烏丸オカルト探偵部

塔間 晴海

後ろの正面だあれ

 放課後の校舎は薄暗い。特に課外時間である夕方から夜にかけての時間帯は、人気もなく不気味な雰囲気が漂っている。そこに足跡が響き渡る。一枚の紙切れを持って彷徨い歩く私の足音が。


 この烏丸中学高等高校は、都内某所にある中高一貫の女子校だ。歴史は明治時代まで下ると言われるが、校舎は建て替えられて新しく、制服も一新され、面影は取り払われてしまった。


 中学棟と高校棟、特別棟の三つの校舎は、コの字型に繋がっている。中央には噴水が据えられ、学年を問わず数多の生徒達の憩いの場となっている。昔の修道院を参考にしたらしい。


 しかしいかんせん特別棟の最上階に上がることは少ない。四階は準備室や物置として使用される小部屋しかなく、おおよそ教師陣しか出入りしない。だから社会文化研究室にたどり着くのも、時間がかかった。


 社会文化研究室は、確かこの辺りにあったはずだ。ここだろうか。

 引き戸に手を掛けると、からからと軽い音を立てて滑らかに扉が開く。


「えっ……と、失礼します」

 足を踏み入れる前に一声掛けてみるも、返答はない。


 覗き込むと、普通の教室ほどの広さがあった。

 テーブルを挟んだ二組のソファ。奥の方に書斎机と社長椅子。本棚に囲まれ、机の上にある地球儀が置いてある。ドラマでよく見る探偵事務所のような設えに驚きが浮かんだ。初めて入る社会文化研究室に些か緊張が走る。


 窓際に身体を向けて座っている人影があった。

「あのう。オカルト探偵部の部室って、ここですか?」

 声を飛ばしたが、返事がない。

 聞こえていないのか、あるいはイヤホンをして集中しているのか。でっぷりとした革椅子に沈み込んだ細身の体躯は、微動だにしない。


 半開きの窓から吹き抜ける風で、肩ほどまで伸びた濡羽色の毛先が揺れる。横顔は髪の毛で隠れて見えなかったが、澄ましているような気配があった。

「あの、失礼します。私、二年の沢渡園花さわたりそのかです。オカルト探偵部に入部したくて」


 彼女に手を触れた瞬間。

 ドサリ。床に倒れ、何かが落ちて転がった。


「ひっ!」

 人体の頭部の形をした〈それ〉は、口を半開きにしたまま、呆けた表情で天上を見ている。瞬きを一切しない。およそ生気の感じられない顔。固まったままの手指。

「……死んで、る?」

そう認知した瞬間、全身から血の気が引いていくのを感じた。予想だにしない衝撃的な光景に、キインと耳鳴りが始まる。


 ──バタバタバタバタ。


 遠くから近付いてくる騒がしい音を、身体のどこかで聴いていた。室内に数名の生徒が入ってきたことに気づいたのは、その声を耳にしてからだった。

「ですから、話を聞いてくださいと」


「はああ、まったく。一体何度説明すればいいんだ。学級で飼っている子犬の世話もメダカの飼育も失くした消しゴム探しも告白の練習台も引き受ける!だが生徒会からの依頼は受けない!何度来たって同じだ!……って」


 そこまで言って、その人物の語気が弱まる。彼女と目が合ったかと思うと、訝しがるような表情でこちらに歩み寄ってきた。

「キミは、誰だ。……まさか。それを壊したのか?」

 呆然と立ち尽くしたまま、私は反射的に仰け反った。


 だって、その顔は。

 ──この屍と、同じ顔をしていたからだ。


「ああ、なんだ。倒れただけか。……キミ。部室のものに勝手に触れないでくれたまえよ」

 ジトッと睨み付けるような視線をもらって、私は、私自身の身体の自由を再認識する。緊張から解放され、身体が軽くなったような感覚を覚えながら、脳内を支配していた疑問が口を突いて出た。


