第2話
ゆっくりと、楓は目を覚ました。
さっきまで横になっていた山小屋だった。
寝起き特融の、先ほどまで見ていた夢が遠ざかるような感覚がある。砂埃に満ちた洞窟の姿も、何年となく続いたかのように思える行進の日々も、全てが朧げな記憶となって、掻き消えてしまいそうになっていた。
何百万回と洞窟の中を土嚢を背負って往復していた思い出が、ほんの一瞬の出来事のように思われた。しかもその記憶は、楓の中から今にも霧散しようとしているのだ。
楓は強い恐怖を覚える。洞窟の中の日々は確かに苦しみに満ちていたが、しかしそれでも、その中で確かに楓は歯を食いしばって必死に生きて来たのだ。その記憶があっけなく消えてしまうことは、楓にとってとうてい耐えられることではなかった。
その恐怖を口にしようと思った寸前……ヒステリックな喚き声が楓の耳朶を打った。
「だから、自首なんてしないって言ってるでしょう!」
武藤である。
「死体はティラぬサウルスに食べさせれば良いって何度も何度も言ってるじゃない! 死体さえ無くなれば調査自体がなされないんだから、逮捕される心配はどこにもないわ! 何がどうやったら犯行が露見するのか、言えるもんなら言って見なさいよ!」
その怒声を受けたジェノサイド金玉は、静かに首を振る。
「わたし達がどれだけ検討を尽くしてバレる可能性がないと結論を付けたところで、それが単なる浅知恵だっていう可能性はあるよね? 失敗っていうののだいたいは想定外のところから起きるのだから。武藤さんがどれだけバレない理由を並べても、それは同じことだよ」
「そんなんじゃ話にならないじゃない。隠蔽がなるかどうかを合理的に検討した上で難しいと主張するのならまだ分かるけど、あなたが主張しているのは根拠のない単なる悲観論に過ぎないでしょう。バレると思うのなら、具体的に私と議論しなさいよ」
「武藤さんの方こそ、何が何でも犯行を隠蔽したいっていう気持ちがまず先にあって、バレない理屈は後付けなんじゃないのかな? だいたい、わたしとのディベートに勝ったところで、バレるものがバレなくなる訳じゃないでしょう?」
「バレないわよ。そのことをあなたに納得してもらうための議論でしょうが」
「つまり言い負かしたいってことじゃない。っていうか、わたし達には、警察の調査の能力や方法について、正しい知識が備わっている訳じゃないでしょう? そんな状況で議論したところで正しい結論を導けるとは思えない。隠蔽が成る確証なんて絶対に得られない以上、慎重に行動すべきだと思う。少しでも罪が軽くなるように、自首しようよ」
「話にならないわね」
「武藤さんの方こそ」
「楓は」
「楓ちゃんは」
「「どう思う?」」
こちらが二人の激論に耳を向けていたのを見て取った二人は、楓の方に水を向けて来る。
楓は答える。
「どうもこうもねぇよ」
この二人はお互い自分の考えを声高に主張しているのみで、相手の話を聞くつもりなどまるでない。その上で声の大きさを比べあって勝ち負けを決めるのならまだしも、なまじっか相手にも自分の考えを納得させようとしているのだから、始末に悪い。
「聞いてりゃお互い退く気はないんだろ? あたしにはどっちの言い分が正しいかは分からないけど……でもジェノサイド金玉が退かないなら、結論は自首にしかなりようがない」
「どうしてそうなるのかしら?」
武藤は鋭い視線を楓に向けた。
「決まってるだろ? 隠蔽は三人が結託しないとできないことだけど、自首の方は一人でもしちまったら三人とも巻き添えになるんだ」
「そう思うのなら、楓もジェノサイド金玉を説得する手伝いをしてよ?」
