15

「ねえ、いい話があるの。聞きたい?」


 ショットグラスを置いて振り向くと、志摩は頬を素軽く吊り上げてみせた。


「私が所属する人事コンサル部門にひとつ空きがあるの。佑にその気があれば推薦してあげられるわ」


「人事コンサル……」


 僕は首を傾け、譫言のように呟く。


「要は死神になるべき人間をスカウトする仕事よ。本部から渡されたリストに載った人物に接触する。私があなたを誘ったみたいにね」


 肯くと志摩はほころばせた表情をサッと引き締めた。


「明日の研修が終わればきっと佑も感じるはず。薄っぺらになった人格や感情で行う復讐なんて味気ないものよ。まして実行部隊は自分には全く関係のない人たちを処罰しなければならない。悪人かどうかも分からない人間を何人も数えきれないほど。まあ、それこそリーパーの感情は希薄だから自己嫌悪みたいなものを感じることもないけれどね」


 ジャックローズを啜る彼女から僕は目を逸らし、口もとに手を当てる。

 

「それでも虚しさみたいなものは常に付き纏うわ。なぜ自分はこんなことをしているんだろうってね。それに処刑を繰り返すたびに残されている人間性みたいなものもさらに失われていくものよ。そして時には理性のタガが外れて凶行をしでかしてしまうリーパーもいる。たとえば冥界上層部の指示なく見知った誰かを処罰してしまうとか、ね」


「もしかしてそのなれ果てが従者サーバント……」


 呟き問いに肯く気配があった。

 そして吹っ切るように彼女は声色を高める。


「その点、人事部門なら大丈夫よ。人間性は失われないし、功績によっては逆にそういうものを少しずつ取り戻していくことも可能みたい。どう、いい話だと思わない」


 僕は口もとから手を外し、カウンターに置いたボトルを持ち上げてズブロッカをショットグラスへと注ぐ。


「どうだろう。でも、いい話には聞こえる」


 カウンターにボトルを立てると志摩がその横顔を僕の右肩に寄り添わせた。


「そうでしょう。だったら話を進めてもいいかしら」


「ああ。けれどそれは明日のイベントが終わってからにして欲しい。それでかまわないかな」


 彼女はその姿勢のままタバコを口に咥える。


「もちろんよ。さすがに研修が終わらないうちには推薦もできない。だからそのためにも明日はつつがなく実行することね」


 火を点けたタバコからの煙が僕の瞳の前を立ち昇り、次いで志摩が吹き出した煙が視界を白く霞ませた。

 提言に肯いた僕に彼女はさらに身体をしなだれ掛ける。


「緊張しなくていい。……今夜は佑のそばにいてあげるから」


 僕は返答をためらい、なみなみと注いだズブロッカを一気に煽った。



**********



 死神に差し向けていた右手をおもむろに下ろすと、死神が構えた大鎌の刃が微かに動き始めた。そして羽音が警報のようにうわんうわんと鼓膜を震わせる。


「ふん、なんだよ、意味わかんね。もっと取り乱してもらわないと面白くないんですけどね、こっちとしては。あ、そうだ。なんなら奥さんの話、もう少ししようか。まずは俺たち山小屋に入ってきたあの女をスタンガン使って気を失わせてさ。そして廃屋の別荘に担ぎ込んだ後は紐で縛って、それで……あ、なんだこれ、急に頭が……ゲハッ……グワァ……い、い、いでぇ、あ、頭がぁ……」


 刃先が頭部に触れた瞬間、佐伯は両手で頭を抱え込み、被告人席の椅子に突っ伏して悶えた。僕はその様子をひとしきり無言のままに眺め、それから再び右手を挙げると大鎌がためらいがちに持ち上がった。


「うぐッ、なんだよ今のは。あ、頭が割れそうに」


 苦しげな表情のまま佐伯が頭から手を離すと、サーバントがフードの隙間から忌々しげな目線をこちらへと向ける。どうやら一時的にでも標的が苦痛から解放されることが受け入れがたいようだ。