「ゆ、幽体離脱……?」

 すると彼女は、ははっと軽く笑い声を零した。

「面白いことを言うね。だが違う。本体はボクの方だ」

「えっ?」


「ボクは死んでなんかいない。ついでに言うと双子でもない。キミは早合点して、無機物だけで構成された〈ボクまがい〉を死体だと思い込んだだけだ」

 なんだ。そうか、私の勘違いか。はあと溜め息が出る。……というか、今さり気なく彼女に心を読まれたような。


穂村ほむらさん。いくら偽物とはいえ、生首を掲げるのは悪趣味が過ぎます」と一人の女生徒が冷厳な声で制する。両手で抱えるようにした段ボールは何だろう。

「よくできているだろう?知り合いの特殊メイクアーティストに作ってもらった特注品だ」

 確かによくできている。……それとも。

 人形と見比べても見劣りしない彼女の顔を、きれいだと形容するべきだろうか。


「誰も作りについて言及していません。貴女の言動のことを言っているんです」

 可憐な雰囲気を持つ女生徒だ。涼やかな目元と泣きぼくろが逆に大人っぽい雰囲気を醸し出している。上着に赤い腕章が付いていることからすると、生徒会役員のようだ。

 どうやらうまく接合したらしく、件の彼女は軽い音を立てて両の手のひらを払い、私達を一瞥して言う。


「依頼者ではない部外者が同時にふたりもやってくるとは。悪いがオカルト探偵部は完全プライベートをウリにしているんだ。とっとと尻尾を巻いて、出直してくれたまえ」

「そうはいきません」

 女生徒は、ずいと一歩前に出る。彼女は怯むことなく言った。

「この際、はっきり言っておこう。頑固すぎるのはキミの短所だよ。遠谷とおや

「どうとでも。私は会長のご命令を遵守するだけです」


「会長?……ああ、庵堂あんどうアイリか」

 彼女は反芻しながら、眉根を寄せる。

「あいつ、まだ会長だったのか」

 忌々しげな呟きだった。

 庵堂アイリ。その名前には私も聞き覚えがあった。しかし彼女はそれほど私怨を買うような人物だっただろうか?


「会長からの手紙を読み上げても?」

「もちろんノーだ」

「では読み上げます。ノーと言われたら読め、と言われていますので」


 彼女の返事などまったく意に介さない様子で、遠谷と呼ばれた女生徒は片手で段ボールを持ち直し、ブレザーのポケットから一枚の便箋を取り出した。三つ折りに畳まれたそれを開いていく。沈黙が降りる。今しかない。


「あ、あのっ!」

「!」

 二人が私を見るが、ここは引いてはいられない。決まりの悪さを覚えながら、私は遠慮と恐縮を滲ませながら言った。

「お取り込み中悪いのですが、私はここで失礼させてもらおうかと」

 部外者である私が同席するのも気が引ける。

「これから手紙を読むなら、なおさら」


「遠谷」と彼女は言った。「少しは彼女を見習ったらどうなんだ。キミもさっさと帰れ。性悪女からの手紙を声に出して読むなんて、そこまでする義理はないはずだぞ」


「いいえ。これが私の仕事ですから。では、読み上げます。

『拝啓、烏丸高校オカルト探偵部、穂村梓ほむらあずさ殿。このたびは──」

「このたびは、失礼いたしましたわね」


「!」

 人の気配に顔を向けると、そこには。

 赤い長髪。ピンと伸びた背筋。芯のあるソプラノ。烏丸高校理事長の娘。

 烏丸高校生徒会会長、庵堂アイリが立っていた。


「……あ、庵堂会長」

 彼女は私をみとめると、「ごきげんよう」とニコリと整った笑顔を浮かべた。ペコリと会釈を返す。こういうときに萎縮してしまう私は、どこまでも一般人のなのだなと思う。


「……。キミのことは出禁にしたはずだぞ、庵堂アイリ」

「手紙を託した黒ヤギさんがあまりに帰ってこないものだから。ねえ、見ないうちにまた痩せたんじゃない?相変わらず不健康で自堕落な私生活を送っているのかしら」

「そっちこそ、その腐った性根は少しも変わっていないみたいじゃないか。可哀想に」


 ……なんだこれは。

 目には見えないが、二人の間にはバチバチと火花が散っているようだった。


「つべこべ言わずに従いなさい。それとも廃部にされたいのかしら?」

「廃部だと?」

 思考の隙間を縫って耳に入った言葉に、意識と視線が向いた。何やら深刻そうな雰囲気である。私は開きかけた口を閉じた。鸚鵡返しのような彼女の返答によって、少し空気がぴりついた気がする。