「言ってるだろ? あたしにはどっちの言い分が正しいか分からないって。だったらなるようになるに任せるしかないだろうが。一人でも自首するっていう奴がいるんだったら、全員で自首するしかないんじゃねぇの?」
「どうして自分のことなのにそんなに投げやりなのよ?」
「ここがあたしの現実だとは思えないからだ」
「まだそんなことを言って!」
武藤は怒声を発した。
「現実逃避もほどほどにしなさいよ! このままじゃ少年院に入れられるのよ? 万が一足の裏に恥垢を塗られたら、玉虫色の手足の生えた彗星に一生涯追い回されるのは避けられないわ。泥沼に手を突っ込む度にヘソが痒くなる。そんな人生を送ることにあなたは何の疑問もないの?」
「……楓ちゃんが投げやりなのはわたしも良くないと思うけど、でも言ってることは、確かに正しいのかもね」
そう言ったのはジェノサイド金玉だった。
「楓ちゃんの言う通り、一人でも自首を主張する人間がいるなら、それはもう全員で自首しかないってのは確かだもんね。できたら武藤さんにも納得してもらいたいけれど、どっちにしろわたしは考えを変えるつもりはないし」
「少年院の赤の足湯で、目ヤニが黒くなってもあなたは良いっていう訳?」
「強逝酸でなんとかすれば良い」
「第七真皮が破壊されてゲラーゾ硝素で寿命が縮むわ」
「それは近年の科学では否定されてる。硝素学者のスーザン斎藤の発表によれば、ただの迷信だって」
「足の裏に恥垢を塗られてからの過酷な人生を、あなたは耐えられるっていうの?」
「罪と罰って奴だよ、武藤さん。わたし達は間違いなく辻岡を殺したんだから」
「私は嫌だ! せっかく今まで頑張って堅実に生きて来たのに、こんなアクシデントの所為で真っ当な道が閉ざされるだなんて……」
そう言って武藤は顔を覆って泣きじゃくり始めてしまう。それを冷静に見下ろすのがジェノサイド金玉だ。その視線は静かであり、泣いている武藤に対する慈しみのような感情すら漂わせている。
一見すると、攻撃的な論調の武藤の方が気が強そうだが、実のところ、物腰穏やかなジェノサイド金玉の方が、精神的には安定しているのかもしれない。
武藤はそのまま数分間、泣き続け、ジェノサイド金玉がそれを見守ると言うのが続いた。
そして、おもむろに立ち上がった武藤が、捨て鉢な声でこう口にする。
「……毒を食らわば皿まで、っていうわよね?」
その声に、ぞっとしないものを感じて、楓は目を剥いた。
「武藤さん?」
おずおずと、ジェノサイド金玉が武藤に声をかける。武藤は、血走った眼を楓とジェノサイド金玉の二人に向けると、壁際に立てかけてあった大きな紙袋に向けて走り寄った。
「だ、ダメっ。それは……」
ジェノサイド金玉が制止を呼びかける間もなく、紙袋を手にした武藤はその中身を楓とジェノサイド金玉に振りかけて来た。
「ぐわっ」
「きゃあっ」
強烈な悪臭と生暖かい温度を持つその物質が、楓の全身に降り注ぐ。色は茶色で、僅かに粘性を帯びており、見た目は土や粘土にも近い。しかし土よりはしっかりとした形を保っていて、粘土と比べると崩れやすかった。その強い臭いや感触はまるで……。
「うんこじゃねぇか!」
楓は叫んだ。うんこを触ったことがある訳ではない(と思う)が、しかし見た目と言い臭いと言い、それはうんことしか言いようがなかった。
「違うよ、これはフェット男粉」
ジェノサイド金玉が冷静に指摘する。その全身は、楓と同じものでどろどろに汚れていた。
「色と形と臭いと成分は人糞と同じだけれど、でも人糞とは別物なんだよ」
「色と形と臭いと成分が同じなら、それはもううんこじゃねぇかよ! なんでそんなもんを振りかけて来るんだよ!」
「あんた達はこれから、ティラぬサウルスに食われて死ぬのよ」
