ちりのわかれは我が身と思へば

 平穏、というのはどの世においても容易く崩れ落ちるものでございます。実朝様が二十一の時です。忠臣、和田の一族が反乱を起こしたのです。お気づきになったかもしれませんが首謀者はあのトモモリの祖父でありました。当然、トモモリは戦うことをいやがったのですが連れ戻され、実朝様の敵となったのです。トモモリの祖父も実朝様とたいそう仲が良かったのです。実朝様は顔の色をなくし呆然としておられました。もう宮廷に一族は攻め入ろうとしているのだといいます。家来に連れられ私たちはツルガオカという神殿へ向かいました。長い階段を登り都を見下ろします。灰色にくゆる煙と戦火。黄昏時で日は暮れかけておりました。

 実朝様は何故、などと問われることはなさりませんでした。分かられていたのです。これは実朝様に対する反乱ではないと。これはあまりにも権力を持ってしまった北条の一族……特に実朝様の叔父上、相州に対する反乱だったのです。蒼白な実朝様を私はどうすることもできずただお傍にいるだけでした。そのまま無慈悲に冷たい夜は降りてきたのです。

 翌日でした。和田の一族が負け、和田という一族が絶えたのは。一族の者は首を斬られ砂浜にさらされたと聞きます。

 王宮に戻られた実朝様は黙り込み、やはり呆然としていられました。その眼は何かを見つめていました。唇が静かに震え、声を漏らします。

『炎のみ 虚空にみてる 阿鼻地獄 ゆくへもなしと いふもはかなし』

 それは詩でした。私はそれを聞いて耳を疑ってしまったのです。実朝様の詩は美しく優しいものが多かったのです。

 実朝様の眼には地獄の炎が映っておられたのです。そこ以外に行く場所などないと……。

「私が……ああなる前に相州と……義盛を諭せたのならば」

「もう、おやめください。貴方様は何も、何も悪くない」

 その後、実朝様がこのような詩をお作りになることはたびたびございました。少しばかり表情もお暗くなったように感じられました。誰よりも罪の意識を背負っておられるのが実朝様でした。既に御心は地獄の底にあらせられたのです。

 家来が赤子を見せにやってきたときでした。実朝様は赤子の頬に指をやり微笑みました。実朝様には御子はいらっしゃりませんでした。それもあってか赤子と触れ合うことはお好きなようでした。家来が去ってから実朝様は突然背を向け目尻をぬぐいなさったのです。実朝様は泣いておられました。

「赤子を見ていると心が洗われるようなのです。命の芽吹きはなんてすばらしいのでしょう。命は強く、美しい」

 実朝様には赤子が眩しく見えていたのです。罪も何も背負わない赤子が。けれど私には実朝様が光であったのです。どれほど実朝様御自身が罪を背負っているように思っていらっしゃったとしても。

『乳房吸ふ まだいとけなき 嬰児と ともに泣きぬる 年の暮れかな』

 とても好きな詩でございます。実朝様の根の優しさは何があっても損なわれることはありませんでした。

 実朝様はあれからひどく憔悴されていましたが、これまで以上に政務を取り仕切るようになりました。もう二度とあのようなことが起きないように、という決意の表れでしょう。

 実朝様はとにかく昇進を急ぎました。申し上げた通りジパングには皇帝と王がおり、王が一番偉いわけではないのです。王の資格もその位も皇帝に授けられるものなのです。

 昇進をやっかんだのでしょうか。北条の者の使者が実朝様を諫めようとしたのです。実朝様は落ち着いておりました。

「あなたの言うことはもっともです。けれど源氏は私の代で途絶えるのです。私は今のうちに家名を高めておきたい」

 使者は何も言えずに引き下がり、王宮から退出しました。『途絶える』などとそう断言できるものなのでしょうか。まだ実朝様は二十五でございます。確かに今、御子はいらっしゃりませんがまだ先は長いのです。

