不誠実なレビューとは

 ※作者コメント※

 メッチャ長いです。4700文字以上あります。

 後、わりと内容的にも危険物なので取扱い注意です。

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 さて、物量からすると、実はこっちのほうが本題かも知れない。


 良さげなレビューを書く方法については説明した。

 じゃぁダメなレビューって何だ?


 それについて語ってみよう。


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 ここでひとつ引用を。


 Fallout4の人造人間、ニック・ヴァレンタインがDiMAという自身の兄弟を主人公が処刑した後、主人公が皮肉めいた事を言うと、このようなセリフを言う。


「おい、一回黙れ。時々思うんだが、あんたは聞き手に対する配慮よりも、自分が利口だと思われる事の方が大切なのか?」


 世の中には、グロテスクなシニカルさに基づいた表現を、自身の頭の良さの表現だと思ってる人が結構いる。


 コレには本人が持つ不誠実さと自己欺瞞の強さが関わってくる。


 そういう人が書く「レビュー」は批評どころか「おすすめレビュー」としての要件を満たしていない「不誠実なレビュー」になっていることがしばしばだ。


 この「不誠実なレビュー」について、少し掘り下げてみよう。


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 さて、レビューは辞書的な意味では「評論」や「批評」となる。


 こと芸術作品に対する評論や批評の目的は、一般的に以下のようなものが挙げられる。


 ・作品の価値を評価し、その長所や短所を明らかにする。

 ・作品の内容や背景を解説し、その理解を深める。

 ・作品に対する自分の感想や意見を表明し、読者と共有する。

 ・作品に関する問題点や課題を指摘し、改善策や提案を行う。

 ・作品に関する議論や批判を促進し、新たな視点や知見を生み出す。


 これらは「一般的な評論や批評」の文脈にあるレビューについての定義だ。


(私がよく自作に対して使っているノエル・キャロルの批評方法である、『批評の対象とは』と言う審美哲学に関してはややこしくなるので割愛する。アレってマジで難解なので)


 しかし、これらはプロが書くレビューの場合だ。

 カクヨムの場合は、プロではない一般ユーザーがレビューを書く。


 そしてそれらのレビューは、カクヨムのトップ画面において、「新着おすすめレビュー」として紹介されている。


 つまり、カクヨムのレビューは一般的な評論レビューとは違うのだ。

 「レビュー」ではなく「おすすめレビュー」なのだ。


 ここで「おすすめレビュー」に付いて定義しよう。


 「おすすめレビュー」とは、自分が読んだ本や観た映画などの作品に対して、自分の感想や評価を述べるとともに、その作品を他の人におすすめするかどうかを伝えるレビューのことだ。


 そして「おすすめレビュー」は一般的な評論や批評とは異なり、以下のような特徴を持つ。


 ・「おすすめレビュー」は主にインターネット上の個人が発信するものであり、専門的な知識や技術を持っていない。他方、一般的な評論や批評は、新聞や雑誌などのメディアで専門家や評論家が発信するものであり、客観的な事実や根拠に基づいて作品を分析・評価している。


 ・「おすすめレビュー」は一般のユーザーが書くものであり、「これ好き」だけで成り立つ。しかし、一般的な評論や批評は「これは〇〇主義に基づいた表現であり、作者は鑑賞者に対して△△を感じさせることを企図している」という形で論じる事を求められる。


 ・「おすすめレビュー」は作品をおすすめするかどうかを明確に伝えることが重要だ。一方、一般的な評論や批評は、作品に関する問題点や課題を指摘し、改善策や提案を行うことが重要になる。


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 さて、「レビュー」も「おすすめレビュー」も、これから読者になる人に向けて内容が書かれていることは同じだ。


 しかし、不誠実なレビューは、内容が作品やこれから読むであろう読者ではなく、「作者」あるいは「外の世界」に向けられている場合が散見される。


 一体、これはなぜなのだろう?