武藤はそう言って、足元にあった寝袋の中から、首から上がアヒルの玩具のアタマで構成されている人間の死体……辻岡……を引っ張りだして、紙袋からフェット男粉をそこに振り撒いた。
「今にティラぬサウルスがやって来るわ。あなた達も、辻岡も、それに食われてしまいなさい」
最後にそう言い残すと、武藤は山小屋から勢い良く飛び出して行った。
楓とジェノサイド金玉は二人、途方に暮れた顔を見合わせる。中でもジェノサイド金玉の表情は、強い恐怖に歪んでいた。
「ど、どうしよう楓ちゃん。このままじゃ、わたし達……本当にティラぬサウルスに食べられちゃう……」
「いや、うんこを振りかけられたからって、なんでティラノサウルスに食べられる訳?」
「うんこじゃなくてフェット男粉だし、ティラノサウルスじゃなくてティラぬサウルスだよ。武藤さんは辻岡の死体だけじゃなく、わたし達のことまでティラぬサウルスに食べさせようとしているんだ。口封じの為にね。ティラぬサウルスは、フェット男粉の匂いが大好物だから」
「なんだよそのスカトロ恐竜は!」
「ティラぬサウルスは恐竜じゃないってば! とにかく、一刻も早く山を降りないと、命が……」
そう言うジェノサイド金玉の声を、響き渡る大きな轟音がかき消した。
一歩ずつ、こちらに近付いて来る怪物の足音である。音と共に地響きが山小屋の中まで伝わって来て、本能的な恐怖を楓に覚えさせる。何か恐ろしく巨大な生き物が、おもむろな足取りで少しずつこの山小屋に近付いてきている……。
「来たよ!」
ジェノサイド金玉がそう叫んで、楓を山小屋の外に引っ張り出した。
遠くから、巨人のような気味の悪い生き物がこちらを覗いているのが見えた。
体長はゆうに三十メートルはある。体は生まれたばかりの全裸の赤子のようだが、どういう訳か二足歩行してこちらに向かって来ている。そしてその幼い全身の首から上は、赤子のアタマではなく三十代程の男のアタマがくっ付いていた。面長で、顎が角ばっており、黒縁の眼鏡をかけていて髪の毛は見事な七三別けだ。その頭部だけでも、体の倍近い大きさがある。
「ティラぬサウルスだ!」
風邪を引いた夜に見る夢のようなその怪物を指さして、ジェノサイド金玉は叫んだ。
「室井でございまーす!」
という巨大なうなり声を上げながら、ティラぬサウルスは楓達のいた山小屋に向かって、足音を響かせながら飛び込んで来る。ジェノサイド金玉に手を引かれる形で、楓達は全力で山を下って怪物から逃げた。
「佐内でございまーす! 関口でございまーす! 林でございまーす!」
叫びながら、ティラぬサウルスは山小屋の中に首を突っ込み、その薄紫色の唇でフェット男粉に塗れた辻岡をつまみ上げた。そして黄ばんだ歯を噛みしめながら、少しずつ辻岡を飲み込んでいく。口端から血液が滲み出て、ティラぬサウルスの頬を汚した。
辻岡を食べ終えたティラぬサウルスは、再び鼻をひく付かせると、山を逃げ降りている楓達に狙いを定めた。そしてその巨体を揺らしながら山を降りつつ、「土橋でございまーす」とうなり声をあげて楓達に迫る。
楓達は必至でティラぬサウルスから逃げた。
逃げる途中で、楓はこの世界の山の様々な光景を見た。
山には多種多様に木々が生えており、女性の乳房にしか見えない形のコブがあちこちに張り付いている。キノコを思わせる形をした突起が人間の子供程のサイズ感で生い茂っており、その一つ一つの上には十センチ程の大きさの小人が立ち、手足を振り回しながらヘタクソなタコ踊りを披露していた。
背中に蝶々のような羽を生やしたムカデがあたりを飛び交い、楓の顔や手足に張り付いては、噛み付く代わりに口から出した針を刺して来る。痛みを感じる間もなく羽根つきムカデは飛び去って、一瞬にして腫れあがった皮膚の中から、蛆虫のようなどす黒い生き物がポロポロと地面に落ちる。しかし次の瞬間には、腫れていた皮膚は何事もないかのように再生した。
