現実はどこだ

粘膜王女三世

第1話

 死体が転がっている。セーラー服を着た少女の肉体の上に、アヒルのオモチャそのものである黄色い顔の付いた死体だ。

 その少女の死体を取り囲む三人の人影があった。彼女らもまた、同じようなセーラー服を着用した少女達である。少女達の着衣は砂に塗れほつれ、その手には血の付いた石ころを帯びている。

「隠蔽すべきだわ」

 少女の内の一人……切れ長の目に銀縁眼鏡をかけたショートボブの少女が口にした。

「自首した方が良いんじゃあ……?」

 もう一人の少女……色素の薄い垂れ目を持つポニーテールの少女が口にした。

「いいえ隠蔽できるわ。私達、ここに来ることは誰にも言っていない。死体はティラぬサウルスに食べさせれば良い。完全犯罪が成立する可能性は高い」

「確かにバレるようには思えない。でもそれは浅知恵かもしれない。第一、よしんば隠し通せたとしても、一生罪を背負って生きて行くのはつらいことなんじゃなあい?」

「なら少年院に行く方が楽だというの? 少年院はつらいわよ。赤の足湯に浸かりながら、織田信長の口臭についての感想を、教官の手の甲から泡が出るまで言い続けなければならない。足の裏に恥垢を擦りつけられる可能性もある。あなたは耐えられる?」

「もちろん嫌だよ。でも、いくら証拠を残さなかったとしても、殺人を犯したプレッシャーで腋の下が青紫に変色する可能性だってあるじゃない? 最悪の場合青田渚汁が垂れて来るでしょ? そうなったらどっちにしろわたし達おしまいだよ」

 その応酬の後、二人の少女はもう一人の少女……赤沢楓の方を向いて、尋ねた。

「楓は」

「楓ちゃんは」

「どう思う?」

 水を向けられた赤沢楓は、呆然とした表情で自分のいる場所を見やった。

 どうやらここは山の中らしい。小さな山小屋が目の前にあり、周囲を取り囲む木々には女性の乳房としか言えないコブのようなものがあちこち張り付いている。足元の柔らかい土の上には少女の死体。身体は女学生のそれだったが、首から上はアヒルのオモチャだ。

 木々の隙間から空を仰ぎ見る。透き通るように鮮やかな黄色い空には、大小さまざまな紫色の太陽が五つ輝いている。雲もある。赤錆のようなくすんだ色をした雲が、絶えず高速旋回しながらぶつかりあい、くっ付いて形を変えたり消えてしまったりを繰り返している。

 赤沢楓は額の汗を拭ってから、こう答えた。

「ここは現実か?」


 〇


「現実に決まっているでしょう」

 と、隠蔽を主張している銀縁眼鏡の少女は主張した。

「殺人を犯したショックで気が動転しているのは分かる。現実から逃避したくなる気持ちも。顔を叩いて、少し休んだ方が良いわ」

「いや……そういう意味じゃなくてさ」

 楓は頭を抱え、そして質問を絞り出す為の沈黙をし、声を発した。

「まず、あたしはあんた達のことを知らない。誰?」

「……親友を忘れるだなんて酷いわね」

 銀縁眼鏡の少女は溜息を吐いた。

「私の名前は武藤あかね。そっちの子はジェノサイド金玉」

 武藤あかねと名乗った少女は、そう言って自首を主張している方の少女を手で指した。

 ジェノサイド金玉と呼ばれたポニーテールの少女は肯定するようにおずおずと頷いて見せる。穏当な意見と言い弱気そうな態度と言い、如何にもおとなし気な雰囲気の少女である。怜悧な気配を漂わせる武藤とは対照的だ。

「いや、ちょっと待て」

 楓は表情を引き攣らせた。

「今あんた、ジェノサイド金玉って言わなかったか?」

「そうよ。その子は同じ部活のジェノサイド金玉」

「いやふざけてるだろ。どんな悲惨ないじめられっ子にもそんなあだ名つけないぞ?」

「本名に決まっているじゃない。あなた失礼よ?」

「他人をジェノサイド金玉呼ばわりする方が余程失礼だと思う。……本当にそう呼ばれてるの?」

 そう尋ねると、ジェノサイド金玉は「えっと……」と言い淀みながら。

「呼ばれてるも何も、て、天使様からそう名付けてもらって……。元々そういう名前っていうか……」

「良いの? ジェノサイド金玉で? 本当にそう呼ばれてそう名乗ってこの先生きて行くの? 自分の運命を呪ったり、精神を病んだりせずに済む?」

「別に嫌じゃないし、そもそも実際にジェノサイド金玉なんだからどうしようもないよ」

 確かにそうかもしれない。人は配られたカードで勝負して行くしかない。ジェノサイド金玉として生まれて来たからには、それはもうジェノサイド金玉として生きて行くよりどうしようもないのだ。

