この世界においては今までに見て来た様々な世界での記憶が、かつてない程の鮮明さで備わっていることに気が付いた。山の中でティラぬサウルスから逃げていたことも、学校の裏庭で現れた天使に空を飛ばされたことも、その他様々な世界を股に掛けつつ色々な体験をしたことも、楓はすべて記憶していた。
その記憶はさっきまで見ていた夢のようでもあり、瞼の裏に自分の意思で思い描いていた空想のようでもあった。ベッドに横たわったまま身動き一つとれないというのに、意識はこれまでにない程鮮明で、あらゆる感覚がかつてない程くっきりと、楓の肉体を包み込んでいる。
まさか。ここが自分の現実なのか?
そんな風に思いそうになるが、しかしその考えをすぐに打ち消す。
どうせまたすぐに、チャンネルが切り替わるようにして、他の世界に行かされるに違いない。天使が言っていたように、自分の感じる世界の全ては幻想に過ぎない。たとえ幻想でないものが混じっていたとしても、最早、何が幻想で幻想でないのか、それを見分ける力は既に楓から失われてしまっている。
「目が覚めたか?」
声がかかった。
いつの間にやら現れた白衣の人物が、楓の前でパイプ椅子に腰かけている。首から聴診器を下げたその姿は医師のようだったが、現実の世界の本物の医師でないことは、一目で分かる。何故なら、その人物の首から上は、真っ白な丸い頭に赤い鶏冠と嘴の付いた、ニワトリのような姿をしていたのだから。
「……ここもやっぱり夢か。幻想の世界か」
楓は、唇も喉もまったく動かないのに、何故かそのような声をニワトリに掛けることができた。
「何故そう思う?」
ニワトリは楓に問うた。
「おまえみたいなニワトリが出て来る世界が、現実であるはずがないだろう?」
「何故そう言えるんだ? 現実だからと言って、ぼくのような生命が存在しないという保証はどこにもないぞ。それに、ぼくの存在が幻想であったとしても、この世界そのものが幻想であるとは断言できない。ここが現実で、ぼくの存在のみが君の幻想だという説は、否定できないはずだ」
「どっちでも良い」
楓は投げやりに言った。
「ここが現実か幻想かなんて、どっちでも良い。見分ける方法がない以上、すべてが幻想であるのと同じことだ」
「果たして、そうなのかな? 逆に、こうは考えられないか? すべては現実であるのだと。意味不明な状況に置かれ、夢から覚めるように唐突に消えていく世界なのだとしても、その時々において、君は確かな現実の中で、現実と同じ体験をしているのだと、そういう風に考えられないか?」
ニワトリは言う。
「確かに、何が現実で、何が幻想であるかなど、誰にも規定のしようはない。疑うことは、どうとでもできる。しかし、仮にそこが幻想なのだとしても、そこで何かを感じ、考える君は、確かに存在しているんだよ。その中で君は色んなことができるし、どうにかして生き続けることができる。ならばその時々で、そこにいる自分で、そこにいる世界を精一杯生きていれば良いのだと、そういう風には考えられないか?」
「なんだよそれ。いずれ幻想と分かって消えていく世界なのに、どうしてそんな風に考えられるっていうんだよ?」
「いつか消えるのだとしても、その時だけだとしても、その世界は確かにそこにあるからだ。あるように感じられるだけなのだとしても、あるように感じている君自身は確かにそこにあるからだ」
ニワトリは嘴の周囲の筋肉を捻じ曲げるようにして笑みを作る。
「どれだけ今自分がいる世界の実在が疑わしかったとしても、人は、とにかく今そこにいる世界を頑張って生きていくしかない。誰だって一度は自分のいる世界に疑問を持つが、だからと言って、その世界で明日を生きる努力を放棄することなど、できはしないんだ。そこが夢であれ現実であれ、地上であれ水槽の中であれ、自分の正体が人であれ蝶であれ、同じことだ」
「同じこと……?」
「そうだ。同じことなんだ。その時そこにいる自分で、場所で、精一杯生きていけば良いだけのことなのは、いつだってどこだって同じことなんだ」
