中
次の日も、その次の日も、人魚の鱗は剥がせなかった。
店長は卸業者に苦情を言って、人魚を引き取ってもらう算段を始めたらしい。
俺は特売のマグロやイカを捌き、切れ端を人魚に食わせた。
人魚は特大のまな板に転がっていた。
長い尾は作業台を二周しても余る。
俺はこの人魚が暗い洞窟の潮溜まりにいるところを想像した。
こいつは綺麗な海よりも地底湖のような潮溜まりが似合う。
うっかり迷い込んだ人間は、水面をぐるりと巻く尾を岩礁だと思い込むだろう。遥か太古の恐竜のような背骨も、切り立った岩場が連なるようだった。
そして、油断した人間が尾の中に足を踏み入れると、金の目を光らせ、鋭い爪と歯で捉えて海底に引きずり込む。陽光など射さない暗い暗い深海に。
人魚は捕まえた人間の首根っこを抱えて沈み、完全な闇に溶けても泳ぎ続ける。銀色の泡だけを微かに残し、やがて、誰にも見えないところに消えていく。
閉店を知らせる合図が鳴り、俺は空想を頭から追いやった。
蛍の光を聞きながら包丁を洗っていると、人魚が言った。
「そろそろヒレが乾いてきたな」
この人魚を沈めておけるような水槽はない。俺は作業場の扉から透ける青い光を見た。
「一階の広場に噴水がある」
店員が全員去ったのを見計らって、水垢で汚れた扉を開け放った。
薄暗がりの中に、等間隔で棚やアイスケースが覗く様は霊安室のようだった。
扉を開けて気づいたが、人魚には当然脚がない。抱えて歩く羽目になるだろうか。
そう思いながら一歩踏み出すと、人魚は両腕だけでまな板を降り、這いずって俺の後ろをついてきた。
人魚はスナック菓子の並ぶ棚の間を這い、尻尾でいくつかの袋を薙ぎ倒した。
「落とすなよ」
俺は袋を拾って棚に捩じ込む。人魚はチョコレートの特売の広告を見上げた。
「これ全部食いもんか。そうは見えねえけどな」
感慨深そうに呟く人魚を横目に、俺はエスカレーターへ進んだ。
動きを止めたエスカレーターを登ると足元が覚束ない、妙な気分になる。
人魚はイルカが水面を跳ねるように三段飛ばしで段差を上がり、その度に左右の手すりが振動した。
一階に辿り着くと、明かりの消えたエントランスが広がった。
吹き抜けから射す月光と、天井からぶら下がる紫の飾りの反射が、水の底から夜空を見上げたように光っていた。
俺は人魚を噴水まで導き、縁に寄せた尻尾を押して水に浸した。鈍色の鱗が水と光を移して、ステンドグラスのように輝いた。
「この水はどこから来てるんだ?」
「さあな、お前のいた海じゃないのは確かだよ。再利用水って言ってたから下水じゃないか」
人魚は不快を露わにするかと思ったが、訝しげに水を掬って鼻に寄せただけだった。
「どうりで、人間の生活の匂いがするな」
俺は肩を竦めた。
閉店後のショッピングモールは居心地が良かった。世界が終わった後の孤独を味わっている気分になる。
「これ全部人間が作ったのかよ。時代が変わるわけだ」
人魚は吹き抜けを見上げながら感嘆の声を漏らした。
「海に戻って、やること全部終えたら、どっか遠いところでも行ってみようかね。海はどこでも通じてるってのに俺の世間は狭くなりすぎた」
俺は噴水の縁に腰掛ける。
「逃げ出す前提かよ。店長が業者と話しつけるまではここにいてくれよ。金を払い戻してもらわなきゃいけない」
人魚は牙を剥いて笑いながら言った。
「お前、よく毎日狭い作業場で暮らしてられるな」
「何で?」
「扉一枚出ればここには何でも揃ってるだろ。遊びに行きたくならねえのか」
「そんな元気も興味もねえよ」
「じゃあ、何のために働いてんだ」
「別に。親父の治療費と家賃と光熱費と、言ってもわかんねえか。その日暮らしのためだよ」
「そうか……俺と違って二本の脚がついてんのになあ」
人魚は浅い噴水の中で寝返りを打った。
俺の口から無意識に言葉が溢れた。
「俺は海の中をどこでも泳げるヒレがある方がまだ面白そうだと思うけどな」
「じゃあ、来るか。俺のいた海に」
人魚は目を爛々と輝かせた。金の眼光が波に揺蕩う跡になった。
「親父の介護が終わったら考えてみるな……」
昼間の妄想が現実になりそうで、俺は目を背ける。
「なあ、結局お前は何の人魚なんだよ」
「さあな。ヌシサマとか龍神とか呼ばれることもあったがなあ。みんな勝手に呼ばれた名前だ。俺は何とも決めてねえよ」
人魚は満足げに尻尾で水面を叩いた。飛沫が俺の頰を打った。
人魚が噴水から上がって地下の作業場に戻る頃には深夜になっていた。
俺は明日店長が嫌な顔をするのを想像しながら、作業場にホースで水を撒いた。
海とは程遠い、薄汚い青のタイルが濡れた。
天井からガラス玉のような水が滴る中で人魚は眠った。
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