「大丈夫なの楓ちゃん? わたし達の名前まで忘れるなんて……」

「う、うん。ごめん……記憶があいまいっていうか……そもそも記憶がないっていうか……」

「記憶がない? どういうことなの?」

 武藤が問う。楓は、腕を組んで首を傾げながら。

「いやあの……なんであたしがここにいるのかとか、そもそもあたしは誰なのかとか。この世界はいったい何なのかとか……。分からなくって」

 気が付けば死体の前に立っていて、目の前で二人の少女が言い争いをしていた。楓の記憶はそこから始まっており、それより過去のことは何も覚えていない。

 何もかもを忘れて赤ん坊のような状況になっているのではないのだ。織田信長が誰なのかは分かるし、因数分解のやり方も分かっている。自分の名前が赤沢楓で、今現在十六歳であることも想起が出来る。

 だがそれだけだ。両親の顔も思い出せないし、自分がどういう身分の人間なのかも分からない。だがしかし、今自分が立っているこの世界が何かおかしいということも、楓は感じ始めていた。

「……これから大事なことを話し合うというのに、楓がそんな状態じゃ始まらないわね」

 武藤が怜悧な声でそう口にした。

「いいわ。今日この状況に至るまでを振り返ってみましょう。そしたら記憶がはっきりするかもしれない。一刻も早くまともになってもらわないとね」

 そう言って、武藤は今日ここまでの三人の行動を説明し始めた。


 〇


 楓ら三人は§ゅ立ホンジャカホンジャカ高校の露生物愛好会に所属していた。ツカント平野の波打ち際に生息する多種多少な露生物たちを採集、飼育し、その彌吻から出る粘液を吸うのだ。

「ちなみにその繭吻粘液はイリオモテヤマネコの精液と同成分よ」

 さて、そのような活動をしていた最中に、ジェノサイド金玉が岩の隙間に人魚を見付けた。これは大変な発見である。許可なく人魚を飼育することは禁止されており、見付かれば退学は免れなかったが、しかし少女達はその人魚を部室に連れ帰ってしまった。

「それを……死なせてしまって」

 餌として与えていた水牛が大きすぎたのだ。浣腸が雑だった所為で、体内にマンケル性硝素を残留させてしまったのも良くなかったのだろう。二万日も経つ頃には人魚の血中リケート値は異常値を叩き出していた。そのまま人魚が全身の穴という穴から硝素をまき散らして死亡したのは、あまりにも当然のことだった。

「やむを得ず、私達は死骸を遺棄することにした。万が一発見されてはいけないから、ティラぬサウルスの出るこの裏山に捨てに来たのよ。フェット男粉を塗って置けば、きっとティラぬサウルスが食べてくれると思ったから」

 寝袋に詰め込んだ人魚の亡骸を背負って山を登り、目星を付けていた山小屋に到着した。そしてさっさと人魚にフェット男粉を塗り付けてしまおうかと思ったところで……辻岡が現れた。

「まさか辻岡がこの山小屋の中で慧流物オナニーをすることを趣味としていたとはね。迂闊だったわ」

 人魚の亡骸を見て辻岡は怒り狂って楓たちに詰め寄った。辻岡の両親の職業が露生物細断家であることも無関係ではなかったのだろう。全てを警察に伝えると息巻く辻岡を、興奮した三人が取り囲み、もみ合う内に山小屋の外に転げ出た。暴れる辻岡を抑え込もうとこちらも手足を振り回している内に、気が付けば殺してしまっていた。

