映らない姿見(前編)
夕日の射し込む視聴覚研究室で、私達は密着していた。
「んっ……」
部長の細長い足が絡みつくように動く。
その動きに応えるように細長い足首を掴んだ。
スカートの裾が首筋をなぞって少しくすぐったい。
「うひひ」
変な笑い声が出た。
「よっと」
私の肩に乗っている部長が小さく零した。
「暗くてよく見えないなあ……おい沢渡」
「はい?」
「ぼーっと立ってないで。気を利かせて奥を照らすとかこう、できないのか?」
「ムリですね」
なぜなら今私は、あなたを肩に乗せて人間脚立となっているからです。
しかし私はただ眼前にある本棚を視界に映すしかやることがない。二本足を肩幅に開いて立っているだけなので、何やら高所を物色している穂村部長からしてみれば、ほとんど何もしていないに等しい状態なのかもしれない。
手持無沙汰に、どうしてこうなったのか状況の整理でもしてみようか。
発端は、生徒会からの依頼。
正しくは、生徒会庶務が運んできた段ボール箱の中身だった。
その中身はすべてが、このオカルト探偵部宛てに書きつけられたものだった。
この
一枚もれなく、それらすべてが依頼書だった。
学級で世話をしている子犬の世話。理科室で飼育されているメダカへの餌やり。失くした消しゴム探し。告白の練習台。エトセトラ。
オカルト探偵部部長である穂村梓が休学していた六ヶ月もの間に溜まった手紙の数は相当数に上る。彼女の復学した当日に、部室である社会文化研究室へとそれらが一気に持ち込まれたのだ。
先日、私は入部届を持った状態でその場に居合わせてしまった。幸か不幸か、半ば強制的に彼女の下でそれらの解決を手伝わされることになったのだ。
私の入部が承諾されることと引き換えのようでもあり、成り行きのようでもなり、廃部を救ったようでもあり……とにかく複雑な状況下で入部が受諾されたのである。つまり遅かれ早かれ、私が関係者になるのは予定調和だったと言っても過言ではないだろう。
その烏丸オカルト探偵部に、生徒会長率いる烏丸生徒会執行部が、部の存続を人質に早急な依頼解決を請求してきている、という力関係である。
……何故、生徒会がわざわざおいでに? と思うのは、穂村部長と
部長の腰は重く、あまり積極的ではなかった。生徒たちからの代替依頼とはいえ、生徒会が「解決しろ」と容喙してくることをあまり快く思っていないようだった。公私混同するタイプなのだろう。
そして、庵堂会長から穂村部長のお目付け役に徹するよう命を授かっているらしい生徒会庶務である遠谷さんが「終わった頃にまた来ます」とこの部屋を去っていたのが、数十分前の話だ。
私が穂村部長を肩に乗せて仁王立ちを余儀なくされてからしばらく経つ。そろそろ腹筋が危うい。
何やらごそごそと棚の上を弄る部長。そのうち「あったあった」と言って、ずんと肩の質量が増えた。一瞬だけ腹筋に力が入る。「降りるぞ」と言うので、彼女の動きに合わせて、静かにしゃがみ彼女を下ろした。
彼女が降りた拍子に、箱の中からガシャリという音がした。
部長の手には、両手で持てるサイズのカラーボックスが抱えられていた。立ち上がり彼女の横に立つ。「この中だ」と彼女は机の上に置い箱の蓋を開けた。中には旧式のカメラとフィルムが雑多に入っていた。
「カメラですか?」
「ああ。『フィルムを元の場所に戻してほしい』という依頼だ」
「フィルムを、ですか? どうして」
「ん? さしずめ、カメラ部員の誰かが先輩に頼まれたが、その箱が部室に見当たらなかった。そんなクチだろう」
部長は確度の高い憶測もサラリと言ってのける。