 ふと思う。

 彼はいったいどんな罪で従者に貶められてしまったのだろう。

 彼の中にはどのような種類の感情がどれほど残されているのだろうか。

 なんとなくだけれど、それが推測できてしまう自分に僕は思わず頭を振り、それから冷ややかな彼の視線をもう一度受け止める。


 そう慌てなくてもいいだろう。

 まだ時間はたっぷりとある。

 ゆっくりと楽しめばいいのさ。

 

 その思念を受け取ったサーバントはそれでも不服そうに数秒僕を見詰めてから標的へと顔を戻した。

 次いで僕もおもむろに佐伯を見遣る。

 彼は椅子の背もたれを支えによろめきながら立ち上がり、放心したような顔つきをこちらに向けた。


「い、いま俺になんかしたか、あんた」


 僕は軽く微笑む。


「脳幹の血管を一部圧迫したんだ。くも膜下出血の際に生ずる約五倍程度の痛みを感じるようだけれど、どうだろうか。痛み加減の方は」


 佐伯が唾を呑む音が聞こえた気がした。

 次いで彼は無理やりに嘲笑った声を出す。


「はあ?バカじゃね、あんた。超能力者でもそんなことできるわけ……」

「じゃあ、もう一回やってみよう」


 即座に僕は右手を下げる。

 すると再びデスサイスの刃先が佐伯の頭にめり込んだ。


「グアアァッ!あ、頭が、ひ、ヒイィィッ……」


 よろめいた佐伯が椅子に躓き、床に突っ伏す。

 そして悲鳴を上げながら頭を抱えながら転げ回った。

 僕はじっくりとその様子を眺め、やがてまた右手を挙げてサーバントを制する。

 すると非難がましい目線が向けられることはなかったが、代わりに地鳴りのような深いため息が聞こえてきた。

 やれやれ、悪趣味な主人だ。

 喋ることができるなら、きっとそんな言葉を吐き捨てたいに違いない。

 僕は軽く肩をすくめ、床に伏せたまま沈黙している佐伯に問い掛ける。


「どう?少しは信じてもらえたかな」


 佐伯はいかにも恐るおそるといった風に顔を上げて慄きに満ちた瞳を向けた。

 その目蓋には涙が滲み、横たわった体は小刻みに震えている。


「おいおい、そんなに怖がらなくてもいいだろう。キミたちが僕の妻にしたことに比べればたいしたことはないはずだ」


 そう言って静かに微笑むと佐伯は起こした上半身を大きく仰け反らせた。


「ひいッ!ば、化け物」


「ハハ、化け物とは心外だね。僕はただの死神さ。それもまだ初心者。若葉マークのワッペンを付けておきたいくらいのね」


 佐伯は小刻みな悲鳴を上げながら、銅像のように固まった刑務官の背後に隠れ込んだ。

 ふと左手に掲げた血時計を一瞥すると赤黒い血液が緩慢とした間合いでそのくびれから滴り落ちていた。

 確かめるとまだ半分程度は残量がある。

 けれど蛇たちはもうすでに手首からアギトを抜き、満足げに舌をチロチロと動かしていた。つまりこの残った血液が尽きるまでに処刑を終えなければならないということであり、残された時間はそれほど多くはない。

 僕はショーを佳境に移すことに決め、指示を待つサーバントに目配せをした。

 

「まあ、落ち着きなよ。とりあえず自分の席にでも座ってさ」


 すると佐伯の荒い息遣いがそのまま喫驚に変わる。


「な、なんだ。体が勝手に……」


 大鎌の刃先が受刑服の襟を引っ掛けると佐伯は首を摘まれた仔猫のような格好でその場に立ち上がった。


「や、やめてくれ。お、おい、アンタ目を覚ましてくれよ。この気狂いをなんとかしてくれ」


 佐伯が必死の形相で刑務官の首にその長い両腕を絡み付かせる。

 けれどそんなものでサーバントの力に対抗できるはずもない。

 デスサイスがわずかに角度を変えただけでそれは無碍もなく簡単に引き剥がされ、まるで幽体のように不自然な歩み方で被告人席へと戻された。

 