異様な光景と現象の数々に度肝を抜かされながらも、楓は山を流れる小川の前までたどり着いた。
深さも長さもさしたることはなく、流れも驚く程緩やかな川だった。然程時間をかけずに渡れそうにも見える。ティラぬサウルスは然程俊敏ではないが歩幅は大きく、逃げても逃げても楓達との距離は広がらず、むしろじわじわと縮まっているように感じられる。
ここを迂回して進むか、川を渡るかを考えたところで……楓はふと閃いてジェノサイド金玉に言った。
「ここでうん……フェット男粉洗い流せば良いんじゃないか?」
「……それはまさに、一か八かだね」
ジェノサイド金玉は言った。
「こんな川に指一本でも触れたら、途端に流れが速くなって、溺れ死ぬか、良くてゼピリノ岩礁まで連れて行かれて海坊主に食べられる。運良く突き出した枝にでも捕まれれば別だけど、そうなる確率は高いとは言えないね」
「なんか良く分からないけど……危険なのか? こんなに流れが緩いのに」
「緩く見えるだけだよ。誰かが川に踏み入った瞬間に本性を現して、突然流れが速くなるんだ。そうじゃないと、警戒して誰も中に入らないからね。川だって結構狡猾なんだよ」
良く分からないが川に入るのには大きなリスクを伴うらしい。しかし、悩んでいる間にも追いかけて来るティラぬサウルスとの距離は縮まるばかりだ。「榊でございまーす」といううなり声が、すぐ真後ろで聞こえて来るかのようである。
「とは言え、このままじゃどの道ティラぬサウルスに捕まっちゃうね。……どうする楓ちゃん? 行ってみる?」
一瞬の逡巡の後、楓は、決断した。
「行こう!」
楓が川に向かって踏み込むと、ジェノサイド金玉が「分かった」と頷いて後に続いた。
ジェノサイド金玉が言っていたとおり、楓達が川に足を踏み入れた途端、流れは急激に早くなった。
それどころではない。浅い小川に見えた川は瞬く間に姿を変え、急に大海の中央に来たかのように大きく、そして深くなった。唸りを迫りくる水流は楓の肉体をたちまち飲み込み、上下も左右も分からなくなった全身を、どこへともなく無茶苦茶に運んでいく。
大量の水を飲み込みながら、楓は全身をもみくちゃにされ、少しずつ意識を遠のかせる。
そして、頬に何か平たく冷たい感触を覚えたかと思うと、ゆっくりと目を覚ました。
〇
教室の机の上に右側の頬をくっ付けて眠っていた楓は、ふと目を覚まし、口元から垂れるよだれを拭った。
帰りのホームルームで喋っていた教員が、睨み付けるような表情でこちらを一瞥する。居眠りを決め込んでいたことは、おそらくバレていたのだろう。もしかしたら、怒鳴りつけられる寸前だったのかもしれない。
気付かれないように伸びをしてから、楓は、すぐ傍にある教室の窓から外を見詰めた。五月の太陽が煌めく青空には、輝くような純白の分厚い雲がゆっくりと漂っている。校庭に生えた木々には深い緑色の葉が生い茂り、風が吹く度に乾いた音を立てた。
教室を見回す。自分と同じような制服を着た生徒達が、思い思いの仕草で席に着いている。壁に掛けられた時計の姿も、薄汚れた黒板も、自分の着いている学習机の模様に至るまで、すべて楓には見覚えがあった。
ここは現実の世界で、自分は今日までここに生きていた。
そして明日から、この世界での日々を楓は生きていく。
そんな当たり前のことを何故かしみじみと考えた後、楓は小さな声で独り言ちる。
「……なんか、ものっすごい変な夢、見てたな」
教員の話に一区切りが付いた直後のタイミングで、計ったかのようにチャイムが鳴り始めた。