ガチャガチャと音を立て、重なるフィルムケースの山を漁る部長。
空のケースを探しているのだろうか。
「知ってたんですか? この箱がここにあるって」
「いや」と彼女は言った。
「フィルムを保存するのに適しているのは10℃前後。だがカメラ部は、写真を現像するための暗室しか部室として与えられていない。暗室は湿度が高いためにフィルムを保存しようとするとカビやサビが生えることが懸念される。だから部室には置いておけないだろ。あった」
その手にはフィルムケースが摘み出されていた。丸い蓋を開けると、キュポンと音が鳴った。そのまま入れるのかと思いきや、スカートのポケットから取り出したフィルムを悪戯に引き上げ、蛍光灯の下に翳した。片目を閉じて、被写体を確かめるように仰いでいる。
「で、フィルムの保管場所に困った連中が目をつける場所がここだ。特別棟の四階、日当たりが悪く、大きく温度が変化することもないうえ、一年中を通して涼しい。この視聴覚研究室なら、演劇部の舞台照明や放送部の音響装置の類もある。しかし無断使用がバレないようにしなくてはならないので、棚の上部、最奥に仕舞い込んだんだ」
その流れるような推論が事実であることは、今、視聴覚研究室の棚の最上段から引っ張り出してきた、目の前にある白い箱が証明していた。
彼女はその頭脳で、どんな些細な依頼でもたちどころに解決した。小さな手がかりから一つひとつ理論立て、結論を導いていく。その穂村梓という〈探偵〉の活躍が、オカルト探偵部の声価を高めている理由の一つであることは確かだろう。
……だが、一つの疑問が思い浮かんだ。
「でも、なぜ内緒に? 荷物を保管するくらいなら、先生に許可を撮ればいいんじゃ」
「先生に言えなかったからだよ」 部長はおかしげに目を細めた。「見ろ」
光源に透かされたフィルムには。
ベッドの上でキスをする少女達が映っていた。
「っ……」
予想外の被写体に、咄嗟に顔を逸してしまう。
オカルト以外のものにも、耐性がないと思われてしまうだろうか。
「恐らく制作するにあたりプライベートでホテルかどこかに行ったんだろう。不純異性交遊は禁止されているから、学校にばれないようにこっそりと。だが、撮影の間に熱がこもり、魔が差しんだろう」
ニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべる部長。
「せっかくだからこれは拝借しておくか」
「え!」
「何が悪い。フィルムケースにはしっかり戻した」
部長は中身の入ったフィルムケースをカラカラと揺らした。
「そ、そんな。だめです」
「盗られたくないものを他人に渡す方が悪い」
「それは、そうかもしれないですけどお……」
まったく聞く耳を持たない部長は、肩に羽織っているブレザーの内ポケットにそれを滑り込ませた。
「ん? これもいただいておこう」
「……」
こなれた手付きだな、などと感心している場合ではない。
「部長!」
私の一声に、部長はぴくりと肩を震わせた。
間近で出す声量にしては大きかったかもしれない。慣れない大きな声を出してしまったことと、目上の人に対して強く言えるような性分を自覚していればこそ、おずおずと、上目遣いのようになりながら視線を向けた。
「……わかったよ」
部長ははあと軽くため息を吐くと「あとはこれだけにしておく」と手に持った万年筆のようなものをポケットに入れた。
……ん? これだけにしておく?
まるで他にも盗っていたかのような物言いに引っかかりを覚えた。
まさか私に肩車をさせている間。あの時、何かを?
