千歳の春も常かくし見む
私がジパングの言葉を使いこなせるようになるのは大変なことでしたが、過ごすうちにセンマン様がどういったお方でジパングがどんな場所であるかは段々と分かってまいりました。
ジパングには皇帝と王がいて、実際にこの国を治めているのは王だというのです。そしてちょうど今の王が幼きセンマン様だといいます。
先々代の王はセンマン様のお父上であり苦難を乗り越えこの鎌倉という場所に王朝を開きましたがまだ道半ばであったときに落馬して亡くなったのです。先代の王はセンマン様のお兄様であり、政変に巻き込まれ幽閉されてしまいました。
私がこの地でセンマン様と出会って数か月後にそのお兄様は亡くなられたのです。細かいことはわからないようでしたがセンマン様は辛そうにされておりました。王族であろうがなかろうがいつどうなってもおかしくないのです。
それは私がいたコンスタンティノープルと何も変わらないことでした。常にセンマン様が気丈でいようとする御姿は痛々しいほどです。毒蛇の住まう王宮で過ごす気持ちは私が一番分かるのです。どれほど重荷であることか、傷つくことか。私はセンマン様にお仕えすることと同時にセンマン様をお守り申し上げることを心に決めたのです。と言っても腕っぷしでは何にも敵いませぬ。センマン様のお友達として側にいられたら、と思ったのです。
私がジパングに来た歳の暮れセンマン様はお妃を迎えました。御台所と私たちは呼んでおります。皇帝の住まう『キョウ』から下ってきたとてもお美しい人でございます。ジパングの絹衣を幾重にも重ね、長い黒髪は煌々と光を反射しておられ、伏せた長い睫毛から覗く瞳は琥珀のように深く秘めたものがありました。とづきまる、と柔らかい発音で私をお呼びになり、貝合わせに誘ってくださることもありました。感情とは程遠い場所で決められた婚姻でしたが、十二歳のお二方はとても仲がよろしいようにお見受けしました。
また、センマン様は皇帝からお名前を賜りました。
「みなもとのさねとも……とても、良い響きに思われます。どう思いますか、斗月丸」
私は深く縦にうなずき笑いました。なんと似合うお名前でしょうか。本当のお名前を呼ぶことは礼儀にかなっていないので私がそのお名前を口にすることはございませんでしたが、それから私の中で実朝様は実朝様であったのです。将軍家、などという呼び方で実朝様の気高さ美しさ聡明さを内包できるものでしょうか。
実朝様も御台所も異人である私を厭うことなど全くございませんでした。それどころか立場を同じくする良き友のように子供らしく三人で過ごしたのです。
唯一心苦しかったのはジパングに教会がなかったことでしょうか。ジパングの人々は木でできた像に祈ることが常でした。あれをホトケとおっしゃっておりましたでしょうか。主のなきジパングでは畏れ多いことに実朝様に主の御姿を見ておりました。
ジパングの言葉を解すようになってからは、実朝様の人となりを改めて知ることができ嬉しかったのですが、それと同時に実朝様の置かれた状況の苦しさを思い知るのでした。実朝様のお母上の一家を北条と言います。彼ら彼女らはどこか底知れぬところがありました。もちろん気さくであり時々私を見かけるとよくしてくださりました。けれど先々代の王も先代の王もあの一家の手にかけられたという噂がまことしやかに囁かれていました。確かにそう考えれば辻褄が合うことが多いのです。実朝様はまだ消す理由がない、傀儡として動かす価値があるのだから生かしている、と邪推する者もおりましたとも。実朝様は傀儡としての王であることを拒んでおりました。当時はまだ幼かったというのに素晴らしい心の持ちようでございました。
「じじも相州も好きなのです。けれど最近は思うところもあります。だからといって私が何かを言って変わることはありません。何度も諭しました。何度も。私はこの鳥籠から出ることはできない」
相州、というのは実朝様の叔父様のことです。実朝様の政務をお手伝いする、という名目で権力を握っていました。
実朝様はお美しい顔を曇らせ頬を細い指で覆いました。成長し新調された実朝様の衣は純白の絹で織られ肩に入った切れ込みからは紫の衣が覗いております。実朝様の眩しいほどの純真さと高貴さそのもので私はこの装いが大好きでした。
御座所の正面は壁がなく中庭が一望できます。異様に高い青空に雲は擦りつけられ鳥は翼を心地よさそうに広げます。
「私も鳥籠にかつていた人間でございます。あなたさまと同じだったなどと到底申し上げるつもりはございませんが……お傍にいることでできることは在ると思うのです。何なりとお申し付けください」
「嬉しいです。ところで斗月彦の鳥籠、ですか。それはどのようなところでしょうか。いや、良いのです。戯言です」