〇
赤沢楓は公立本坂(ほんざか)高校の一年生だ。
T県の病院にて生を受け、出生体重は三千四百二十六グラム。健康な赤ん坊としてこれと言って大きな危機や苦難を経験することもなく健やかに育った。
小学生の時に盲腸の手術をしたことと、中学生の時に部活の練習中に左手首を骨折したこと以外は、大過なく義務教育を終えることができた。成績は比較的良かった為、受験シーズンには塾にも通い、公立高としては高偏差値の部類にある本坂高校への進学を果たした。
中学の頃はソフトボール部に所属しており、俊足強肩の外野手として活躍。最高学年になってからは終始スターティング・メンバーで、いくつかの試合で四番打者を務めることもあった。だが体育会系特融の上下関係などの体質が鬱陶しくもあった為、高校からは文化部である生物部に所属するようになっている。
「楓」
「楓ちゃん」
放課後、部活に行く準備をしていると、横から二人の友人に声を掛けられる。武藤あかねと、金城玉子である。
武藤あかねは漆のような黒いショートボブに銀縁眼鏡というスタイルで、切れ長の鋭い目を持っている。クール・ビューティな雰囲気を漂わせており、常に取り澄ました話し方をする。楓にとっては中学時代からの親友だ。射程圏内だった名門私立進学校への受験を諦めてまで、楓と同じザカ高を選んでくれた程の仲良しだった。
金城玉子は高校に入ってから出来た友人である。元々の色素が薄いのか、その髪の毛は染めてもいないのに少し赤茶けた色をしている。同じく茶色っぽい大きな垂れ目は、どこか弱気な印象を人に与える。実際その性格は温厚でおとなしく、中学時代などは一部のバカな男子から名前をもじって『金玉』と呼ばれてからかわれていたという、少々可哀そうな過去も持っていた。
「どうしたの? なんか、帰りのホームルームの最中、眠りこけてたみたいだけど」
「そうだよ。先生、ずっと楓ちゃんのこと睨んでた。もう、怒られる寸前って感じだった」
武藤が呆れたように、金城が心配そうに言う。楓は肩を竦めて答える。
「別に。なんか急に眠気が来てさ。まあ、怒られずに済んだんなら、良かったよ」
それから三人は、所属している生物部にまで足を運んだ。
その間は、三人は様々な話題のガールズ・トークに花を咲かせた。楓はさっきまで見ていた意味不明な、異様なまでに長く生々しい夢について話したい衝動にかられたが、すんでのところで口を噤んだ。
あんな意味不明な内容をうまく説明できるとは思えない。それに、『ジェノサイド金玉』の部分を話したら、両方の友人の不況を買いそうだ。金城自身はもちろん、友達想いの武藤だって、夢の中で友人をそんな風に呼んでいたと言われれば、きっと良い思いはしないだろう。
生物部の部室は楓の所属する一年三組のある校舎の隣の校舎の一階にある。そこで楓達は、一階の玄関から隣の校舎まで歩くことにしていた。
その間、なんとなく自分の下駄箱に視線をやった楓は、スニーカーの上に一枚の封筒が入っていることに気が付いた。
「ちょっと待ってくれ」
二人の友人にそう断った上で、楓は、下駄箱に入れられた封筒を手に取った。
可愛らしいハートの装飾が施された、白い封筒である。中学の時、楓の周りでこういう封筒に手紙を入れて相手の机に忍ばせるのが、流行ったことがあった。たいていは他愛もないような内容ばかりだったが、中には秘めたる思いをそうした方法で告白すると言った文化も存在していた。
中の手紙を取り出して、読むと、そこには少々ばかり丸っこい文字で『放課後、体育館裏の木まで来てください』と書かれているのが見える。
「何が書いてるの?」
金城が興味を持ったような声で言った。