そう問おうとした瞬間だった。
何事もなかったかのように蓋が閉められた箱が、私に手渡された。
「ミッションコンプリートだ」と言う部長。持ってみると案外重さがあった。
仕方がないので、棚の空いている場所に押し入れようと背伸びをした。
もとのあった最上段の位置ではないが、一段違ったところで保管に害はないだろう。しかし見つかってはいけないものらしいので、できるだけ奥に仕舞い込む。
がさごそとやっていると、不意に我に返る瞬間。
「……ていうか、ここはオカルト探偵部でしょう?」
「ああ」
「どうしてこんな、ボランティアみたいなことやってるんですか」
「オカルト探偵部だからだよ」
答えになっていない。
「お前さんが入部届けを持っていったとき、教師に怪訝な顔をされなかったか」
「あ、はい。何か……異質なものを見るような目で見られました」
ちらりと部長の方に目を遣る。
「そういうことだ」と部長は頷いた。
だから答えになっていないんですって。
そんな私の心を読んだのか、先輩は私から窓の方に視線を移して続けた。空には薄い雲が掛かっている。そういえば天気予報では、今夜は雨だと言っていたか。
梅雨明けはもうすぐらしい。
「本来、オカルト探偵部に入部届けは必要ない。なぜなら、部活動じゃないからだ」
「……え?」
部長の声に、手が止まる。
半分ほど箱を押し込んだところで、もう一度彼女を見た。
「オカルト探偵部は、正式な部活動じゃない。言うなれば、そう。同好会だな」
「オカルト同好会?」
「しかしただオカルト的なものを愛でる倶楽部だと思われては心外だ。我々はオカルトにまつわる謎を調査している。だからオカルト探偵部と名乗っている。部活動の部ではなく、そういったものを担当する部署という意味での、部として」
オカルト探偵部。なるほど、筋は通っている。
「納得したようだな」
表情を読まれた。
常々感じていることだが、部長はメンタリストか何かなのだろうか。
「人格を掌握すれば心を読むなど容易いことだ」
「また勝手に読んだ!」
ニコリと彼女は笑った。
「つまり当部は広報や宣伝を兼ねて、各所からの呼び声に応えているというわけだ」
「社会貢献活動っていうことですか」
「そうだ。こういった部があることは知っておいてもらわなくてはならない。存続のために、日々の雑用業務をこなしているというわけだ。……まあ、理由はそれだけではないんだが」
「それだけじゃない?」
「いずれわかる。キミは怖いもの好きだったね?」
「はい」
「それなら楽しみにしておくといい」
「はあ」
パズルよろしく引き出した保管品を、ようやく元の位置に戻し終えた。
ふうと一息吐いて、改めて感じたことを言った。
「部長の観察眼は、鋭いというか、なんというか……ものすごい才能ですよね」
壁にかかった時計を見上げていた彼女は「んにゃあ」と短い奇声を上げた。
「これは、呪いだな」
呪い?
「そろそろだな」と部長が言うや否や、銀髪の少女が教室の入口に現れた。
「終わりましたか」
生徒会書記の
今日も銀髪のハーフツインテールがよくお似合いで。
「来たな遠谷。読み通りだ」
彼女はニッと口角を上げた。
…この人、未来予知までできるのか。
ただ時計を眺めていただけだと思っていた。彼女の来る時間を測っていたのか。それとも、彼女が引き寄せたのか……部長ならテレパシーを使えてもありえなくはない、と思えてしまうところが、彼女の怖いところだ。
「お疲れ様です。では次の場所へ案内します」
生徒会庶務である彼女は、私達だけでは入れない部屋の鍵を持っている。依頼と依頼の間に姿を現しては、部屋の開け閉めだけを行って、また去っていく。生徒会の仕事とオカルト探偵部のお守り。二足の草鞋を履いて忙しそうだ。
「次はなんだ」
鍵を閉めて、視聴覚研究室を後にする。遠谷さんの後に二人で付いていきながら、ふわあと大口の欠伸をしつつ目的地を尋ねる部長。窃盗を働いた直後とは思えない気の緩みぶりだ。犯人は身近なとこらに潜んでいる。