そう言って、ニワトリは足元から大きなジュラルミン・ケースを取り出した。それを開けると、中から大量の注射器が収められているのが楓の目に入る。
「だがしかし……今だけは、次に君が生きる世界を選ばせてあげることができる。それは君という神の作り出した多数の天使達の中で、ぼく一人のみに与えられている特別な力だ」
「……選べる? 次に行く世界がどんなところかを、選べるのか?」
「そこが現実かそうでないかは保証しないがね。さあ、選びたまえ。君は、どこで生きたい?」
そう問いかけられ、楓は、しばしの沈黙の後に、強い確信と共にこう答えた。
「あの山の中が良い。最初に目覚めたあの山の、川に飛び込んだ続きの世界を見に行きたい」
「それは何故かね?」
楓は答える。
「友達がいるから」
ニワトリは頷いて、注射器の内の一本を取り出して楓の方に向ける。
針が楓の皮膚を貫く。瞼が降り、楓の意識が暗転した。
〇
ティラぬサウルスに追われ、思わず川に飛び込んだ楓は、激しい水流の中でしっちゃかめっちゃかに流されていた。
最早その川は川というにはありえない程広く深い空間になっている。川はまるで生き物のように姿形を変え、水の流れさえも自在に操り、不用意に飛び込んだ楓を飲み込もうとする。
……これがこの世界の川なのか。なんて恐ろしいんだ。
最早、なされるがままに蹂躙され、流されるに任せるしかないように思われた。向かう先がどんな地獄であろうとも、楓にはあらがう術などありはしない。
そう考えた楓が覚悟を決め、歯を食いしばったその時だった。
矢のような勢いで泳いできた人影が、楓の腕に自分の腕をしっかりとからめとった。そして人魚のような鮮やかな泳ぎで楓を引っ張ると、水流に抗うようにして川の中を泳ぎ、岸まで運んでいく。
楓を運んだ何者かは、先に岸に上がると、楓のことを力一杯陸へと引き上げた。
「ぷはっ。ぷはっ。ぷはぁああっ」
小石のひしめく川原に引き上げられ、楓は咳き込みながら水を吐き出した。自分の口や鼻から溢れ出る水に溺れるような感覚があったが、何度も水を吐く内にその息苦しさも解消され、大きく息を吸い込めるようになる。
生き返った心地で目を開くと、近くではジェノサイド金玉が同じように咳き込んで水を吐いていた。そして座り込む楓とジェノサイド金玉を、呆然とした表情で見下ろす裸の少女が一人。
「……武藤?」
漆のようなショートカットは、川の水に濡れて肌に張り付いている。服を着ていないのは先程まで川に入っていたからか。トレードマークの銀縁眼鏡も今はかけておらず、足元の岩の上に転がっていた。
一糸纏わぬ白い肢体は、良く引き締められているだけでなく、はっきりとした筋肉の隆起があった。大きくはないが形の良い胸の膨らみや、脂肪のそぎ落とされたウェストのラインが艶めかしい。そして股の間には、女性としての陰核の他に、武藤固有の蘇生液線……確かにアレの形をしている……がぶら下がっていた。
「おまえがあたし達を助けてくれたのか?」
そう尋ねると、武藤は楓から目を逸らして俯き……そして小さく頷いた。
「なんであんな風に泳げるんだ? あんな激しい水流の中で、溺れるあたし達を岸まで運ぶなんて、まるで神業だ」
「……本当に何もかも忘れてるのね。私、中学の頃水泳で国体出てるじゃない? 泳ぐのは得意なのよ。そりゃあ助けるのが簡単な訳じゃなかったけれど……でも、やってできないことじゃないわ」
武藤はため息を吐いた。
「いい加減、思い出してよ。私達のこと。あなたと一緒に過ごした過去のことが忘れられるのは、やりきれないわ」
「すまん」
楓はそう言って頭を下げた。
「まだ思い出せないんだ。この世界での過去のことは。一生思い出せないかもしれないし、もしかしたらそんな過去は存在しないのかもしれない」
「何を意味の分からないことを」
「助けてくれてありがとう。でも、どうしてあたし達を助けたんだ?」
「そうだよ」
水を吐き終えたジェノサイド金玉が、恐る恐ると言った様子で声を発した。