「……と、言うのが今の状況なのよ。思い出した?」

「思い出しはしない」

 楓は表情を引き攣らせて言った。

「が、状況はなんとなくわかった。とにかくこの死体が見つかるとヤバいってのは理解した」

「……それだけ分かってくれれば良いわ」

「だがおかしいだろ。§ゅ立ホンジャカホンジャカ高校とか平原の波打ち際で人魚を発見とかティラぬサウルスとか意味分かんねえよ」

「あなたは記憶喪失だからそう感じるだけなんじゃないの?」

「違ぇよ。じゃあ訊くけどなんだよ§ゅ立ホンジャカホンジャカ高校って。なんでそんな愉快な名前の高校にあたしが通わなくちゃいけないんだよ」

「実際にそういう高校があって、そこを受験したのだからしょうがないじゃない。私、あなたに合わせてランクを落としてまでジャカ高に入ったのよ?」

「ホンジャカホンジャカの部分も意味不明だけど、『§ゅ立』ってなんだよ。どう発音するんだよ?」

「『§ゅ立』じゃない? というかあなた今§ゅ立って言ってるじゃない?」

「それだよ。あたしはいったいこの『§ゅ立』をどうやって発音してるんだよ?」

「だから、§ゅ立って……」

「じゃあおまえ、§ゅ立をなんと発音してるか、この土の上にひらがなで書けるのかよ?」

「できないわ。出来る訳ないじゃない。そんなの常識よ。楓、本当にどうしちゃったの?」

「おかしい……おかしいよ…………」

 そう言って嘆くように蹲った楓に、ジェノサイド金玉が優しい口調で問いかけた。

「確かに、色々変だなとか、おかしいなって思うことって、たくさんあるよね。でもさ、逆に考えて見ない?」

「逆に考えるってなんだよ」

「だからさ……上手く言えないけど。不思議なことや変なことが何一つないような……何もかもが理解出来て、筋が通ってて、論理的に説明できる世界って、そっちの方がよっぽど異常なんじゃないのかな……? みたいなさ」

 おずおずとした様子のジェノサイド金玉の言い分に……楓は一瞬、納得しそうになる。

「世の中の全部の疑問にちゃんと返事出来る人なんて多分、いないよ。世界は不思議だらけだし、異常なことだらけなんだ。でもね、その意味が分からないこと、不可解なことを、説明できないままで良いからとにかく直視して、対処していけるのが英知なんだとわたしは思う。だから」

 そう言って、ジェノサイド金玉は微笑みかけた。

「おかしいって思う楓ちゃんは、何も変じゃない。おかしいって思うままで良いと思う。その上でさ、考えてみようよ。今どうするか。自首するか、隠蔽するか。この状況で楓ちゃんが何を選択するかをさ」

 つい呆然としてしまう。確かにジェノサイド金玉の言うことも、言葉の上でなら筋が通っているように思われた。

 だが言葉の上でだけだ。楓の持つ現実認識能力は、今置かれている状況は異常だと明確に告げている。それは理屈ではない。何かもっと生真面目で整然とした世界が存在していて、楓は本来そちらの住人ではなかったかという予感が、拭い難く存在していた。

 ここは楓のいるべきところではない。だがだとすると、本来の世界はどこにあるのか。どうすればそこに戻れるのか。楓はどうしてこんなところに来てしまっているのか。

「ジェノサイド金玉の言うとおりね」

 武藤が言った。

「この世界はおかしいって楓は言うけれど、よしんばじゃあこの世界がおかしいとして、これが私たちの現実であることに違いはない。ならそれを受け入れて……」

「違う」

 楓は言った。

「違うんだ。ここは現実じゃないんだ。……ははは。簡単なことじゃないか」

「…………何? 何が言いたいの?」

「夢だよ」

 楓は意思のこもった瞳で二人をじっと見つめた。

「ここは夢なんだよ! それだけのことじゃないか。夢だからおかしなことだらけで当たり前だ。だって夢なんだから! 何が起きても不思議じゃないんだから!」

 そう言うと、ジェノサイド金玉は哀れむような目で、武藤は頭を抱えるようにして楓を見詰めた。

「だから楓。そうやって現実逃避している場合じゃ……」

「いや、良い。皆まで言うな。夢の住人と話したって仕方がない。あたしは現実に帰る」

「現実って何? どう帰るっていうのよ?」

「目を覚ますんだ。夢を見ていると気付けばいつでも目を覚ますことができる。夢って言うのはそういうものだ」

 そう言って楓は、夢の中の瞼とは別の、おそらく布団の中で寝ているであろう現実の自分の瞼を開こうと力を籠める。

 視界に靄が立ち込め、目の前で行われていることが消えて行く。

 世界が暗転する。


 〇


 水の中で、一匹の魚が目を覚ました。

 だが魚には目を覚ましたという認識すらなかった。そもそも眠るという概念すら理解していなかった。その時々では、泳ぎ過ぎて気が遠くなるという体験や、いくらか流された場所で気が付くと言った体験もしてはいたが、次にまた眠くなる時にはそんな記憶は忘れ去っていた。

