映らない姿見(後編)

 隣に立った私を見上げて、部長は言った。

「沢渡、キミは背が高いよな。何センチあるんだ?」

「百七十三センチです。部長は?」

「…………その数字を聞いた者には、いずれ死が訪れるという。説明の続きに移るぞ」

「まさか言いたくないとか?」

「……」

「私が百七十三だから、……だいたい、ひゃくごじゅう……あだだだだだ!」

「ニヤニヤするなさえずるな」

 しめしめ、部長の弱味を握れるチャンスだ──という思考が表情に出ていたらしい。

「知りたいなら教えてやろうか? ボクは黒帯だ。痛くしようと思えばかなり痛い」

「いだ、いだだ!わかった!もう聞きませんから放してください!」

「ふん、もう二度とそんな愚問をするんじゃないぞ。まったく、わからない部下の指導は骨が折れるな」

「……うう……折れるかと思ったのはこっちの方ですよ……」

 部長の荒技から解放され、少し涙目になる。

 じんじんとした痛みを訴える左腕を擦った。

「説明してもよろしいかな?」

「どうぞ……」

 もはや拒絶できる余地はなかった。


 色を正し、部長は鏡の横に立った。鏡面の中には、私だけが映っている。

「なぜ裏返してあったと思う?」

「え、ぶつかったからじゃないんですか?」

 さっき部長が説明していた言葉を思い返しながら言うと、部長はノンノン、と人差し指を振った。表情に滲む笑みは、心なしか愉しげだ。

「それは表向きの理由だ」

 裏返しだとか表向きだとか、ややこしいな。

「表向き……? 嘘だったってことですか」

「ちがう。建前だよ」

 それを優しい嘘と人は言う。

「人が鏡を見たくないと思うのは、どんなときだ」

「えっと」

 首を捻って考えてみる。例えば思い浮かぶのは、映画やドラマで鏡を割るシーン。連想されたのは醜形恐怖症や自傷行為を行う、ややほの暗い映像だった。

「見たくないものが映ったとき、ですかね」

「正解」と部長は頷いた。「裏返したのは、見たくないものが映ったからだな」

「でも、映るっていったって。その人が醜形恐怖症とかだったってことですか?」

「違う」と部長は首を振った。「まあ可能性としてゼロじゃないが、限りなくゼロには近い」

「つまり違うってことですね」

「そうだ」

 再び首を捻った。

 では何が映ったというのか。

「この鏡の先には何がある?」

「先って……体育館じゃないんですか」

「違う。何が映るかってことだ」と部長は嘆息気味に言った。呆れているようでいて、回答をリードしてくれる優しさを感じてしまう。なんだかんだで、教えてくれる気はあるのだ。

「何がって……」

「こいつが鏡として正位置にあったとしたら、何が映る?」

「えっと……本棚、ですか」

「惜しいな」と部長は言った。「そうだが、そうじゃない」

「どういうことです?」と私が返すと、部長は呆れたように視線を動かした。

 その視線の先には、棚が並んでいた。

「棚と棚の、隙間だ」

 あ、と小さく声が漏れた。そういうことか。

「生見では何の変哲もない棚の隙間。これが鏡に映ったんだ」

 とはいえ、それだけではまだ物足りなさを感じた。

 棚の隙間が鏡に映ったからといって、わざわざ鏡を持ち上げて裏返すような真似はしないのではないだろうか。

「映ったって。何の変哲もない隙間ですよ?」

「そのようだな」

「そのようだなって。まさか隙間から誰か覗いていたわけでもあるまいし。こんな狭い隙間、誰も入れないですよ」

 そう言うと、目をぱちくりと瞬かせた部長に、私は「え?」と声を漏らした。

「驚いたな。正解だよ」

「……え?」

 再び、私は小さく驚嘆の声を漏らした。

「この狭い隙間に、誰か人が隠れてたってことですか」と言うと、部長は「いや」と否定した。

「人が隠れられるスペースはない。今キミがそう言ってただろう」

 その物言いに、背筋に冷たいものが走った。

 人が入れるはずのない隙間。

 そこから覗く誰かがいた?