「あら、生徒会の権力をご存知じゃなかったかしら?部活動であれ同好会であれ、在籍人数が四名以下、かつ日常活動が確認できない団体は、生徒会役員の過半数の投票で活動休止にできるのよ」

「ハッタリだろ。初めて聞いたぞ」

「外部には知らされていない規律なの」

「だとしても、誰もキミには同意しない」

「どうかしら。やってみる?」

「圧力をかけ、脅して人を操るとはな。恐怖政治の典型だ。この学校はいずれ崩壊するだろう」

「聞き捨てならないわね。感情論で人を動かす指揮の方が、組織の崩壊を導くと思うけれど」

 すると彼女はちっと小さく舌打ちをした。


「はあ。埒が明かない。要件はなんだ」

 彼女は観念したように溜め息を吐き、諦めたように返事をした。

 どうやら軍配は庵堂会長に上がったようだ。

「遠谷。説明してあげなさい」

「かしこまりました。穂村さん、このたび貴女に依頼したいのは、こちらの中身です」


「なんだ、この段ボールは」

「蓋を開けてみてください」

 まるで汚物に触るかのような手付きで段ボールの蓋を開ける彼女。僅かな隙間から中を覗き込んだと思えば、うげえと声を漏らした。


「なんだこれ、封筒がぎっしり詰まってるぞ。ファンレターにしてはえげつないな」

「すべて、穂村さんの六ヶ月間の休学中に寄せられた依頼です。貴女が不在にしていた間、当部への連絡は生徒会が管理していました」


 ……六ヶ月?休学?

 聞き慣れない単語にはてなが生まれる。しかし今、割り込むのは野暮だと思った。この場に居合わせただけで、部外者であるという自覚はあった。私はおとなしく、話の続きを待つ。数拍の沈黙の後で、彼女は苦苦しく言った。


「もうそんなに経ったのか。どうりでジメジメしていると思ったよ」

 今は六月の初旬だ。この前、梅雨前線が発表されたばかりだった。

「半年前のお昼休みの校内放送で、貴女はこう言いましたね。『どんな日常の些細なお悩みごとも、たちどころに解決してみせます』。それを真に受けた生徒達が、貴女を頼りたいと言っています」

「わかった、わかった」

 降参したように両手を挙げる彼女。口を閉じ、蓋を閉める遠谷さん。


「宣伝のための誇張表現が自分の首を締めたわね」と会長が愉快げに唇を歪めた。

「慈善活動は悪いことじゃない」と彼女は反駁した。

「そうね、悪いことじゃないわ。だから引き受けてもらえるわよね」

「お引き受けくださいますか」

 勢いの衰えない追撃に、いよいよ観念した気色を見せる彼女。

 蓋の下に何を見たのか、尻込みしている。


「この量をか」

「やらないなら廃部になるというだけのことだし、それでいいなら構わないけれど」

 はっ、と彼女は鼻を鳴らした。「半分恐喝だな」

 勢いを失くした反論は最早、負け惜しみにしか聞こえなかった。

 一件落着だろうか。そう思ったが束の間「あ、そうだ」と彼女は口火を切った。


「こいつ。こいつが代わりに請け負うよ」

 彼女と目が合う。

「貴女が?」

 会長と目が合う。

「えっ」

 数秒遅れで理解が追いつく。

「な、なんで私が?」

「キミは部員だ。協力する義務がある」

「私は部員じゃ」

「いいや、キミは部員だ。だって、それは入部届けだ」

 いつの間に、手元を見られていたのか。


 恐ろしい観察眼に怯んでしまう。彼女たちのやり取りを眺めていて、到底自分には敵うわけがない相手だと察してはいる。だが、巻き込まれてしまうという焦燥が、私の反論を加速させた。

「こ、これは、その。違います」

「ほう?そうか?じゃあ言ってみろ。それは何だ」

「えっと」

 まごつく私に向かって彼女は目を細めた。


「放課後の特別棟。今は使われていない社会文化研究室に荷物と大事そうな紙切れ一枚を持ってやってくる。それを、ここを部室にしているオカルト探偵部への入部届けじゃないと言い張る。実に興味深いじゃないか」


 ……な、なんだ。

 なんなんだ、この人は!