「斗月丸、不思議に思っているのでしょう?」

 心の中を見透かされてしまったようでした。

「私には恋はわかりません。すべての者に愛情を注ごうと尽力してきました。けれど、恋だけは分からなかったのです。御台所は何も悪くないのです。私は御台所は好きです」

 泣きそうな顔になられたのを袖でお隠しになりました。周りの者が思う夫婦間の愛と形が違っただけなのでしょう。

「鴨長明という詩人にあなたの恋の詩は偽りだ、偽りを詠うのはやめなされ、と言われたことがあります。私の上澄みが剥がれてしまったのかと。とても……怖かったのです。斗月丸はこんな私を主君に据えてくれるのですか。源氏の血をのちの世に残すこともできない情けない主を」

「そのようなことだけで私が貴方様に失望することはございません。あの恩義は一生忘れませぬから」

 これは運命なのです。実朝様に仕えるために私は生まれてきたのです。何も驚きはしませんでした。ただ、私は実朝様が生き急いでいるように見えそのことだけが気がかりでございました。

 次に実朝様が取りかかられたのは船の建造でございます。宮廷にとある僧侶が来てこのようなことを申したのです。

「ああ! 私は今前世の記憶を取り戻しました。貴方様は長老で私は弟子……確かに、思い出したのです」

 実朝様は遥か異国の寺院の長老であったというのです。いささか大袈裟な言い様に辟易とされていました。けれど数カ月間、何かを考えているようでありました。

「斗月丸、祖国が恋しいと思ったことはありませんか。私は実は異国へ渡り見聞を広めようと思っておりました。大きな船を造り、異国へ渡るのです。そして首尾が良ければ……斗月丸を故郷へ返したいのです」

「なんと……! そのようなお心遣いを」

 コンスタンティノープルが恋しくない、というのは嘘もまじっておりました。もしも実朝様とあの都を望むことができたのならばどれほどいいことか。

「あの僧侶は船を造る知識を持っています。それらしい難癖をつけ、造らせようと思っております。内に目をやるだけではいつか駄目になるときがくるでしょう。異国の交易で更にこの国を盛んにし、私は異国のやり方を学ぶのです」

 あれほど広い考えを持っている方があのジパングにいたでしょうか。私は本当に感心したのです。

 実朝様は以前に貴方と同じ夢を見た、と嘘をついてあの僧侶を呼び出し話に乗せ上げ船の建造を命じられました。

「もう少し……」

「私が信心深い人間だと思ったのでしょう。このぐらいの嘘ならつきますし、私はもう神も仏もわからなくなりました」

 少年のような笑みを浮かべ実朝様は砂浜で形を成していく船を眺めていらしました。見に行く度に船は朱に染め上げられ、大きくなっていきます。

 そして数か月後、船は完成しました。色めきだった雰囲気の中、海へ船が引っ張られます。掛け声とともに綱がひっぱられます。ところがいくら経っても船が進水することはありませんでした。造船は失敗に終わったのでした。

 うなだれる人々をなだめ、ねぎらい実朝様はその場に残りました。冷たい潮風が実朝様の衣をなぶります。浮かぶことのない船は寂しくただそこに在りました。実朝様は灰色の砂をお取りになり掌から零れ落ちるさまを見ておられました。

「私は運命に捕えられたままなのですね。このままどうすることもできずに私は……」

 私は何も声をかけられませんでした。どこか恐ろしくなってしまったのです。あれほどの孤独を抱えた人がかつていたでしょうか。あの細いお身体は今にも消えてしまいそうに見えました。日暮れの蜜色の光が差す中、神が実朝様を連れ去ってしまうような、そんな幻想にとらわれました。

 実朝様には滅びの兆しが、見えていたのかもしれません。


 明るさとは滅びの姿でしょうか、と実朝様がぽつりと漏らしていたことが思い出されます。十年以上前の故郷の記憶と妙に重なったのです。毎日のように繰り返される供宴、街のざわめき、地に足のつかないような日々が繰り返された挙句の血の海。滅びはあっけなく……もしくは、美しい。


『現とも 夢とも知らぬ 世にしあれば ありとてありと 頼むべき身か』

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