「人が入るはずもないただの隙間。誰かがそれを見て、鏡を裏返した」

「……つまり、ですよ。その人が、目が合ったのは」

 部長はニヤリ、と口端を吊り上げて言った。

「人じゃなかったってことだよ」

 その台詞に、一瞬で身体が強張った。

 理論立てて導かれた推論だからこそ、説得力を感じずにはいられない。

 鏡には、私の姿が映っている。そして、その背後にある、棚の隙間も。

 その像を極力見ないように、視線が部長の顔に固定されるのが判る。

 少しでも視線をずらしたら、棚の隙間に目がいってしまいそうだったからだ。

「そいつはこの棚の間に、明らかに人型ではない何かを鏡を通して見たか、あるいは目が合った。そして怖くなった。だから鏡を裏返した」

「……どうして、そう言い切れるんですか」

「人が視線を逸らしたがるのは、その対象に嫌悪や恐怖を抱くからだ。ただ不快なだけなら、見て見ぬふりをしたらいい。目を逸らせば対処できる。だが、そうしなかったのは」

 部長がくるりと体制を変える。

 肩に掛けたブレザーが、マントのように翻る。

「もう二度と見たくない、と思わせる〈何か〉が、そこに居るからだ」

 部長は鏡の真正面に映るように、私の目の前に立った。

 そして。棚と棚に空いた僅かな隙間を、真っ直ぐに見つめて言った。

「隙間からこっちを覗く、この世のものではない〈何か〉と、目が合ったんだよ」


***


 部長が不敵な笑みを浮かべて台詞を言い放った後、私は即座に鏡(と部長)から距離を取った。狭い通路に立ち塞がるかたちになるが、形振りかまっていられない。

 本当に今すぐにでもこの場を離れたかったが、怖がりの性質というべきか。同行者と距離を空けすぎるのも、帰り道を一人で行くのも怖かった。

 もういっそ知らない振りを決め込もう。何かあったとしても第三者の振りをすれば見逃してもらえるかもしれない。私は鏡(と部長)に背を向けて、通路の先の扉を一直線に見つめていた。

 一度意識してしまうとそれしか見えなくなることを、確証バイアスと言ったか。大小さまざまなものが不規則に置かれた通路のいたるところに隙間が存在していて、少し怖い。私の視線は定まらなかった。

 不意に、背後から部長の声が聞こえた。

「──…なあ沢渡、ちょっとこっち来てみろ」

「嫌です」

「いいから」

「嫌です」

「来いって」

 振り返る前に、ダメ元で私は尋ねてみた。

「……なんでですか?」

「一緒に覗きをしよう」

「嫌です!」

「つれないな‥‥‥じゃあボクひとりで覗きをしよう」

「何言ってるんですか!」

 返事はなかった。

 ものの数秒の沈黙かもしれなかったが、俄に気配が消えたような気がして、居ても立っても居られなくなった。

「馬鹿なこと言ってないで早く戻りましょうよ」

 返事はなかった。

「部長?」

 返事はなかった。

「……部長?」

 恐る恐る振り返ると。

 部長は、棚と棚の隙間を、直に覗き込んでいた。

 何やってるんだこの人は。

 怪異の片鱗に恐れもしない彼女の平常運転に呆れを覚えつつも、反応のないことが気にかかる。私は現状維持と天秤に掛け、埒が明かないという思考にいたり、勇気を振り絞って部長のもとへと歩み寄る。