「いや、あんまり人に話すようなことじゃ……」
楓は照れ笑いをする。
実は楓は、こういう手紙をもらうことが、特に中学時代は多かった。女子としては高い背丈や、しなやかで長い健康的な手足、高い鼻、精悍さを感じさせる吊り上がり気味の瞳と太い眉などが、ボーイッシュな魅力を感じさせるのだろう。中学時代は、ソフトボール部の中心メンバーとして試合でも活躍していた為、そっち方面のファンもいた。
「男子? 女子? どっち?」
武藤が、からかうような声で言った。
「多分、女子だと思う」
「ちょっとしたファンなら良いんだけど、本気で交際を迫られたら、どうするつもり? あなた、別にレズとかじゃないんでしょ?」
「テキトウにあしらうよ。いつもそうしてるし。とにかく、ちゃんと指定された場所まで行って、会ってあげないと。勇気を出して手紙を出してくれたんだから、ちゃんと対応しないと可哀そうだ」
「分かったわ。じゃ、今日の部活は、休み?」
「そうなると思う」
生物部は文科系の部活の中でも緩い活動内容で、毎日ちゃんと来ているのは部長である風見鏡花ただ一人である。幽霊部員も多い、と言うよりは、まともに活動しているのは、部長と一年生である自分たち三人くらいのものだ。一日くらいのサボりをとがめる者は誰もいないだろう。
飼育されている大量の金魚の世話も、主にその風見がやっている。夏祭りのシーズンの度に、悪戯に掬った金魚の世話を全校中の生徒から押し付けられるらしい。彼女が卒業した後は、一番熱心な金城を中心に、自分たちが引き継いでいくことになりそうだ。
「場合によっては、途中から来ることもあるかもしれない。部長には、そんな感じで伝えといてくれ」
「分かったわ」
そのやり取りの後、楓は、二人の友人と別れ、指定されている体育館裏まで向かった。
〇
体育館裏の木が告白スポットというのも、古風なものである。
学校でもひと際大きなその木は、体育館の建物とほぼ同じ高さまで聳え立っている。木肌には生徒達の悪戯により、あちこちにカッターで文字やマーク、絵ともつかないような訳の分からない模様などが彫り刻まれていた。しかし悲壮な感じはせず、むしろ幼稚な悪戯にも動じず厳かに生徒達を見守る賢人のようなただ住まいを、その木はいつも放っていた。
そんな木の根本で、楓は手紙の主を待ち受けることにした。
五月とは言え、こんな巨木の木陰となれば、どこかひんやりとしている。風が吹く度に、生い茂った木の葉たちが擦れ合い、涼し気な音を立てた。昼下がりの太陽はおだやかな日光を振り巻いていて、重なり合う葉の隙間を縫うようにして影との間にコントラストを作り、楓の頬に複雑な模様を描いていた。
体育館の中からは、バスケ部あたりが練習する音が響いて、楓の耳朶を揺さぶって来る。ボールが跳ねる音や気合の入った選手たちの声に、楓は、自分がソフトボール部の四番だった時のことを瞼の裏に思い出していた。
……ああ。ここは、ここだけは、現実なんだな。
何気ない日常の一コマの中の、おだやかな時間の中で、楓はそんなことを噛みしめていた。
現実と言うのは、確かめる術を持たずとも、ただその中にいるだけで、確かにそこが現実だと実感できるものなのだ。そこに理屈を付けることはできないが、しかし言葉で言い表す必要などなく、現実の中の人々はそこが現実であるという事実を共有して、日々を生きているのだ。
そんな当たり前のことが、無性に素晴らしく思えた楓は、心地の良い気分で目を閉じて、巨木に身を預けて頭の後ろで腕を組んだ。その時だった。
小さな足音がして、楓の前に一人の少女が現れた。