遠谷さんは部長の様子を気にすることもなく、手に持つ用紙を見て言った。
「体育館へ続く屋内通路の鏡が映らなくなったので磨いてほしい、とあります」
「屋内通路? そんな道ないですよ」
「いや、ある」
「え?」
「近道があるんだよ。高校棟の非常階段を一階まで降る。校舎に沿うようにして体育館へと向かい、非常階段を登ると体育館の二階につながる。繋がっている細長い通路に放送準備室があるが、無視して進んでいくと一階に降りる梯子があって、降りればゴール。晴れて体育館の内側へと潜入することができる」
淀みなく説明する部長。
よくもまあ歩きながらそれほど流暢に説明できるものである。
「ほへえー」
私の口からは感心めいた嘆声が零れた。
普段通らない道を想像するのに精一杯で、途中から理解するのを諦めた。
特別棟二階の突き当たりにある視聴覚研究室を出て、階段の方へ向かっていく。
体育館への道は、特別棟の二階からの中央渡り廊下を通るしかないと思っていた。
どうせ今通ればわかるだろう。というか潜入って言っちゃってるし。
……そもそも。
「面倒くさくないですか? そのルート」
通常の道を行ったほうが早いのではなかろうか。
部長は私の無粋な突っ込みを気にする素振りなど微塵も見せずに続ける。
「運転と一緒だ」
「運転?」
「覚えてしまえば、徒歩で向かうより車で行く方が楽だと思うようになるだろう」
そういうもんだろうか。
「それに正規ルートで向かうより人も少なく、通路は狭いが本気を出せば二分三十八秒も短縮できる」
「細かいですね」
「ああ。何度か数えているから正確だぞ」
胸を張るようなことではないのでは。
中央階段に差し掛かり左に曲がろうとしたところで、部長が「そっちじゃない」と言った。真っ直ぐ突き進むらしい。特別棟はワンフロアすべてが研究室と特別教室のみで構成されている。この階から他の階へと移動する階段は、この中央階段以外にないはずだった。
「そっちは非常口ですよ?」
「ああ、非常口だな」
見慣れない扉が眼前に現れてくるが、やはり非常口に見える。
「そして」
扉を前に止まった部長の手元で、ガチャガチャと音が鳴る。
「非常階段だよ」
──錠が外れ、扉が開いた。
途端、外のやや湿った風が吹き込んでくる。四階ともなれば高所だ。強風に煽られてばさばさとスカートの裾が翻る。部長は肩掛けのブレザーが飛ばないように手で抑えつつ、階段を降り始める部長の後に続く。
私の後ろに続く遠谷さんが「鍵は……」と言った。どうやら非常階段の鍵は持っていないらしい。それに気付いた部長が振り返って「放っておいていい」と言った。だめじゃないのか。
「ていうか、部長、非常階段の鍵なんか持ってたんですね」
「持ってない」
「開けてたじゃないですか」
「探偵たるもの、鍵のひとつやふたつ開けられなくてどうする」
つまりピッキングか。
「非常階段というものは常時の際には普通使われない。つまり非常時なら使用できるということで、授業に遅刻しそうだという理由は非常時に値する。よって正当性が主張されるというわけだ」
階段を降りながら部長が何やら言い訳じみた主張を述べていたようだが、正面から吹きつける風のせいで半分も聞き取れなかった。カツンカツンと金属製の階段が、三人分の足音を鳴らしていく。
「んにょ?」
最下層──地上まで無事に降り立つと、部長が短く奇声を上げた。そのまま内鍵が開いた。Uターンのように後方へ曲がると、体育館が見えてくる。今のところは室内通路というよりは野外通路だ。
「鍵が開いてた」
「どういうことです?」
「穂村さんと同じ思考で、この抜け道を使っている人が何名かいるということですか」
横に並んだ遠谷さんがすかさず指摘すると、部長は頷いた。
「そういうことだな」
部長はいかにも飄々と言った。
…まさか、遠谷さんに呆れられた可能性に気付いていないフリをしている?