「部長」

「……」

 何かをボソボソと呟いているが、よく聞こえない。

「……穂村部長?」

 その横顔は、真っ直ぐに隙間を見据えている。

「……」

 部長の顔は、無表情にも近かった。

 常とは異なる様相に、ごくりと唾を飲んだ。半ば使命感を奮い起こし、呼びかけた。

「あの、ぶ、部長……」

「……こんな言葉を知っているか?」

「……え?」 

 その問いに、彼女の肩に触れようとしていた手を止める。

「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」

「……ぶ、ちょう?」

「…………フフ、アハッ。アハハッ、アハハハハハハ!」


 突如として笑い声が、響いた。

──瞬間。

 考えるよりも先に、私は部長の身体を揺さぶっていた。


「穂村部長っ!!!」

「はにゃ!?」

 部長の両肩をがっしりと掴み、強制的にこちらを向かせる。

 私と目が合った部長は、大きな目をさらに丸くして私を見上げていた。

「……どうしたんだ、いきなり大声を上げたりして」

「な、なにキョトンとしてるんですか……え?だって、今」

 部長の様子に、呆気に取られたようになる。

「今? ……ああ、キミがモニョモニョと話しかけていたのはボクに対してだったのか」

 その言葉に、認識が遅れてやってくる。なんとなく会話が噛み合っていない気がした。

「え? だって話しかけてきたのは部長の方からだったじゃないですか」

「いいや。キミには話しかけてないよ」

「え?」

「ボクが話していたのは、こっちだ」

 部長は、隙間を指差した。

「…………え?」

「こっちのことを覗いていたようだったから、教えてあげてたんだ」

「……何をです」

「貴様がこちらを覗くとき、また貴様も覗かれているのだ、と」

「……ニーチェ、ですか」

「いいや。ボクからの薫陶だ」

 それはムリがあると思う。

 得体の知れないものに恐れるどころか講釈を垂れていたなど、考えられない奇行だ。やはりこの人は変わっている。勇敢、無謀……いや。文字通りの怖いもの知らずすぎる。

 恐れと呆れが同時にやってきている私を差し置いて、部長は続けた。

「本当はこの棚の隙間の向こう側に行きたかったけど、さすがに入れる隙間じゃなかった」

「何言ってるんですか、隙間の向こう側って」

 ……いや。部長なら、ありうるのかもしれない。

 頭がおかしいのでは、と思うのが普通かもしれない。だがきっと、この人に常識は通用しない。薄々気づいてはいたが、この人は常識の向こう側の住人だ。一般的な指標で推し量るべきではないのだろう。

 ……この人は、本気だ。

 だから、あのまま私が止めていなければ、部長は取り込まれていたんじゃないか──なんて割と本気で思えてきてしまって、再びぞっとした。

「あ」と部長は声を上げた。「そうこうしているうちに逃げられてしまった」

 隙間へと視線を向けながら残念そうな声を零した。怪異的な存在と向き合ったにもかかわらず、顔色ひとつ変えずに佇んでいる。相変わらずの部長の様子に、勝手に救われる心地がした。安堵を覚えた私の口からわりと深めの溜め息が出る。

「……はあ。心配して損しました。てっきり取り憑かれてしまったのかと」

 先ほどの光景は、思い返すだけでも背筋が凍りそうだった。空間を劈くような笑い声は、未だに鼓膜にこびり付いている。

「突然笑い声を上げるなんて、頭がおかしいと思われてもしょうがないですよ」

「失礼だな」

 部長はあからさまにムスッとした。どうやら本人にその自覚はないようだ。

「とにかく取り憑かれたとかじゃなくて、よかったです」

「やれやれ、甘く見られたものだね。ボクがそんなスキを与えると思うかい?」

 殊勝な笑みを浮かべる部長に、私は思うことがあった。

「……どうして」

「ん?」

「どうして部長は、そんなに強気でいられるんですか? 怖く、ないんですか」

「怖い?」と部長は嘲るような笑みを浮かべた。

「こんなものにいちいち怖がっていたら、オカルト探偵部の部長など務まらないだろう」

「それとこれとは、話が別です」

 彼女は意図的に怖がっていないわけじゃないような気がして、私の語気がやや強まった。無意識のうちに、彼女への心配も籠もっていただろう。未だに解けない警戒心が、チラリと隙間に視線を移させる。そんな私の表情を察したのか、部長は慮るように続けた。表情に真剣みが帯びる。