「なんだよ……。あ、あんた、なにが望みだ」


 行儀良く席に座らされた佐伯の嗚咽に僕は素っ気なく肩をすくめた。


「望み?聞くまでもない。キミの死を見届けることさ」


 佐伯の顔つきが首を絞められたように引き攣った。

 そして何かを考え込むように左右に瞳をふらつかせると、次いで上目遣いで僕に強張った笑みを向けた。


「謝罪か。謝ればいいのか。じゃあ謝る。すまなかった。ごめんなさい」

「えっと、誰に謝っているんだろう」


 僕は首を捻って見せる。

 すると佐伯は勢い込んで言い募った。


「そ、そりゃあ、あんたに」

「僕だけ?」


 曇らせた僕の表情に佐伯はしばし目を白黒させた後、算数の答えが分かった小学生のように瞳を輝かせた。


「ああ、そうか。あんたの奥さんにもだ、もちろん」


 僕は失笑を禁じ得ず、それを隠すように彼から目を逸らして法廷内を見渡した。


 動きを止めた裁判官。

 銅像のように立ち尽くす検察官。

 不在となった被告人席とその横に腰を掛けた刑務官。

 その後ろでしかつめらしい表情を書面に落とし続ける弁護人。

 傍聴席で固まったままのマスコミなどその他多くの無関係な人たち。

 そして佐伯の真横にデスサイスを構えて聳え立つサーバント。


「どこにいるんだろうね」


 佐伯に目を戻した僕はやおら首を傾ける。 


「は、はあ?」


 彼は不安げな目線を周囲に漂わせる。

 そしてしばらく辺りを見回してから、おずおずと訊いた。


「だ、誰のことを……」 


「誰って、決まってるだろう。僕の奥さんだよ。ねえ、教えて欲しいんだけど。僕の妻はどこにいるんだろう」


「な、なんだよ。くだらない……」


 ジョークだと勘違いしたのだろう。

 佐伯は震えながらも微かに笑った。

 その彼に僕は冷ややかな目線を送る。


「くだらない……か。でも彼女がこの世界にいない理由を一番分かっているのはキミだろう」


「いや、ちょっと待ってくれ。そのことについては本当に反省しているんだ。だから俺はこの裁判の判決を受け入れて……」

「反省?」


 言い繕う佐伯に僕はもう一度首を傾げた。

 すると佐伯は何度も肯きを繰り返し、その青ざめた顔で僕を窺い見る。

 

「あ、ああ。反省している。だからもう……」


 僕は彼の言葉を断ち切るようにそこで深く深くため息を吐いた。

 そして短く告げる。


「そんなもの必要ない」


 右手を下ろした。

 すると待ちかねていたようにサーバントが即座に鎌を一閃させる。

 刃が佐伯の後頭部から耳のあたりまでを一瞬で刻んだ。

 その瞬間、彼は喉の奥でひしゃげたような悲鳴を発し、見えないヘルメットでも脱ぐように両手で頭を抱えた。

 けれどその体はまるで肩から下だけがマネキンと化したように硬直し、椅子から転げ落ちることが許されない。

 僕は断罪のセリフを続ける。


「反省すれば人はなんでも許されるのか。口先だけの謝罪にいったいどれほどの意味がある。そうじゃない。罪人に与えられるべき罰がそんな生温いもので軽減されて良いものか。被害者もその家族もそんなあやふやなものを望んじゃいない」