 まるで見てきたかのような推論。いや、ほとんど事実だった。自分の言動を言い当てられて、たじろいでしまった。咄嗟の言い訳が出てこない。


「入部届けですね」

「あっ!」

 脇に立っていた遠谷さんに手元を覗かれてしまった。

「いつの間に見て……っていうか!まだ、まだ承認されていませんから!」

「承認する。十八時二十六分。現時刻をもって、キミをオカルト探偵部の一員とする」


「へっ?」

 彼女は会長に向き直り、堂々とした声で言った。

「というわけで、彼女が代理に引き受ける」

「そう。やってくれるなら問題ないわ」

「ありがとうございます」

 トントン拍子で進む会話。最早私が介入できる余地はなかった。

「最初からおとなしく従っていればよかったのよ。じゃあ、後は頼むわね」

「失礼します」

 颯爽と踵を返す庵堂会長と、一礼をしてその後を付いていく遠谷さん。もう、何も言い返せなかった。嵐のような人達だった。


「それで?キミは見たことない顔だな。下級生か」

「あっ、はい。二年の、沢渡です。あの、あなたは」

 また言葉尻を掬われるのではと、警戒しながら紡がれる語尾は弱々しい。そんな様子を読んだのか、ふっと笑みを浮かばせて言った。


「そんなに警戒しなくてもいい。心を読んだりしない」

 もう既に読まれているのですが。


「沢渡。先ほどはバタバタしていてすまなかったな。オカルト探偵部部長、穂村梓だ。よろしく」

 絵に描いた微笑みが、彼女の中性的で端正な顔立ちを一層際立たせた。


 会釈を返すと、彼女はふうと小さく息を吐き、話を切り出した。

「久しぶりに出てきたというのに早速これだ。作業はとっとと済ませてしまいあたい。キミは入部希望だったかな?」

「あ……はい。そうです」

 もはや誤魔化す理由もない。素直に手に持っていた入部届けを手渡した。

 穂村部長は用紙を手に取り、顔に近づけたり遠ざけたりした。

 用紙に書かれた要項を読んでいるようだった。


「老眼ですか?その年で」と聞くと、部長はたっぷり間を置いてから、「…………ノーコメントだ」と言った。

 誤魔化し方が下手すぎる。


 ふうんと短い感嘆を漏らしたと思えば、彼女は私に視線を寄越した。

 生気の感じられない眼。なのに、奥底に光が揺らめいている。

 不思議な瞳を持つ人だと思った。


「キミは、なんでウチに入りたいんだ?」

 急に面接みたいな質問だと思った。

「部員かつ部長は、今は、ボク一人だけだ」

「そうみたいですね。」と私は言った。

「オカルト探偵部は学内では有名ですし。他にもいるかと思っていました」

「光栄だな。慈善活動を行っていた甲斐がある」

 部員が少ないながら、この部の存在を知っている生徒は私以外にも大勢いるだろう。


 そう、オカルト探偵部は、学内で名を馳せていた。

 彼女の言う通り、慈善活動──ボランティア部、あるいは雑用を請け負う、何でも屋として。


「しかし部活動紹介にも出ていないし、校内掲示板にも現在部員募集のチラシは貼り出していない」

 怪訝そうな表情を向ける部長。意を決して、私は細く息を吸った。


「実は、前から悩んでいたんです。先生に相談したら、直接言いに行けと言われて。……ずっと悩んで、ようやく勇気が出て。それが今日でした。そしたら、たまたま穂村さんが復学した日だった。……偶然に救われました。部長さんが休学中であることは知りませんでしたから」

「この世に偶然はない」

「え?」

 聞き返す私に、彼女は補足した。


「必然だよ。偶然の対義語。運命。あるいはフェイトとも言う」

 遠回しに受諾のようにも聞こえて、気持ちが先回りする。

 私の声は弾んでいた。

「じゃあ」

「その前に」と彼女は制した。


「ひとつ聞かせてくれ。キミがオカルト探偵部に入りたい理由だ。今のキミの説明はこれを渡しにきた経緯であって、キミが入部を希望した理由にはなっていない」

 彼女は鼻から息を吐いた。返事を促すように小首が傾げられる。


 ──ボクを出し抜けると思っていたのか?