異様な人物である。何せ、その少女はその身に布切れ一つ帯びていない。肌は白く、どちらかというと痩せていて、それでいて、女性的な丸みも全身のあちこちに僅かずつだが芽生え始めている。年齢としては、十歳くらいと言ったところ。
瞳の色は宝石のようなブルーで、腰まで届きそうな長髪は澄み渡るような黄金色をしていた。明らかに日本人ではない堀の深いその顔立ちは、絶世の美貌と言うにふさわしいものだった。
学校の校舎に全裸の美少女。その現実離れした光景に、楓は思わず絶句する。少女は楓の手に握られている一枚の手紙を指さして、鈴を転がすような声でこう口にした。
「その手紙を差し出したのは我である」
「は?」
少女は、言いながら楓の手から手紙を奪い取る。そして、用が済んだとばかりに無造作に捨てると、その手紙はどこかから青白い火が点いて燃え上がり、魔法のようにその場から消え失せてしまった。
「我の目的は、貴様に、この世界が偽りであることを伝えることにある」
「何言ってんだよ、おまえ」
楓は冷や汗をかきながら、全裸の少女を睨み付け、言った。
「意味分かんねぇよ。というか、おまえ、いったい何者なんだよ?」
「我は天使である」
そう言った瞬間、瞬くような光が世界を包み、楓は思わず目を閉じる。
そして目を開けた瞬間には、少女の背中には真っ白な翼が生え、空中に浮きあがっていた。
翼はその一枚一枚が少女の体長の倍近いサイズがあり、空中浮遊していると言うのにそれらが羽ばたく様子は見られない。ただ、それが当たり前であるかのように浮いているのみである。だと言うのに、その翼からは絶えず光の粒子と共に驚く程小さな羽根が飛び散ってもいて、楓の頭上におだやかに降り注いでいた。
その金色の頭上数センチには半透明の光の輪が浮遊している。まさにエンジェル・リングと言ったそれは鋭い虹色の輝きを放ち続けており、あまりの眩しさに直視し続けるのが難しい程だった。
「嘘だろ……」
何故『現実』であるはずのこの世界に、こんな非常識な存在があるのか、楓には理解不能だった。何らかのトリックが使われているのかとも考えたくなるが、しかしこれほど神々しい存在を目の前に生じさせるからくりなど、楓には想像しようもなかった。
「嘘だろ……ここは、ここだけは、現実じゃなかったのかよ」
「愚劣なり。何を持ってして、何が虚構で現実だなどと定義しうるというのか」
天使はそう言うと、口元に邪悪としか言いようのない形の笑みを浮かべた。
「そもそも、『現実』などと言うものは存在しない。それは、『現実』とは何かということを考える時に、頭の中に出現する偽りに過ぎないのだ」
天使は楓の身体に手をかざす。
それだけで、楓の脚は地面から離れ、空中へと浮かび上がった。悲鳴を上げる前に、今度はしっかりと翼をはためかせて飛び上がった天使を追い掛けさせられるように、楓の全身は空高く放り投げられる。
はるか上空から見える校舎の様子は、確かに先ほどまで楓がいたはずの平和な日常の空間だった。しかし楓自身は意味不明な天使に操られ、宙に浮かされ、現実では起きるはずのない現象をその身に引き起こされている。
「何を言っているんだ? 現実が存在しないなんてありえないだろう!」
楓は吠えた。天使は、邪悪な笑みを浮かべたまま応答する。
「水槽脳仮説というものを知っているか? ある者が『世界』だと感じるものの全ては、脳だけになって水槽の中に閉じ込められた状態で送り込まれる電波が見せる、ただの幻覚に過ぎないかもしれないという説だ。はたして、貴様の脳が水槽の中に入れられていないということを、貴様には証明できるのかな?」
「そんなことがあり得る訳がないだろうが! あたしの脳は水槽になんか入れられていない!」