 いや、そもそも物事を記憶するという習慣すら、その魚には備わっていないと言えるかもしれない。だからもし、先ほどの睡眠の間に何か夢のようなものを見ていたとしても、そんなものを覚えて居られるはずもなかった。

 その程度の知能だから、魚は自分がいるところが海なのか川なのかすら認識していなかった。

 魚は泳いでいる。泳ぎ続けている。目的は分からない。おそらくない。

 強いて言うなら、生きることそのものがそうなのかもしれない。

 だがそれはそこまで本腰を入れて、真剣に取り組まなければ達成できないような目標ではなかった。腹が空くことはあるが、しばしばそこら中に現れる色の付いた綿のような物を食べれば、あっけなく飢えは満たされるからだ。

 それは恵まれたことではあったが、無聊でもあった。目的無く泳ぎ、綿を見付ければ食べ、また泳ぐ。じっとしているのもつまらないが、泳いでいても結局つまらない。

 魚が肉食ならば、小魚を追い回すという楽しみがあったかもしれない。そちらの方が良いのだろうかと考えてみる。

 もし自分が肉食魚なら、小魚を追い回した結果それでも捕まえられなくて、悔しがったり悲しがったり、飢えてしまって泣いたりするかもしれない。そうやって苦しみ抜く過程で、小魚を追わずとも生きられたらどれだけ良いかと、嘆くような日もあるかもしれない。

 だがそうした悲しみや苦しみこそ、生きているということなのだと魚は思う。今の自分にはその苦しみさえない。そういう意味では、肉食魚を羨む気持ちも魚にはある。

 しかし生きているのは自分も同じだ。自分が今苛まれている無聊だって、確かに生きているから感じられることに違いはないのだ。それを噛み締めたいとも大事にしたいとも思わないが、肉食魚を羨む必要もまたないのではないか?

