下
翌朝出勤すると、店長は疲れ果てた、赤黒い顔をしていた。
業者から「人魚は引き取ってもいいが金は返せないと言われた」とぼやいていた。作業場を水浸しにしたことは何も言われなかった。
人魚はまな板の上に横たわって俺を迎えた。
「よう」
「業者がお前を引き取るってさ。海に帰れるかもな」
「どうかねえ」
人魚は金の目を歪めて言った。
「これでお前ともおさらばか」
俺は答えなかった。
まな板の横には霜の降りた発泡スチロールが積まれていた。中から鯵の尾が飛び出している。
人魚が去ったら、俺はいつも通りひとりで魚を捌くだけだ。一生、死ぬまでそうするつもりか。
昨日人魚に言われたことが脳が揺さぶるようだ。
思考を現実に引き戻すと、まだエプロンも手袋もしていなかったことを思い出した。
使い捨てのビニール手袋を取りながら、包丁も取って来なければと思った。
そのとき、店長が扉の隙間から顔だけ覗かせて、俺を呼んだ。
「須崎くん」
店長の笑顔はひどく引き攣っていた。
エスカレーターで下の階に下がっていくように店長が消える。代わりに、扉の隙間から鋭い刃の光が挿した。
包丁を構えた男が店長の胸ぐらを掴みながら現れた。
「お、お前だな。人魚を捌いてるのは」
男はこけた頰を震わせて言う。
目の下のクマは深く、見開いた目が眼窩から溢れそうだった。
刃を突きつけられた俺の頭の回転は鈍かった。そういえば、今日は自分の包丁を研いでいなかったなと思った。
床に這いつくばった店長が金切り声で俺を呼ぶ。
「須崎くん、いいから、謝って!」
何について謝ればいいのかわからない。
俺が腐った魚でも売りつけたんだろうか。
周りが騒がしい。警備員を呼ぼうとしているのかもしれない。
俺は改めて包丁を持った男を見て、やっと気づいた。この前ヒラメの人魚を捌いたとき、何時間も眺めてから全部買って行った客だ。
男は一歩俺に近づく。
「お前があの子を殺して死体を捌いたんだな」
「それが仕事だからな。あんただって肉や魚を食うだろ」
「ふざけるな!」
男は包丁を振り回した。
避けようとした俺の手を先端が引っ掻き、鈍い痛みが走った。手の甲に一筋赤い線ができた。
男は包丁を両手で握りしめ、俺の腹を見据えた。
「お前にはただの肉かもしれないが、俺には……俺の全てだったんだ!」
男の踵が地面を蹴り、俺に向かって突き進んでくる。
そのとき、視界の端で鈍色の光が動いた。
金属のような尻尾を波撃たせ、人魚がまな板から滑り落ちた。
男が一瞬足を止める。亡き恋人の面影を見たのかもしれない。
男が振り返った瞬間、人魚が跳んだ。
人魚が鋭い牙に覆われた口を開く。鯨が波ごと小魚をまとめて呑み込むように。
青いタイルに、赤の鮮血が飛び散った。
俺は生温い血を全身に浴びながら、呆然と立ち尽くした。
客の男は首から上が消え失せ、噴水のような血を噴き上げていた。男の身体がぐずりと崩れ落ち、遅れて包丁がタイルに転がった。
人魚は髪と血肉を牙に貼りつけて、真っ赤な口で笑った。
遠くからサイレンの音と騒がしい足音が聞こえた。鉄の扉に隔てられた作業場では全ての音が遠く聞こえる。
男の頭を呑み込んだ人魚は、咀嚼を終えて喉を震わせた。
「ちょっと早いが、一旦お別れだな」
人魚はそう言って、俺が何をしても剥がせなかった鱗を一枚、尻尾から引き抜いた。
人魚が鱗を自分の舌に乗せ、水掻きのある手で俺を招く。俺は血の海の中に膝をついて人魚に近づいた。
人魚は両手で俺の頰を掴み、自分に引き寄せた。牙に覆われた口が俺に近づき、濃い鉄錆の匂いがした。
人魚が赤い舌を伸ばし、俺の右目を冷たい感触が這った。頬も、右目も、冬の海水に触れたようにひんやりと冷たい。水掻きに半分耳を塞がれ、陽光も音も届かない深海にいる気分だった。このまま太古の生物しかいない暗闇に引き摺り込まれる想像をする。それでもいいかと思った。
人魚は指先で俺の右の目蓋を閉じさせる。世界が血塗れの作業場に戻った。
「またな」
人魚は、確かにそう言った。
作業場の扉が開け放たれた。警棒を構えた警備員が押し寄せる。
人魚は水中にいるように自然に身を翻し、跳躍した。鈍色の尾が警備員の頭を飛び越えて消える。
辺りから悲鳴が聞こえた。俺は右目を閉じたまま、人魚が泳ぎ去った血の海に座り込んでいた。
あれから、人魚はエスカレーターを駆け上がり、一階の噴水を破壊して、水中に消えたらしい。
下水管のどこを探しても人魚は見つからなかったそうだ。
殺人現場となった生鮮食品コーナーはしばらく封鎖され、噴水は水を抜かれて、死体のようにブルーシートで巻かれた。
男の死体は警察が回収した。店長は職場の監督不行き届きで上から相当絞られたらしい。
俺は何の罪にも問われなかった。
半月後、生鮮食品コーナーの営業が開始された。人魚はほとぼりが冷めるまで仕入れないらしい。しばらくはまたマグロやイカを捌くのだろう。
久々の作業場は綺麗に掃除されていた。
でも、タイルの目には青い血と赤い血が一筋、絡み合うように残っていた。俺しか気づいていない。
俺は無人の作業場で、何も乗っていないまな板を見ながら煙草に火をつける。煙が染みて片目を閉じた。
あれから、俺の右目には鈍色の膜が貼りついている。目を開けている間は何もないが、閉じると鮮烈な青が広がった。
最初は真っ暗で失明したのかと思った。
だが、じきにだんだんと藍色の光が挿し、幾重にも重ねた織物のような波が見えるようになった。
海だと気づいた。
頭上を過ぎる船の影や、刃物のように細い魚の鱗も見えた。
ときどき、水掻きの生えた指が伸び、魚を捕らえる。しばらくしてから食いちぎられた魚の頭や尾が水中を流れていく。
きっと、あの人魚の視界を見ているのだろう。俺に、自分のいる海を教えているんだ。
俺は行くだろうか。親父の介護が終わったら。行くかもしれない。
右目に導かれながら、深海よりも暗い暗い洞窟へと進む。潮の音と足音だけが反響する。
いつか闇に目が慣れて、足元に広がる岩が僅かに脈動していることに気づく。日本刀のような鈍色の鱗を持った尾だ。
顔を上げると、金色の双眸が洞窟の奥で怪しく光る。引き摺り込まれることはない。既に俺の方から海に身を投げるように吸い寄せられるからだ。
そんな想像をして、俺は煙を吐いて吸殻を潰す。
海では火がつかないと人魚は言っていた。
いつか海の主のところに行くそのときまで、吸い溜めておいた方がいいかもしれない。
それとも、引き潮のとき外に出て吸えるように、土産に持って行ってやるべきか。
家を引き払って、海に向かって、持っていくのは煙草を一カートン。決まりだ。
俺は二本目に火をつけた。
地下生鮮食品売場の人魚 木古おうみ @kipplemaker
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