8月よ、ありがとう。

渚 孝人

第1話

8月31日の夜、ここの所立て込んでいた仕事の疲れを癒そうと近くの銭湯に寄った。

その銭湯は数か月かけてリニューアルしたと聞いていたのだけれど、内装はそんなに変わっていないように見えた。古いロッカーも、錆びた蛇口も変わっていない。床のタイルは新しくなったのかも知れないけれど、前のタイルがどんなだったかが上手く思い出せなかった。何しろこの間ここに来たのはもう何か月も前のことなのだ。


湯船に浸かってみると、やはり飛び上がりそうになるくらいに熱かった。家の風呂とは全然違う。でもそんな熱さが今日はとても心地よかった。この夏の暑さに対抗するためにずっと付いていたクーラーが、体を芯まで冷やしてしまっていたみたいだった。風呂上がりにカチカチに凍った棒付きアイスを食べて、マッサージチェアに座って天井の明かりをぼーっと眺めていた。


銭湯から出ると夜空には明るい満月が見えた。ここ数日、月がやけに大きく感じると思っていたらやっぱりそうなのだとネットニュースに書いてあった。月が一年で最も近づく「スーパームーン」という状態らしい。さらに、月二回目の満月である「ブルームーン」でもあるから、「スーパーブルームーン」だということだった。すすきが生い茂っている草地の横に立って、その大きな満月をしばらくの間何となく見上げていた。そういえば、あと数時間でこの夏も終わってしまうんだなあとふと思った。まだまだ暑い季節が続くだろうけれど、それでも8月は今日で終わるのだ。


車に乗り込むと何だか無性にラーメンが食べたくなった。車を走らせてお気に入りのラーメン屋をいくつか寄ってみたのだけれど、夜の10時前ともなるとどこもラストオーダーが終わってしまっていた。僕はやれやれとため息をついて、遅くまでやっているチェーンのラーメン店に向かった。


信号待ちをしている時に、僕はこの夏の思い出を頭に浮かべていた。

家族で訪れた郡上八幡で見た「郡上おどり」

唄に合わせて、浴衣姿で下駄を履いた人々が輪になって盆踊りを踊る光景を見た時、まるで昭和の時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。郡上八幡の街自体も、古き良き日本がそのまま保存されているようで、初めて来たのにとても懐かしかった。子供を抱いて盆踊りを踊るのは難しくて、嫁に子供をあずけてぎこちなく人々の輪に加わった。玄人の人たちと一緒になって踊るのは恥ずかしかったけれど、気付けば夢中になって踊っている自分がいた。向かいで踊る人たちと目が合って、初めて会う者同士なのに自然に笑顔が生まれていた。


信号が青に変わった。平日の夜の道はすいていて、車をのんびりと走らせることが出来た。サブスクからは森山直太朗の「夏の終わり」が流れた。ゆったりとしたメロディーが流れ始めて、僕はそれに合わせて口笛を吹いた。静かな夜に「夏の終わり」を聴くと、まるで歌詞が心に沁み込んでくるような気がした。激しく心が揺さぶられるような感動ではなかったけれど、静かで、それでいて確かな心の震えがそこにあった。窓の外から流れ込んでくる夜風が、何だかすごく心地よかった。


東京に住む友人と10年ぶりくらいに見に行った湘南の海は、思ったよりとても荒れていて足首までしか入ることが出来なかった。高校生の頃に特大のハンバーガーを一緒に頬張った思い出をなぞって、鎌倉の大通りでハンバーガー店に入った。8月の頭の湘南は、とにかく気が遠くなる位に暑かった。僕はただ歩いているだけなのに意識を失いそうになってしまった。海からの帰りに乗った江ノ島電鉄は混んでいて、むっとした空気で満たされていた。向かいの席に座っていた10歳くらいの痩せた女の子は、びっくりする位にこんがりと焼けていた。驚くほど整った顔をした子だった。彼女を見た時に、ああ、自分は湘南に来たんだと僕は改めて思った。


チェーン店のラーメンと餃子は案外、と言ったら失礼だけれど凄く旨かった。夏の夜の空腹は、最高のトッピングだ。僕は時間をかけてラーメンと餃子を完食して、天井につるされたテレビでやっているバラエティ番組を眺めていた。店内は半分くらい埋まっていて、小腹を空かせた人々の胃袋を満たしていた。


アパートに帰って来た時、夜空にはやはり満月が見えた。辺りには虫の声が優しく響いて、秋がすぐそこにあることを知らせていた。その時、自分はやっぱり夏が好きなんだと僕は思った。地球温暖化によってこれから先世界がどんなに暑くなろうとも、自分はどうしたって夏が好きなのだ。そして人々はこうして、夏の思い出を胸に刻んで年を取って行くのだ。だからこそ、夏の終わりはこんなにも切ないのだ。僕は少しだけ泣きたくなって、そして笑った。

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8月よ、ありがとう。 渚 孝人 @basketpianoman

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