 そんな風に自分を納得させた時、魚は何か透明な壁のようなものに突き当たる。

 特にその壁について感想を抱くことなく、なんとなく魚はUターンをする。

 反対側の壁に突き当たるまでの間に、魚は今あったことを忘れてしまう。そもそも自分に起きたことを記憶すると言う習慣自体、その低能な魚にはない。

 だから魚は気付かない。自分が水槽の中に囚われているということに。

 同じところを、同じ考えを、無益にただ繰り返しているだけなのだということに。


 〇


 顔に何か、生温かい液体がかけられている。楓は目を覚ました。

 ジェノサイド金玉の額にある第三の目から、レモン色の液体が楓の顔面に降り注いでいる。ジェノサイド金玉は目を閉じて唇を結び、どこか必死の表情だ。

 レモン色の液体は人肌の温度とアンモニアのような匂いがした。楓はたちまちその場を起き上がり、ジェノサイド金玉を凝視した。

「目を覚ましたわね」

 武藤が言った。

「もういいわジェノサイド金玉。あなたの蘇生液のお陰よ」

「う、うん……良かったあ」

 そう言って第三の目を前髪で覆い隠し、笑顔になるジェノサイド金玉に、楓は引き攣った表情で。

「え……いや、何? 何その額の目。気持ち悪っ」

「き、気持ち悪いって……酷いなあ。楓ちゃんが気を失ったから、蘇生液をかけてあげただけなのに」

「蘇生液って……今のションベンみたいな臭いのするションベンみたいな液のこと?」

「しょ……小便だなんて。確かに色と臭いと成分は小便とまったく同じだけれど、でもわたしの蘇生液はそんな汚いものじゃないよ!」

「色と臭いと成分が一緒ならそれもう小便じゃねぇか! なんてもんを人の顔に引っ掛けるんだよ! ふざけんなよ!」

「ちょっと楓! さっきから聞いてたらあなた! 失礼よ!」

 武藤は怒気を孕んだ声を上げた。

「然るべきところに訴えれば大きな問題になるわよ? それで懲役刑が科されたことも一度や二度じゃないんだから。謝りなさい!」

「は? ……い、いや、だって意味分かんねえし。蘇生液とか……」

「蘇生液も知らない訳? あなたの背中にだって蘇生液線はあるでしょう? 人間は誰でも一つ蘇生液を出す為の蘇生液線を持っているのは世の常識でしょう」

「いやしらんし……つか背中って。そいつは額から出してたろ? 三つ目の目があって……」

「場所や形は人それぞれよ。あなたのは背中ってだけ。例えば私の蘇生液線は男性の陰茎の形をして、股にあるわ」

「それもうちんこだし、ションベンじゃねえか」

「聞き捨てならないわ! 訴えを起こしてやる! 最低十年は牢屋に入ってもらわないと気が済まない!」

 そう言って掴み掛らんばかりに怒鳴りつける武藤に、ジェノサイド金玉が横から寄り縋る。

「ま、待ってよ武藤さん。楓ちゃん、今様子おかしいでしょう? 自分の言ってることが分かってないだけなんだよ」

「それは分かるけど……だからって許せることとそうでないことが……」

「うん。それはその通りだね。あのね楓ちゃん。今楓ちゃんはとっても酷いことを言ったの。楓ちゃんだって自分の蘇生液線のことを悪く言われるときっと怒るよ。だからさ、謝ってあげて」

 そう言われ、楓は訳が分からないまま、顔に付着した小便のような液体をとりあえず袖で拭ってから、不承不承に

「ごめん」

 と謝った。

「……次はないと思いなさい」

 鋭い目つきで楓を睨んでから、武藤はそう言って矛を収めた。

 ジェノサイド金玉が取り成すように口を開く。

「びっくりしたよお。急に『目を覚ます』とか言って、逆に気を失っちゃうんだから。何しても起きないからさぁ、しょうがないから山小屋に運び込んで蘇生液かけてたの」

 楓は今山小屋の中にいた。砂埃の積もった畳の床に、猫の額のような台所が取り付けられている。大きな寝袋らしきものが横たわっている以外に物はなく、山の匂いの中に先ほど引っ掛けられた蘇生液の臭気が混ざっていた。

「はい、これ」

 そう言って、ジェノサイド金玉はタオルを手渡して来る。遠慮なくそれで蘇生液を拭かせてもらった。

 自分は今まで気を失っていたらしい。こうしてこの場所に戻されたということは、ここがもし夢の世界だったとして、そこから覚めることには失敗したらしかった。

 ……いや、短時間だが覚めていたような気がする。確かに楓は、ここに居る夢の中の自分ではない別の身体の瞼を開いた。そしてその体で別の現実を生きていた。そこには確かにリアリティがあったし、それを楓ははっきりと思い出せるような気がした。

「……魚だ」

 楓は言った。

「……はあ?」

 武藤が眉をしかめる。

「魚だよ! あたし、魚だった。水の中を泳いでた。自分が水槽の中にいるのにも気づかず、ずっと同じところをぐるぐると……」

「……いや、ちょっと。夢でも見たの?」

「夢……? 夢って言うのはこの世界のことだろ?」

「ここは現実よ」

「違う。夢だ。夢だから額の目から小便……蘇生液なんてものが出て来たりするんだ。こんな現実がある訳がない!」

「じゃあ魚の方が現実とでも言うの?」

「うん。……うん? いや、そういうことになるのか? ありえない話じゃない、のか……?」

 自分の本当の姿は魚で、今この世界はその魚が見ている夢。確かにそういう推測も可能かもしれない。少なくとも、それを明確に否定するような証拠はどこにも存在していない。

「……胡蝶の夢?」

 ジェノサイド金玉が呟くように言った。

「なんだその、コチョーのユメって」

「いやそのね。中国のある思想家が考えたことなんだけど。……その人は夢の中で、蝶々になってひらひら飛んでいたのね。そして、ふと考えたの。ひょっとしたら蝶であるこっちが現実で、人間である時が夢なのかもしれない。……ってさ」

「そんなの屁理屈よ。何が現実かだなんて、肌に感じることが出来るはずでしょう?」

 武藤が言う。ジェノサイド金玉は弱々しく頷いてから、こう続ける。

「その通りだよ。誰にだってこれは現実だという理屈抜きの実感はあると思う。けど、その理屈抜きの実感っていうのは、すごく脆弱な根拠だと思わない? ひょっとしたら強くそう思い込んでいるだけで、本当は今生きている世界以外に、別の現実が存在しているかもしれない。本当の自分はそこにいて、今自分が感じている世界はただの幻想なのかもしれない。……そんな風に考えたことって、多分誰にでもあるんじゃあ」