「答えになっていない。だが仮にそうだとしよう。しかし水槽に送り込まれる電波と、地球上のあらゆる物質・概念が齎す刺激との間に、どのような違いがあるというのだ? どちらの場合であっても、貴様の感じる世界とは、貴様の矮小な脳が作り出して貴様自身に見せている幻想であることに、何の違いもないのではないか?」
「おまえの言うことは間違っている! 水槽と現実の地球じゃまったく意味が違う!」
「違うというなら、貴様が感じているあらゆる感覚の内の、どれが現実に由来するもので、どれが単なる幻想かということを、どのように定義するというのだ? どうにも定義ができないというのなら、すべてが幻想であることと同じではないか」
「それは……そこが本当に現実なら、そこが現実であることは、分かるはずで……」
「つい先ほどまで、貴様が現実だと確信していたこの世界もまた、偽りだったのだぞ?」
天使はそう言うと、掌から放たれる光で世界を覆った。
「見ろ。これが、貴様が現実だと思い込んでいた世界の、真の姿だ」
そこにはあらゆる色も形も存在しない、無限の虚無だけが続いているおぞましい空間だった。上も下もなく、脚の踏み場もなく、見通しようもないがらんどうな空間だけが永遠に続いている。白くも黒くも透明でもない。闇さえもないその虚無の世界には、視覚という概念すらも役に立たない。ただひたすらに、『何もない』だけが存在していた。
「ここには何もない。何もない故に、どんなものでも描くことができる」
天使が手をかざすと、足元から吹き上がる真っ赤な炎が出現した。世界中を覆いつくす巨大な炎の頭上を、灼熱に耐えながら天使に浮かされ楓は漂っていた。
「こんなことも」
大シケのどす黒い海が天使の足元に出現する。荒れ狂う大海の中に、天使は指先一つの号令で楓を放り込んだ。水流に蹂躙されて沈みゆく楓の全身を、突如現れた海の怪物が丸呑みにする。
「こんなこともできる」
分厚い雲の上に楓はいる。柔らかな雲の上には、天使と同じような見た目をした美しい子供達が、思い思いの仕草でくつろいでいる。その中で、高校の制服を身に着けた楓の場違いでみじめな姿を、天使達は嘲るような表情でじっと見つめていた。
「どんなに強くそこを現実と信じたところで、ふとした時に何の前触れもなく、そこが偽りであると思い知らされる瞬間はある。そうでないということを、貴様は今後、どのように証明する? 突き詰めて考えていけば、この世界に確かな疑いようもない現実などは、どこにもないのだぞ?」
「……おかしい。おかしいよ。こんなことはありえない……」
分厚い雲の上で、楓は激しく慟哭し始める。天使はその姿を冷たい笑みと共に見下ろして、嘲弄するようにその頬に手を触れた。
「嘆くことはない。何故なら現実などいらぬからだ。現実などなくとも、貴様は貴様という無二の存在として、あり続けることができるからだ」
顔を上げた楓に、天使はあくまでも嘲りの笑みを浮かべ続ける。
「貴様はこの後の様々な幻想に弄ばれるだろう。だが幻想を拒絶する必要はどこにもないのだ。幻想こそが、貴様が感じているあらゆる音や光、匂いや味、感触の本質であり、それらは貴様が生きて存在する限り、揺ぎ無く貴様を包み込むだろう。それを嘆く必要はないのだ。現実を探す必要など、どこにもないのだ」
そう言われた瞬間、楓の立っていた分厚い雲の床が崩れ、全身は虚空の中へと投げ出される。
長い長い、無限に続くような落下だった。その中で楓は絶叫を上げ続け、しかしそれを聞きとめる者など一人もおらず……。
どこにも着地することもないまま、楓は意識を失い、その存在がその場所から消えた。
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