(ここでいうレビューの不誠実さとは、ある感情をもつことを願いながら、それに対して正当な努力や義務を果たしていない。そういう意味で言っている)


 簡単なことだ。それは「おすすめレビュー」でも「レビュー」でもないからだ。


 一見レビューにみえるが、その実、レビューの目的は作者に対する攻撃と支配の試みになっているのだ。


 作品に対して「レビュー」と言う形態を取ることで、一方的に攻撃する。批評を利用して無意識的、あるいは意識的にマウンティングするのが目的で、その楽しみに溺れてるのだ。


 レビューの方向性がこれから読者となるものに向いていれば、そうはならない。


 なぜかと言うと、レビューが対象とする『これからの読者』は、レビューを書いた評価者と同じ存在として書かざるを得ない。そこでマウンティングを行えば、自分で自分を攻撃することになってしまう。


 その種のレビューには「こんなイッちゃってるのを好きだなんて」という自虐の形態を取ることもあるだろうが、これは(でも君もこういうの好きやろ)という言葉が隠れている。自虐的なレビューでさえ、向いている対象はこれから読者になるユーザーなのだ。


 「おすすめレビュー」はこれから読者になる人達に、お話を読んで感動してもらうことを目的としている。作者に対する攻撃、あるいは支配を偽装しているレビューはどんな目的を持つのか?


 それは「攻撃」を通して「同調」を集めることを目的としている。


 ここで一旦話を戻すが、不誠実なレビューが皮肉を使用するのはなぜか?

 攻撃的な感傷に溺れる事による、現実との不一致を皮肉で解決するからだ。


 さて、なぜ攻撃的な感傷が現実と不一致を起こすのか?

 なぜ皮肉がそれを解決できるのか?


 感傷は言い換えれば好悪判断だ。

 感傷は、曖昧な感情に基づいて、他人を「良い」or「悪い」と思うことでもある。


 そうした感傷的な主張は、論理的にみて間違った内容になっていることも珍しくない。


 感傷の評価軸は、他者に気にいられるかどうかにある。そのため攻撃的なレビューを書くものは、他者の反応をうかがいつつ、故意に何らかの感覚を演じることになる。シニシズム/皮肉は、そういった感覚を演じる時に際して「本当は違うけどね」と言う自己欺瞞、自我の防衛装置として機能するのだ。


 具体例を挙げてみよう。例えば――


「俺は嘘が言えないから、あんまり人から好かれないんだよねw」

 と言う主張はどうだろう?


 不都合なこと、本当のことを言っても、発言主に気遣いや真摯さがあれば、人から好かれることは十二分にありえる。


 そしてこの主張の内容は、暗に「本当の事を言われると怒る相手はくだらない奴だよねw」と、発言に対して同意を求めるシニカルさ、皮肉の性質を持っている。


 現実的に考えれば、発言者が好かれないのは嘘をつけないからではない。

 その性格が不愉快で下劣な為だ。


 だが皮肉を通せば、その本質が見えづらくなる。

 他人からも、そして自分からも。


 皮肉を自身の頭の良さの表現だと思い込むことに、本人が持つ不誠実さと自己欺瞞の強さが関わってくるとは、こういった意味である。


 そういう人間を一言で表すと「卑怯者」だ。


 彼らは皮肉で論理の破綻を隠し、道徳や倫理など何か好ましそうな価値観を盾にして、その隙間から攻撃してくる。


 攻撃的なレビューはそうしたもので、自身が道徳的な立場に立ったと錯覚させ、攻撃に対する心理的な保険になる。つまり、不道徳な人間を攻撃している自分は道徳的な人間である。という錯覚をもたせるということだ。


 しかし、不道徳であろうがなかろうが、攻撃は攻撃だ。


 攻撃したという事実は変わらない。例え「騙された」「釣りだったなんてしらなかった」などと言い訳しても、攻撃を選んだのは攻撃を選択した攻撃者自身だ。自由意志を持っているなら、「攻撃しない」こともを選べたはずだ。