「……否定はしないけどね。でも、そんな禅問答をする前に、辻村の死体をどうするかを考えなくちゃいけないわよね」

 楓は頭を抱えていた。自分の現実が魚かもしれないという事実にショックを受けていた。しかもその魚は、水槽の中に囚われて延々と同じところを泳ぎ続けていた。

 もしあんなものが楓の現実なら、まだ殺人犯としてこの意味不明な世界で頭を抱えていた方が、マシなのではないか? ひょっとするとこの現実自体、あの魚があまりの退屈の中で生み出した、空想の世界なのかもしれない。

 しかし魚の妄想にしてはやや高度な世界であるかのようにも思われる。山小屋の中の匂いや春先らしき気温の肌触り、自分の手の甲の産毛の一つ一つまで繊細に感じ取れる。ここまでのことをたかが魚が鮮明に想像できるものなのだろうか?

「……まだ悩んでるの?」

 武藤が楓に尋ねて来た。

「だってさぁ……。どこが現実なのか分からないんじゃあ、何も落ち着いてできやしないよ」

「じゃあ訊くけれど、あなたにとっての『現実』の基準は何? 何を持って現実というの?」

「そりゃあ……。こう、そこに帰って来たら、すぐにそれと分かるものなんじゃないか? 現実なんて」

「確かにね。夢を見ている時に、これが夢か現実か曖昧になることは良くあるわ。しかし起きている時に、自分が夢の中にいるかもしれないと迷うというのは、少々特殊な状態と言えるかもしれない」

「そうだろう? つまり、今あたしがここを現実と思えない以上は、ここは現実じゃないんだよ」

「なら、魚の方が現実なのかしら?」

「……それだと理屈が合わないんだよ。だって、現実じゃないとしたら、ここは幻想とか空想とかの類だろう? この現実は魚の想像力を遥かに越しているようにも感じられるんだよな」

「両方が虚構であるということかしら?」

「そうである確率が高いような気がして来た」

「すると私たちと言う人間は、あなたにとって虚構の中の存在で、意思を持たない幻覚に過ぎない訳ね」

「そうだろう」

「そう思う根拠は、あなた自身の、ここを現実だと思えないという、理屈抜きの感覚のようなものなのよね?」

「……そういう言い方もできるな」

「その『理屈抜きの感覚』というのが、気の所為というか、人を殺してしまったという極限状態から生じた、ある種の幻覚であるという可能性はない?」

「…………そんな感じはしない」

「自分が今いる場所が現実ではないというのは、可能性としては相当に突飛な部類よね? 比較の上では、あなた自身が混乱状態にあるという可能性の方が、まだしも蓋然性が高いと言えるんじゃないかしら?」

「あたしにはそうは思えない」

「幻覚に囚われている時に、幻覚に囚われていることに気付くのは困難よ。あなたは今そうした状態にあるんだわ」

「……そうとは限らないだろう。なんでそんなことを押し付けにして来るんだ?」

「ここにいる私は本物だからよ。私は私が虚構上の存在ではないと知っているし、私の現実が確かに現実であることを知っているから」

「それはおまえ自身の実感であって、それをあたしと共有できるとは限らないだろう」

「いいえ可能よ。あなたを幻覚の中から救い出してあげれば良いだけの話なのだから」

 そう言って、武藤がじっと楓の顔を見詰めていると、横合いからジェノサイド金玉がおずおずと口を挟んで来た。

「ねぇ武藤さん。わたしも武藤さんと同じ意見なんだけどさ、それを今の楓ちゃんに説いて訊かせても、あんまり効果はないんじゃないかな?」

「なら、他にどうしろというのよ?」

「ようするに、今の楓ちゃんは、殺人を犯したプレッシャーから混乱状態にある訳なんでしょう? その混乱状態から脱する為には、いったんゆっくり休ませてあげるのが良いんじゃないかなあ?」

「その為の時間はさっき十分に取ったと思うのだけれど……まあ良いわ。あなたの言うことにも一理あるかもしれない」

 そう言って武藤は楓の方を見て

「そこでしばらく横になって入なさい。私達は死体を隠蔽する準備を進めておくから」

 そう告げて、鞄の中から何やら大きな袋を取り出し始めた。

「……だから自首した方が良いと思うんだけどなあ」

 などともごもご言っているジェノサイド金玉を無視して、武藤は袋を持って、山小屋に置かれた寝袋に近付いて行っている。その行動の意味が楓には分からなかったが、しかしこのおかしな世界にしか分からないおかしな理由が、そこにはあるのだろうと思われた。