あ、と私は虚をつかれたような顔をしてしまいました。実朝様に素性を話したことなど一度もなかったのです。思えばなんと不義理なことをしていたことか。何故実朝様はそんな私を受け入れてくださったのか。
「嘘だと思われても仕方がないかもしれません。私はとある国の長の息子でありました」
「それはなんとまぁ! けれども言われてみれば納得できますね。斗月丸の眼は嘘をつきません」
実朝様はふわりと笑みを浮かべ私の眼を覗き込みました。
「斗月丸の言う鳥籠はとても美しい場所だったのでしょう。斗月丸の髪は月のような色をしています。だから私は斗月丸とあなたを呼ぶのです。眼の色もとても美しい。磨かれた翡翠のようです。斗月丸を通して私はどこまでも遠くに想いを馳せられます」
「私などにそのようなもったいないお言葉を」
コンスタンティノープルは実際美しい都でございました。けれどこの鎌倉はそれ以上に美しい都だと私は思うのです。コンスタンティノープルの眩しいような色彩ではなく、素朴な、自然が織りなす色彩の重なりの美しさ。気候が変わりゆくごとに咲き乱れる花々。何もかもが違う都と都はどちらも私のふるさとになっておりました。
実朝様は何もかも器用にできる方でしたが、詩作の才能はたぐいまれなものでございました。詩作は王の嗜みであり亡きお父上も優れていらっしゃったと伝わっております。それをお聞きになってから実朝様は詩集を取り寄せ励むようになりましたが、その上達の速さは並大抵ではないでしょう。
詩作をするとき実朝様は天啓を受け取るかのような澄んだ美しい表情を浮かべるのでした。自然に親しみを込めた詩などもあれば、実朝様のやさしさが染み出した実に心に響く詩もございます。
『ものいはぬ 四方の獣 すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ』
身を寄せ合う鹿の親子をご覧になった途端に作られた詩でございます。裏表などございませぬ。ただただ実朝様は胸を打たれ『天啓』をお受けになったのです。本当に神がかった方でございました。
実朝様は決してお身体が強い方ではございませんでした。十六の頃に疱瘡を患いになられ、一時は死の淵をさまよっておられました。床に伏せ、苦しげに何かを呟く姿は見ている私も苦しくなるほどであります。
「私が……このような病を患うのは……天罰なのです」
「天罰……?」
実朝様はひどい熱を持っておられました。私は冷水に漬けた布を畳んで、額へ乗せます。ほんの少し表情が柔らかくなった気がしました。
「……兄上も身体の弱い方でした。これは源氏の宿命なのだと……けれどもこうしている間に……」
「きっと治ります。今は休んでくださいませ。後生ですから」
実朝様の手を取ってそう諭します。実朝様はお父上が滅ぼした一族のことをよく思うようでした。血縁による咎、宿命をジパングの人間は信じております。中でも実朝様はその傾向が強い方でした。幼い時から政変に巻き込まれ身近な人が死んでいったのを目の当たりにしていたからでしょう。実朝様が健やかに眠れる日は来るのでしょうか。そう思うと気が重くなるのでした。
疱瘡の治癒には二ヶ月かかりました。しばらくは私にも御台所にもそのお顔を見せることはありませんでした。
「このような醜い私など嫌いになりましたでしょう?」
「私は貴方様の人柄をお慕い申しあげております。お顔を見せてくださいませんか。心配です」
実朝様のお顔には瘡蓋が残っておられたのです。あれほど実朝様は嫌がっておられましたが美しさは全く損なわれておりません。御台所はただ、よく頑張りましたね、と背を撫で微笑みました。涙をお流しになられた実朝様はそこで初めて年相応な少年のお顔になられたように思われます。ただ、実朝様のご懸念の通り、政務は北条家の者が取り仕切っておりました。私はしっかりしなければいけない、と口癖のようにつぶやき、御自身の考えをおっしゃることが増えました。
それから幾年かは大事はなく、平穏な日々を過ごせていたように思えます。思えばあの頃が一番幸せだったのです。家来との仲もよく、よく試作の会を開いておりました。中でもトモモリ、という青年の近習と非常に仲が良かったのです。和田、という家来の一家の息子で、詩作に優れておりました。そばかすの目立つまだあどけない顔でよく笑う人でした。私を見れば斗月丸や、と声をかけ詩作について語ってくれました。残念ながら異人の私には難しかったのですが楽しそうな御二方の様子を見るのが好きでした。実朝様が幸せであれば私はそれで良かったのです。
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