「知る人ぞ知る抜け道だ。ボクもよく使っているし、あの鍵はピッキングできなくてもコツさえわかれば誰にでも開けられる」
「コツって?」
「少し押しながら回す」
警備がザルすぎる。
しばらくすると目の前に体育館が見えてきた。いつもは中央階段から内側を通っているので、こうして外観を捉えると新鮮だ。知らない施設を前にしているように感じる。
しかし外側から内側に入り込む通路なんかあっただろうか、と思ったのも束の間。体育館の外壁に沿うように、金属製の構造物が見えてくる。……まさか。
「また非常階段ですか」
「ショートカットだ」
「じゃあもう平常階段ですね」
「うまいな。沢渡」
「……」
感心してる場合か。
ほとほと部長のマイペース振りにも慣れてきてしまった。いちいちツッコんでいたらきりがない。私は視線だけ送ることにしておとなしくその後に付いていく。遠谷さんも何も言わずに付いてくる。何を考えているのだろうか。温度のない表情からは何も読み取れないが。
「開いてる」と部長が扉を開けた。いつの間にか最上段まで上りきっていたようだ。距離があると思っていたが、確かにすれ違う人も障害物も少ない。ショートカットという所以が判ってしまう気になるのが少し悔しかった。
扉を潜ると、急に古臭い空気が肌を撫でた。埃っぽいというか、かび臭い。ふと後ろを見ると、遠谷さんは早速ハンカチで口元を抑えていた。判断を下して行動に移すのが速すぎるのでは。彼女を対策を真似しようと思ったが、生憎ハンカチを持っていなかった。それほど気にならないといえば気にならないくらいではある。これがお嬢様育ちと一般階級の差というやつだろうか。
「狭いぞ。気をつけろ」
ちらりとこちらを見遣った部長が短く告げた注意喚起に身を引き締めつつ、歩みを進める。部長の言う通り、狭い通路だ。舞台用の照明器具、放送用のマイクケーブル、球技科目用のネット。通路の壁に多くの機材が雑多に立て掛けられていたり、ケーブル類が床を這っていたりすれば、人が一人通るのがやっとだ。すれ違うなんて言語道断。ちょっとしたアスレチック感すら漂っている。
上の方に見える小さな四角い窓は、放送室だろうか。なんとなく秘密基地感がすごい。こういうコンセプトのファミレスがあった気がする。
しかしこの乱雑具合、非常階段へ続く道とは到底信じがたいと思う。
「……この通路って、非常時に機能するんでしょうか」
「さあな。だが、意志あるところに道は開ける」
「リンカーンですか?」
「いや。穂村梓だ」
「いつから大統領になったんです」
「さあ。着いたぞ」
そうこうしているうちに現場に到着していた。
そこは、先程の道よりも少しだけ整頓された通路だった。
左側には所狭しと収納棚が並べられている。磨りガラスが嵌められている様相からして、一昔前のもののようだ。中には埃の被ったシャーレやビーカーが見える。理科室にあったものだろうか?
対して右側には、背の低い棚。空気の抜けたバレーボール類やら何かの一部だった角材やらが雑多に立て掛けられ、不用意に衝撃を与えようものならすべてがドミノ式に倒れてきそうなバランス感覚。もはや芸術の域だ。
立ち止まっていると、私の後ろから遠谷さんがひょっこりと現れた。口数は相変わらず少ないが、これほど散らかった空間を見たのは下手をすれば生まれて始めてではなかろうか。ちらりと様子を伺ってみたが、しかし色の変わらない綺麗な灰色の瞳だった。
「さて」と部長が言った。「この姿見が映らなくなるとはな」
「!」
……映らなくなった鏡。
件の鏡がすぐそこにあったとは。部長の一言で背筋がぴんと伸びた。気持ち、恐る恐る部長の側へ近付いて、彼女が見ている方向を確かめた。スタンド式の鏡がそこにあった。
しかし、真正面に立っている部長と私の姿は映っていない。
ただ透かすように、壁の生成色を透かしていた。
「ふむ」と部長が顎に手を当てる。
「この鏡は」と遠谷さんが言った。「前は確かに映っていたんですか?」
「ああ。以前、この鏡に映った自分を見て、寝ぼけて上下逆さまにジャージを着ていることに気づいたことがある」
沈黙が降りた。
「……どうやったら上下逆さまに着るんですか?」
すかさず私が言うと、部長は口を尖らせて言った。
「逆になっていることに気づかなかったんだ」
「そんなことあります? あとぶりっこしないでください」
「ある。だから実際に間違えた。ぶりっこはしていない。そう捉えたおまえの脳がボクにぶりっこたらしめただけだろう」
