エピローグ 終焉へと続く道

 片手に煙を燻らせながら車窓に映る青白い自分の顔を睨みつけていた志摩がぶっきらぼうな調子で顔を向けた。


「なによ、頼みって」


 その訝しげな視線を受け止めた僕は口を開きかけてからやはり言い淀み、代わりに右手を伸ばして通路向こうの彼女へと差し向ける。


「なに?」

「一本、もらえないかな」


 志摩は一瞬呆気に取られたような顔つきになり、それから奇妙な虫でも見つけたみたいに眉間に皺を寄せた。


「それが頼み?バカなの」


 そう罵った彼女はバッグからタバコの箱とライターを取り出し、差し出したままの僕の手に無造作に載せた。そして再び車窓に顔を向け、苛立たしげに舌打ちをする。


「実際、バカよね。佑は」

「ああ、自分でもそう思うよ」


 肯いた僕はタバコを咥え、細身のライターで火を点けた。

 加減して吸い込んだつもりの煙が肺に達すると、それを拒もうとする強烈な反射が起こり、僕は体を折り曲げて激しく咳き込む。


「ほんと、マジでバカ」


 呆れた声を耳に、目尻に涙を浮かせ、ようやく顔を上げると黄金のカラスが前の座席の背もたれに止まって僕を見下ろしていた。


「車内は禁煙だって云ってんだろうが。頭のおかしい初級リーパーさんよお」

「まあ、固いこというなよ。このバスに乗るのもこれで最後なんだしさ」


 黒真珠のようなカラスの瞳を見つめ返し、僕はもう一度タバコを口に咥える。

 吸い込むとやはり咽せそうになったが、なんとか堪えた。

 そしてゆっくりと噴き出すと咽頭と鼻腔に薄荷メンソールの香りが残り、それがなんとも曖昧に心地よく感じられた。

 

「貴様、今回は第二種希望だって。ふん、好き好んであんな化け物になろうなんざ、さては素が狂人なんだな。まったく、偏屈の人事コンサルが乗せてくるのはいつだってろくなモンじゃねえ」


 カラスはそう言い捨てて大きく羽ばたき、僕の吐いた煙を打ち払う。


「うるさいわよ、くそガラス」


 志摩が脚を組み直し、それからタバコの灰を通路に落とした。

 その所作を見咎めるようにカラスは太い嘴をカツカツと鳴らす。


「おい、あばずれ。いつまでも調子に乗ってんじゃねえぞ」

「ふん、あんたもね。カラスに身をやつした中途半端な魔族さん」


 危うい問答に思わず僕はひとつため息を漏らした。

 窓に目を向けるとちょうど木立が切れ、紅い糸月が一瞬その姿を見せた。

 バスはもうすぐあの祭祀場に到着する。

 この期に及んで後悔など微塵もない。

 数日前、志摩にその覚悟を打ち明けたときにはもう何もかもが吹っ切れていた。


 **********


「やっぱり僕は第二種に移る。だから手伝って欲しい」


 突然の宣言に僕の左半身に裸身を添わせたまま、彼女は微かに首を振った。

 冗談に聞こえたのだろうか。

 あるいは僕がいつかそう言い出すことを予想していたのかもしれない。

 どちらにしても彼女に動揺は見られなかった。

 真剣であることを知らしめるように僕は彼女の肩を強く抱く。


「佐伯の処刑が終わった後、自分の中に怒りの感情を見出せなくなった」


 そう打ち明けると志摩は僕の胸板に尖った顎を乗せ、上目遣いに鋭い視線を寄越した。


「それなら、どうして」

「……許せないのさ」


 短く答えると彼女もやはり小さく失笑した。


「矛盾してるわ。怒りは消えたんでしょう」


 僕は即座に、そして静かに否定を被せる。


「違う。こうやって妻や事件のことを忘れていく自分が僕は許せないんだ」


 志摩は再び僕の左胸に頬を横たえ、呆れたようにひとつ長い息を吐いた。


「許せばいいじゃない。そんなものは朽ちた枷よ。少し時間が経てば、それもあっけなく消えてなくなる。リーパーなんてそういうものなの」


 僕は肯く。

 そしておもむろに彼女の首筋に左手の指先を立て、それを背骨に沿ってゆっくりと下へと流した。すると志摩はくすぐったいのか肩を窄めてクスリと笑った。

 

「そうだね。きっとそれが正解だろう。でもね、憎しみや怒りが、そして記憶さえもあやふやに霞んでしまって、すべてから解放されて、すごく楽になってる自分がいて……」

「良いことじゃない」


 僕は首を振った。

 