「ふむ。『怖い』……たしかキミは怖がり屋だが、怖いものが好き。それを克服するために入部したんだったかな」

「そうです。……穂村部長みたいに怖くないと思えるようになれれば、とは思ってはいます」

「そんな沢渡に、ひとつ教えておこう」

 そう言った部長は、じり、とこちらに歩み寄り、私を見上げた。

「前にも言ったかもしれないが、恐怖心は己への警鐘だ。一種の自己防衛反応でもある」

「……はい、前にも、聞きました」

「それを感じるということは、キミが正気でいられているという証拠だ」

 私は言葉を呑んだ。それはまるで部長自身、自分はそうではない、と言っているようにも聞こえたからだ。こちらを見据える瞳に何も言い返せないでいると、部長は続けた。

「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならないように気をつけなければならない」

「…………。やっぱりニーチェじゃないですか」

 穂村部長は、ふはっと笑い声を上げた。

「我々が慈善活動を行っている理由は、ひとつじゃない。その理由は判ったな」

 それは前の依頼で、私が部長に尋ねたことだった。私の肩をポンと叩いてから歩みを進める、私とすれ違いざまに。

「たまに、こういうホンモノが紛れ込んでいるからだよ」

 部長は、ニヤリと口角を上げて言った。

 もしかして私は、恐ろしい世界に足を踏み入れてしまったのではないだろうか。


***


 無事に現地調査を終え、元に戻された鏡は映るようになった。生徒会は「位置のズレ」と簡潔な記録を残し、オカルト探偵部は「隙間」の潜む怪異の存在を知った。「にらめっこでボクが勝ったからもうあの通路は安全だ」と部長は言ったが、私はあの通路は絶対に使わないでおこうと決めた。


 今日は珍しく私のほうが早かった。

 鞄を置き、部屋の中央に配置された二人がけのソファに腰掛ける。

 壁際に本棚が並び、書斎机が鎮座する探偵事務所のようなレイアウトはどうしたのかと尋ねると、社会文化研究室の常勤講師の趣味だと部長は言っていた。

 常勤講師は現在長い休暇を取っていて、どの学年も非常勤講師が授業を担当している。半分、部長による魔改造もあるらしいが、おそらく半分以上は部長の趣味だろうなと私は踏んでいる。

 先日生徒会から持ち込まれてきた依頼の山は、テーブルの上に放置されたままだ。再び、山のようにある依頼書の精査を手分けして行わなくてはならなかった。

 解決したものとそうでないもの。時効が働いていそうなものや文書のやり取りのみで終わりそうな相談も分ける。現地まで行く必要のあるものや、中長期的に取り組む必要があるものをリストアップし、ある程度まとまったら生徒会庶務に同行をお願いし、解決に勤しむという段取りだった。

 手紙に目を通し、時計の針が動く音だけが響き続いてどれくらい経ったのか。気分転換に伸びをした拍子に、書斎机の奥に置かれたサイドテーブルが目に入った。オルゴールやガラスの瓶。アクセサリースタンドなど、可愛らしい小物が雑多に置いてあるのが目に留まる。

 まさか部長にそんな趣味が? と興味が湧いた私は腰を上げ、近づいてみる。普段部長が座っていて見えなかったが、こんなコーナーが設けられていたなんて。

 近づいてみると、意外に雑多な一角だった。整頓されているようでされていない。アンティーク調のそれらには埃が被り、長年放置されていたのだろうことが伺えた。小物類は放置するとすぐに埃が溜まるようなあ、なんて思いながら眺めていると、ふとした違和感があった。机に伏された状態の写真立て。直そうとして触れる直前に、手が止まった。

 直感が告げる。

 これは、意図的に伏されているものだ。

 部長の言葉が、脳裡に蘇る。

『人が視線を逸らしたがるのは、その対象に嫌悪や恐怖を抱くからだ。ただ不快なだけなら、見て見ぬふりをしたらいい。目を逸らせば対処できる。だが、そうしなかったのは、もう二度と見たくない、と思わせる〈何か〉が、そこに居たからだ』


 ──私を突き動かしていたのは、きっと、怖いもの見たさだったのだろう。


 表に返した、写真立ての中央。

 そこに嵌められていた写真は、セピアに色褪せていた。

 額の上部には、ローマ字で名前が刻まれている。


 KIRYU ASURI.

 桐生あすり。


 一昔前の烏丸高校の制服に身を包んだ女生徒が、そこで優しく微笑んでいた。

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烏丸オカルト探偵部 塔間 晴海 @num6

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