地下生鮮食品売場の人魚

木古おうみ

 人魚の鱗を剥がすコツは、タイやスズキと同じだ。


 尾びれの付け根から包丁の背で逆撫でする。ヒレの周りは刃先でやる。念入りに剥がさないと後で包丁が引っかかる。

 ショッピングモール地下一階の生鮮食品コーナーで人魚を捌き続けて半年間、俺が学んだことだ。



 子どもの頃はショッピングモールの食品街が嫌いだった。

 どれだけ入り口から煌びやかな店を揃えて、噴水や遊園地のようなコーナーを作っても、食い物の売り場は途端に生活の匂いが押し寄せるからだ。下りのエスカレーターに乗ったときから、魔法が解けたように現実に引き戻される。


 そんなところに就職したのは、六十になったばかりの父親がぶっ倒れて、介護で地元に帰る羽目になったから。

 何かあったときすぐ家に帰れる距離だったから。

 それに、ショッピングモールの煌びやかさに夢を見る年でもなくなったからだ。



 ここの生鮮食品売り場は他じゃないような珍しいものを扱う。

 今までも人魚の肉を見たことはあったが、捌くところを見るのは初めてだった。


 俺と入れ替わりで退職した先輩は、最後の勤務日に人魚の捌き方を教えてくれた。


「食ったら不老不死になるってまだ信じてる奴らもいるらしい」と先輩は笑った。

「鱗には気をつけた方がいい。指に刺さるし、食うと腹の中がズタズタになるらしいから」

 そう言って先輩はエプロンを脱いだ。もう名前も覚えていない。



 人魚にも魚と同じようにいろんな種類がいる。

 今まで捌いたのはトビウオ、ハゼ、アンコウの人魚、他にもいろいろだった。何の人魚かで味も変わるらしい。

 魚と違うのは、喋ると鬱陶しいところだ。首と腕を落とした状態で入荷されるときはいいが、たまに鮮度重視でまだ生きているものが入ることがある。


 この前仕入れたのはヒラメの人魚だった。顔も腹も擦り傷だらけで、尻尾には網が絡んでいた。捕まるとき死ぬほど抵抗したんだろう。人間のガキみたいに生意気な面で、オスかメスかよくわからなかったが、興味もなかった。


 人魚はまな板の上で俺を睨みつけた。

「アイツは絶対来てくれる。そしたら、お前なんてすぐ殺されるからな。捕まったら助けに行くって約束してくれたんだ」


 俺はまな板の周りにブルーシートを敷いて、人魚の眉間を空気銃で頭を撃ち抜いた。

 シートを逸れてタイルに広がった血は青かった。頭と腕を落としてから逆さにしてフックにかけ、血抜きをした。


 その人魚の肉を売り出したとき、ショーケースに貼り付いて何時間も動かない男のがいた。人魚が言っていた「アイツ」だったのだろう。その客は俺を殺すこともなく、閉店間際に人魚の肉を全て買い占めた。


 人魚の血はホースの水をぶち撒けて洗い落としたが、まだタイルの目に残っている。俺しか気づいていない。



 久しぶりに遅番で出勤すると、店長が俺に駆け寄ってきた。

 何事かと思ったらまた人魚が入荷されたそうだ。別の社員が捌こうと試したが、鱗が硬く、専用のウロコ取りでも一枚も剥がれないらしい。聞けば、まだ殺してもいないという。

須崎すさきくんなら手慣れてるから、頼むよ」

 俺は暗澹たる気持ちで持ち場に入った。



 生臭い匂いと保冷剤の中身のジェルと消毒液の匂いが混じった作業場に、男の人魚がいた。


 見た瞬間息を呑んだ。こいつは一体何の人魚だろう。


 鱗は一枚一枚が日本刀の刃じみた鈍色だった。髪は煙のような無彩色で、金色の瞳がぎょろりと光った。痩せぎすの身体の腹の部分には、銛で抉ったような古傷があった。

 人魚は俺を見て口を開いた。


「あんたが料理人か」

 低い声だった。唇の下から鋭い牙が覗いた。

「ピラニアの人魚か?」

 俺の問いに人魚は声を上げて笑った。

「そんな舶来のもんじゃないよ」


 俺が見たどの人魚より知能が高そうだった。柄にもなくやりにくいと思った。


 俺は人魚の血で青ずんだエプロンを首にかける。胸ポケットから煙草が落ちかけた。箱を隅の机に置くと、人魚が金の目を動かした。


「煙草か?」

「だったら何だよ」

「一本くれよ。吸ってみたかったんだ。水中じゃ火がつかない」

 普段なら取り合わないはずだが、このときの俺はどうすべきか迷ってしまった。人魚は牙と同じ鋭い爪が生えた手を伸ばした。

「いいだろ。鱗を剥がしてる間吸うだけだ」


 俺は仕方なく煙草を一本差し出した。人魚は煙草を咥え、不思議そうな顔をした。

「どうやったら火がつくんだ?」

 俺は無言でライターを擦り、煙草の先端に押し付けた。人魚は深く息を吸い、噎せ返りもせずに煙を吐いた。

「炎の味がするな。水底に花火の火薬が落ちてきたときと同じ味だ」


 俺は大輪の花火を映した海とその中で燃えくすぶる火種を想像する。

 何となく、この人魚を殺すのが惜しいと思った。

 俺は迷いを断ち切るために、ウロコ取りを手にして、人魚の尾に押し付けた。煙草の灰が落ち切って火が消えるまで奮闘したが、鱗はびくともしなかった。



 店長とどうすべきか話し合い、結論が出ないうちに閉店の時間になった。


 俺は蛍の光が流れる作業場に座り、煙草を咥えた。

 魚のアラを突っ込んだバケツを灰皿代わりに煙を吐いていると、人魚が言った。


「で、どうするって」

 俺は首を横に振る。

「決まってない」

「だったら、一旦海に帰してくれねえかな」


 人魚に命乞いをされたことはあるが、この人魚がそんなことを言うのは意外だった。

「帰ってどうするんだ」

「復讐さ」

 人魚は水掻きのある手の平を広げた。


「嵌められたんだよ。同じ海の奴らにな。きっかけはしょうもない下っ端の一匹だった。人間と恋仲になったんだと。海じゃ御法度だぜ」

「そういう決まりがあるんだな」

「ああ、その人魚は俺が締め上げたんだが、弱ってるところを打ち上げられて人間に捕まったらしい。それで奴らの仲間が恨みに思ったんだろう。昔漁師にやられた古傷をブッ刺された。情けないが、気絶してる間に網にかかってこのザマだ」

 人魚は腹の傷跡を指した。


 俺は煙を吐く。

「お前が締め上げたその人魚って何の魚だった」

「ヒラメだよ」

「だったら、俺がこの前捌いたやつだ。あそこにまだそいつの血が残ってる」

「だったら、復讐は一個お前が済ませてくれた訳だ」


 人魚は牙を剥いて笑った。

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