「そうは思えない」

「どうして?」

「それを受け入れてしまったら、きっとそのときこそ僕は人間ではなくなってしまう気がする」


 沈黙が流れた。

 彼女の鼓動が皮膚と筋肉を伝わる。

 僕は訊ねる。


「なあ伊月、キミは過去の自分の存在について考えたことはないのか」


 志摩の身体がわずかに強張った。

 僕は指先の動きを止め、その細い背を抱く。


「さあ、そういう小難しいことはあまり考えないようにしてるの」

「そう。僕は考えてしまう。もしこのまま、キミが勧めるように死神と人間の境目に生きていけば、たぶん僕は幸せに過ごせるだろう」

「だったら……」


 彼女の左手が僕の右手を探り当てて握る。


「でも、それが本物の幸福だとは僕にはどうしても思えない」

「幸福に本物も偽物もないわ。辛いことを何もかも忘れて心地よく暮らせるならそれが唯一の幸せよ」


 握り締められた彼女の左手から自分の右手をゆっくりと解き、そして天井に向けて突き上げて僕はその宙空をつかんだ。


「僕の幸せは……復讐を成し遂げること」


 胸の上で奥歯を噛む音が聞こえた気がした。


「ねえ、佑。前にも話したけど第二種になれば、いまあなたが抱えている葛藤みたいなものも全部ひっくるめて捨て去ることになる。そんなの無意味だと思わないの」


 彼女の何かを恐れるような呟きが皮膚から骨へと、頭へ爪先へと伝導していく。

 僕はベリーショートの彼女の髪に口づけて囁いた。


「思うさ。けど、それでも僕はそうしなければならない」


 どうやら僕の決意は伝わったらしい。

 ふた呼吸ほど間を置き、彼女の唇が僕の皮膚で蠢く。


「……バカね。最低だわ」


 少し震えたその蔑みがひときわ温かい波動となって僕の全身に広がっていった。


 **********


 カラスが運転手の肩に戻るのを見て、僕はもう一度タバコを吹かした。

 そしてタバコの箱とライターを通路の向こうへと差し返す。

 すると志摩は一瞥とともに奪うようにそれを受け取った。


「で、本当の頼みはなに?」


 彼女はガラスに映った自分を見つめながら訊く。

 僕は白く曇った天井に目を向け、しばしバスの揺れに身を任せる。

 それを打ち明けるにはまだわずかな逡巡が身の裡にあった。

 タバコを深く吸い込む。

 そしてためらいを打ち捨てるつもりで勢いよく煙を吹き出した。


「僕は明日、二人めを処刑する。拘置所に忍び込み、自死に見せかけて殺す。もちろん上の承認も取っている。後は実行するだけだ」


 外連味のない僕の口調に彼女は興味なさげに軽く肯く。


「問題はなさそうね。拘置所に能力者がいなければの話だけど」

「それも確認済みさ。これといった異能の者は見当たらないそうだ。だから誰も第二種となった僕の存在に気が付かないだろう。潜入に骨を折ることもない」

「ふうん、万全ね。いいじゃない、思う存分なけなしの恨みを晴らしなさいよ」


 嘲笑った志摩は短くなったタバコを床に落とすとパンプスの先で揉み消した。

 そしてまたすぐに新しいタバコを咥え、火を点ける。

 

「でも、それじゃなんなの。いまさら私にできることなんてなさそうだけど」


 僕は宙に漂う煙を見つめ、そして続けた。


「頼みたいのはそのあとのことさ」

「あと……?」


 怪訝な表情を浮かべた彼女に僕は肯いた。


「僕は従者サーバントになる」


 瞬間、志摩の瞳が丸く瞠かれる。

 そして数秒無言で僕を見つめると彼女は腰を二つ折りにして笑い始めた。


「あっはは、なにそれ。訳の分からないこと言わないでよ。第二種になれば感情も気配もほとんど完全に失ってしまうけれど、それでもまだリーパーよ。分類上は人間。あのね、従者っていうのはね……」

「分かってるさ。生者は従者にはなれない。条項にそう書いてあった。だから……」


 そこで区切ると彼女の嘲笑が止んだ。

 そして慄くように硬く表情を引き吊らせる。

 僕はその彼女を見て、ゆっくりと息を吐き切るように言葉を紡ぐ。


「明日の処刑が終わったら僕は組織のアジトに潜入する。奴らを皆殺しにする」


 視界の端で灰が膝に落ちた。

 目を遣り、軽く手で払うと白のチノパンに薄汚く黒い斜線が引かれた。

 僕はその惨めなシミを見つめながら口を開く。


「そう、承認なく命を奪った死神は即刻、魂を奪われ従者となる。たとえその標的がどんな悪人であったとしてもね」

 