「フェット男粉を振りかけてまで、わたし達のことをティラぬサウルスに食べさせようとしたんでしょう? 川に飛び込まれたのは想定外だったのだとしても、あのまま放っておけばわたし達は溺れ死ぬか、セピリノ岩礁で海坊主に食べられる確率が高かった。なのに、どうしてわざわざ……」
「……なかったのよ」
「え?」
武藤は嘆くような声で吠える。
「できなかったのよ! あなた達を見捨てるなんて。辻岡を殺したことを隠蔽する為だと言っても、友達であるあなた達を殺すことなんて、私にはできなかったのよ!」
そう言って、武藤はその場で膝から崩れ落ち、ぼろぼろと涙をこぼし始める。
「どうかしてたのよ! 私、本当にどうかしてたっ。大切な友達を殺してまで自分の罪から逃れたところで、何になるの? それで捕まらずに済んで真っ当な人生を送れたとして、それが何だっていうの? そんなのが幸せのはずがない。そんなことも分からないだなんて……私は本当にバカだった!」
あふれ出る涙が敷き詰められた小石の上に零れ落ち、シミを作った。深い悔恨と反省の念が、その涙から溢れ出しているように楓には思える。
「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ。あなた達を殺そうとしてごめんなさい。楓のことも、ジェノサイド金玉のことも、私の命と同じくらい大切な友達のはずなのに。本当に……本当にごめんなさい、二人とも……」
そう言って、武藤は楓に縋りついた。冷たい水の滴る細やかな肌からは、しかし武藤自身の確かな体温が感じ取ることが出来た。激しく慟哭する震える肉体を抱きしめて、楓はその肩に優しく手を置いた。
「おまえは確かに、一度はあたし達を殺そうとした。でも今こうして、あたし達の命を助けてくれた。ありがとう武藤。おまえを許すよ」
「うん。そうだね。武藤さんは命の恩人だよ」
ジェノサイド金玉も、楓と同じように武藤の肩に手を置いた。
「いくら武藤さんが水泳の名人だと言ったって、あの激しい川の流れに飛び込むのは危険だったはずだよ。命懸けだった。それでも武藤さんはわたし達の命を助ける為に勇気を出してくれたんだ。見捨てておけば、辻岡を殺したことは簡単に隠蔽できたのにね。それでもわたし達を助ける決断をしてくれたことを、わたしは絶対に忘れない。武藤さんは、変わらずにわたしの友達だよ」
そう言って武藤のことを許した楓とジェノサイド金玉の言葉に、武藤はますます泣き声を強める。
そんな武藤のことを、楓とジェノサイド金玉はいつまでも抱きしめ続けていた。
〇
やがて武藤は泣き止んで、服を着てしなやかな全身を隠してしまった。
ひとまず山を降りることにして、ずぶぬれの楓とジェノサイド金玉は、武藤と共に山を降りた。
その最中、楓はつい先ほど見た光景を思い出し、「本当に股にちんこ付いてんだな」と発言してしまい、激情した武藤に殴りかかられるという事件を生ぜしめた。ジェノサイド金玉が必死で止めてくれなかったら、マジで顔面に貰っていただろう。
楓は不用意な発言を詫び、武藤はどうにか矛を収めてくれた。
「……以前までの楓だったらそんなことは絶対に言わなかったわ。本当に、世の常識やモラルというものまで忘れてしまってるのね、あなた」
「まあ、そうみたいだな。この先この世界で暮らしていけるか、どうにも心配だよ」
「その内思い出せると良いんだけど……。まあ、しばらくは私達がサポートしてあげるわよ。最悪ずっと忘れたままだとしても、一から教えてあげれば済むことだしね」
「それで、これからどうするの?」
そう言ったのはジェノサイド金玉だった。
「結果としては辻岡の死体はティラぬサウルスに食べさせちゃった形になるけど……武藤さんはまだ、隠蔽を主張するつもり?」
武藤は苦笑した。
「そんなつもりはないけど、ジェノサイド金玉たちがそうしたいのなら、黙っておくわ。元より、あなた達を殺しかけてしまった私に、この件について発言権なんてないんだから。どうするかは、あなた達で決めて頂戴」
そう言われ、ジェノサイド金玉は楓の方を見る。
「楓ちゃんはどうしたい?」
