春をわするな

 鎌倉に、雪が降る夜のことでした。

 雪は昔は好きでした。コンスタンティノープルに雪はありませんでしたから。触れたらすぐに消え去ってしまう様が美しく思えたのです。あの頃の私は。

 実朝様はさらなる昇進を果たし『右大臣』まで昇りつめたのです。これはお父上よりも高い位でございます。めでたいことだ、と家来共々喜びました。このめでたい昇進を神々に報告する式典がツルガオカの神殿で催されるのでした。

 雪がちらちらと降り始めたのは日が暮れてからのことです。静かに、静かに積もり淡く光を放っておりました。

 実朝様は身を清め、深い夜の色をした上質な衣を纏いました。そして私に整髪をお頼みになったのです。

「斗月丸」

「はい、実朝様」

 実朝様の艶のある黒髪を櫛梳るその時間はかけがえのないものでした。雪降る夜の静寂に思わず心を締め付けられるような心地がして、息が浅くなります。

「斗月丸が浜辺に打ち上げられていたあの朝をよく思い出します。絹に包まれ、金の髪をした貴方を見て神が降ろした御子だと思ったのです。何の因果でしょう。本当なら出逢えなかった私たちがこうして長い年月共に過ごせたのは。私は……感謝してもしきれませんね」

 まだ少年だった私たちを繋いだのは一体何だというのでしょう。私は、運命を信じておりました。

「貴方様に仕え、この国で生きているという事実は末代まで語り継ぐ誇りなのです。この思いを何と表せばいいのかわかりません。ただただ私は貴方様に一生をかけて報いるだけ」

「一生、ですか。斗月丸は斗月丸の人生を生きてくださいませんか。そうだ……剃刀をください」

「剃刀?」

 言われるがままに剃刀を実朝様に渡します。実朝様は剃刀を御髪に当て、ひと房切り落としました。

「これを」

 実朝様は微笑みこちらを向きました。

「いらなくなったら捨ててもよいのです。私の代わりと思って持っておいてもらえば幸いです」

「何故……貴方様の代わりも何も貴方様は今ここに」

 やはりそこには笑みがあるだけでした。

御髪を結い終わりそれを冠におさめます。その御姿はおそろしく様になっておりました。

内庭の梅に雪が薄く降り積もっております。実朝様は内庭にお出でになり枝に触れました。実朝様は桜以上に梅をお好みになる方でした。次に梅が咲き誇るのを心待ちにしておられたのです。


『出でていなば 主なき 宿となりぬとも 軒端の梅よ 春をわするな――私が出て行ってしまったらこの家は主人のいない家になってしまうけれど、軒先の梅たちよ。春を忘れないでおくれ――』


あっと私が声を詰まらせた時には実朝様はもう王宮を出ていらっしゃったのです。長い間私はそこに立ち尽くしていたようでした。

 嗚呼。その歌は。なぜそのようなことを。

 さねともさま。

 雪の中、私は駆け出しました。ツルガオカへ。はやくツルガオカへ。教えてください。実朝様。貴方様は。

 松明の灯がぼう、と揺れる中、階段から降りていく実朝様の姿が見えました。揺れる衣に雪が溶けていきます。石段に垂れた裾はゆっくりと引っ張られます。その美しさに私は息をのみました。どんなに言葉を尽くしても表せないでしょう。実朝様の神がかったあの御姿を。

 それは突然のことでした。闇より、男が出でてきて実朝様に近づいたのです。反った刃が銀色に光を跳ねます。実朝様と男の視線が交わったのは一瞬でした。本当に一瞬でしたが私にはそれが無限にも感じられました。

 実朝様のあの表情。あの表情だけは絶対に忘れられません。それは微笑みです。慈悲と愛と少しの悲哀。きっとすべてを悟られたのでしょう。この世にお生まれになった意味。今までの運命。鎌倉の行く末を。

 若き詩人の王は雪の夜、美しく、それは美しく儚く散ったのです。天命を、受け入れたのです。

 実朝様の身体が崩れ、雪は朱色に染め上げられます。

「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁」

 名乗り上げた男の顔を見て私はやっと気付いたのです。彼は、亡き先代の王の息子。実朝様の甥。

 なんという因果。なんという運命。

 その場に座り込み私は雪に無造作になぶられていました。白い夜が、孤独に冷たく首を絞めていきます。何も考えることができませんでした。たった一人の主が。たった一人の生きる意味が。今、ここで散った。

 貴方様はそれとなく予感していたのでしょう? たとえ抗えなかったとしても私は貴方様と運命に抗いたかった。

 貴方様が生きてさえいれば。私はそれでよかった。

 朦朧とした意識の中、私は雪をかきわけ闇の中足を進めておりました。徐々に、宮廷もツルガオカも遠ざかっていきます。もう二度と戻るつもりはございませんでした。

 運命とは何か。実朝様と私をこれほどまでに苦しめ翻弄した運命とは一体? それを探すための旅でございます。そして、弔いの旅でもございます。

ジパングの金箔入りの紙に包んだ御髪を時折眺めては実朝様の息遣いを感じるのです。どこまでも美しく強く賢く儚かったあの方を思い出すたびに傷は疼きます。けれど私はもうあの方を忘れることはできやしない。あの方の御身体こそ消えなさっても御言葉の一つ一つは残るのですから。

 マルコ・ポーロ殿。ジパングのことはお好きに書きなさい。幻想のまま閉じ込めておきなさい。

 源実朝様の御姿は我らの心にあればそれで良いのです。

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東方異人彷徨奇譚 夜坂紀異子 @yomi800kiko

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