 それは自分でも驚くほど静かで冷ややかな口調だった。

 佐伯の悲鳴が法廷にこだまして、その僕の声など最初から存在していなかったように虚しく掻き消えてしまう。


「ギギギ……ッ……だ、だ……すけて」


 急激に脳圧が上昇したせいだろうか。

 佐伯の耳穴から血が流れ始めた。

 瞠いた目はいまにも眼窩から飛び出してしまいそうなほどに膨隆し、口もとには白く細かな泡が流れ出している。

 その姿はさすがに哀れを誘ったが、けれどもう僕の右手が挙げられることはない。

 サーバントは嬉々とした表情を晒しながら、痙攣する佐伯の頭部に刃先を押し込んでいく。

  

「そろそろ終わりかな」


 僕はゆっくりとした動作で血時計を見上げた。

 その上端にはもうほんのわずかな血液しか残されていなかった。

 蛇たちはそれぞれに体躯を戻し、ガラスにトグロを巻き付けようとしている。

 終演が近い。

 僕は佐伯の呻き声に被せるようにため息を吐く。

 するとそのとき思いがけず胸に秘めていた葛藤が顔を出した。


「結衣、きっとキミはこんなこと望んではいないんだろうね」


 そう呟いた自分の声がやけに空々しい。

 それを埋めるように僕は言い訳をする。


「でもね、仕方がないんだよ。こうすることでしか、僕はもうキミに愛を叫ぶことができない」


 佐伯の断末魔が次第に途切れとぎれに、そして小さくなっていく。  

 代わりに興奮し増幅するサーバントの息遣いが静寂の中で怪しく響き渡る。

 血液はあと数滴。


「これは僕に与えられた使命だ。たとえ感情や記憶を失くしてしまうとしてもやり遂げなくてはならない」


 血時計が最後の一滴を絞り落とす。

 

「分かって欲しい。これが愚かな僕に叫ぶことができる愛のカタチなんだ」


 佐伯の体が電流が走ったようにビクンビクンと何度か大きく波打ち、やがてその動きを止めた。

 鳴り続いていた羽音が次第に消えていく。

 サーバントが前のめりになっていた体をゆっくりと起こし、僕の方を見遣った。

 フードの影に浮き彫りになったその恍惚とした表情。

 そして彼は黒い羽虫が散っていくようにその場から霧散して消えた。

 かざした左手を見ると落ち切った血液はすでにダマのある砂に変わり、蛇もまた動きを止め、元のくすんだ色の銀細工へと形状を戻していた。



**********



 立ち込めていた静寂に検察官の声が立ち戻った。

 目を向けるとフレームレスのメガネの奥の鋭い視線が僕に注がれている。


「まずは証人に被告人との面識を……」


 そのとき傍聴席が微かに騒めき始めた。


「お、おい、なんか佐伯の様子がおかしくないか」


 誰かの声に裁判官が木槌ガベルを鳴らす。


「傍聴人は静粛に」


 けれど続いて項垂れた佐伯を覗き込んだ刑務官が慌てた声を上げた。


「お、おい、佐伯、どうした」

「刑務官、どうかしましたか」


 裁判官が苛立った様子で眉をひそめたのも束の間、佐伯の上体が前のめりにぐらりと傾き、そのまま床へと倒れ込むと傍聴席から悲鳴と喧騒が湧き上がった。


「静粛に、静粛に!」


 ガベルが激しく打ち鳴らされる。

 うつ伏せに横たわった佐伯を刑務官が抱き起こすとその床にドス黒い血溜まりがあり、裁判官の制止も能うことなく喧騒はさらに膨らんだ。


「ダメだ、呼吸をしていない。誰か、救急車を!」

 

 刑務官の声に誰かがドアを開け法廷を飛び出していく。

 仰向けにされた佐伯の顔にはべっとりと血液が張り付き、弁護人がそれを悍ましいものでも見るような顔つきで覗き込む。

 検察側の三人はその場に呆然と立ち尽くし、成り行きを見守っている。

 裁判官はさらに激しくガベルを打ち鳴らし、「閉廷、閉廷!」と叫んでいた。


 僕は一度目を閉じ、ひとつ大きく深呼吸をしてから握っていた砂時計をスラックスのポケットに忍ばせた。

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