「……そうだな。自首で良いんじゃないか?」
楓は答える。
「その辻岡ってのがどんな奴だったのかは知らないけれど、殺しちまったのなら罪は償わなくちゃまずいだろう。どんな罰を受けるのかは、この世界のことを知らないあたしには分からないが、覚悟を決めて立ち向かえば、乗り越えられないこともないはずだ」
「うん。分かった」
「いいわ。そうしましょう」
ジェノサイド金玉と武藤は、それぞれ力強く頷いたのだった。
〇
ずぶぬれの状態で山を降りた三人は、最寄りの警察署に立ち寄って、自分たちのしでかした罪を洗いざらい告白した。
警察署の内装に違和感を覚えるところはなかったが、中にいる警察官の姿は妙だった。全身がゴムのようなぶよぶよの素材でできており、丸っこく膨らんだ胴体と、そこから伸びるホースのような手足、同じようなホースにカタツムリのような目玉が飛び出した頭部を持っていた。姿もそうだが、色合いもシンプルで、あるものは水色一色、ある者は桃色一色と言った具合だ。だがそれらがたくさん集まることで、カラフルな風船のようなにぎやかさを醸し出している。
「そうか。では殺人と死体遺棄で、これから君達は少年院だ」
一警官に過ぎないだろうその生き物は、何故か調査も裁判もなしにそう断言すると、警察署の床の一枚を引っぺがし、地下室に繋がる階段を出現させた。
「厳しい処罰が待っている。さあ、行きたまえ」
武藤とジェノサイド金玉がそれぞれ息を飲み込む。楓も、なんだか緊張して来た。
薄暗い階段を降りると、床も天井もタイル張りの体育館程の広い空間が現れる。その中央には大きな円形の溝が掘られており、中には透明なお湯がなみなみと注がれていた。
地下室と言えど、天井にある巨大な照明のお陰で暗い感じはしない。壁も天井も床も真っ白なタイル張りで、全体にうっすらと湯気が浮かんでいる為、銭湯や温泉に来たような気分になって来る。ならばあの円形の溝は湯船とでも呼ぶべきか。
湯船の周囲を徘徊していた、レモン色の警官が楓達の姿を認めると、手招きをしてこう言った。
「入りたまえ」
武藤とジェノサイド金玉が、緊張した面持ちで靴と靴下を脱いだ。楓も同じようにする。
「行くよ」
武藤のその一言に、ジェノサイド金玉と楓が頷いた。武藤を先頭に三人は湯船の方へと進み……そして、その場に座り込んで脚だけを湯に浸けた。
「ああ~! フローラルぅ! フローラルぅうう!」
他の二人の真似をしてお湯に脚を浸けていた楓は、武藤がいきなりそう叫び始めたので、思わず目を見開いた。
「ジャスミンの香りぃ! ジャスミンの香りぃいいいい!」
ジェノサイド金玉も顔を赤くして大きな声で叫んでいる。訳の分からぬその光景に、楓は表情を引き攣らせるしかない。
「ほら! 楓、あんたも言いなさい」
武藤に肘でつつかれて、楓は混乱した。
「何を言えば良いんだよ!」
「織田信長の口臭についての感想よ! 『良い匂い』とかで何でも良いから、とにかく褒めなさい!」
「い……良い匂いぃ! 良い匂いぃいいい!」
隣の二人に倣って、楓は大声を上げ始める。
「男らしいっ! 男らしい!」
「優しそう! 賢そう! 楽しそう!」
「恰好良い! 恰好良いぃいいいいいい!」
まるで病気の時に見る夢のようだ。こんなことが起きる世界を作った神がいるなら、おそらく相当にアタマのおかしな人物に違いない。真っ当な世界の理からは隔離されて久しく、筋の通った想像力は失い抜いている狂人だ。
しかし楓は、自分の生きているイカれた世界に悲観しなかった。何が現実で、何が夢であるのか分からなくとも、そこに絶望することはなかった。
喉が枯れる程叫び続けていると、やがて楓達の脚を浸けている湯の色が、赤く染まっていく。そして、楓達を見守っていた警官の口の橋から、ぶくぶくと泡が立ち始める。その滴が一つタイル張りの床に落ちた時、警官は勢い良くこう叫んだ。
「終了!」
その声を聞くと、武藤とジェノサイド金玉が歓声を上げた。
「おまえたち、良く耐えたな! これでおまえ達の刑期は終了だ! 元の生活に戻ると良い!」