結果論では。
私のジトリとした視線など気にも掛けず、部長は鏡を興味深そうに調べた。表から見たり裏を覗き込んでみたりしてから、表情ひとつも変えずにこう言った。
「……なるほどな」
「何かわかったんですか?」
「ああ。こうしてみると判る」
そう言うと、部長はその鏡に手を掛けた。
「……!」
挙動を見守っていた私と遠谷さんが同時に驚く。
部長は。
その鏡を持ち上げて、くるりと裏返した。
「──え」
遠谷さんが小さく声を上げるのを聴いた。驚くなんて、珍しい。……ではなく。
「……映った」
部長は小首を傾げた。表情ひとつも変わっていないし声に出てもいないが、どやっているようにも見えた。そのまま私達の方を向いて言った。
「裏表が逆だったんだ」
「……」
確かに、私達の姿が映っていた。
「な、どうして……」
呟く遠谷さんの声は小さく震えていた。分からないでもない。そんなにいともたやすく持ち上げることができるなんて。部長は非力そうに見えて案外力持ち? ではなぜ裏返っていたのか? いろんな疑問が浮かんで渋滞する。そんな私の疑問を察してか、部長は口を開いた。
「まず、この鏡は鏡じゃない。フィルムミラーだ」
「フィルムミラー?」
ああ、と言って部長は鏡に横目を遣った。
「別名リフェクスミラー。特殊加工した高精度のポリエステルフィルムを張られた、パネル状のミラーのことだ。アルミフレームで作った枠に嵌めたウレタンボードに、鏡面のフィルムを貼りつけることで鏡と同じ機能を持たせることができる。材質がアルミとウレタンなので軽く、その持ち運びのしやすさからよく出張の着付け用などにも使われる」
なるほど、と納得すると同時に、辞書でも引いてるのかと思えるほどの流暢さだ。そんな説明がよく諳んじられるなという感心も湧く。
「たしかに、着付け教室で同じようなものを見たことがあります」と遠谷さん。着付け教室に通っているのか。銀髪のハーフツインテールで姿勢がピンとした彼女のイメージ通りではある。部長はこくりと頷くと、説明を続けた。
「つまり真相はこうだ。ここを通ったとき慌ててぶつかりこの鏡を倒してしまった。急いで立て直したが、元通りに戻せたかまでは気が回らなかった。裏と表を逆に戻してしまったことに気付かず、次に通った人が映らなくなったと勘違いをし、我々に依頼をよこした」
「……そうですか」
筋が通っている説明に納得はできた。相槌を聞くに、遠谷さんも同様のようだ。
ただ、なんかちょっとつまらないな、と私は思った。
「もっとこう、ほかの理由があるのかと思ってました」
「ほかの理由って何だ。オカルティックな何かしらを期待したか?」
「……そうです」
私がそう言うと、部長は鼻で笑った。
「幽霊の正体見たり枯尾花だな。判ってみればしょうもないものだ。期待して損したな、沢渡」
そういう部長もつまらなそうな表情だった。部長は鼻から溜め息を吐いて言った。
「ま。人間、急いでいれば裏と表を間違えることはある」
「……ジャージを上下逆に着ることも?」
「当然ある」
異議あり。
「この裏道を他に使っている人がいるなんて知らなかった。それだけでも今回の依頼は収穫だと思うことにしよう」
私の茶化しを素気なくあしらうと、部長は鏡の前で伸びをした。組んだ手指が壁際すれすれに並ぶ棚にぶつかりそうだった。それから零すように「懐かしいな、この鏡」と言った。
「懐かしい?」
「ああ。使ってたんだよ、前」
「そうなんですか?」
「ボクが中学生の時に」
「中学生? あ……確かにこの学校って、中高一貫でしたっけ」
そういえば当校は中高一貫校だったことを思い出す。高校棟と中学棟は分かれているので普段校舎内ですれ違うこともなく、忘れてしまいがちだ。
「キミは高校入学組だったか。ボクは内部進学組だから」
知らなかった。内部進学組は外部入学生よりもだいぶ成績がいいと聞いたことがある。部長も成績がいいのだろうか、と思ったが、この頭脳明晰ぶりだ。言うまでもないという結論にいたった。
「……そういえば、会長も内部進学組でした」
不意に口を開いた遠谷さんの言葉に、部長は渋面をつくった。
「彼女は昔から優秀だったよ。あまり認めたくはないがな」
「仲が良かったんですか?」
遠谷さんの純然たる問いに、部長はやや決まりが悪そうに視線を逸らして言った。
「……昔はな。ヤツとはちょっと複雑なんだ」