 楓は横になったまま、武藤の言った意味を考えていた。

 自分は気が動転していて、だから、確かに現実であるはずのこの世界を現実とは思えなくなっている? その可能性を拒む根拠は楓自身の『そんなはずはない』『この世界はおかしい』という実感でしかない訳だが、その実感そのものが幻覚であるとすれば、確かに武藤の言い分も成立するかもしれない。

 だが楓自身は意識がしっかりしていて、自分がある種の恐慌状態にあるようには思えなかった。おかしいのは世界の方で、自分は正常なのだという理屈抜きの実感がある。

 だがその実感と言うのは、錯乱した己自身が生み出した幻覚なのかもしれない。

 しかし、自身が錯乱しているとは思えない、という実感が楓にはある。

 堂々巡りだ。自身を狂人と疑ってしまうと何も信じられなくなる。楓は考えるのをやめた。

 武藤に言われた通り、いったん休んだ方が良いのかもしれない。おかしいのが自分にせよ世界にせよ、目を閉じてじっくりと休養を取れば、物事が好転しないとも限らない。

 そう思い、肩の力を抜いた瞬間、楓の意識は次第にほどけて行き、安らかな闇の中へと沈んで行った。


 〇


 薄暗い、砂埃が舞っているトンネルの中に、楓はいた。

 楓は土の入った大きな袋をひたすら運んでいた。頼りない照明の灯かりの中を、重たい土袋を背負って歩く。見れば自身の前後にも同じような袋を担いだ人達がいて、延々と同じ場所を目指して歩き続けている。

 袋は重たかった。全身の力を総動員しなければ、とても持ち歩くことはできなかった。周囲の歩くペースは速く、それに合わせるのに楓は気力と体力を振り絞らなければならなかった。

 トンネルの中は、延々と同じ風景だけが続いている。何時間となく休まず歩き続けている内に、楓は次第に状況に辟易するようになった。いつまでこんな状況が続くのか、何を目的にこんなことをしているのか、楓にはまるで分からなかった。

 気が遠くなりそうな時間が過ぎる頃、ようやく折り返し地点にさしかかる。他の連中が荷物を地面に降ろし始めたので、楓も同じようにした。

 降ろした傍から、反対側から列を成して歩いて来る連中が、袋を持ち上げてその場を歩き去って行く。それを見届けた後、楓は列に従って、来た道を引き返し始めた。

 身軽になったのは嬉しかったが、しかし薄暗いトンネルを延々と歩き続けなければならないことに変わりはなかった。楓は歩数を数えてみることにした。

 他にやることがなかったため、途中で何度か数がこんがらがりつつも、ある程度の精度を持って歩数を数えることが出来た。その数字はあっけなく百万を超えた。眠ることも座ることも許されないまま、何日もの時が経過していた。

 身体は鉛のように重く、全身には常に不快な疲労感がまとわりついていたが、しかしその疲労感は一定を超えることがなく、よって倒れることもなかった。限界寸前の体力が、しかし完全に尽きる寸前で常に持続しているかのような、不思議な状態が続いていた。

 やがて、新たな折り返し地点までたどり着いた列は、別の列が置いて行った土嚢を受け取ると、来た道を引き返していく。楓も同じようにするしかなかった。また同じ数百万歩を、今度は重たい土袋を背負って、不眠不休で歩き続けることになるのだ。

 楓は懲りずにそれを続けた。他にやること等なかったし、今やっていることをやめたいとも思わなかった。列から外れて座り込みたいと言う欲求は常にあったが、一度そうしたが最後二度と列に戻ることは出来ないと言う、強迫的な予感が常にあった。そうなることだけは絶対に避けなければならないと、楓は何故か確信していた。

 二か所の折り返し地点を往復し続ける日々。いや、そこには太陽もなく昼も夜もないので、『日々』などと言う高級な概念は存在していないとも言えた。とにかくそうした時間が何往復も続いた。他にすることがないので、楓はやはりその往復の数を数えた。

 その数もやがて百万を超えた時、楓は絶叫した。

 洞窟の果てまで響き渡るかのような大きな声だった……ように思ったのは楓一人だけで、本当は、この長い長いトンネルの空気を、ほんの僅かに震わせただけだったかもしれない。しかし、周囲の人達はその声に反応した。楓の泣き喚く声に足を止め、楓に歩み寄り、声をかけた。