楓達は湯から脚を上げて立ち上がる。すると、武藤がその場で飛び回りながら、楓とジェノサイド金玉の両手を掴んだ。
「やったっ。やったやったっ。やったぁ!」
クールなイメージの彼女にはあるまじき程、無邪気な表情と声だった。ジェノサイド金玉も、武藤に手を握られながら、どこか感極まったように涙ぐんでいる。
「……終わったのか? これ? 人一人殺しといて、こんなんで済むのか?」
「ちゃんと自首をしたのが良かったみたいだね」
楓が疑問を漏らすと、ジェノサイド金玉が答えた。
「お陰で、足の裏に恥垢を塗られるのは免れた。それは本当に良かった」
「ええ……。ジェノサイド金玉が正しかったわ」
武藤が涙を拭いながら言う。その顔は真っ赤に染まり、全身は歓喜に震えていた。
「殺された辻岡も、その内天使様が復活させるわね。また赤ん坊からやり直しよ。相応しくない死に方をした人は、そうなるのが世界のルールだから。もちろん殺すのは良くないからこうして罰を受けたのだけれど……とにかく、これで私達は釈放よ。エスカレーターに乗りましょう」
言いながら、武藤は、タイル張りの部屋の奥にいつの間にやら出現していた、長いエスカレーターを指さした。
「あれに乗って、地上の世界へ帰るの。そして新しい生活が始まるのよ。罪を償った私達の、新たなる旅立ちという訳ね」
楓達は、武藤の指さしたエスカレーターに向かって歩き、三人でそこに乗り込んだ。
エスカレーターはやけに長かった。いくら目を凝らしても先が見通せない程で、まるで天まで続いているかのように思われた。
白い壁と薄暗い照明に包まれた空洞の中で、エスカレーターが静かに楓達を運んでいく。
何十分も何時間も、楓達はエスカレーターの上で立ち尽くしていた。楓以外の二人はそのことに疑問を感じていないようで、ただ償いを終えた喜びから、嬉しそうな表情を浮かべてはしゃいでいる。
「なあ。ジェノサイド金玉」
楓はふと、そこで口を開いた。
「なあに楓ちゃん」
「いつかおまえ、『胡蝶の夢』の話をしてくれただろ? 蝶になって空を飛ぶ夢を見た人が、蝶である自分と人である自分の、どちらが現実なのかを思い悩む話」
「うん。そんな話、したね。それがどうしたの?」
「あれの教訓ってさ。つまり、『人である時は人として、蝶である時は蝶として、それぞれの世界で精一杯頑張りましょう』ってことじゃないのか?」
あの白い病室で、ニワトリの顔をした医者が言ったことを思い出しながら、楓は尋ねた。
「そうだったと思うよ。あの時はそこまで話せなかったけど……でも良く分かったね」
「そうだろうと思ったんだよ」
楓は腕を組んで、頬に笑みを浮かべた。
「突き詰めて考えて行けば、何が現実で何が幻想かなんて、誰にも分かりはしない。そしてそのことは、どんな世界にいても同じなんだ。だったら、思い悩むだけ無駄だ。どの世界にいようともあたしはその世界で精一杯生きなくちゃいけないし、そして全力で足掻いている限りにおいては、その世界をほんの少しずつでも良くしていくことができる」
「なるほど。つまり楓は、今言ったような考え方で、この世界を前向きに生きて行こうって決意した訳ね?」
武藤が問う。楓は力一杯頷いた。
「そうともさ。その時々であたしのいる場所が、その時々のあたしにとっての、かけがえのない現実なんだ。そういう意味では、何が現実で何が夢かなんて、考える必要はないんだと思う。前に見た夢で、それをあたしに教えてくれた奴がいるんだよ」
そう言って、楓は武藤とジェノサイド金玉の肩を抱き、笑みを浮かべた。
「だからおまえらの存在だって、今のあたしにとってはかけがえのない現実で、確かに実在するあたしの大切な友達だ。一緒にいてくれてありがとう。これからもよろしくな、二人とも」
武藤とジェノサイド金玉は、それぞれに笑みを浮かべて、強く頷いた。
現実はどこだ 粘膜王女三世 @nennmakuouzyo
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