 なのに、しなかった。「攻撃する」事を選んだ。

 その責任は決して消えることはない。


 いや、批判とはそういうものだ、辛口レビューなんだ、攻撃的なものだ、と言いたい者に反論しよう。


 おすすめレビューもレビューも根っこは同じ「批評/批判」だ。

 しかし、批評は作品に対する研究であり、どうしてその作品が「私の好き・エモい」を成り立たせているのか、それを明らかにするものだ。

 決して作者に対しての攻撃や支配を目的としたものではない。


 そもそも彼らは批評、批判の意味を取り違えている。

 批判とは、欠点を並べ立てることや短所を指摘することではない。


 批判的に考える。批評するとは、何かについて原理を考えることだ。自分の手持ちの理論やデータで検証しながら、考えることが「批評/批判」だ。


 内容が論理的に正しいか、内容に飛躍はないか、経験的に見ておかしくないか?

 そして「反対」か「賛成」、第三の立場として「保留」をとる。


 これが批評であり、欠点を指摘し、正すべきと論じるのは一部分でしか無い。


「このお話に出てくる猫ちゃんがマジでエモいの。飼ってた猫ちゃんを思い出す~!」


「でも、猫ちゃんがいうこと聞き過ぎかな? ちょっとワンちゃんみたいなのは気になったかも」


 これらは反対も賛成も含まれているが、誠実なレビューだ。

 これが不誠実なレビューになると、以下のようなものになる。


「このお話に出てくる猫は常に可愛らしく都合が良い、作者の自己が投影されており、作者の性格描写はあまりにも一方的であり、目に余る醜悪さである。」


「猫はさながら走狗のように従順であり、これはこの作者が作り出した世界も同様である。稚拙な世界観が表現されている。しかしながら、これは幼稚な読者が要求しているものでもある。」


 レビューの内容より、矛先がどこに向いていのかに注目してもらいたい。

 私の言いたいことがわかるだろう。


 カクヨムのレビューは「おすすめレビュー」だ。

 その目的はその名が表す通り「おすすめ」であり、批評は目的としていない。


 道徳的な立場、優越的な位置から攻撃をするのは依存性がある。


 辛口レビューを標榜する者たちがしている行為は、一見ただの攻撃的なレビューに見える。だが、本質的には以下の構造の命題をもっている。


 命題1:道徳的に良い人には、報いがなければならない。逆もしかり。

 命題2:私は道徳的に良い人である。


 この2つの命題は「私がこの者を攻撃し、あざ笑うのは道徳的である。道徳的でない存在をあざ笑っているが故に。」となり、攻撃者の支えになる。


 不道徳を攻撃するのは最も道徳的な行動の1つであるから、私は正しい。故に私を攻撃するお前たちは間違っており、私には攻撃する権利がある。となるのだ。


 確かにその通りだろう。

 その根拠が虚構の存在であるという点を除けば。


 繰り返しになるが、これには行動者本人の不誠実さと自己欺瞞の強さが関係している。攻撃は不道徳な行為なのに、不道徳な人間に対して行う場合に限り道徳的と見做される。これらの「レビューのようなもの」は一言で評価すると「理性的ではない行為」だ。そしてこれら「レビューのようなもの」は、「攻撃」を通して、正しさへの感傷的な「同調」を集めようとする。


 それはなぜか? 主張に大した意味がないからだ。ゆえに、彼らは自身の主張を「正しいもの」として「共感」を求め続けないといけない。


 感傷的な発言で、自分の意見の同調者を集め、数のパワーで押し切らないと安定した攻撃者としての立ち位置を失う。


 だから不誠実なレビューは攻撃的で感情的なのだ。


 カクヨムにある自称辛口レビューの根拠を良く見て欲しい。論理構造ではなく、「本格的」「本当の小説ライトノベル」「表現の自由」に代表される、「なにか素晴らしそうなモノ」を根拠にしていないか?


 最後にFallout4の人造人間、ディーコンの言葉を引用しよう。


「一つアドバイスがある。他人の語る耳触りの良い言葉に惑わされてはダメだ。そいつの行動を、自分に何を求めているかをじっくり見極めれば、本当の事が分かってくる」



 以上だ。

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やれやれ、本当のおすすめレビューを見たことがないようだ。本当のおすすめレビューというのをお見せしますよ ねくろん@カクヨム @nechron_kkym

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