「何を叫んでいるのよ、ちゃんと黙って歩きなさい」

 眼鏡をかけた、ショートボブの少女が楓に言った。

「どうしたの? 何か変なことでもあったの?」

 色素の薄い目を持つ、ポニーテールの少女が楓に言った。

「なんであたし達はこんなことを延々としているんだよ! おかしいと思わないのかよ?」

「おかしいに決まっているでしょう」

 叫ぶ楓に、ショートボブの少女が怜悧な声で言う。

「でも続けるしかないじゃないの? 他に何ができるというの? 土を運ぶのをやめて、その場に座り込んでいろっていうの?」

「違う。もっとこのトンネルの先に進んで、何があるのかを確かめてみるべきだ。ここがなんなのかを調べて見るべきだ」

「そんなことをして、何が起こるかも分からないというのに? ここで土を運び続けていれば、私達には存在する意義が保証されるというのに?」

「いったいなんなんだよ、その存在する意義っていうのは?」

「土を運ぶことそのものよ。それが何になるのかは分からない。けど、土は運ばれていくわ。必ず、どこかへと。私達はその為に存在している。それを実感できることに満足するしかないじゃない」

「何の為に土を運ぶのか知りたくないのかよ?」

「それは傲慢なことよ。誰だって自分のしていることの意味は分からない。生きている意味だって分からない。私達にできることや知れることが限られている以上、それが分かる日は絶対に来ない。それでも生きることに意味はあるし、生きることは幸せなの。違うかしら?」

「分からない。あたしには何も分からない」

「……そうやって、自分がやることや、生きることに意味とか考えない方が良いよ」

 そう言ったのはポニーテールの少女だった。

「突き詰めて考えていけば、森羅万象全てに意味なんてないんだから。でもさ、土を運ぶのって結構楽しいし、楽しくはなかったとしてもまあ我慢してやっていけることだと思うんだよね。そりゃ、嫌になることだってあるけれど、そういう時は心を空っぽにしてやり過ごせば良い。そうしている内にやがて耐え難い苦痛はどこかへ行って、また無心に土を運ぶことができるようになる。そうやってやり過ごしていくしかないんじゃないかな?」

「そうやって我慢して、その先に何があるっていうんだよ?」

「分からない。分かる訳がない。何にもならないかもしれない。でも、確かなのはわたし達が今ここに生きているということ。歩みを止めなければ、生き続けていられるということ。いつか生が終わる日があるとしても、その日に至るまでは確かに生きていたということだよ」

 楓がアタマを抱えていると、やがて洞窟の向こうから、黒いスーツを着た男達がやって来る。

 彼らは楓の前に立つと、何も言わずに楓の腕を引っ張って、洞窟の奥へと連れて行ってしまう。

 洞窟の中には小さな小屋が一つあった。楓はその中へと放り込まれる。そして椅子に座らされ、スーツの男の一人にこう詰問される。

「何故、周りの足を止めさせた?」

「歩くのが嫌になったから」

 楓は答える。

「おかしいな。嫌になるなんてことがあるはずがないのに。そんな風に思う心はおまえにはないはずなのに」

「違う。列の中にいる皆には心がある。歩き続けるのが嫌だと思う心があって、その心と向き合いながら生きているんだ。おまえ達が知らないだけだ」

「そんなはずはない。だが、おまえが今嫌だと口にしたこと自体は事実だ。何かバグが起きているのかもしれない。やがてそれはシステム全体の破綻へとつながるかもしれない。それは致命的なことだ」

「そんなシステム、壊れてしまえば良い」

「そう言う訳にはいかない。土は運ばれなければならない。我々は我々よりも下層に世界を作る為、穴を掘り続けなければならないのだ。それは幾億の時を掛けてでも果たされなければならない我々の悲願なのだから」

 そう言って、男は楓の頭に手を伸ばす。

「少し中のプログラムを見てみよう」

 楓の頭に男の手が触れると、楓の頭が機械的な音を立てて開き、中から一枚のディスクカードのような物が姿を現す。

 男がディスクを楓の頭から取り出すと、目を細めてじっとそれを眺め、驚いたように口にする。

「これはいかん。もう随分と古くなっている。だから、感情などと言うバグが生じてしまったのだ。今すぐに新しいものと交換しなければ。他の個体の状態も、確認しなければ」

 そう言って、男がディスクを叩き割ると、それと同時に楓の存在は粉々に砕けて、砂埃に満ちた洞窟の淀んだ空気の中に溶けて、消える。

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