 そう問われているようだった。いや、実際、その通りだ。誤魔化せると思っていた。

「言えないのか」


「──……好き、だからです」

「へっ?」

「好きだから」

 二度目は、より強く、彼女の目を見て、意思を持ってはっきりと言った。

「な、だ、何を」


 ……灘?何のことだろうか。

「オカルトとか、そういうものに」

 やや気恥ずかしくなって視線が落ちる。

「えっ?あ、ああ。オカルトの話か……」とどこか安堵めいた呟きが聞こえた気がした。

 しかし私の話はまだ終わっていなかった。


「でも、いざ直面するとなると怖くて。不可解なミステリーが大好きで、この目で見たい。強く惹かれるのは確かなのに、できない。だから、この怖がりな部分を克服できたらいいなあって。だけど、こんな私がオカルト探偵部に入ったら煙たがられるかなって思って。なかなか言い出せませんでした」


「厄介だな」

 彼女の素直な指摘が、今は気持ちがよかった。

「うぅ。やっぱり無理なんでしょうか。怖がりなのを治すのは」

 自然と窺うような眼差しを向けてしまうが、「いや」と彼女は言った。


「努力次第だ。イメージの追いつくものに不可能なことはない。試行回数を重ねていけば、何かしらの耐性がついて、キミの中に変化は生まれていくだろうな」

「……そっか」

 にわかに頬が緩んだ。部長は言った。

「嬉しいことばかりじゃないぞ。恐怖心というものは、自衛からくる感情だ」


「え」

 部長は真っ直ぐに私を見ていた。顔の前で手を組み、上目遣いにこちらを見据える、気怠げな瞳。その奥底に、鋭い光を宿していた。

「脅威と立ち向かう時、恐怖心を持っていなかったら?」

「ええと……果敢に立ち向かえる?」

「無謀に突っ込んでいくんだよ」

 

部長は呆れた声でそう言うと、机の上に置かれていた入部届けを引き出しに仕舞い、席を立つ。

「弱味を自覚し、克服するのは悪いことじゃない。だが、オカルトは畏怖するべき存在だということを忘れるな」

 部長が私の前を横切り、扉の方へと歩いていく。

 ブレザーの上着がマントのように翻る。


「怖かったら逃げろ。恐怖心は、自分自身への警鐘だ」


 ぱちりと音がして、急に視界が真っ暗になる。急激な光源の減少に、目が慣れるまで時間がかかる。一瞬で前後不覚に陥った私は、無意識に後退あとずさった。

 薄暗闇の向こう側。何かの影が蠢いた気がした。


 ──…くすくす、くすくすくす。

 

 乾いた笑い声が、放課後の社会文化研究室に木霊する。

「……!」

 突如、迫りくる恐怖心に身体が強ばって、動けない。

 ガタガタ、バンバンバン!

 大きな音がして揺れる窓。身体はびくついただけで、まともな反射反応すらできなかった。やにわに耳元でくぐもった声がした。


「後ろだよ」

 緩慢な動作で視線を向ける。見慣れた風景が映るはずの、窓の外はもう真っ暗だ。

校門への道を照らす街灯の明かりは校内を充分に照らしはしない。


 どくんどくんと逸る鼓動。

 意識的に吐き出された自分の呼気は、少しだけ震えていた。

 徐々に暗闇に視界が慣れ、物の輪郭が見えてくるしかし、それが逆に恐怖心を煽り立てた。


 もし、視界を映した先に「誰か」が立っていたら?

 自分の知らない「誰か」と目が合ってしまったら?


 ……一体、どれくらいの間、静寂に包まれていたのか。


 ゆっくり、ゆっくりと壁際に躙り寄る。壁に設置された電灯のスイッチを探り出し、ぱちりと明かりを付けた。

「……穂村さん?」

 そこには、誰も居なかった。


 ……おかしい。彼女は居て然るべきだ。この瞬間に帰ったはずもない。つ、と冷や汗が背中を伝うのを感じながら、一歩一歩踏みしめていく。

「穂村さん、……いたら返事をしてください」

 そう問いかける声は、独り言のような声量だった。

 震える手で荷物を持ち上げようとして、接待用のテーブルに何かが置いてあるのが目に入った。白い紙切れ。こんなメモはさっき無かったはずだった。摘んでみると、そこにはこう書いてあった。