詳しく、と私が踏み込むより先に部長が話を切り出した。
「さて、用が済んだならさっさと帰ろう。もうお腹がペコペコだ」
「あ、すみません。ありがとうございました」
「いいんだよ。事件は解決、ケースイズクローズドだ。さらば庶務係。お帰り口はあちら」
ぴ、と私達の後ろを指差す部長。振り返ると、一階に繋がっているであろう梯子があった。部長はそちらへ歩みを進めると、平たくした手のひらで道を示してみせた。
「ここから一階に降りれば体育館内部だ。中央階段への道は判るな」
「一緒に戻らないんですか?」
あたかも彼女だけを帰らせ、私達はここに残るような物言いが引っかかる。「一緒に戻るか?」と部長は遠谷さんに聞いた。遠谷さんはポケットから折り畳まれた一枚のルーズリーフを取り出すと、開いて中身を確認してから言った。
「いえ。本日の依頼はこちらで終了です。調査、お疲れ様でした。本日の結果は生徒会の方にも記録させていただきます」事務的な報告を述べると、「では私はこれで。失礼します」ぺこりと一礼をして私達の間を通り過ぎ、梯子を下っていってしまった。やはり行動が早い。
「またのご依頼をお待ちしています」とその背中に声を掛けると「待ってないから二度と来るなよ」と部長の声が後に続いた。それを聞いて、私は呆れたような視線を部長に向けた。
「どうして部長はそんなに生徒会を毛嫌いしているんですか」
溜め息混じりに部長は答える。
「アイツがいるからだ」
「アイツって、庵堂会長のことですか」
そう言うと、部長はわかりやすく嫌そうな顔をした。
苦虫を噛み潰したようなとはこういう顔のことを言うのだろうか。
……初めて部室に訪れた、あの日。
二人の間にある雰囲気は、初対面の私でも感じ取れるほどに険悪だった。
しかし。
「なんだ、その目は」
「さっきも気になってたんですけど、庵堂会長と何かあったんですか」
冷然として高圧的な佇まいの会長だが、それはあくまで問題児や学校の規律を乱す者のみに対しての態度だ。高身長でスタイルもよく、規律違反を犯していない一般生徒には人当たりもいい。その仕事人的なギャップも相俟って、女生徒達には密やかに人気があった。何を隠そう私も会長に憧れている生徒のうちの、一人だ。
ただ部長がオカルト探偵部の部長だからといって、あんな険悪な雰囲気になるものだろうか。二人の間に何かしら個人的な事情があるに違いないと私は踏んでいた。窺うような視線を部長に向けると、部長は鼻から小さく息を吐いて言った。
「仲はよかった。今は違う。それだけだ」
「何があったんです」
「女心と秋の空だ」
「は」
虚を突いたような返しに、気の抜けたような相槌になってしまった。
移ろいやすい、ということだろうか。
それにしたって、仲が良かった時期があったのは意外だった。ただお互いを勘違いしていて毛嫌いしているわけではなさそうだということに安堵してもいた。仲違いというものは、何も珍しいことじゃない。そして、以前仲が良い時期があったということは、仲直りの余地もある。
友情は壊れたままでいられないというのが、私の持論だ。
「行ったか」と部長は言った。
「はい。……あれ? 私たちは戻らないんですか?」
そういえばこの場から動くようなムーブが見られないことにふと気づき尋ねると、部長は言った。
「調査続行だ」
その瞳は、怪しい光を宿していた。
「え。調査って。さっき解決したんじゃ」
「敵を欺くにはまず味方からというだろう」
欺かれたのか。というか遠谷さんを敵と認識していたのか。
「生徒会の連中は合理的な説明を求めている。事件が解決すれば問題ないだろうが、頭がまともな奴らにオカルト的な話をしたってどうにもならんだろう」
つまり、これから部長は……。
「その通り。本当の理由は別にある」と部長はさも私の心の中を読んだような相槌を打った。
固唾を飲み込む私に対して、部長は一歩踏み込んで続ける。
「ボク達が求めているのは筋の通った真実じゃない。理屈の通じない奇説だ。そうだろ?」
部長の言っていることは納得できる。しかし理解が追いつかない。
部長は困ったように眉尻を下げて言った。
「まだ判らないか? オカルト探偵部だからだよ」
…だから、答えになっていないんですって。
「行くぞ、沢渡」
にっこりと笑う部長を見た私の身体から、一気に力が抜けた。
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