 志摩の視線が横顔に突き刺さるのを感じた。

 顔を向け、その剣呑な視線を受け止めると彼女はその刹那、フッと呆れたような笑いを漏らし、それからタバコの先を僕に向けた。


「ねえ佑、従者になる意味、分かってるの。彼らが封印されている砂時計は牢獄そのものよ。狭くて息苦しくて、常に耐え難い苦痛が与えられている場所に永遠に鎖に繋がれるの。あなた、そんな哀れな存在になりたいわけ。本当に馬鹿げてるわ」

「だろうね。僕もそう思うよ」

「だったら……」

「けれど、そうすれば少なくとも悪人どもに鉄槌を下せる。しかもこの手で」


 僕たちの間に沈黙が宿る。

 そしてしばし後、彼女は苛立たしげにフッと息を吐き、その薄桃色の唇でタバコを咥えた。


「でも、そのときのあなたにはもう何もない。あるのはただ殺したいという欲望だけ。それでもいいの」

「ああ、復讐を成し遂げて僕は武器デスサイスになる。姿形がどんなに悍ましく、感情も記憶も持たないただの血に飢えた獰猛な魔人と成り果てたとしても、それでかまわない」


 志摩が天井に向けて細く長い煙を吹き出した。


「でも、どうするつもり。儀式を終えたらあなたのその決意も完全に消え失せているわ。全てを忘れてしまった佑には禁忌を犯すことさえできない」


 もっともなその言い分に僕は懐から分厚く膨らんだ封筒を取り出して彼女に差し出した。

 

「明日の処刑の後、僕にこれを渡して欲しい」

「これは?」

「決意。事件の詳細とアジトの場所、そして言葉にできうるかぎりの怒りと憎しみが記された僕自身への手紙さ」


 志摩は片手でそれを受け取り、顔の前にかざす。

 もう片方の手からは燻る煙が真っ直ぐに立ち昇る。

 

「無駄じゃないかしら」


 彼女はそう言ってヘラリと頬を緩め、タバコを咥えた。

 

「だってこんなものを読んでも第二種になった佑が禁忌を犯そうとするほどの憎しみを取り戻せるとは思えないもの」


 そうかも知れない。

 彼女の憶測通り、これは勝算のない賭けのようなものだ。

 けれど僕に思いつける方法はもうこれぐらいしか残されていない。


「頼む。それを僕に渡すだけでいい。キミに迷惑をかけるつもりはない」


 きっとこれは愛などという崇高な代物ではない。

 分かっている。

 怒り、恨み、復讐心。

 身を焦がす真っ黒な炎。

 奥歯を噛み締め、怨嗟を呟き続けた眠れない夜。

 それらが黒板に書かれた文字のように簡単に消えていくことに僕は耐えられないだけなのだ。

 すでに記憶の澱に埋もれかけた妻の残像から手を離したくないだけなのだ。

 

「佑、やっぱりあなたってとびきりの大バカね」


 薄いピンク色の唇から前の座席に向けて真っ白な煙が吹き出された。

 僕は微笑み、小刻みに肯く。

 すると志摩も口角をわずかに上げ、車窓へと視線を運んだ。


「でもまあ、バカも突き抜ければ、そういうのも案外悪くないかも」


 そして彼女が手にしていた封筒をおもむろにバッグへとしまい込むとそのすぐ後にバスが止まった。

 やおら席を立ち、タバコを床に踏みつけた後、僕はゆっくりと降り口へと向かう。

 すると背後から少し寂しげな声が聞こえてきた。


「もし、あなたが従者に堕ちたら……」


 振り返ると志摩がこれまで見せた事のない優しげな笑みを浮かべていた。


「そのときは私の武器デスサイスにしてあげるわ」

 

 彼女はそう云うと僕を追い越し、からかうカラスを無視してタラップを駆け降りた。続いてバスを降りるとそこに夜空を見上げる彼女の後ろ姿があった。

 

「いい月ね。悪魔が微笑んでいるみたい」


 志摩の視線の先、真っ赤な糸月が夜空に浮かんでいた。



                            fin

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デスサイス 那智 風太郎 @edage1999

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