『久し振りの出席で疲れた。先に帰る。明日また部室で会おう』


 先に帰られていた。

 彼女の悪戯だったらしいということが判った安堵からか、憤りは生まれなかった。はあぁと胸を撫で下ろし、外した視線の端に何かが映った。メモの裏にまだ何か、書いてある。


『恐怖心を完全に忘れてしまったら、人は愚かな選択しかできなくなる。それを事前に教えてやろうと思ったんだ。しかしこれを読んでいるということは、恐怖心がうまく作用して、キミに冷静な判断を下させ、明かりを付けさせたということだ。驚かせてすまなかったな。ようこそ、烏丸オカルト探偵部へ』


 しっかりとした達筆は、まるで彼女の口調がそのまま書かれたものだった。左下に小さく(裏へ続く)と書いてある。

 こっちを表にしようとして、裏返すのを忘れたのだろう。


 ──かくして私は。

 無事に烏丸オカルト探偵部の一員として、認められた(?)のであった。


……


 この話には、後日談がある。


「穂村部長。昨日みたいな悪戯するの、もう止めてくださいよ」

 翌日、生徒会から持ち込まれてきた依頼書の整理を二人で手分けしながら、私は口を尖らせた。感の鋭い部長は言わんと欲すところを察したらしく、ふははと軽く笑った。


「まさか沢渡がそれほどまでに怖がりだとは思っていなかった」

「たぶん私は、部長が思っている以上に怖がりです」

「気にするな。キミが怖がる姿はボクも勉強になる」

 彼女はにこりと微笑んだ。


「勉強?」

 その言葉に、怪訝な視線を彼女に向けた。

 人が怖がる姿を見て、何が勉強になるというのか。

「楽しんでいるの間違いでは?」

 彼女は視線を逸らした。


 こほんとわざとらしい咳払いをしてから上半身だけを乗り出し、片手に持っていた依頼書を胸の前に掲げた。角がピンと立ち、メガホンのような形になる。

「いいか。この世の大体のことは説明が付く。客観的に状況を判断すれば、怖いという感情は消え失せる」

「でも、急に後ろに立たれたら、誰でも驚いてしまいます」

「なんだそれ」

 彼女の目が丸くなる。

「とぼけないでください」と私は辟易した。

「『後ろだよ』って、部長が耳元で囁いたじゃないですか」

 私がそう言うと、目を再びぱちくりとさせた後で、「ふはははっ」と軽快な笑い声を上げ、豪快にソファの背もたれに寄りかかった。

「笑わないでください」


「そうだな、笑えない話だろう。キミにとっては」

「え?」

 部長の言い方が引っかかり、依頼書から視線を持ち上げると、部長はニタリと笑っていた。その表情に、全身の肌が粟立つ。

 まさか……。


 硬直する私に目を細めながら、部長は体勢を直した。

 手に持った紙のメガホンを軽く振りながら言う。

「なんとキミがオカルト憑きだったとはね」

「オカルト、…憑き、って?」

 聞き慣れない言葉を繰り返す私の戸惑いを可笑しがるかのように部長は相好を崩した。

「読んで字のごとく。オカルトに憑かれやすい体質の持ち主のことだ」

「……っ」

 嬉しげな部長の声に返した私の声は、半ば吐息のようだった。


「ボク達、烏丸オカルト探偵部が相対するのはオカルトという脅威だ。彼らはいともたやすく想像を越えて、日々の安寧に踏み込んでくる。そしてその存在に気づいた瞬間、ボク達は何度も体験することになるんだ。平穏な日々に、冷や水を浴びせられるような感覚を」


 吊り上げられた口端から紡ぎ出される声は、私に落ち着きを諭すようでいて、厳しい薫陶のような響きだった。

「沢渡。真実を聞かせてあげよう」

 聞きたくない。

 瞬間的にそう思ったが耳を塞ぐには、既に遅かった。

 爛々と光を宿す、気怠げな彼女の瞳が、まっすぐに私を射る。


「あの時、キミの後ろに居たのはボクじゃない」


 ──嫌だ。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。

 そんな私の心情を読み取ったかのように、部長は声を潜めて言った。

 

「暗闇の中でキミを見ていた、ボク以外の〈誰か〉だよ」

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